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2005年09月15日
 ■ 小選挙区では「民営化反対」が民意(多数票)

 総選挙が終わりました。結果は、巨大な2/3与党の出現。これをもって、「国民は、郵政民営化に賛成の民意を示した」と小泉首相は言います。

 だが、ちょっとまって欲しい。下の数字は、今回の選挙で小選挙区で得た政党別の得票率を「国民投票」風に分析したものです。分析と言っても、足し算しただけなのですが…。

○賛成  自 + 公     =49.2% (議席数 227)
○反対  民+共+社+国+日+他 =50.8%(議席数  73)
      (数字は「朝日」9/13朝刊から) 

 結果は、 賛成「49.2%」、反対「50.8%」です。

 もし、今回の小選挙区での投票が「郵政民営化法案」や「小泉改革」への賛否を問う正式な「国民投票」であったのなら、結果は「否決」ということになります。 だだし、比例区では違う結果になります。しかし、それも、「51.5%」対「48.5%」の僅かな差です。

 小泉首相は、「今回の総選挙で示された『郵政民営化は必要だ』という国民の皆さんの声によって、ようやく改革の各論に踏み込んで、この郵政民営化を実現することができるようになりました」(小泉メルマガ、第202号)と言いますが、小選挙区、比例区の各党別の得票率が表していることは、民意は「郵政民営化」「小泉改革」をめぐって二分したまま、というのが正確なところでしょう。

 あれほどマスコミを上げてのウソ八百を並べた「民営化推進」の大キャンペーン、刺客騒動の「小泉劇場」の演出の中でも、冷静に判断した上で投票を行った有権者が半数にも上ったという事実こそ、私たちが、今回の選挙の中から財産として救い上げるべき事柄ではないでしょうか。

 そして、民意を忠実に政治に反映させるために、小選挙区制度の即刻の廃止と「国民投票制度」の新設という「改革」こそ、必要なのではないでしょうか。

 「改革」を止めるな!!

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2005年09月01日
 ■ 書評『ニート フリーターでもなく、失業者でもなく』

玄田有史、曲沼恵美 著

発行:幻冬社
定価:1500円

 ニートを「社会問題」にした古典

 いまや「古典」とも言うべき書物かもしれない。この本が世に出たのは昨年の夏。以降、怒濤のような「ニート」ブームが続いている。実際、テレビのワイドショーを媒介にしてか、「ニート」という言葉は今や誰もが知るものとなった。しかし、その使われ方は、決して著者たちの意図を汲んだものとは言えそうもない。「ニート=仕事も勉強もしないで、親や社会に寄生している者」という、若者バッシングの新たな言葉として使われているのが実状だろう。
 そこで、である。「ニート」に対する正しい認識を得るために、この本にあたることは意義あることかも知れない。そこにはきっと、大衆によって「歪めて」流布、受容される前の「正しい定義」や「解釈」があるはずだ。こう期待して本書をひもとく人は、肩すかしを食らうかも知れない。
 確かに、ニートが「NEET」であり、それは「Not in Education(学校教育) Employment(雇用) or Training(訓練)」の頭文字を取ったものだとか、それがイギリスの労働政策の用語だったとか、そういうことはわかる。
 しかし、肝心の日本の社会におけるニートの存在、その定義、生み出される背景などについて、著者たちは、複数の視点を交差させながら論じ、また、当事者に直接インタヴューを試みて実像を紹介しながら、断定めいたことは慎重に避けているのだ。
 それは、著者の一人である玄田有史が、前作『労働の中の曖昧な不安』(二〇〇一年、中央公論新社)で、若年失業者の増加を「若者の働く意欲の低下が原因ではなく、中高年雇用者の既得権が若者の就業の機会を奪っている」と鋭く分析した「切れ味」と比べると、かなり「あいまい」に見える。また、同じく玄田が新著『十四歳からの仕事道』(二〇〇五・一、理論社)で、「ニート予防」として中学二年生にむけて熱く語った実践的指南の方向は、本書ではまだ「対策」の中の一つという域を出ていない印象を持つ。
 しかし、こうした本書の「あいまいさ」は、新しい事象に対して、時間をかけて、異なる考えの人々と共に迫っていく、という著者たちの姿勢の表れと受け止めたい。だからこそ、本書は多方面で受け入れられ、時には歪めて受容されながらも、結果として「ニート」を社会問題として押し上げる起点となったのだ。

「若者自立・挑戦プラン」の傲慢さ

 いま、「ニート」ブームにまぎれて、あるいは「フリーター対策」と称して、政府も様々な若者の「自立」や「挑戦」を支援するプランを出してきている。「学校でのキャリア教育の強化」「日本版デュアルシステム」「若者二〇万人常用雇用プラン」など、「若者自立・挑戦プラン」(および、その実効性・効率性を高めるための「若者の自立・挑戦のためのアクションプラン」)がそれだ。
 その目的は「働く意欲が不十分な若年者やニートと呼ばれる無業者などに対して、働く意欲や能力を高め」、「産業競争力の基盤である産業人材の育成・強化を図る」というものだ。
 これは、新自由主義によってはじき出された「ニート」や「フリーター」を、再びフルイにかけて、その一部を新自由主義の推進役として再び取り込もうという政策に見える。しかし、ここではその点については触れない。
 むしろ問題にしたいのは、この「若者自立・挑戦プラン」が前提にしている若者観だ。つまり「ニート」や「フリーター」を「労働意欲の低下した者」という旧態依然とした若者観で眺め、そこから、若者を叱咤激励して「働く意欲や能力を高めよう」という、その傲慢さだ。
 玄田は、こうした若者観を本書の中でこう批判している。
 「理解しにくい若者の問題を、意欲の低下として片づけることができれば、大人の多くは安心なのだろう。理解できたとして安心して職業意識を啓発する作業に没頭できる。しかし第三者が人の意識や意欲を変えようというのは、多くの場合、傲慢以外の何ものでもない。本人すらわからない心の奥底の意識や意欲について、他人が決めつける権利はどこにもない」
 私はこのあたりが、いま「ニート」「フリーター」をめぐる攻防の最前線なのだと思う。

 エリート的価値からの「自立」

 政府の若者観は、裏を返せば、働く意欲や能力が高く、産業人として競争の中を勝ち抜く意欲のある者こそが「自立した人間である」ということになる。そのことは「若者自立・挑戦プラン」の中でもはっきりと書いてある。「目指すべき人材像」は、「真に自立し社会に貢献する人材」「確かな基礎能力、実践力を有し、大いに挑戦し創造する人材」だと。
 九〇年代の後半以降、日本社会が急速に息苦しくなったのは、こうした価値観が社会全体を一元的に覆ってしまったからではないか。庶民の独自の文化・価値観が後退し、エリート的価値観の承諾が全人口に迫られつづけた。その結果、価値に沿わぬ者は「おちこぼれ」「負け組み」のレッテルを頂いた。そして今度は「ニート」だ。
 「ニート」の自立(と支援)は必要だ。でもそれは、どのような自立なのか。エリートの価値観に沿ったそれか。それとも、エリート的値観からの自立、ノン・エリート独自の文化を創造する方向への自立(と支援)か。
 玄田は、前述した新著の中で、「人生の充実」ということについて、こんな内容を中学二年生に語っている。
 「もっとはっきり言えば、個性や専門性などなくとも、十分、充実した人生をおくることはできる。ここでいう『充実』とは、特別にすぐれた才能をもった人間でなくとも、自分なりに出来ることを精いっぱいやって生きることで得られる達成感のことです。個性や専門性なんかなくとも、ちゃんと生きていけるのです」。
 「特別にすぐれた才能をもった人間でなくとも」なんとかやっていける世界。それがノン・エリートの世界であろう。玄田が構想する「ニート自立」もそれと重なると、私は思う。
 玄田は、新著の最終章をわざわざ「特別章」として「学校をやめた人々」(中卒者と高校中退者)へのメッセージに当てている。「ニート」や「フリーター」が、中卒者と高校中退者に、そして経済的に苦しい家庭の出身者に多いことは、すでにデーター的にも明かになっている。


季刊『ピープルズ・ピラン』 NO31(05/08/25)掲載

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