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2006年03月31日
 ■ フランス雑感

 ■未来の先取りか、前世紀「階級闘争」の残り火か

 フランス民衆のCPE(初期雇用契約)撤回闘争は、28日にゼネストと300万人デモを実現し、ドヴィルパン内閣を追いつめています。しかし、日本のマスコミの取り上げ方は、「デモ隊が暴徒化した」とか、「来年の大統領選挙の前哨戦」など、瑣末な点に光をあてたものがほとんどです。
 恥ずかしながら私自身も、このCPEを中心にした「機会平等法」がフランス議会に提出され、高校生たちが猛然と反対運動に立ち上がった時点でも(2月初旬)、この問題がほとんど眼に入っていませんでした。だから、他人のことはとやかく批判できる立場にはありません。
 当地では、28日の大行動に続き、5大労組と学生組織が、4月4日にも同様な行動を行うようです。30日の憲法評議会の結論の行く末(26歳未満の若者だけに適用されるCPEが憲法の定める「法の下の平等原則」に反していないか否か)、シラク大統領の動向などなど、「政局」という意味でも、待ったなしの緊迫した場面が訪れようとしているようです。
 ところで、このフランス民衆の反CPEの大闘争とは、いったい、いかなる意味をもったものでしょうか。「階級闘争が最後まで闘われるのがフランスである」と語ったのはマルクスですが、確かに「徹底して闘われている」ことは、日々のニュースでも理解できます。しかし、分からないのはその先です。
 つまり、フランスの事態は、グローバリゼイションの中で、先進各国がいつかは通らねばならない未来を先取りしたものなのか、それとも、他の先進国ではほぼ「終息」しかに見える前世紀の「階級闘争」の残り火なのか、という点です。

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2006年03月13日
 ■ 3月10日/東京大空襲から61年

 3月10日は東京大空襲の日です。今年、私は、特別な思いでこの日を迎えました。というのは、正月に帰省した時に、82歳になる父から、20歳の時に東京大空襲に遭ったと、はじめて聞かされたからです。

 当時父は、新潟から東京に丁稚奉公に出ており、荒川区で「ゼロ戦」の部品を作る工場で働いていたそうです。そこで3月10日を迎えたのです。1945年、終戦の年のことです。

 その日、B29はいつもより低空で銀色の腹を見せて、何度も何度も頭の上を通過していったそうです。そして焼夷弾のアラシ。

 父が、どのようにして大炎火の中を生き延びたのか、定かではありません。近くの小学校に避難して助かったようです。
 逃げる途中、高架があり、そこに沢山の人が逃げ込もむのを見たそうです。翌日、そこに行ってみたら、中に沢山の人間が折り重なって死んでいました。

 他にも言葉にならぬ地獄を見たようです。荒川には、水面が見えない位の死体が浮かんでいたこと。「感覚がマヒして、ちっともおっかいとは思わなかった」。

 川だけではありません。「翌日、あたりを、自転車であたりを見てまわりった時、木の燃えっクズが車輪にひっかかって前に進めないと思って、調べてみたら死体だった」。

 岩波新書の『東京大空襲』(早乙女勝元著)に、木の燃えくずのようになった死体の写真が掲載されています。母親と子どもの死体です。父は、あまたのそうした死骸を目撃し、その中をさまよい、その中で生き延びたのでした。

 10万人もの死者がでた「東京大空襲」ですから、あの場に居て、生き延びられたのが不思議なほどです。あそこで二十歳になったばかりの父が焼け死んでいたら、今の私は無いのです。そう思うと「オヤジよ、生きていてくれてありがとう」と心から思いました。

 父の「戦争体験」は、それだけではありませんでした。東京で被災したすぐ後、4月に招集され、長野の人たちと混成部隊を結成して大分に送られます。そこで「本土決戦」に備え、九州で米軍を迎え撃つため、高射砲をすえつける塹壕掘りをやっていたそうです。しかし、九州へ送られる時、父は日本の負けが近いと感じています。それは、海岸にあるべき高射砲が、すべて赤く焼け落ちている様が、列車から見えたからです。

 案の定、日本は8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下で「降伏」します。父たちは開放され、郷里に引き上げます。その引き上げの途中、父は、被爆から一ケ月もたたない広島の街を観ています。「おっかなくて汽車から降りられない」くらい不気味な街、全てが焼けて、な~んにもない街だったそうです。

 東京大空襲とヒロシマ。普通の庶民が一瞬で24万人も犠牲になった二つの大惨事。この渦中に20歳の父はいたのです。そのことを、なぜ、60年間、黙して来たのか。

 数日まえの新聞に、「東京空襲犠牲者遺族会」が、3月10日の大空襲をはじめとする都内各地の空襲被害に関し、国に謝罪と損害賠償を求める訴訟の準備を進めているという記事が載りました。今年の終戦記念日のころに正式に提訴したい、とのことのようです。

 「心ならずも戦争で命を落とされた方々に、心から哀悼の誠をささげる」。小泉首相が、靖国神社参拝の理由を説明する言葉です。しかし、戦争で生命を落とした人は、靖国神社に祀られている戦闘による死者だけではありません。ヒロシマ、ナガサキをはじめ、全国各地に空襲によって「難死」した犠牲者がいるのです。

 政府は、軍人・軍属には、軍人恩給と年金を(「顕彰」の意味を込めて)一年間に約一兆円も支給しています。しかし、空襲による犠牲者にはビタ一文も出していません。「戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない」という理由からです。

 空襲犠牲者にとって、「戦時」は、今も続いているのです。

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