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2007年01月26日
 ■ 貧困と格差を拡大する「御手洗ビジョン」/ゼロ成長と九条・非武装にこそ「希望」あり

 支持率低迷の中で「改憲」かかげる安倍政権

 通常国会がはじまった。選挙イヤーの国会は、否が応でも選挙戦略とリンクして推移する。安倍首相は年明け早々、7月の参議院選を「憲法」を争点として「正攻法で闘う」と言明した。自民党大会でも、今年の重点政策のトップに「憲法改正手続法案の早期成立を実現し、新憲法制定に向けての国民的論議を喚起する」を掲げた。「2010年代初頭までに憲法改正」(日本経団連「ビジョン」)という目標にむけ、本格的な「改憲」の動きが始まったのである。
 しかし「改憲」を声高にさけぶ安倍の足元は揺れている。発足時には70%を超えた内閣支持率は、11月、12月と続落し、年が変わってからも45、0%(共同、1月11日~14日)、40、7%(時事、同月、12日~13日)と最低を記録している。
 その原因は、直接的には、郵政造反組復党問題、道路特定財源、本間愛人スキャンダル、やらせタウンミーテング、そして、伊吹文部科相など相次ぐ閣僚の政治資金疑惑にあると言える。しかし、より本質的には、安倍が、小泉時代に「劇場型政治」に慣れ切った有権者にむかって、印象深い「ワンフレーズ」や「サプライズ」を提供する「資質」「技量」に欠けた政治家だということにある。有権者の多くは「政策」の中身もさることながら、小泉との対比で安倍を「物足りない」(「お手手つなぐだけではねえ~」)と感じているのである。
 そして今、求心力を失った安倍政権の内外で、政権中枢と異なる意見や行動が噴出し、政治過程に影響を与えはじめている。安倍政権が全力を上げて「制裁」を加えている国に、与党の元幹部が(表敬)訪問する事態が起きた。また「残業代不払い法案=ホワイトカラー・エグザンプション」に対する反対世論の急速な盛り上がりは、安倍をして今国会への法案提出を断念させた。
 そして、1月21日に行われた宮崎知事選では、昨年の滋賀県知事選に続き、無党派の「そのまんま東氏」が自・公推薦の候補者らに圧勝した。安倍政権へ「期待はずれ感」は、小沢・民主や他の既成野党をも飛び越えて、再び「しがらみのない」「無党派候補」への期待へと、変化する可能性が出はじめているのだ。

 「成長神話」にしがみつく御手洗ビジョンン

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 支持率低下の安倍内閣に対して、まるでその尻を叩くかのように「財界」の動きが活発化している。
 本年1月1日、(社)日本経済団体連合会(会長・御手洗冨士夫キャノン会長)は、『希望の国、日本』(御手洗ビジョン)を発表した。近未来である「2015年の日本」の姿を「希望の国」として描き、その実現にむた「優先課題」と「今後五年間に重点的に講じるべき方策」(ロードマップ、アクションプログラム)を提言したものだ。【写真は自民党大会であいさつする御手洗
 「ビジョン」が一貫して主張していることは「豊かな生活は、 成長力の強化・ 維持により実現される」ということだ。ビジョンはこの立場を「成長重視派」と呼び「ベストのシナリオ」と絶賛する。対して「所得格差の拡大、 都市と地方間での不均衡など不平等の問題を厳しく指弾する」立場は「弊害重視派」と括られて否定される。その上で「 改革を徹底し、 成長の果実をもって弊害は克服される」とされる。
 「成長戦略」「上げ潮戦略」は安倍政権の看板政策である。「改革なくして成長なし」(小泉)から「成長なくして未来なし」(安倍)にキャッチコピーも「イノベーション」されたのだ。
 しかし「ビジョン」が掲げる「成長戦略」には二つのまやかしがある。
 一つは、「実質で年平均2、2%、 名目で同3、3%の成長を実現2006年~15年)」「一人当たり国民所得は約三割増加(2005年比)」という目標は実現不可能だということだ。現状でも2%に届かない数字を、増やし、なおも維持していくことは難しい。しかも「ビジョン」が成長のカギだと力説する「科学技術を基点とするイノベーション」も、それが具体的に何なのか、示すことができないままだ。これでは「新しい成長のエンジン」に「点火」しようがない。
 二つには、「成長」(パイの増大)が自動的に「貧困・格差」の是正(パイの公平な分配)につながらないということだ。
 いま、「経済成長が貧困と格差の弊害を是正する」という言葉ほど、人々の実感から遠いものはない。大企業がバブル期を上回る史上最高の利益を謳歌(おうか)している時、労働者の賃金は減少し、生活保護受給世帯は61万世帯(96年)から105万世帯(05年)に、貯蓄ゼロ世帯は、5%(80年代後半)から22、8%(06年)に急増している。まさに「リストラ景気」「格差型景気」なのである。
 もしも、生産性の高い産業、企業、労働者を優遇することで経済が成長し、結果として社会全体が豊かになる仕組みを作るとするならば、そこには強烈な「累進税制」(所得再配分)が必要だ。しかし現実に行われていることは、所得再配分なしの富裕層、大企業優遇だ。「ビジョン」はその上にさらに、法人実効税率約40%を30%に引き下げよ、と主張する。

 「道州制」は「地方分権」と対立する

 「ビジョン」が「成長戦略」のために、イノベーションと並んで重視しているのが、「道州制導入」と「労働市場改革」だ。
 「グローバル化のさらなる進展、 人口減少と少子高齢化の中にあって、 新しい『 日本型成長モデル』 を確立していくには、 地方主導で豊かな経済圏を構築する道州制の導入と、多様な働き方を可能とし、分野横断的に労働の流動性を高める労働市場改革の推進が不可欠の前提となる」。
 全国を一〇程度の広域自治体に再編する道州制は、昨年二月、地方制度調査会が「導入が適当」とする答申を出し、これを受けて小泉、安倍も積極的に推進する立場にある。参院選で自民党は道州制を公約(マニュフェスト)にかかげだろう。こうした流れの中で「ビジョン」は、2015五年をメドに「道州制」を導入せよと主張する。しかし何故、道州制が必要なのか。
 ビジョン」は二つの方向から提起する。一つは地方分権の文脈である。権限での中央による地方自治体の支配、財政面での中央への依存の変革がうたわれる。もう一つは、グローバルな地域間競争の中で生き残りための「広域な経済圏を構築する」という文脈である。
 しかし、この二つは本来別のものである。自治体には適当な規模というものがある。その観点からすると、地方分権の徹底は道州制に行き着かない。逆に「ミニ国家」となる「道」「州」は地方分権に敵対しかねない。しかも「ビジョン」のうた「広域な経済圏」とは、多国籍企業のサイズに合わせた使い勝ってのよい自治体のことだ。地方自治体の財政を大企業の食い物にさせてはならない。

 「労働市場改革」について「ビジョン」は、労働分野の「規制を最小限」にせよという。政府による「行き過ぎた規制・介入」や「労働者保護」の制度が「円滑な労働移動の足かせとなってい」るのという認識からだ。
 今、働いても貧困から抜け出せない「ワーキングプア」が社会問題になっている。派遣・請負、不払い残業、低賃金・不安定労働によって貧困と格差が拡大している。これには1995年の日経連(当時)の指針『新時代の「日本的経営」』が大きな影響を与えている。この指針にそって、企業は正社員を派遣、請負などの非正規・不安定労働に大規模に置き換えたからだ。そして政府の「労働の規制緩和策」がそれを援護した。「ビジョン」は、それでも足りず、「さらに規制を最小限に!」と叫ぶ。

 「格差是正」と「改憲阻止」を闘おう

 日本経団連が「ビジョン」を出すのは、『活力と魅力溢れる日本をめざして』(奥田ビジョン、2003年)に続いて二回目だ。これまでみてきたことの他に、教育、公徳心の涵養、集団的自衛権、憲法改正など、政治的領域にまで公然と口出しをしているところがこれまでと違うところだ。どういう権限があってのことか、日の丸、君が代についても「教育現場のみならず、 官公庁や企業、スポーツイベントなど、社会のさまざまな場面で日常的に国旗を掲げ、 国歌を斉唱し、 これを尊重する心を確立する」などと指図してくれている。まったく余計なことだ。
 昨年五月に二代目の会長に就任したの御手洗冨士夫は「ビジョン」の中でも、昨秋出した「強いニッポン」(朝日新書)の中でも、アメリカ駐在時代に体験したレーガンのアメリカ経済再生を日本でもやるのだ、と豪語してはばからない。そして「私は改革が好きだ。ずっと改革に夢中になり、そのことばかり考えてきた」(「強いニッポン」)と語っていまる。
 一企業にすぎないキャノンの中で「改革に夢中」になっても、害は(それなりにあるにしても)比較的少ない。また、正式に政治家としてトップに立つなら、その仕事ぶりは、最終的には有権者によって審判が下される。しかし、自らが「政策集団」と位置付けている組織のトップにたち、有形無形に政治をコントロールできる立場に居ながら、その去就が有権者の意思に左右されない立場というのは、無限の独裁者になりうることを意味する。
 この強烈なレーガン主義者が、まず総力で仕掛けてくるのが「労働ビックバン」のための労働法制の改悪だ。「ホワイトカラー・エグゼンプション」は一旦の挫折をみたが、復活は必至である。そして憲法改正だ。
 日本経団連は「ビジョン」公表後の1月10日、「希望の国」実現にむけた今年の「優先政策事項」を発表した。これは「2007年の政党の政策評価の尺度となる」ものだ。その10項目にはこう書かれている。
 「新憲法の制定に向けた環境整備と戦略的な外交・安全保障政策の推進」。
 「貧困・格差(=成長戦略)」と「改憲」の二つに「正攻法」で立ち向かわなければならない。


この文章は、『グローカル』707号(07年2月1日)に掲載するために書かれたものです。

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2007年01月02日
 ■ 映評「スタンドアップ」(主演=シャーリーズ・セロン)

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2005年 アメリカ 124分 監督=ニキ・カーロ

職場のセクハラ
一人で立ち上がる偉大さを描く、
困難さの描写も説得的

 元旦の朝は毎年手持ちぶさたである。テレビが映し出す「ニューイヤー駅伝」の中継をチラチラ眺めながら、分厚い新聞にザッと目を通し後は、やることがない。こういうことを見越して、今年はDVDを何枚か借りておいた。その一枚が『スタンド・アップ』。
 事前に作品を知っていたわけではない。たまたまレンタルショップで手し、パッケージの説明に興味をもった。鉱山/初のセクシャルハラスメント裁判/実話に基づく/そんな言葉に引かれた。昨年見た「フラガール」「三池」が、同じヤマ(鉱山)を舞台としたものだったことも遠縁だ。アメリカ映画がヤマの「労働問題」をどのように描いているのか期待した。

 舞台はアメリカ北部の鉱山の町。暴力を振るう夫から逃れ、二人の子供を連れて実家に帰ったジョージー(シャーリーズ・セロン)に、両親、特に父親は冷たい。ジョージーが若くしてシングルマザーとなり、二人の子供の父親がそれぞれ違うからだ。ジョージーは、自分で働いて子供を養うことを決意し、鉱山会社で働くことを決めるが、それも、同じ鉱山で働く父には気に入らない。

 ジョージーが足を踏み入れた「男の職場」は、労働のきつさ以上に、性的嫌がらせが日常的に行われる耐え難い場であった。新入りのジョージーに、これでもかこれでもかと、嫌がらせが繰り返される。盗難、排泄物による落書き、強姦未遂などなど。背景には、女性に仕事を奪われることへの男の恐怖心がある、と映画では説明される。

 ジョージーは屋外の簡易トイレに閉じこめられ、横転させられ、クソまみれになる屈辱を契機に、会社を訴えることを決意する。しかし、同僚の女たちを誘うが逆に、反発されてしまう。労働組合にも相談するが、ここでも男性労働者から「嫌がらせはない」とつっぱねられてしまう。それでも知人の弁護士が、「集団訴訟」にできるなら勝利の可能性がある、と代理人を引き受けてくれる。しかし出発は「一人原告」だ。

 物語は、この裁判を舞台に、会社の代理人との駆け引き、ジョージーの側に立つべきか会社の側に立ち証言するか、で悩む女性労働者の葛藤、そして最後の段階での父親の翻身と…深い人間描写がつづく。
 アメリカで最初にセクシャルハラスメントを訴えた裁判で勝利した話しに基づいているだけに、派手さはないが、労働をめぐる人間関係の描き方はリアルでシリアスだ。

 映画をみて驚いたことは、鉱山という職場での、性的嫌がらせの圧倒的なエゲツナサだ。剥き出しの性暴力がまかり通っている。鉱山会社がはじめて女性を雇用しはじめたのが1975年だそうだから現代史の話しである。女工哀史の時代ではないのだ。しかも、裁判が終わったのが1988年だというから、つい昨日のこと。にもかかわらず、こんなエゲツナイことが、今でもアメリカ社会では行われているらしい、ということには本当に驚いてしまった。

 先にも書いたように、映画では、その原因を「女性に仕事を奪われることへの男の恐怖心」と指摘されていた。これは一面的すぎると思う。私はアメリカ社会のもつ、ある種の病理ではないかと思う。セックスと銃と宗教にかんするアメリカ社会がもつ基準はホントに異様だ。などと書くと日本社会を免罪してしまうようで嫌なのだが、要するに女を「商売女」と「そうでない女」に二分して平気な社会の中で、この極端を行っているのがアメリカで、日本をふくむ他の社会も、程度の差はあれ同じ文化を共有していると思う。

 鉱山で働く男性労働者の女性労働者を見る目は、まさに「商売女」を見る目である。決して自分のパートナーや娘を見る時の目ではない。この二つの違いは、映画の中で、ジョージーの父が仲間を説得する演説の中で指摘されており、ハッとさせられた。

 裁判の結果はジョージーと、最後は集団訴訟の原告に加わった複数の女性の主張がみとめられ、職場も改善されたもようだ。それはそれで前進だと思う。しかし、会社もそこで働く男たちも、鉱山ではたらく女性を「商売女」の枠組から外しただけで、依然として「商売女」と「それ以外の女」という二分法は、堅持したままのような気がしてならないのだが、どうだろう。

 もう一つ印象的なことは、この映画は作りとしてはハッピーエンドになっているにもかかわらず、見終わったあと、決してハッピーな気分にならないことだ。この映画は人が闘いに立ち上がることのすばらしさを描いている一方、逆に、闘いに立ち上がることの困難さも、これでもか、これでもかと描いている。これについて、監督のニキ・カーロは「真実をより真実を!」を撮る時のモットーとしたと語っている。

 題材がアメリカでの初セクシャルハラスメント裁判ということで、初ということは、圧倒的な苛酷な現実の中でも、沈黙を選択する人の方が多かったということである。それは、訴訟社会と言われるアメリカにおいても、そして、不安定雇用労働者が拡大し、ワーキングプアの存在が問題となっている現在の日本においても、自分の責任だからと沈黙する者の方が多数ということだろう。それが「真実」なのである。

 だからこそ、この映画は不当な扱いの中で、「飯のタネを失うことの恐怖」と「立ち上がって発言すること」との間で、揺れ動き、葛藤するすべての「小さき者」へのエールとなっているのである。

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 ■ 迷惑なお年玉=「希望の国、日本」

 明けましておめでとうございます。

 新しい年が来ました。4月に統一地方選、7月に参院選と、今年は選挙が続きますね。(ついでに、フランスの大統領選も、後期・統一地方選と同日です)。

 候補予定者のみなさん、関係者のみなさん、正月休み返上で活動中のことと思います。心から敬意を表します。

 さて、昨年、小泉から「政権」を受け継いだ安倍ですが、郵政造反組復党、道路特定財源問題、本間愛人スキャンダル、佐田行革相政治資金疑惑などで支持率急落ですね。色々な世論調査が出ていますが、ネットではすでに支持=12%、不支持=80.5%という数字まで出ています。(参照―1)

 もう、とても「美しい内閣」とは言えません。

 何故、こんな事になってしまったのでしょうか。「週刊現代」が言うように「安倍晋三内閣を倒せ! “平成の陸軍” 財務省のクーデターが始まった」のでしょうか。それとも「『小泉継承』と『脱小泉』を同時に求める」安倍政権の「基本路線をめぐる壮大な矛盾」(「毎日」―参照2)が噴出しはじめたということなのでしょうか。

 安倍政権の急激な失速の原因を分析することは、興味が尽きぬことであり、また必要なことでもありますが、いまここで言いたいのはそのことではありません。脆弱な政権をカバーするかのように、いや、むしろそれを出し抜くかように政治の前面にしゃしゃり出てきた「商売人」のことです。

 日本経団連は07年1月1日、経団連ビジョン『希望の国、日本』を発表しました。(参照―3)
 それは、今後の方向として、小泉改革が生みだした様々な「弊害」(所得格差、都市と地方の不均衡や不平等など)を是正にすることには力を注がず、ひたすら経済成長を求めて、今後10年間、さらなる「改革」を徹底する、と宣言したものです。
 しかもこの「改革」の中には、教育、公徳心の涵養、集団的自衛権、憲法改正などもふくまれています。なんとも迷惑なお年玉です。

 この「希望の国、日本」は、別の方向からみれば、経団連が、国家・経済・社会の運営のビジョンを示したというだけにとどまらず、「日本経団連を政策集団として一段と強化する(参照―3)」(御手洗冨士夫・会長)方向をも示したものとして注目すべきでしょう。つまり、日本経団連会長の「首相化」の方向です。

 実際、安倍首相の脆弱さ、リーダーシップの無さが露呈して来るのと反比例するかのように、経団連会長・御手洗冨士夫の存在感が増しています。いや存在感が増すというより、傍若無人ぶりが高じてきている、と言った方がいいでしょう。

 なにしろ、この人は「改革」とは、自分の姿に合わせて世の中を変えることだと思っているような人です。
 自分が会長を務めるキャノンで偽装請負が発覚すると「請負法制に無理がある」と「法が悪い」と居直りの発言をしました。
 また、労働者派遣法について、「三年たったら正社員にしろと硬直的にすると、たちまち日本のコストは硬直的になってしまう」と現行法が規定する直接雇用の義務化の「見直し」を要求しました。
 さらに、自分の会社から自民党への献金を再開するために、外資系企業(キャノンは外資が50%以上の外資系企業)の献金を規制している政治資金規正法を、先の臨時国会で「改悪」させてしまいました。

 御手洗は、今回の「希望の国、日本」のなかでも、また、昨秋出した「強いニッポン」(朝日新書)の中でも、アメリカ駐在時代に体験したレーガンのアメリカ経済再生を日本でもやるのだ、と豪語してはばかりません。そして「私は改革が好きだ。ずっと改革に夢中になり、そのことばかり考えてきた」(「強いニッポン」)とも語っています。

 私は、この男はヤバイ!と直感的に思います。

 一企業のトップという地位で「改革に夢中」になっても、害は(それなりにあるにしても)比較的少ないでしょう。また、正式に政治家としてトップに立つなら、その仕事ぶりは、最終的には有権者によって審判が下されます。

 しかし、自らが「政策集団」と位置付けている組織のトップにたち、有形無形に政治をコントロールできる立場にI居ながら、その去就が有権者の意思に左右されない立場というのは、無答責と言われた天皇ヒロヒトか、闇将軍と言われた田中角栄なみの独裁者たりうることを意味しているのではないでしょうか。

 そして、この強烈なレーガン主義者が、まず、総力を上げて仕掛けてくるのが「労働ビックバン」=労働法制の改訂、その目玉である8時間労働制の破壊=「ホワイトカラー・エグゼンプション」です。

 安倍はフラフラですが、陰の首相の鼻息は荒いです。

 ホワイトカラーもブルーカラーも、そしてパープルもイエローもブラックも一緒になって、この希有の悪法を葬りたいと思う新年です。

 本年もよろしくお願いします。


  (参照―1)支持率 http://www.yoronchousa.net/webapp/vote/result/?id_research=1558

(参照―2 「毎日」記事)
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/news/20061227ddm004070047000c.html
(参照―3、経団連ビジョン「希望の国、日本」
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2007/vision.html

(参照―4)「月刊・経済Trend 2007年1月号」新春対談、安倍 対 御手洗
http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/trend/200701/taidan.html


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