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2007年09月30日
 ■ 上坂喜美さんを偲ぶ会へのご案内

 上坂喜美さんを偲ぶ会の案内をいただきました。管理人の責任において、ここに掲載します。



 上坂喜美さんを偲ぶ会へのご案内

 上坂喜美(きよし)さんが亡くなられました。7月17日の未明、激しい雨が降る中、家族に見守られて息を引き取りました。1年前からの肺ガンが引き起こした肺炎が原因でした。行年83歳でした。

 みなさまそれぞれに上坂さんの深い思い出があることでしょう。終戦直接、まだ青年時 代、大阪中電を活動拠点に全逓青年部運動に邁進された頃、共産党の常任・幹部として活躍された頃、三里塚闘争の最先端を担われた頃、関西共同行動(6月共同行動)で代表的な役割を果たされた頃。三里塚闘争はもとより、反戦平和運動、反公害問題、住民運動、労働運動、市民運動と、いろいろな運動で中心的な役割を果たされました。上坂さんを語らずして関酉の市民運動は語れないといっても過言ではありません。

 それらの運動の中で、上坂さんは、あの小さな体で、常に先頭に立ち、現場を離れずに無私に活動されました。仲間たちには奢らず、年の相当に開いた者にも平等に対応されました。もちろん、必要な論争には激しく参加し、権力や妨害者には毅然と立ち向かいました。「清貧な左翼」そのものでした。

 上坂さんの在りし日を偲び、上坂さんが私たちに残してくれたものを受け継いでいくために、偲ぶ会を持つことにしました。上坂さんの思い出を語り合いながら、初冬の午後をともに過ごせたらと思います。上坂さんにはあまり似つかわしくはありませんが、多少の食べ物、アルコールなども準備します。
なお、上坂さんの遺稿集の出版も計画中です。ご協力をよろしくお構いします。

 ◆とき:12月2日午後2時より
 ◆ところ:山西記念館(YWCA 大阪梅田)
 ◆参加費:5000円

上坂さんを偲ぶ会実行委員会

呼びかけ
関西三里塚闘争に連帯する会
関西三里塚闘争相談会
関西共同行動

賛同者

阿部陽一 石井俊二 伊藤修身 伊藤利一 太和田幸治 小川亮 沖幸典 奥田旬子 小原吉苗 片山明 加藤達哉 苅谷稔 川原邦夫 菊永望 岸本淳子 北川靖一郎 木村保博 桑原重夫 小寺山康雄 酒井一 栄篤志 島野正通 杉村昌昭 杉本正典 須賀和雄 砂場徹 寺本勉 中北龍太郎 西村隆平 丹羽正通 畑健次郎 原田恵子 土方克彦 古橋雅夫 星川洋史 前田裕晤 前原英文 松上辰之 宮本崇義 三輪喜久治  百瀬彰 秦山義雄 山崎秀樹 山田実 山本徳二 吉沢茂 吉田四郎 米沢鐵志 若野正太郎 和田喜太郎 渡邉道春(2007年9月20日現在)

連絡先:大阪市北区堂山町8-13 堂山ビル4 ポポロ気付
電話:06-6314-0796 ファックス:06-6315-7558

<補>
 ◆山西記念館
 ・ 〒530-0026 大阪市北区神山町11-12
 ・ TEL 06-6361-0838 FAX 06-6361-2997
 ◎アクセス方法は下記に入って「YWCA梅田」をクリックすると表示されます
  http://osaka.ywca.or.jp/access/index.html



 上坂さんのご家族からの手紙を掲載します

関西三里塚闘争に連帯する会 様
関西三里塚闘争相談会 様

 拝啓 

 盛夏の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

 先般父上坂喜美儀逝去の節はご鄭重な御弔辞並びにご供物を受け賜わり、厚くお礼申し上げます。残こされた母、家族一同皆様のご厚情に感激し、またたいへん勇気付けられました。

 父はこの1年ほど前、肺がんが発見されました。その時は高齢であることそして認知症も患っていために、主治医から積極的な治療は行わず、緩和療法をとることを勧められました。幸いにしてしばらくは特に目立った症状は示しませんでしたが、亡くなる2月ほど前から急に食欲を落とし、そして一月前には肺がんから肺炎を併発し、労災病院に緊急入院いたしました。その後少し小康状態を保った期間がありましたが、7月17日の0時45分、呼吸困難を起こし永眠しました。

 私たち家族にとって父はいつも寡黙で、自分の生い立ちや外での自分の活動に関しては多くを語ることはありませんでした。父は大正13年3月25日、今で言う兵庫県養父市八鹿町の近くにあります妙見山の頭上(1142m)にある小さな村に7人兄弟の3男として生まれました。小学校は山から離れた下の町に、毎日2時間山道を登り降りして通っていたようです。その後家族は豊岡市に移り、山の上にあったその村は、今では道路が出来たりキャンプ場が出来たりして、村民全員が里の町に降りたそうです。

 豊岡から大阪に出てきては、大阪逓信局逓信講習所普通化に通い、その後共産党の活動を始めたようで す。母と出会ったのもその時と聞いております。共産党時代のことに関しては、私たち子供に話すことはあまりありませんでした。初めての子供が生まれた昭和25年はレッドバージがあったり、共産党も第18回拡大中央委員会において大きな路線転換をした年でもあり、父が活動する間母は一人で子供を連れて苦労したと聞いております。

 共産党を離れた後も母がしばらく生活を支えておりました。その後印刷所で働きはじめ、2人目の子供が生まれた頃自分でも小さな印刷所を始めました。その頃は家族を支えるのに必死だったのでしょう、家族総動員で印刷所の仕事を手伝ったのを覚えております。商売の方はしばらくはうまくいったようですが、お金儲けより暇を見つけて本を読んでいた父の姿を覚えております。

 三里塚闘争との関わりは、ちょうど長男が大学を卒業した頃に始めたと思います。必死で子育てをしている間でもあたためてきた思いがあったのでしょう、生活はきびしいものでありましたが、生き生きとした父の姿が見えました。

 その後すぐ現在居住する泉北の地に引っ越してまいりました。ここは父が昔共産党を離れて職がない時に、一時住んでいた場所であり、自然と歴史に恵まれ、そして市民運動も盛んなで、晩年を送るには最適の場所だったかもしれません。父の晩年は晩年と呼ぶにはあまりにも活動的で、非常に充実した毎日だったと思います。

 まず老人会の活動は新しい形の地域運動として定式化して行ったようで、今でも近所のご老人からその時のお礼の言葉を頂くことがあります。老人大学は2回も卒業したと聞きました。口には出しませんでしたが父はいつも正式な教育は受けたかったようで、政治、社会以外のさまざまな分野の本を買っては読んでいました。

 また皆様のおかげでフランスに旅行する機会も得、それで奮起したのかフランス語も勉強しておりました。いつも聞き取りと発音が出来ないとこぼしておりましたので、フランス語の星の王子様のテープを送ったのも覚えております。泉北の地に来てからは、健脚を利用して毎日10km以上歩き回っていたようで、この辺りのほとんどの山道町道を覚えてておりました。

 一つ家族を驚かせたのは社交ダンスの教室に熱心に通い始めたことです。最近は廃村になった所の農地に行くと張り切っていたのを覚えております。このように晩年の父にはまだまだしたかったことが多くあり、5年ほどまえから患った認知症がそれを不可能にしたのは家族として本当に残念でなりません。ただ皆様にお会いし充実した時間を共有させて頂いたことは父喜美にとってなによりの幸せでございました。

 就きましてはご拝眉の上直接お礼申し上げるべきでございますが、略儀失礼ながら書中を以って皆様にお礼、お挨拶を申し上げます。

平成19年7月22日

署名(略)


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2007年09月24日
 ■ 福田新政権の発足を前に/「リベラル」な手法による「改革推進」に警戒心を

 ◇構造改革は継承

 自民党の新総裁に福田康夫氏が選出された。福田政権はなぜ生まれ、どこに向かうのか。三つの軸から考えたい。

 一つは「構造改革路線」をめぐる「政策転換」という軸である。7月の参院選の安倍の大敗の最大の要因は「構造改革」にあったことは確かである。都市と地方の格差や労働をめぐる格差である。それらを「構造改革」の「影」にすぎないと過小評価し放置した安倍政権に対して、有権者が「NO!」を突きつけたのである。
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 時期はずれの辞任になったとは言え、福田であれ麻生であれ、安倍に替わる新総理(首相)は誰であっても、「構造改革」からの「政策転換」の姿勢を示す必要があった。
 しかし総裁選では福田も麻生も「構造改革」の継承とその影の部分の是正を一般的に語るだけで、明確な「転換策」は示していない。そればかりか、福田は財政再建と公共事業の削減を訴えて、構造改革=新自由主義政策の継続の方に力点を置いている。
 確かに個々の政策において規定方針の凍結などを示している分野もある。また、些細な微調整を「大転換」であるごとく示すこともあるかも知れない。しかし福田新政権が新自由主義からの「政策転換」に舵を切るかどうかは、いまだ未知数というべきだろう。

 ◇リベラル掲げ、対話を推進

 二つめは、安倍流の「保守主義」を継続するのか、それとも「リベラル」な理念の政治への転換を進めるのか、という軸である。ここでの結論は明瞭である。福田は「リベラル派」として意識的に自分を売り込む方向を示している。それは改憲問題(3年後の改憲発議は棚上げ)、対北朝鮮政策(相手からの対話の機会を生かす)、靖国参拝問題(国立追悼施設)などに示されている。
 靖国問題で国立追悼施設の建設を支持する立場にたつ福田は、ナショナリズム、国家、公共性の3つのうち、3番目の公共性をより上位におく考え方に立つ。その公共性は堅固であるよりも伸縮自在の軟体として、国民という枠をも超えるものとして構想されている。
 こうした福田のスタンスに対して、保守派のオピニオンである『産経新聞』は、総裁選報道において、福田を「リベラル」と規定して敬遠する立場を取ってきた。私は、『産経』とは逆の立場から、外国人の地方参政権や、男女別姓などをに踏み込む可能性のある福田「リベラル」政権により警戒心を持たなければならないと思う。

 ◇「劇場型政治」の終焉のあとに

 三つめは「劇場型政治」の継続か「対話・安定型政治」への転換かという軸である。これは小泉改革を引き継いだはずの安倍が、何故「劇場型政治」で力を発揮できなかったのかという問いとも重なる。結果論であるが、この一年、安倍は二重の読み違いをしていたのではないか。一つは自分を「劇場型政治」を演じることができる名優だという思い込み。二つ目は観客は小泉以降も依然として「劇場型政治」を望んでいるはずだ、という読み違い。二つ目の読み違いは実は私もしていたのだが、はほとんどのマスコミや批評家も誤ったのではないか。
 安倍辞任の報につづく総裁選報道の第一弾は、ほとんどが「麻生を軸に」だった。しかし翌日には「福田に雪崩うつ」に急変する。この裏には確かに派閥政治が動いていた。しかし世論調査でも福田支持が一貫して麻生を上回り続けた背景には、「劇場型政治」への無意識の忌避感が作用していたのではないか。代わって「生活を第一」にした「対話・協調・安定型政治」への欲求が高まっていると読めないか。
 いや、福田支持が高いのもマスコミの誘導の結果に過ぎず、政治へのマスコミ支配は強まっている、というい反論はありうる。一面あたっているだろう。にも関わらず「9、11選挙」のような一人の政治家のパフォーマンスに国中が一喜一憂するという現象は、今後、当分の間は起こり得ないだろう。ポピュリズムという熱病から、有権者はゆっくりではあれ、回復しつつあるのだ。

 ◇「政治とカネ」ではサドンデス

 発足する福田新政権は、そう名乗るか否かに関わらず「リベラル」を政権の売りにする内閣となろう。「自立と共生」「希望と安心」のコピーがそれを物語っている。そして過度なパフォーマンス(=劇場型政治)を慎み、「ゆるキャラ」「脱力系」を演じて「安定感」「親しみ安さ」を演出するだろう。そして安倍、麻生に比して「弱点視」されている拉致問題では、六ヶ国協議に積極的にコミットして思わぬサプライズがあるかもしれない。
 しかし、新自由主義=構造改革路線を基本的に踏襲する政権であるかぎり、いかに脱力系を演じようと、福田新政権は「改革」というマッチョな役割から自由になれない。それは改革に伴う「痛み」から自由になれないということだ。リベラルな手法は「政局的」には逆転参議院で民主党に主導権を渡さないために不可欠な手法であろう。しかし「社会の痛み」に対して、「リベラル」はいったいどれだけの統合力を持つのか、これは未知数である。さらに「政治とカネ」の面では新政権は「サドンデス」である。一人でも不祥事が出たらその時点で自公政権は消滅する。

 安倍の祖父岸信介は1960年、安保改定をめぐる大激動期を独特のキャラで乗り切った。そして、「政治の季節」の後に登場した池田政権は「所得倍層」を掲げ、「経済・くらし」重視に転じ、長期政権を実現した。岸の孫の後に首相の座にすわる福田は、果たして池田のように「経済・くらし」重視路線で長期政権を築くことができるだろうか。それとも、来春とも言われる総選挙で華と散り、自公による最後の政権になるのだろうか。

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2007年09月23日
 ■ 「靖国神社」と「東京都慰霊堂」を訪ねて

 のどかな日曜日の靖国神社

 9月16日~17日、東京に用があって出掛けたついでに、靖国神社と東京都慰霊堂を訪れました。用があった場所の近くに、たまたま靖国神社と東京都慰霊堂があったので、散歩がてら足を伸ばしたわけです。
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 靖国神社は、地下鉄半蔵門線の九段坂駅を降り、一番出口を上って2、3分歩いたところにありました。さっそくあの大鳥居が出迎えてくれました。写真では何回も観ていますが、ホンモノはさすがにデカイ。地上25メートルと言います。近づいて説明文を読むと「戦時中は取り壊された」とあり、とっさに「供出?」と思いましたが、まさかね~。
 日曜日とはいえ靖国神社にとっては「普通の日」。訪れる人はまばらでした。おどろいたことは青空市が開かれていたこと。のどかな風景でした。反対側には「英霊にこたえる会」のテントが二張り。ボランティア風の老人と老婦人が何やら署名を訴えていましたが、こちらも「のどか」でした。

  遊就館―ヒロシマもナガサキも東京大空襲も無視 

 靖国神社と言えば遊就館。入館料=800円也。だだし、これは二階の展示室に入るための料金(「拝観料」とリーフには書いてあった)で、一階部分は無料です。入ったすぐのロビーには「ゼロ戦」が展示してありました。幾人もの人が「ゼロ戦」をバックに記念撮影をしていました。奥には売店「ミュージアムショップ」と喫茶「結(ゆい)」。売店にはお土産品と書籍が並んでます。タイトルを見ると、どれも靖国神社がお墨付きを与えそうな本ばかりでした。
 二階の展示室には圧倒されました。とにかく広い。史・資料類も多い。私は、最初に映像ホールで「私たちは忘れない」という日本会議・英霊にこたえる会が企画・制作した映画を15分ほどみて(途中退席)、それから展示室を順路にそって廻りましたが、時間が無くて展示物の前を通るだけになってしまいました。詳しく観ていけばおそらく一日は優にかかるでしょう。
 ですから展示物や説明書に対する詳しい批評はできませんが、私が「おかしいな」と思ったことを2つだけ上げます。一つは、映画の中で日中戦争の原因を中国民衆の「反日運動」にあるかのように描いていたことです。肝心なことは、反日運動の対象になった日本軍が何故そこに居たのかということですが、その説明は映画ではまったく略されていました。(ここで私は席を立ったわけです)。
 もう一つは、1940年代から戦後にかけての史資料を展示している部屋で、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下の記述があまりにも少なかったことです。ヒロシマは6行、ナガサキは4行しかありませんでした。「東京大空襲」にいたっては皆無です。いくら皇国史観でもこれはひどすぎます。
 とは言え、遊就館に展示してある史・資料は膨大です。ここより多くの史・資料を収蔵している機関は日本にあるでしょうか。(私は京都に住みながら立命館大学の「平和ミュージアム」には行ったことはありません)。遊就館を見て、かつて「平和記念館」構想というものがありましたが、日本の戦争の歴史をありのままに伝える「戦争・平和ミュージアム」は必要だと思いました。

  喫茶店で会った遺族の想い

 正午を廻っていたので展示室を出て喫茶「結」で昼食をとりました。ここのメインメニューは「海軍カレー」。現代風のカレーもありましたが680円の海軍カレーを注文しました。味気は確かに無かったです。
 カレーを頂きながら、テーブルの向かいに座っていた80歳くらいの男性に「ここにはよく来られますか」と声を掛けてみました。男性は「はい、よくきます。フィリピンで戦死した兄が祀られています」とニコニコしながら答えくれました。私が「京都から来ました」と告げると、驚いたように「奇遇ですね。実は兄は京都の16師団にいました。三回招集され、満州、シナ、そして最後にフィリピンに送られ、戦死しました」と話されました。そして、ご自身は静岡に疎開して、そこで米軍の機銃掃射で民間人がたくさん殺される現場を見たこと、一般兵士と民間人に戦争犠牲者を多くだしながら、上層部は誰も責任をとっていないことなど、押さえた口調ながらしっかりとかつての戦争についての思いを私に話して下さいました。
 靖国神社に集まる人は、顕彰一色ではありませ。戦争への憤怒を抱えながら、それをカタチにして示す方法、場所が発見できず、代替として、靖国神社に足を運んでく人も多いのでしょう。こうした遺族の思いと靖国神社の教義の間には大きな溝があることを、忘れてはならないと思いました。

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 「晋ちゃんまんじゅう」で恩返し?

 最後に帰りしなに靖国神社のお土産場屋さんで面白いモノをみつけました。「晋ちゃんまんじゅう」です。安倍晋三をパロッたお土産。他にも「太郎せんべい」なども並んでいました。以前のブログで写真だけ載せましたが、ホンモノははじめて。ワイドショーでも取り上げられ、辞任表明後、一日1200個も売れる超人気商品だそうです。もちろん私も1箱買いました。
 結局、晋ちゃんは、首相になってから一度も靖国神社を参拝しなかった不義理者でしたが、最後はきっちりとまんじゅうで恩返しした恰好です。ヨシ、ヨシ。


 国技館近くにある東京都慰霊堂

 靖国神社をたずねた翌日、墨田区両国にある東京都慰霊堂を訪ねました。場所は国技館のすぐ北側にある横綱公園の一角です。こちらは靖国神社と違っていたって地味。
 公園内には三つの建物がありました。一つは東京都慰霊堂。1923年の関東大震災によるの犠牲者(5万8千人)の遺骨を納める場所として1930年に立てられ、1951年には東京大空襲の犠牲者(10万人5千人))の遺骨も納められ、両方の犠牲者の慰霊施設となっているところです。二つ目は慰霊堂と同じ年に建てられた東京復興記念館。そして三つ目が「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。こちらは東京都議会の決議をうけた遺族関係者の募金活動によって2001年に建設です。

 関東大震災の生き証人

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 私は最初に慰霊堂の中に入りました。中は一見お寺のようでありながら、椅子が並んでいるので教会のようでもありました。すぐ目についたのは堂の左壁に掲示されている東京大空襲の写真です。当時の警視庁の写真担当者が撮影したものです。この写真の前に私も含め4人の来場者がいました。70歳を超えた女性が2人とかなり高齢の紳士です。写真にじいっと見入っている女性に「遺族の方ですか」と声を掛けると、そうではなく、長野県にお住まいとのこと。「今日はたまたま東京に出て来たんです。慰霊堂は一度たずねてみたいと思っていました。長野でも空襲がひどかったんですよ。日本も悪いことをしましたが、米兵も悪いことしました。子供がねらい撃ちされましたから。」と話して下さいました。
 この会話に高齢の紳士も加わり、「この辺は震災と空襲の二回やられましたからね。私は震災の生き残りですよ。ただ、当時4歳だったので記憶はまったくありません。両親が犠牲になりました」と語りました。「9月1日の慰霊祭に参加できなかったので、今日ここにきました」。
 東京大空襲については、親父が被災者の一人だったので身近に感じていましたが、関東大震災の生き証人にここでお会いできるとは思っていませんでした。ビックリです。堂の右壁に展示されている大震災の絵は写真にはない迫力があります。

 「神聖不可侵」の絵がそのまま展示

 「東京復興記念館」は特別に貴重は歴史資料館だと思います。まず、ここには靖国神社のような歴史の偽造がありません。初期の展示物は昭和5年の建設時のままで、これに新しい展示物を加えて展示するという方法がとられているからです。初期の展示物の中には「自警団」と名付けられた自警団の活躍を称える絵もありました。自警団が果たした負の側面がその後明らかになっているはずですが、絵と説明文は当時のままです。
 また天皇(摂生?)が被災地を激励してまわる絵と説明は、戦後の憲法の「主権在民」とはまったく不釣り合いなのですが、そのまま残されています。ほかに、「東京市」の復興状況を描いた地図も面白いです。当時の250万人の東京市はいかにもスリムで、逆に、その後の膨張、開発がいかに破壊的なものだったかに気付かせてくれます。

 空襲の犠牲者は下町の下層に集中
 
 よくよく考えてみると、この地は震災と空襲という二重の災害をうけた地なのです。横綱公園自身は、もともとは陸軍の被服廠で、公園として造成中に関東大震災がおこり、ここに逃げ込んだ被災者数万人が、風が逆に吹いて焼死しました。それから約20年後、今度は戦争による大空襲です。大空襲も東京一円がやられますが、中心は本所区、荒川区、向島区等の下町でした。この地に軍需工場の下請け零細企業が密集していたことも関係があるでしょう。
 空襲などによる被害は国民が等しく受けるものではありません。ここには明らかに地域間、階層間の格差が存在しています。兵士・庶民と指導層では明らかに違います。この問題に光をあて、空襲犠牲者に国家賠償を求める裁判も今年からはじまっています。

 被災者を「尊い犠牲者」と呼ぶ東京都

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 最後に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」について。モダンな花壇が犠牲者への追悼の意を表しています。デザイン的には明るい感じがしてステキだと思いました。しかし、碑の主旨を説明した東京都発行の冊子の一文には異義ありです。そこにはこうあります。

「…東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築きあげられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました」

 なんと、東京都は、空襲犠牲者を「尊い犠牲者」に祭り上げ、その犠牲なくして今日の「平和」と「繁栄」はなかった、と言っているのです。要するに犠牲者に感謝せよと。このものの言いかたは、ナガサキへの原爆投下を「しょうがない」と発言した久間元防衛大臣の発言よりもヒドイものです。せっかくの追悼・平和祈念碑もこの一文で台無しです。ひょっとしたら石原都知事自身が、直接原稿に目を通して、この一文を挿入したのかも?と勘ぐりたくなるような文章です。
 あらためて東京大空襲は終わっていない、日本の戦争は終わっていない、と思う訪問になりました。

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