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2008年01月07日
 ■ 闘う女性マッサージ師、勝利的和解かちとる

メーリングリスト[shokuba_no_jinken]の投稿をそのまま紹介します。



[shokuba_no_jinken][00719] 第一物産争議、解決いたしました。


研究会『職場の人権』の皆様
明けましておめでとうございます。
 きょうとユニオンの○○○○です。本年も、よろしくお願いいたします。さて第一物産争議の件ですが、おかげさまで、昨年末の2007年12月29日に、京都府労働委員会において(株)第一物産と、きょうとユニオンとの間で和解が成立いたしました。

和解の内容についてですが、
会社側は、マッサージ師組合員およびパート組合員に対して、ほぼ組合の要求額に見合う解決金を支払うことを約束。
そして組合側は、この条件で退職に応じる。
ことで合意・解決いたしました。したがって職場泊り込みは、昨年末の12月31日大晦日に解除いたしました。

 第一物産の組合員が3ヶ月にわたって職場泊まりこみを続けましたが、これもユニオンや地域の労働組合、そして、研究会『職場の人権』の皆様方のご支援とカンパのおかげで勝利できました。組合員にとっても良い年越しとなり、喜んでおります。
 
 なお第一物産側においては、今後の更なるリストラが予想され、きょうとユニオンとしては対応を準備しているところです。
 皆様のご支援、誠に有難うございます。今回の勝利は、皆様のご支援の賜物です。重ねがさね、御礼申し上げます。

きょうとユニオン 執行委員
○○ ○○

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2008年01月06日
 ■ 妙教寺と三つの戦(いくさ)

 ◆戊辰戦争-いまも柱に残る弾痕

 私が住む京都・伏見は、日本を二分した内戦が勃発した土地です。明治維新に軍事的決着をつけた戊辰戦争は1868年1月2日(いまからちょうど140年前)、ここ鳥羽、伏見からはじまりました。

PC020022.jpg その戦跡は今も地区のいたるところにあります。中でも有名なものが、私の住まいのすぐ近くにある「妙教寺」というお寺の境内にある柱の弾痕です。西軍と東軍が宇治川堤・伏見街道と桂川沿いの鳥羽街道に分かれて激しく撃ち合い、その弾の一発が本堂の壁を突きやぶって飛び込み、内陣の柱を貫通し裏庭にまで転がったといいます。その柱が今でも残っているのです。

 また、戦没兵を偲ぶ「東軍戦死者慰霊碑」もあります。私のすむマンションの横、自治会館前、東軍が進軍した鳥羽街道沿(愛宕茶屋跡)、伏見街道沿いの京都競馬場駐車場入り口など、地区内をちょっと歩くと目にすることができます。勝者(西軍)の戦没者は靖国神社で「英霊」あつかいされていますが、敗者(東軍)のそれは地域の民によってこうしていまでも弔われているのです。でもなぜ、この地に東軍兵の碑はあるのに西軍兵の碑がないのか、本当の理由を私は知りません。

 ◆秀吉を天下人にした「天王山の戦い」

 この地にはもう一つ、歴史を画した大きな戦(いくさ)の跡があります。秀吉と光秀が激突した「天王山」の戦いです。「天王山の戦い」というと、天王山がある山崎が主戦場だったようなニュアンスがありますが、それは秀吉側にとっての話しであり、光秀側は淀城があるこの地を拠点にして戦いました。そして、この中世淀城の掘の脇にあったお寺こそ「妙教寺」なのです。詳しい史料はないようですが、両軍あわせて6600人もの戦死者を出した大戦(おおいくさ)ですから、妙教寺の周りががどんな様子だったか、想像はつくと思います。

 ◆アジア太平洋戦争と妙教寺

 「妙教寺」と「戦(いくさ)」の「縁」は実は、これだけではないのです。というよりも、ここからが今回のエントリーのハイライトです。それは、ここの元住職さんとアジア太平洋戦争にかかわる話しです。わたしの拙い文章より昨年8月に「産経新聞」に掲載された文章の方がずっと感動的ですので、それを全文紹介します。

伝えゆく戦争
破戒の悔いを季刊紙に
京都・妙教寺の「洛南の鐘」

 約60年間にわたって平和を願う季刊紙を発行し続け、戦争体験を語り継いでいる僧侶がいる。京都市伏見区の妙教寺前住職、松井東祥さん(93)。太平洋戦争で九死に一生を得て生還したものの、僧侶でありながら人を殺したジレンマは今も消えることはない―。

 松井さんが赤紙を受け取ったのは、昭和18年。住職になって数年後のことだった。兵役検査では最低の「丙種合格」だったため、当分戦場に行くことはないだろうとタカをくくっていた直後に招集され、中国・太原へ出征した。

 現地では一日中演習に明け暮れた。上官の理不尽な仕打ちにたえうる
うち、「牛や馬のように何も考えられない奴隷になった」という。約1年後、松井さんを含む7~8人が突然上官から呼び出された。「今日は実際の訓練だ」。目の前のナツメの木には中国人の男性が縛り付けられ、1人ずつ銃剣で突き刺すよう命令された。

 「突け」。松井さんの番が来た。「こいつは人間じゃない。でくの坊だ」。そう無理に思い込んで、男性の左胸めがけて突き刺した。上官の命令は絶対で、人を殺すという行為を深く考える余裕はなかった。

P1060093.jpg 昭和21年に帰還したが、喜びもつかの間、僧侶である自分が人を殺したという事実が次第に心に重くのしかるようになった。仏教であらゆる生き物を殺すことを戒める「不殺生戒」。この戒めを僧侶である自分が破ってしまった―。「戦争は人を殺すことだという当たり前のことに、ようやく思い至ったのです」「真の平和は武力によって得られるものではない」「畜生の心は弱きをおどし、強きにおそる」―。松井さんは23年から、そんな巻頭のことばを毎回掲載した季刊紙「洛南の鐘」を執筆、檀家むけに配りはじめた。同時に、説法で自らの戦争体験を包みかくさず話した。

 今年3月。高齢の松井さんに代わって、長男の遠妙さん(58)が仕事を辞め住職を引き継いだ。同時に「洛南の鐘」の執筆もバトンタッチ。「いつの時代も変わらないのが戦争の悲惨さ。父親が命をかけた活動を、私の代で終わらせるわけにはいかない」

 終戦から62年目の今夏、「洛南の鐘」の244号を発行した。平和を願う”灯”もまた親から子へと引き継がれた。

「産経新聞」(07年8月13日)


 ◆戦没学徒・木村久夫の碑

 私は、妙教寺にある弾跡柱の話しは知っていましたが、元住職の戦争体験とそれに基づく活動についてはまったく知りませんでした。昨秋、東軍碑でも見せてもらおうとぷらりと立ち寄った際、たまたま寺前の掲示板にある新聞の切り抜きを読んで、はじめて知ったのでした。そして境内に入って、さらにもう一つの戦争の歴史と向き合わされることになります。それが戦没学徒・木村久夫の歌碑と、それをしのぶ碑です。

 音もなく我より去りしものなれど、書きてしのびにぬ明日という字を 木村久夫

 この碑の横に、元住職の筆によるものと思われる、木村久夫を偲ぶ碑もありました。

木村久夫君は、京都大学に在学中学徒兵に徴集され、終戦後シンガポールにて逃げ去った上官の責任を負わされ、無法にも絞首刑となって若き命を断たれた。昭和二十一年五月二十三日、二十八歳。この歌は刑執行確定後の作である。木村君の遺書全文は「きけわだつみのこえ」に収録されている。 乞必読。

 木村久夫の歌碑は、檀家である木村家によって10年ほど前に建立されたそうです。この巡り合わせにも驚きます。私は、「乞必読」に促されて「きけわだつみのこえ」をひもといてみました。田辺元の『哲学通論』の余白に書かれた遺書。木村久夫が戦争法に照らしても、無実であることは間違いないように思います。それでも彼は遺書でこう書いています。

 私は死刑を宣告された。…略……我ながら一遍の小説をみるような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いてきた。大きな歴史の転換の下には、私のような陰の犠牲がいかにおおくあったかを過去の歴史に照らして知る時、まったく無意味にみえる私の死も、世界歴史の命ずるところと感知するのである。

 日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難とのまっただ中で負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのはまったく当然なのである。今私は世界人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世界人類の怒りがすこしでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を残すことなのである

岩波文庫 新版「きけわだつみのこえ」P444~445)

 月並みですが胸を締め付けられます。戦争の責任をとらなかった上官。無実でありながら「将来の日本に幸福の種を残す」と絞首台の露と散った学徒兵。この関係が、あれから63年を経た今も、なんら変わっていないことを考えると、木村久夫に申し訳ない気持でいっぱいです。

 最後に木村が処刑の前夜に作り、処刑の半時間前に書き終えた歌を紹介して終わります。
 

☆おののきも悲しみもなし絞首台 母の笑顔をいだきていかむ

☆風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし

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2008年01月01日
 ■ 新年あけましておめでとうございます

goraiko.jpg

 昨年は参院選で自民党が大敗するなど、変化の兆しが出てきた年でした。貧困や格差が「自己責任」で語られる風潮から、社会や時代状況に原因を求める文脈が力を持ちつつあります。「生きさせろ」(雨宮処凛)や「希望は戦争」(赤木智弘)など、30代ノンエリート言論人の「自己責任論」への正面戦に大いに共感します。

 私は「ベーシック・インカム」(基本所得:すべての住民に無条件で基本的な生活が出来るお金を支給する)という制度改革に希望を見い出しています。「経済成長―完全雇用―福祉実現」という20世紀のモデルは、もはや、地球の温暖化防止とも、人々の自由さとも相いれません。

 「ほどほどに働き、ほどほどに消費する」。

 個人も地球もその方向に、少しでも舵を切れる年にしたいものです。 本年もよろしくお願いします。

※写真は宇治川土手からの「初日の出」(08/01/01/ 7:20)

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 ■ 年初に考える―再浮上必至の「大連立」問題

 新しい年が明けた。今年の政治動向を考えるにあたって、最初に書いておきたいことがある。昨年の11月のはじめに急浮上して世間を騒がせた「大連立」問題についてである。事態が明るみになって以降、この「大連立」問題について様々な場で賛成・反対の意見が表明された。しかし私は大連立への賛・否を表明できなかった。正直言って「大連立」という事態は想定外であり、評価の枠組み自身を持ち合わせていなかったからだ。

 幸い、一時の興奮の後、「大連立」騒動は沈静化した。しかし、事の性格上「大連立」問題が本格化するの今年行われるであろう総選挙の後である。日本の戦後政治において「大連立」は成立したことがない。多くの人々にとって「政権交代」は体験済みだが「大連立」は未体験だ。その歴史上初めての事態がひょっとしたら今年招来するかも知れない。その時、どのような基準で、どのように評価するか。年頭にあたり、「大連立」評価のフレームワークを考えてみたい。

 ◆メディアがらみで「大連立」構想が推移

 2007年秋の「大連立」騒動はおおよそ次ぎのような経緯であった。

 7月19日 参院選で自民党が大敗。開票前に安倍が「続投宣言」。
 8月16日 『読売新聞』社説「大連立を」掲載。
 9月12日 安倍が「局面を転換する」ために「辞任表明」。
 9月23日 自民総裁選で福田政権誕生が誕生。
 10月30日 福田・小沢党首会談。
 11月2日 福田・小沢党首会談。福田「大連立」打診―小沢「検討」。
 11月2日 民主役員会「大連立拒否」
 11月4日 小沢辞意表明「連立拒否は自分への不信任」
 11月7日 小沢辞意撤回記者会見
 12月22日 「読売」渡辺「大連立は来年再浮上する」

 この騒動は当初、民主党のイメージダウンにつながるかに見えた。民主党の役員会で連立案を拒否され、それを「不信任」と受け取った小沢が「プッツン辞任」し、以後「留意工作」、「辞意撤回」とゴタゴタが続いたからだ。しかし、その後の展開は、防衛利権問題のバクハツもあり、福田内閣と自民党の支持率が低下し、民主党の支持率が向上するという事態になっている。また、この「連立騒動」の仲介を「読売新聞」の渡辺恒雄主筆が行ったことで、報道・メディアと政治の関係が問われ、読売グループと他の報道・メディアとの「論戦」も活発に続けられている。

 私は「大連立」の話しが浮上してきた時、次ぎのような視点で行方を注視していた。それは、「大連立」によってできる政権は現在の自公政権よりも "ましな" 政権になるのか、それとも "より凶悪" な政権になるのか、という視点だ。その時の私の読みは、どう考えても今より悪い政権になることはない、というものだった。なぜなら「自・公」で政権を担うよりも「自・民・(公)」で連立を組む方が、政権内の「不協和音」はより大きくなるはずだからである。そして、政権内部における「不協和音」の増大は、自立的な運動や自立的な政党を形成しようとする側にとっては、 "よりましな" 状況といえるからだ。

 ところが、世論は違った。(注)また、自立的な運動や自立的な政党を志向している人々も、この大連立政権については「反対」が多数派であったように見えた。そこには「大連立」に対する偏った固定観念があるように思う。ひとことで言えば「大連立=大政翼賛会」イメージである。

(注)「大連立」に対する世論(「朝日」11/5)
  ・自民党からの連立提案
    「評価する」36% 「評価しない」48%
     (自公支持層「評価する」50%以上)
     (民・共・社「評価する」10~20%)
  ・民主党の連立拒否
    「評価する」53% 「評価しない」29%
     (民主支持層「評価する」78%)


  ◆「大連立」と「政権交代」は対立するか

 「大連立」は一般的には次ぎの二つの性格をもつ。
(1)国政の危機回、挙国一致的政策の実行のための「大連立」
(2)次期選挙にむけて有利な条件をつくるための「大連立」

 (1)は「読売」渡辺や中曽根など大連立の「張本人」や「仲介者」の立場である。勿論、自民党もそうだと言えるだろう。対して(2)は小沢の位置づけである。

 渡辺が執筆したと言われている07年8月16日の読売新聞「社説」は言う。

 「(衆参逆転によって)…… 国政は長期にわたり混迷が続くことになりかねない。こうしたいわば国政の危機的状況を回避するには、参院の主導権を握る野党第1党の民主党にも『政権責任』を分担してもらうしかないのではないか。つまり『大連立』政権である。自民党は、党利を超えて、民主党に政権参加を呼びかけてみてはどうか」。

 「当面するテロ特措法の期限延長問題も、国会駆け引きを超えた政権内部の協議となれば、互いの主張の調整・妥協もしやすくなるのではないか。……大連立により第2党の存在感が薄れることになるか、政権担当能力への信頼感が厚くなるかは、その政党の努力次第だということである。……秋の臨時国会が自民、民主両党の建前論がぶつかり合うだけの状況になる前に、両党は早急に大連立の可能性を探ってみてはどうか」

 ここでの特徴は、参院での与野党逆転を「国政の危機」と観る異様な政治観である。この政治観から「危機」を「回避」するために「野党第1党の民主党にも『政権責任』を分担してもらう…『大連立』」が構想されている。

 対して小沢の「大連立」構想の中身はどうか。小沢は「大連立」を選択しようとした理由に「参院選で公約した政策の実現」と「政権担当能力を示す」ことを上げた。(民主党両院議員懇談会での発言、07/11/7)。二つとも次ぎの総選挙で民主党が勝利するために必要なものだと言う。
 「大連立」の中で民主党の政策を自民党につきつける。自民党が呑めば、それは民主党の得点にする。反対に自民党が拒否すれば「閣内不一致」を理由に閣外に去り解散・総選挙に持ち込める。その時はある種の国民投票的な選挙になるので、政策によって自民党を包囲できる。これが小沢の「大連立」に賭けた思いだった(に違いない)。

 私は、小沢のような政治理論は在りうると思っている。小沢にとって「大連立」は「政権交代」への裏切りどころか、それを実現するための近道=「一石三鳥」(07年12月28日、衛星放送「BS11」の番組収録での発言)なのだ。この点は、小沢嫌いの私もふくめ、世間はきちんと認識した方がいい。

 しかし、国民の多数派はおろか、民主党の役員会でも小沢の立場は理解されず、支持されることはなかった。それは、小沢が決して「口べたで東北気質」であったからではない。ひとえに「大連立」をもっぱら渡辺流の「危機回避策=自民党延命策」として理解した上で「賛成」したり「反対」する、政党もふくめた市民全体の政治的な熟練度にこそ要因があったと言わざるを得ない。

 ◆「政権交代」の必要性と限界

 民主党は2008年1月の党大会に提出する運動方針の中で、「大連立」騒動への反省を表明し「政権交代」にむけて次期総選挙を全力で取り組むことをうたっている。しかし、次ぎに「大連立」問題が浮上するのはその総選挙の後である。そして、その総選挙は「三善の策」論(「最善」=民主党による単独過半数、「次善」=野党で過半数、「三善」=民主党が第一党=自民との「大連立」あり)を掲げる党首・小沢の下で闘われる。戦後初の「大連立」が成立する可能性は大きいと言うべきだろう。

 では「大連立」に我々はどのように対応すべきか。昨秋「大連立」問題が浮上したとき、広義の左派・自立派は二つの傾向を示したように見える。一つは「大連立」を「政権交代」への裏切りとして批判する立場。もう一つは「大連立」を自民党と民主党の「同質性」の証明だとして、第三極の必要性を強調する立場である。前者は自覚的である否かにかかわらず「民主党」応援団に組み込まれ、後者は間違ってはいないけれど自分達のスタンスの確認にとどまっている。両方とも、自立派・左派のスタンスを生かしながら、積極的に「政権の流動化」にコミットし、社会全体を政治的に活性化させて行くプロセスが示せていない。この点が自立派・左派がこえなくてはならない課題だと思う。

 私の立場はすでに示唆しておいたように、「大連立」が政治の流動化、自由な政治空間を市民社会につくり出す限りにおいて、それを歓迎する、というものである。その限りで小沢の「大連立」イメージに重なる。しかし「政権交代」であれ「大連立」であれ、権力を「打ち出の小槌」のように思い込んでる小沢の権力論とは相いれないものがある。小沢は「大連立」の狙いを聞かれてこう答えている。

 「首相は連立ならば特措法さえ譲ってかまわない、憲法解釈さえ180度転換しても構わないと、そこまで言い切った。農業政策、年金、子育て、高速道路無料化など、我々の目玉政策も呑むかもしれない。画期的なものが民主党の主張で実現できれば、選挙で絶対有利だ。だが、みんなどうせ実現できないと思っていて民主党議員ですらそんな気がある。それは権力を知らないからだ。僕は権力をとれば簡単にできることを知っている」(07/11/16「朝日新聞」)。

 「権力をとれば簡単にできることを知っている」。「革命家」小沢は、別のところでもこの発言を繰り返して、民主党議員のお坊ちゃまぶりを嘆いている。勿論、権力の行使によって初めて可能になる変革の領域があることは確かである。そういう政治と無縁のところで我々の変革があるわけではない。

 しかし「政権交代」は「政策変更」のために必要であるだけはではない。かつて小沢は「政権交代」を時間によって「権力」を区切る「分権」と位置付けたことがある(『日本改造計画』)。そこには政財官の癒着の解体がこめられていた。そのひそみに倣えば「政権交代」は「分権革命」=権力システム解体の一里塚に過ぎない。解体の後に登場すべきは「市場主権」ではなく「地方主権」と「自立的な市民のネットワークで」ある。

 我々は、「地方」と「市民社会」への「分権革命」をすすめるためにこそ、「政権の流動化」をいっそう促進させなければならないのではなかろうか。

【08/01/20 加筆修正】


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