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2008年01月06日

 ■ 妙教寺と三つの戦(いくさ)

 ◆戊辰戦争-いまも柱に残る弾痕

 私が住む京都・伏見は、日本を二分した内戦が勃発した土地です。明治維新に軍事的決着をつけた戊辰戦争は1868年1月2日(いまからちょうど140年前)、ここ鳥羽、伏見からはじまりました。

PC020022.jpg その戦跡は今も地区のいたるところにあります。中でも有名なものが、私の住まいのすぐ近くにある「妙教寺」というお寺の境内にある柱の弾痕です。西軍と東軍が宇治川堤・伏見街道と桂川沿いの鳥羽街道に分かれて激しく撃ち合い、その弾の一発が本堂の壁を突きやぶって飛び込み、内陣の柱を貫通し裏庭にまで転がったといいます。その柱が今でも残っているのです。

 また、戦没兵を偲ぶ「東軍戦死者慰霊碑」もあります。私のすむマンションの横、自治会館前、東軍が進軍した鳥羽街道沿(愛宕茶屋跡)、伏見街道沿いの京都競馬場駐車場入り口など、地区内をちょっと歩くと目にすることができます。勝者(西軍)の戦没者は靖国神社で「英霊」あつかいされていますが、敗者(東軍)のそれは地域の民によってこうしていまでも弔われているのです。でもなぜ、この地に東軍兵の碑はあるのに西軍兵の碑がないのか、本当の理由を私は知りません。

 ◆秀吉を天下人にした「天王山の戦い」

 この地にはもう一つ、歴史を画した大きな戦(いくさ)の跡があります。秀吉と光秀が激突した「天王山」の戦いです。「天王山の戦い」というと、天王山がある山崎が主戦場だったようなニュアンスがありますが、それは秀吉側にとっての話しであり、光秀側は淀城があるこの地を拠点にして戦いました。そして、この中世淀城の掘の脇にあったお寺こそ「妙教寺」なのです。詳しい史料はないようですが、両軍あわせて6600人もの戦死者を出した大戦(おおいくさ)ですから、妙教寺の周りががどんな様子だったか、想像はつくと思います。

 ◆アジア太平洋戦争と妙教寺

 「妙教寺」と「戦(いくさ)」の「縁」は実は、これだけではないのです。というよりも、ここからが今回のエントリーのハイライトです。それは、ここの元住職さんとアジア太平洋戦争にかかわる話しです。わたしの拙い文章より昨年8月に「産経新聞」に掲載された文章の方がずっと感動的ですので、それを全文紹介します。

伝えゆく戦争
破戒の悔いを季刊紙に
京都・妙教寺の「洛南の鐘」

 約60年間にわたって平和を願う季刊紙を発行し続け、戦争体験を語り継いでいる僧侶がいる。京都市伏見区の妙教寺前住職、松井東祥さん(93)。太平洋戦争で九死に一生を得て生還したものの、僧侶でありながら人を殺したジレンマは今も消えることはない―。

 松井さんが赤紙を受け取ったのは、昭和18年。住職になって数年後のことだった。兵役検査では最低の「丙種合格」だったため、当分戦場に行くことはないだろうとタカをくくっていた直後に招集され、中国・太原へ出征した。

 現地では一日中演習に明け暮れた。上官の理不尽な仕打ちにたえうる
うち、「牛や馬のように何も考えられない奴隷になった」という。約1年後、松井さんを含む7~8人が突然上官から呼び出された。「今日は実際の訓練だ」。目の前のナツメの木には中国人の男性が縛り付けられ、1人ずつ銃剣で突き刺すよう命令された。

 「突け」。松井さんの番が来た。「こいつは人間じゃない。でくの坊だ」。そう無理に思い込んで、男性の左胸めがけて突き刺した。上官の命令は絶対で、人を殺すという行為を深く考える余裕はなかった。

P1060093.jpg 昭和21年に帰還したが、喜びもつかの間、僧侶である自分が人を殺したという事実が次第に心に重くのしかるようになった。仏教であらゆる生き物を殺すことを戒める「不殺生戒」。この戒めを僧侶である自分が破ってしまった―。「戦争は人を殺すことだという当たり前のことに、ようやく思い至ったのです」「真の平和は武力によって得られるものではない」「畜生の心は弱きをおどし、強きにおそる」―。松井さんは23年から、そんな巻頭のことばを毎回掲載した季刊紙「洛南の鐘」を執筆、檀家むけに配りはじめた。同時に、説法で自らの戦争体験を包みかくさず話した。

 今年3月。高齢の松井さんに代わって、長男の遠妙さん(58)が仕事を辞め住職を引き継いだ。同時に「洛南の鐘」の執筆もバトンタッチ。「いつの時代も変わらないのが戦争の悲惨さ。父親が命をかけた活動を、私の代で終わらせるわけにはいかない」

 終戦から62年目の今夏、「洛南の鐘」の244号を発行した。平和を願う”灯”もまた親から子へと引き継がれた。

「産経新聞」(07年8月13日)


 ◆戦没学徒・木村久夫の碑

 私は、妙教寺にある弾跡柱の話しは知っていましたが、元住職の戦争体験とそれに基づく活動についてはまったく知りませんでした。昨秋、東軍碑でも見せてもらおうとぷらりと立ち寄った際、たまたま寺前の掲示板にある新聞の切り抜きを読んで、はじめて知ったのでした。そして境内に入って、さらにもう一つの戦争の歴史と向き合わされることになります。それが戦没学徒・木村久夫の歌碑と、それをしのぶ碑です。

 音もなく我より去りしものなれど、書きてしのびにぬ明日という字を 木村久夫

 この碑の横に、元住職の筆によるものと思われる、木村久夫を偲ぶ碑もありました。

木村久夫君は、京都大学に在学中学徒兵に徴集され、終戦後シンガポールにて逃げ去った上官の責任を負わされ、無法にも絞首刑となって若き命を断たれた。昭和二十一年五月二十三日、二十八歳。この歌は刑執行確定後の作である。木村君の遺書全文は「きけわだつみのこえ」に収録されている。 乞必読。

 木村久夫の歌碑は、檀家である木村家によって10年ほど前に建立されたそうです。この巡り合わせにも驚きます。私は、「乞必読」に促されて「きけわだつみのこえ」をひもといてみました。田辺元の『哲学通論』の余白に書かれた遺書。木村久夫が戦争法に照らしても、無実であることは間違いないように思います。それでも彼は遺書でこう書いています。

 私は死刑を宣告された。…略……我ながら一遍の小説をみるような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いてきた。大きな歴史の転換の下には、私のような陰の犠牲がいかにおおくあったかを過去の歴史に照らして知る時、まったく無意味にみえる私の死も、世界歴史の命ずるところと感知するのである。

 日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難とのまっただ中で負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのはまったく当然なのである。今私は世界人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世界人類の怒りがすこしでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を残すことなのである

岩波文庫 新版「きけわだつみのこえ」P444~445)

 月並みですが胸を締め付けられます。戦争の責任をとらなかった上官。無実でありながら「将来の日本に幸福の種を残す」と絞首台の露と散った学徒兵。この関係が、あれから63年を経た今も、なんら変わっていないことを考えると、木村久夫に申し訳ない気持でいっぱいです。

 最後に木村が処刑の前夜に作り、処刑の半時間前に書き終えた歌を紹介して終わります。
 

☆おののきも悲しみもなし絞首台 母の笑顔をいだきていかむ

☆風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし

投稿者 mamoru : 2008年01月06日 18:27

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