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2008年07月22日
 ■ 職場占拠で「破産」「解雇」と闘う大美堂労組を訪ねて

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 京都に西京極というところがあります。阪急電車の「西京極駅」を降りると、全国高校駅伝や都道府県対抗女子駅伝のスタート=ゴール地点として知られる西京極陸上競技場があります。そこは同時にJリーク・京都サンガの本拠地でもあります。隣には西京極野球場もあり、関西六大学や高校野球のメッカとなっています。

 この一群のスポーツ施設から東に10分ほど歩いたところに、京都の中堅印刷会社=(株)大美堂印刷社の社屋・工場があります。先月27日、突然、社長が「事業閉鎖=破産」を宣言をし、約60名ほどの社員全員を「解雇」しました。前日には、労働組合の夏の一時要求に対して「7月7日に回答する」と答えたばかりですから、まさにだまし討ち的な「事業閉鎖=破産」といえます。
 この一方的な社長の蛮行に対して、大美堂労働組合(従業員の約半数を組織)は、即日「全員解雇・事業廃止を許さない」という要求を掲げ、会社社屋への泊まり込み・職場占拠をはじめました。闘争はもうじき一ヶ月を経過しようとしています。

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 7月22日、気温が37.4Cもあったこの日、西京極球場の高校野球「準決勝」を観戦したその足で、大美堂労組を訪ねました。新築マンションの群に埋もれるように大美堂印刷はありました。工場の門は、閉鎖されていました。蛇腹の門扉には争議を支援する組合の赤旗が林立しています。労働組合に電話をするとすぐに開門にきてくれました。頭に赤いはちまきを絞めた委員長じきじきのお出ましでした。
 とはいえ、ここの委員長の奥田さんとは、もうずいぶん以前からの知り合いです。かれこれ35年になるでしょうか。まったく裏表のない人で、職場でも地域でも信頼されています。その昔、私も含め8名の同僚で、会社の御用組合に対抗して少数組合を立ち上げ、それを理由に組合員全員が解雇された争議でも、無心で支援をしていただきました。今度は、私(たち)が、支援する番です。

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 奥田さんから、工場の中を詳しく案内していただきました。印刷機の種類、工程の流れ、どの機械が新しく、どの機械が古いか、などなど。印刷の知識はありませんが、奥田さんが、いかにこの仕事・職場を愛しているか、伝わってきました。応対は、奥田さんの他に、版下工程を30年以上やってきた人、輪転機を18年間回してきた人。版下の仕事は、コンピュターからのダイレクト印刷の普及で、急速に無くなってきた、こと。輪転機も、忙しい時の半分以下に仕事が減っていたこと、など話してくださいました。

 印刷業界というと斜陽産業というイメージがあります。大美堂印刷も売り上げが全盛期の三分一にまで落ち込む中、債務が9億円になりました。しかし、話しの中ではじめて知ったことですが、大美堂印刷は王子製紙とタイアップしてユポ印刷を最初にはじめた印刷会社なのでした。ユポ印刷とは樹皮への印刷のことで、選挙用のポスターの多くは10年ほど前から、紙からユポに変わりました。昨年の統一地方選挙でも、大美堂では政党をこえて、450名ほどの候補者のポスターを印刷したそうです。

 その意味では、経営は厳しいが、技術力は先端を行っている、という自負が働いている人にはあります。それが、今日の事態になったのは、ひとへに、ベテラン営業職を大幅にリストラするという方向違いの「改革」以外に、なんら事態打開の手をうたなかった中路社長の無責任さにある、との意見で労働者は一致します。だからこんな無責任な「破産」「全員解雇」は絶対に認めることはできない、と。

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 意気軒昂に闘い続ける大美堂労働組合。しかし事業に不可欠な紙・インクなど原料の値上げは続き、中小・零細の印刷会社の倒産が増えていることも事実です。加えて、組合員にも、年老いた親の介護など、日々の生活があります。これを機会に新しい生活を始めたい、と思ったとしても、誰も責めることはできないでしょう。

 闘争が長期になることは必至です。非正規雇用の若者によるユニオン運動が広がる中、30年、40年働いてきた大人の労働者が、気まぐれな無責任経営者に、きちんとした責任をとらせること。困難ではあれ、それを実現することは、地域の多くの労働者の共有の財産となるでしょう。

 「行動があったら知らせて下さい。駆けつけますから」。門まで送ってくれた奥田委員長にこう約束して、赤旗が翻る大美堂印刷を後にしました。



大美堂労働者は全員解雇・事業廃止を許さない!

大美堂労働組合


■突然の解雇通告と多額の未払い賃金

 6月27日、夕方、中路社長から突然、社員全員に集合するよう指示がありました。
 何事かと全員が集合したところ社長が「もうしわけありません、会社を閉鎖する、あとは代理人の南弁護士にまかせる」とだけ発言し、それ以降は会社側代理人の南弁護士が「退職金はいつ、いくら払えるかわあらない、私物をまとめて30分後に退出してくれ」と一方的に言い渡しました。代理人がしゃべっている間に社長はいつのまにかいなくなっていました。
 大美堂に30年、40年働いて労働者もいるのに、満足な謝罪や説明もなく紙切れ一枚で解雇されたのです。
 その後、社長は雲隠れし連絡がとれません。それどころか破産申請の申し立てを早急におこない。私たちの反対の声を無視して事業廃止を強行しようとしています。

■社長は謝罪し団体交渉に出席せよ

 多くの労働者が大美堂労組に参加し、不当解雇撤回と事業継続にむけ戦う決意をかためています。6月27日から組合員は会社に泊まり込み労働債権確保の戦いを開始しています。
 私達、大美堂労組は不当解雇撤回と事業継続にむけ全力で戦う決意です。私達の闘いにご理解とご支援をお願いします。


●連絡先 080-3835-1590
●京都市右京区西京極豆田町7
●カンパ振込先 ゆうちょ銀行

 記号14440 番号17722201 奥田雅雄


ブログ★大美堂労組を支援するつどい
中西印刷労働組合の有志の方々が、メーリングリストとリンクしたブログで、闘争の様子を報告しています。ごらんください。

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 ■ 教員採用は「くじ引き」で

 大分県の「教員採用汚職」が大きな問題になっています。他の府県でも似たような状況であることが徐々に明らかになりつつあります。しかし、いったいこの事件、何が問題なのでしょう。

 教員という地位を手にいれるために「お金」が動いていた、というとことが一つ。それに「コネ」というもの問題です。でも「コネ」は、「自治体は民間を見習え」という橋下・大阪府知事流に言えば、「民間」のほうこそ先進です。採用に際して「コネ」が第一で「成績」は第二の世界です。教育の世界でも私立高校の教員の多くは「コネ」と「口利き」で採用されます。大学の教員も然り、ですよね。

 で、結局、今回の問題で、最後に残るのは「金で教員の地位を買うのが悪い」ということになります。では、どう「改革」したらいいのでしょう。多くの人々は、教員採用は試験の「成績順」にすべきだ、と思っていることでしょう。はたして、それでいいのでしょうか。

 教員採用の要件に、試験の成績「以外」の要素を入れることは、別に悪い話しではありません。それはすでに行われています。文科省や教育再生会議が奨励する「社会人教員」制度がそれです。これは教員免許を持っていない社会人を「特別枠」で教員にしようというもので、将来的には教員の2割にまで増やそうという話しです。採用に際して、ここでは「成績順」は適用されません。

 この「社会人教員」と比べれば、今回、「不正採用」された「教員」は、少なくとも教員免許を取得している人たちです。ですから「教員としての資質」は問題ないはずです。もし、問題があるとするならば、それは教員免許を与えるシステムのほうにある、ということになります。

 一方、「成績」以外の要素として「お金」と「コネ」が強い力を発揮するというのも、困ったものです。なぜなら、それは著しく公平性・機会の平等に反するからです。そこで人々は、反射的に「成績順に採用するのが一番公平だ」と思ってしまうわけですが、私は、その考えを採りません。

 むしろ、成績順による採用は「成績」に表れる階層的な有利、不利の「不公平」を不問するのでより悪質だと思っています。現ナマで露骨に地位を買うのはダメだが、所持する「文化資本」で「成績」を「買い」その「成績」で教員という地位を手に入れるのは「公平」だ、などと言えるはずがありません。

 私は、本当に教員採用に際して公平性を担保したいのであれば、くじ引きで決めるのが一番だと思います。「コネ」「金」はもちろんのこと「成績順」よりも偏りのない採用になるに違いありません。
 公立学校の教員採用をくじ引きで決めて、なにか不都合なことがあるでしょうか。

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2008年07月14日
 ■ 書評 『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』(湯浅誠・岩波新書)

 この書評は、季刊『ピープルズ・プラン』誌の43号に掲載するために書いたものです。



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 読んでいて胸にズキンとくる部分があった。痴呆の母親を自分の手であやめ、自らも自殺をはかって一命を取り留めた京都府の男性(当時 五四)の事件を紹介した部分である。男性は母の介護のために仕事を辞め、失業給付も底を突き、生活保護申請も断られ、住んでいたアパートの家賃も払えなくなり、最後の選択として「愛する母をあやめ」自らも死のうとした。底冷えが一段と厳しい京都の冬の夜のことである。
 介護の困難を要因にした殺人事件は近年増えているが、私が、本書のこの部分を重苦しい思いで読んだのは、実はこの事件は、私が住む町内で起こったことだからだ。男性と母親が暮らしていたアパートの前の道はよく通っていた。事件の現場となった河川敷のサイクルロードもよく利用していた。しかし同じ町内に住みながら、私にはこの親子の貧困は「見えて」いなかった。私に出来たことは、ただ事件の後、現場で手を合わせることだけだった。
 本書の中で著者は、日本は貧困問題(解決)のスタートラインにすら立っていない、と繰り返している。著者のこの厳しい認識は、私の町内で起こった悲劇を、自治会(町内会)も福祉協議会も事前にフォローできていなかったことを考えると、現実と合致していると言わざるをえない。
 本書は、三層(雇用・社会保障・公的扶助)に張られたセフティネットの破れ目からまるで「すべり台」を滑り降りるように「落下していく人びと」と日々接している著者が、「その人たちの視点から物事を捉え直し」「そこからしか見えてこないもの」を貧困が「見えない」人々に提供しようという試みである。
 新書版でありながら事例、データ、書籍紹介など豊富で、さらに著者の温かな人間学にも随所で接することができる。これから共に貧困問題解決のスタートラインに立とうとする者にとっては絶好のインデックスとなっている。

 自前の論理で「貧困」を可視化

 前著の『貧困襲来』もそうだったが、著者のオリジナリティは、既成の言葉にたよって現実を批判する立場に甘んじることなく、現実との格闘の中から現実を暴くために必要な言葉と論理を自前で作りだしているところにある。その立場は本書でも貫かれている。
 例えば「五重の排除」。この聞き慣れない言葉は、貧困を自己責任で語る立場に対するアンチから作られた言葉で、貧困の背景には、(1)教育過程からの排除(2)企業福祉からの排除(3)家族福祉からの排除(4)公的福祉から排除、そして(5)自分自身からの排除がある、とする論理である。
 これまでも(1)~(4)は教育の機会不平等やセフティーネットの機能不全として指摘されてきた。しかし(5)の「自分自身からの排除」とは何か。これは著者のオリジナルの言葉である。それは、貧困は「あなたのせい」という世間の自己責任の論理を内面化して「自分のせい」と思い込んでしまう状態をさす。その場合「人は自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態にまで追い込まれ」、さらに「自分の不甲斐なさと社会への憤怒がみずからの内に沈殿し、やがては暴発する」。貧困者と日々接している者ならではの眼力である。残念ながらこの鋭い観察は当たってしまった。
 貧困の現実を可視化する自前の言葉と論理はそれだけではない。〝溜め〟もまた貧困者とその境遇を理解するためのキーワードである。いや、著者にとっては〝溜め〟の有る無しは「貧困」と「貧乏」を区別するキーワード中のキーワードですらある。
 では〝溜め〟とは何か。本書によれば〝溜め〟とは「溜池」の「溜め」のことである。大きな溜池があれば日照りでも慌てることはなく作物を育てられるが、小さいな溜池だと作物を枯らしてしまう。ようするに〝溜め〟は外からの衝撃を緩衝し、さらにそこからエネルギーを汲み出すことができるものである。
 人間という作物にとっても成長するためには〝溜め〟は必要だ。先ずはお金という〝溜め〟だ。しかし、それだけではない。人間関係の〝溜め〟も大切である。家族、親族、友人など。さらに精神的な〝溜め〟も必要だろう。「やればできるさ」という精神的な自信、ゆとりがそれである。貧困とはこれらが総体として剥奪されている状態で、単にお金が無い状態を示す「貧乏」と「貧困」の違いはここにある、というのが著者の立場だ。

  あいまいな「強い社会」

 まだ貧困問題も格差問題もポピュラーな問題ではなかった時代から、それが社会的に必要であるとの信念から、野宿者の自立支援活動を積み重ねてきた著者は、「すべり台社会」から脱出した将来社会像について、決して大風呂敷を広げない。「大きな話しを引き寄せるのは、個々の小さな活動である」との信念からだ。そこには著者の誠実さが見える。そして、自ら「たすけあいネット」を作り出しつつ、同時に「公(おおやけ)」に異議申し立てをする。その二つが交わる地点を包括して「つよい社会」と位置付ける。しかし、この言葉は、今一こなれていない印象をもつ。
 「つよい社会」とは、人々に〝溜め〟が保障された社会である。それにより前向きな努力の意欲が生まれ、潜在能力が発揮できるようになる。要するにそれは、新自由主義や「第三の道」が理想に掲げながら、実現することに失敗した「活力ある競争社会」を市民の主導で実現しようということなのか。それとも、〝溜め〟の有る無しに関わらず、あるいは〝溜め〟や前向きな努力に背をむける者であっても、無条件に生存が保障される社会のことなのか。
 こうした議論は著者の好むところではないかも知れない。「今はスタートラインに立つことが先決で、目的地を論ずる時ではない」と叱られそうである。しかし、目的地が明らかになることによって、逆にスタートラインが鮮明になることがあるかも知れない。ひょっとしたらもう勝手にスタートを切っている走者がいることも。


湯浅誠著 『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』
発行:岩波書店
2008年4月
定価 740円+税

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