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2009年12月27日
 ■ さようなら まる!

  19年間一緒にくらしてきたネコのまるが、2009年12月19日に逝きました。前日からの急激な冷え込みが、小さな命に残された最期のエネ ルギーを奪い去ったようです。旅立つ間際の一ヶ月間、必死に生き続けようとしたあなたの姿を、私たちは決して忘れません。ありがとうまる。そしてさようなら。

 貴重なインターネットリソースを無駄に使いたくはないのですが、まるが生きた証を刻印したくて You-Tubeにアップしました。また、いまは社会人となった娘が、中学3年の時に書いたまるについての文章を、本人の了承を得て紹介することにしました。


 

1990年の12月、ペットショップで生後5ケ月のまるちゃんを買った。今、思うとまるちゃんをお金で買ったことに対して申し訳ない気がするけど、まるちゃんを飼って本当に良かった。
 二匹の仔猫が入ったカゴが、お客さんに一番よく見える場所に置いてあった。どうやらこの二匹は売れ残ったらしい。だって、ペットショップの仔猫にしては少しばかり成長していた。二匹のうちの一匹はとても元気よく、カゴの間から入ってくるお客さんの指に精一杯じゃれついていた。それはそれは愛嬌があって、お客さんの人気ものだった。
 それにくらべもう一匹の方は、まるまったまま全然動かない。寝ているのかな。顔をのぞこうとしても、その猫はまっ黒黒でどこが顔なのかわからない。そしてよく見れば寝ている所は、なんと猫用の砂トイレ。汚い。

 まるっきり正反対の二匹だった。誰もが愛嬌のいい猫を欲しがるだろうな。でも、わたしは、そのまっ黒黒の方を買った。どうしてかというと愛嬌のいいほうの猫を買うつもりで母が値札を指して「その猫だかせて下さい」と言ったら、お店の人がトイレからひょいとまっ黒黒の猫を持ち上げ、母にあずけた。母が指したのはまっ黒黒の猫の方だった。間違えたのだ。でも、抱いてみるとこれがかわいくてかわいくてたまらない。そこで、すぐにこのまっ黒黒の猫の方を買うことになったのだ。

 名前はすぐに決まった。母が「『まる』にしたら?」と言った。わたしは大賛成だ。ペルシャというふかふかの毛の長い猫で "まるちゃん" という感じがした。そのころ丁度テレビで「ちびまるこちゃん」が流行っていて、これはまるちゃんしかない、と思ったのだ。なんと言っても呼びやすかった。 家族みんな、その時々によって色々な呼び方をする。「まる」「まるちゃん」「おまるちゃん」「まるさん」「まるにゃん」「まるすけ」…。でも一番多いのは「まるちゃん」と「まるさん」かな。

 ペルシャ猫という上品な性格からか、まるちゃんはとても「お嬢さん」と言った感じである。まず、鳴き方がとてもかわいらしい。あまったるい声を出して大きい黄色い目をじっとこちらに向けて、「にゃあん、にゃあん」と鳴く。食べ物をねだる時なんかは、しっぽをピンと立てて体をくねらせて足にまとわりついてくる。これは本当にかわいらしい。この誘惑にまけてついついカツオブシをあげてしまう。仔猫のころからずっとこのあまったるい声は変わっておらず、いまでも「にゃあん、にゃあん」言っている。もう猫にしたらかなりのおばさんなのに。
 そして食事はおいしくない缶詰とカリカリだと絶対食べないし、お皿に入れて時間が経ったものも絶対食べない。どうしても食べない時は、わたしがお皿から手でつまんでまるちゃんの口に運んでやるのだ。なんとわがままで上品な食べ方だろう。
 こんな「お嬢さん」ぶりを発揮しているまるちゃんにでも、やっぱり猫の本能というのがあり、狩をする。姿勢を低くしてお尻と後ろ足をモゾモソさせ、目をまんまるくしたら狙いを定めて、バッと飛びつく。この姿は何度見ても美しい。狭い空間で飼われ、誰も狩りを教えてないのに、ちゃんと猫の本能というのがあるんだなといつも思う。
 夏なんかは、ベランダにとまっているセミを何匹もとってくる。そのたびにわたしがセミを逃がしてやるのだ。時には、部屋にバラバラになったトンボの死骸がある。どうやらまるちゃんは、捕まえたトンボを食べたらしい。これにはびっくりした。

 まるちゃんは、二回大きな手術をしたことがある。一回目の手術はまるちゃんの人生の中で一番の大事件だった。
 父が家の前にワゴン車を停めていた。ワゴン車の上は荷物が載せられるようになっていて、猫ならじゅうぶん一匹乗れた。そのころのまるちゃんは一番遊びたい盛りだったので家の窓からそこに飛び乗っては、母が家の中に連れ戻すということが朝から繰り返されていた。父がワゴン車で出かける時、まるちゃんは知らないうちにまた車の上に乗っていて、父はそれに気付かないで、そのまま車で出かけてしまった。ここからの話しは父しか知らない。
 父が京都駅近くの大通りの信号で止まってふと運転席から横を見ると黒い猫が一匹車道にいた。「あれ、あの猫タクシーに轢かれるわ。かわいそうやな」とボンヤリ眺めていたが、突然「あっ、あれは、まるとちゃうか!」と思い、車から降りて、自動車が行き交う道路でうずくまるその猫を抱えて車に入れた。その猫はやっぱり、まるちゃんだった。
 父がもし、そこの信号で車を止めなかったら…、もし横を見なかったら…、もしまるちゃんを落っことしたまま発車していたら…、まるちゃんは、いまは、この世にいなかっただろう。たとえ生きていたとしても、もう一生会えなかっただろうな。

 そのあと父は、仕事が終わるまでまるちゃんを三条のおじいちゃんのところに預けに行った。その日は夏休みで、小学生の兄とわたしは、おじいちゃんの家に預けられていた。まるちゃんは初めての場所なのに騒ぐこともなく、まるまったままじっとしていた。様子がおかしいと思い、まるちゃんのからだを調べたらケガをしていた。車から落ちた時、何かで切ったらしい。外からは見えにくい左後ろ足の内側がぱっくり開いていた。肉はもちろん骨まで見えていた。本当はすっごく痛いはずなのにまるちゃんはじっとガマンしていた。(後で知ったけど猫は辛抱強い動物らしい)。
 それからすぐに病院に行き、まるちゃんは初めての手術をして、一週間ほど入院した。命に別状はなかったが、このケガのせいでまるちゃんの左後ろ足は、ほんの少しだけだけど伸びにくくなった。まるちゃんは自分があんなめにあったことを今でもちゃんと覚えているのかな。

 二回目の手術は避妊のための手術だった。まるちゃんは室内猫だから他の猫との接触はなく、発情期になっても相手のオスがいない。たとえオスがいて仔猫が生まれたとしても、その仔猫を育てるのはむずかしい。人間のわがままかも知れないが、避妊手術をした。
 仕方がないとわかっていても、ずっといままで続いてきた血のつながりをまるちゃんの代で絶ち切ること、メスのまるちゃんは一生、恋も子育ても知らずに死んでゆくんだと思うと、まるちゃんにとってはやはり残酷なことだった。
 手術を終えて病院から帰ってきたまるちゃんは、胴体を包帯でグルグルまきにされて(これがまた可愛くもあったが)、麻酔のせいでフラフラしていた。まるちゃん、手術ごくろうさまでした。

 今現在、わたしは15歳でまるちゃんは8歳だ。つまりわたしの人生の半分以上がまるちゃんと共にある。共働きの両親の代わりに、いつも家でまるちゃんはわたしを待っていてくれた。一人で泣いている時、いつもまるちゃんは「泣かんといて」と言わんばかりに、わたしの所に来てくれた。さびしい時、悲しい時、いつもまるちゃんがそばにいてくれた。まるちゃんとの出会いがあったからこそ、今のわたしがあるのだと自分では思う。おおげさかも知れないけど、わたしにとってのまるちゃんの存在は、それぐらい大きいものだ。
 わたしの最愛なるまるちゃん、ゆっくりゆっくり歳をとって、うんと長生きしてね。そして、いつまでもわたしのそばで「にゃあん、にゃあん」と鳴いていてね。
 いままでありがとう。そしてこれからもよろしく。

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2009年12月13日
 ■ 青木雅彦著作 出版賛同金のよびかけ

 「今年」、大切な友人を失いました。反戦ドタバタ会議のメンバーで、自衛官人権ホットラインの事務局を共になってきた青木雅彦さんです。 「今年」にカッコを付けたのは、亡くなったのは本当は去年の三月のことで、それを私(たち)が知ったのが、2009年の正月が明けたころだからです。正直言うと、彼が亡くなったとこともさることながら、それを一年以上も知らなかったことに、ショックをうけました。
 4月に友人らと小さな、しかし、心のこもった「偲ぶ会」を催しました。その参加者を中心に、青木雅彦さんの著作を本として残す事業が動き出しています。私もその動きの末席にすわらせていただいています。このエントリーを読まれた方で、青木雅彦さんを知っている人がいましたら、ぜひ賛同カンパをお願いします。


 

        青木雅彦著作 出版賛同金のよびかけ


 2008 年3 月、52 歳で他界した青木雅彦さんは、学生時代から反軍・反戦活動を志し、以来その博識と語学力を下敷きに独自の鋭い分析を加えた多くの文章を発表してきました。米・英の資料や防衛省の文献も視野に収め、その背景を合わせて読み解いたそれらの文章は、日本の平和運動に大きな貢献をなしました。

 青木さんは実質的な果実をもぎ採るための「実現主義」を掲げ、1991 年には軍事費半減への具体的道筋を描いた「ハーフオプション」を世に問いました。既成運動体の限界を越えようとするこの提言は大きな反響をよぶところとなります。

 その前後も、雑誌への寄稿、講演、インターネットを通じての発信にとどまらず、運動体の立ち上げや現地での抗議行動など、揺るぎない立ち位置からの活動を貫いてきました。

 私たちは、彼の真摯な生の足跡と知の業績を広く知っていただきたく、厳選した文章から成る一本(略歴・年譜、解説付300 頁)を編むことを思い立ちました。現在作業の途上にあります。

 ここに出版賛同金のよびかけをさせていただく次第です。

2009 年12 月

青木雅彦著作 出版委員会

   足立修行(代表) 湯浅一郎 和田喜太郎 高橋幸子 中井邦彦 落合祥堯
   三室勇 太田修 近藤雅雄 大塚岳史 五十嵐守(順不同)


                            記


 1、出版賛同金1口=5,000円
   *1口につき完成本3冊を贈呈します。複数口賛同いただければ幸いです。

 2、郵便振替口座 00940-3-272182 青木雅彦著作出版委員会
   *同封の振替用紙をご利用ください

 3、出版の内容
   □題名『ハーフオプション軍事費を半分に―市民からの提言』(仮題)
   □規格A4版約300頁*詳しい目次は裏面参照
   □予定価格2,100円(税込み)
   □出版社草莽社(京都市)
   □出版期日2010年3月予定
 4、連絡先
   宇治市木幡熊小路38-9 ユニ宇治川5-709 足立修行気付
   TEL/FAX 0774-33-0851

『ハーフオプション軍事費を半分に―市民からの提言』(仮題)
  青木雅彦著作           (目次予定)


 1章 ハーフオプション―市民からの軍縮提言―

   HALF OPTIONて何や(1991年)
   HALF OPTION 具体案編(1991年)
   HALF OPTION 運動編(1991年)
   HALF OPTION 実践編(1991年)
   この激動の時代に腐敗した政治家に「軍縮」を任せておけるか(1992年)
   軍事「貢献」と「何もしない」との間に選択肢は無いのか?
    ―「実現主義」の思想と行動を(1992年)

 2章 「実現主義」―「現実主義」からの脱却

   知られざる「某重大事件」―ガイドライン制定から十年がたった(1998年)
   アンポは「終わった」―90年代は民衆のポスト安保構想を創りだせ(1990年)
   ソ連艦隊消滅?ああなつかしい「ソ連の脅威」いまいずこ? (1993年)
   封じ込めから大規模地域紛争対処へ―米新戦略を公表(1993年)
   軍縮オンブズマンの設置を(1994年)
   市民不在の防衛政策を問う―「防衛計画の大綱」とは何か(1994年)
   NPTと非核法を考える―ヒロシマ・ナガサキから五〇年目に(1994年)
   「安全保障」費用の分配を問う(1995年)
   市民が声を上げなければ軍事費は減らない(1995年)
   地位協定の問題を具体的に考える(1995年)
   「代替兵器」を求める軍産癒着複合体(1998年)
   イタリア低空飛行事故でパイロットに無罪判決―日本でも墜落事故続発(1999年)

3章 時代を読み解く

   北京での血の弾圧に語られなかったもう一つの戦争―治安弾圧を考える(1999年)
   『朝雲』から見る自衛隊(1994年)
   「壮大な愚考」を再考する(1995年)
   中仏の核実験の考察―その心理と論理― (1995年)
   「周辺事態」を先取りした環太平洋合同演習―リムパック98 (1998年)
   新ガイドライン~周辺事態法に至る歩み(1999年)
   如何にして「周辺事態」は「武力攻撃事態」と一体化するか(2002年)
   ふたつの9.11 Before & After ―日本の何が変わったのか、変わるのか(2005年)

4章 青木雅彦の眼光

   戦争とタバコ(1989年)
   天皇死去にあたっての特別声明(1989年)
   意見陳述書「大うそ」の歴史(1992年)
   今月の言葉
    徳富蘆花(1990年)
    トルストイ(1990年)
    与謝野晶子(1990年)
    マーク・トゥエイン(1991年)
   書評
    『隠された核事故』(1989年)
    『レイド・オン・トーキョー』(1992年)
    『情報公開法でとらえた在日米軍』(1993年)
    『ゴーマニズム宣言』(1993年)
    『民間防衛』(1995年)
    『TIME ALMANAC 1995』(1995年)

   悪魔の辞典(1992~1996年)


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2009年12月11日
 ■ COP15に期待せず!「技術革新+排出権市場」ではCO2半減はできない!

 COP15がコペンハーゲンで開かれています。温暖化問題でがんばっている人には申し訳ないですが、私は、COP15にまったく期待していません。というのは、私は、「温暖化防止」については「懐疑論者」だからです。

 いやいや、地球温暖化を否定したり人為説を否定したりする「懐疑論者」ではありません。そもそもそういうレベルでの科学的な知見はありません。しかし素人は素人なりに日常的な感覚に基づいて気候問題をながめてみると、G8や締約国が全世界に約束している「2050年=半減」「気温上昇を2度未満に抑える」は、「コリャ無理だな」と「懐疑的」に思わざるを得ないのです。

 なぜなら、COP15に集う者の半分は、そもそも温暖化を真剣に防止しようという気持がないように見えます。アメリカや日本の半分(財界)がそうです。また、温暖化防止を真剣に考えているように思えるもう半分の人たちも、やり方がまったく間違っているように見えます。

 温暖化対策を真剣に考えている人たちの多くは「環境技術のイノベーション+排出権市場」という組合せで、温室効果ガス(主にCO2)の削減を構想しているようです(グリーン・ニューディール)。

 2050年段階、2020年段階で「必要とされるサービス需要」にこたえるエネルギーを賄いながら、なおかつ、CO2の排出を半減するそうです。ということはエネルギー効率を少なくとも二倍以上にする、ということです。現在の日本の技術イノベーションの進歩度は年1%だそうで(イギリスは3%)40年で2倍化は無理です。

 このことは技術・コスト分野の現場にいる人が一番よくわかっていることでしょう。だから、技術イノベーションを削減の中心にすえて2050年=半減、2020年=25%削減をめざす目標に対して、「乾いたタオルをさらに絞れというのか!」という企業・財界から声が出るのは根拠のあることだと言わざるをえません。

 これに排出権市場がからんでくると、さらに奇怪なことが起こります。排出権市場は技術イノベーションに「投資」することが究極の姿となります。ここでは実際に技術イノベーションが「進む」かどうかは問題ではありません。サブプライムローンと同じで「進む」と投資家が判断するかどうか(判断させるかどうか)が問題なのです。「可能性」を買ったり売ったりする世界です。実際に技術が進歩するかどうかは二の次、さらに、実際にCO2が削減されるかどうかは三の次の世界です。

 COP15に集う国家の代表者たちは、半分は削減を本気で考えていない人たち、半分は「技術と市場」の神話に取り付かれた人たち。こんなひとたちに「地球の未来」を託せるのでしょうか。

 私たちは本当に2050年=半減、気温上昇2度未満を実現するために「技術+市場(マネー)」を主体とする削減方法の迷路から抜けだし、「人+自然」を主体とした削減方法に踏み出さなければなりません。

 そこでは「気候正義」を全体の原則とします。

(1)多く排出する者により重い負担と責任を。日本では電力と鉄鋼で4割の排出ですから、半分ちかい責任と負担を負ってもらいます。南の島を救う責任は彼らにあります。

(2)「必要とされる総需要」を仕分けして抑制します。炭素税はその一つです。エネルギーの大量消費が「幸福度」と結びつく時代は終わりました。限定された中での充実した生活こそが「幸福度」を増す「好都合な真実」の時代が到来しています。

(3)市場の直接規制。企業もふくめ社会全体に「排出きっぷ」を割り当て、それを超えた者には課徴金です。暗い時代?いえいえ生産を縮小すると自由時間は増え自然や農業への入り口が増えます。生産縮小で企業が倒産することを想定して、ベーシンクインカムを導入しましょう。
 「キャップ&トレード」は国内のみ。国際市場は認めません。「炭素」をマネーゲームの対象にはさせません。

 温暖化懐疑論者にたいして、その批判者が使う論理に「予防原則」「予防措置」があります。「重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れがあるところでは、十分な科学的確実性がないことを、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を引き伸ばす理由にしてはならない」という考え方です。

 「技術+市場(マネー)」だのみの温暖化対策は、「予防原則」「予防措置」の原則に反します。いまから40年、一生懸命「技術革新」に励んだけれども、結果として間に合わなかった、ということは大いにありうるのです。その時、多くの島々は沈んでいます。日本の農業も打撃をうけているでしょう。日本の沿岸の都市の多くも甚大な被害をうけているはずです。

 そういう不確定な「予防策」=削減策に、私たちの未来を託することはできません。ここは確実に予防できる政策を選択すべきです。「技術+市場(マネー)」による温暖化防止策を放棄して、「気候正義」の原則にもとづいた上記施策を実施することです。それは経済の縮小、脱成長の道を選択することと重なります。いま、私たちが鳩山政権やCOP15に突きつける要求はそれ以外にはありません。
 COP15には期待しないけど、会場を包囲している人々と共に手を携えて未来を作り出したいと熱く思います。

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