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2010年01月24日
 ■ <書評>『生活保障―排除しない社会へ』(宮本太郎・岩波新書)/ 労働中心社会は息苦しくないか

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 本書のタイトルとなっている「生活保障」という言葉は平易ではあるがなじみのあるものではない。著者はこれを「雇用と社会保障を結び付ける言葉」として使う。その生活保障が大きく揺さぶられるようになって久しい。様々な処方箋が語られるが、本書の特徴は、新たな生活保障の再生ビジョンを「アクティベーション型生活保障」として提唱するところにある。

 では「アクティベーション」とは何か。それは社会保障を就労促進につなげる社会政策のことである。一般にそれらの政策は「ワークフェア」と呼ばれるが、福祉受給者を就労に駆り立てる面が強いアメリカのそれと区別して、デンマークやスウェーデンの就労支援サービスを「アクティベーション」と呼んでいる。つまり「自助のための公助」である。

 本書が紹介する「スウェーデン型生活保障」から学ぶべき点は多い。社会保障・サービスで雇用を支えて人々の多用な選択を保障している。

 例えば「働きながら学ぶ」ことへの支援。よく知られるのが高い生産性部門に異動するためのスキルアップのための職業訓練サービスであるが、それだけに留まらない。「コンブクス」と呼ばれる自治体が提供する生涯教育サービスがある。働く若年層であれば多くて週に7500円ほどの「学習手当」が給付される。25歳以上だと更に週に5000円ほどが「追加貸与」される。また働く大人には「教育休暇制度」があり、学ぶための休職が保障されている。「雇用保障と社会保障の連携によって、人々が働く場に参入し、あるいは離脱するチャンスを拡大した」のである。

 さらに、社会保障が家族との結びつき、広くは著者が重視する「生きる場」を充実させることに役立っている。480日の育児休暇制度(内390日は従前の所得の八割保障)。結果として一歳未満乳児の公認保育サービスの利用率はゼロ%だという(日本7%)。

 あるいは「近親者介護手当」(看取り休暇)。家族か否かを問わず「人生でかけがえのない人が重篤の時」最長60日間の休暇が取得できる(その内45日間は従前の所得の約八割が保障される)。
 日本ではかけ声だけの「ワークライフバランス」がスウェーデンでは確かに実践されている。

 本書は、こうしたスウェーデンの生活保障の紹介の上に、後半部分で、日本における雇用と社会保障の「連携の新しいかたち」「排除しない社会(交差点型社会)」のビジョンを提起している。労働市場の規制を伴う生涯教育、労働の見返りを高める最低賃金アップ、安定した仕事のワークシュアリングなどの政策群は新自由主義とは明らかに違う。また「第六次産業」の育成などによる雇用の創出を目指す方向は「第三の道」を超えている。とりわけ著者が「交差点型社会」と呼ぶ労働市場と外部を自由に往来可能とする制度は、多用なライフサイクルの可能性を感じさせる。

*  *   *
 
 だが、こうした「アクティベーション型生活保障」は著者が言うように「人々をひたすら労働に駆り立てるものではない」かも知れないが「労働市場への参加」を良しとする点でワークフェアと同じではないか。

 生活保障ということであれば無条件(=労働を条件とせず)に生活に必要な現金を給付するベーシックインカムの考え方がある。しかし著者は本書で事実上その構想を斥けている。理由として政治的合意の難しさ、持続性への疑問を上げている。持続性への疑問とは「ベーシックインカムには就労を軸とした社会参加を拡大していく具体的な仕掛けがな」く、「人々が隠遁生活を強めることもありうる」からだという。隠遁生活が経済成長を停滞させるというわけだ。

 こうした、ベーシックインカムに対する著者の否定的な評価には正直戸惑う。なぜなら、著者はかつて「脱生産主義の福祉ガバナンス」として「ベーシックインカムの可能性」を高く評価していたからである。逆にアクティベーションとワークフェアについては次のように論じていた。

 「ワークフェアとアクティベーションもまた、人々を労働市場に動員しようという点でともに生産主義の発想を引きずっていた。ところが、この生産主義そのものが限界に突き当たっている可能性が強くなっている」(『思想』06年3月号)。

 新しい福祉ガバナンスが挑戦すべき課題は、リスク構造の変化への対応に加えて、環境制約による定常型社会(脱成長社会)への対応であろう。本書ではこの視点がすっぽりと抜け落ちているのは残念だ。

 もう一つ、本書への疑問は、アクティベーションで本当に「排除しない社会」を作れるか、という問題だ。本書ではスウェーデンの福祉国家を支えている規範として「アルベーツリーエン」という言葉を紹介している。「就労原則」と著者は訳しているが、要するに、みんなで働いて福祉国家を支えよう、という含意だという。こうした社会規範が長年に渡ってつくられ、制度もそれに応えるために給付は所得に比例させている。スウェーデンにおける福祉とは「最低保障」ということではなく「現在の生活水準の維持」を手助けしてくれるもの、との了解だという。

 しかし、これは、見方(立場)を変えると、かなりツライ社会ではないか。働いていない人はどうなるのか。「高福祉高負担」の「社会契約」の社会ではフリーライダー(ただ乗り)は許されない。著者も別のところで「日本人が思っている以上に不就労に対しては厳しい社会でもある」と語っている。

 また、著者の交差点社会の構想は、労働市場と外部社会との自由な往来を保障する社会であるが、交差点の中心に存在しているのはやはり労働市場であった。さらに、その労働市場の内部では、低熟練労働から高い生産性を担いうる高度な労働への移行が「一方通行的」に奨励される。

 この点について日本では「雇用」が「社会保障」を代替してきた関係で、すでに充分に「不就労に対しては厳しい社会」である。またスキルアップ(志向)が査定に大きな比重をしめるので、そのことが働く者のメンタル破壊を生んでいる。この息苦しい労働中心社会に風穴をあける作業が焦眉の課題だ。
 「労働市場」を社会の中で小さな比重にし、「生活保障」を「労働」と分離する方向こそ、社会と人々を活性化させる道だと思う。

『生活保障―排除しない社会へ』宮本太郎/岩波新書/800円

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2010年01月11日
 ■ 1/17 民主党政権とどう向き合うか(白川真澄)

 間近になってのお知らせですが、1月17日(日)に以下のような勉強会を開きます。よろしかったらご参加下さい。



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                 (2010年・冬期)

   座┃ 標┃ 塾┃・京┃ 都┃ 出┃ 張┃ 講┃ 座┃
   ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛

    民主党政権とどう向き合うか
     ――主導権を「政権」から「社会運動」の側へ

<講師> 白川 真澄 さん(季刊『ピープルズ・プラン』編集長)

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  ▽と き 2010年1月17日(日)午後2時~4時

  ▽ところ 喫茶うずら(黄色いビルの1F)
     京都市伏見区深草西浦町6丁目31
      電話 075-642-8876
      アクセス:京阪藤森駅下車徒歩10分
     地図 http://mamoru.fool.jp/blog/uzura.jpg 

  ▽受講料 1000円(コーヒ付き)

■□━━━━━━━━ よ び か け ━━━━━━━━━━□■

 ◎昨年夏の政権交代から4ヶ月。しかし依然として鳩山・
  民主党政権の「正体」は不明です。明治維新以来の「大
  変革」との評がある一方、新自由主義の「2番手」とい
  う見方も強いです。当の政権は「派遣法改正」や「普天
  間」などでジグザグな歩みを続ける一方、反貧困や気候
  問題のNPO・NGOを政府の側に招へいするなど「新
  しい政府像」も見せています。

 ◎しかし「政権交代」は自動的に「オルタナティブな未来」
  を保障しないでしょう。社民党もふくめた新政権の「に
  わか応援団」に転じたり、逆に、ただ「限界」を指摘す
  るだけのスタンスをこえて、平和、反貧困、環境、ジェ
  ンダーなど、社会運動の側がどのように民主党政権と向
  き合うのか、じっくりと討論したいと思います。
   ぜひご参加ください。

  【参考】季刊『ピープルズ・プラン』48号
   《座談会》民主党政権にどう向き合うのか
        河添誠×鈴木ふみ×武藤一羊×白川真澄
http://www.peoples-plan.org/jp/ppmagazine/pp48/pp48_zadankai.pdf


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 【白川 真澄(しらかわ ますみ)】

  1942年、京都市生まれ。京都大学大学院経済研究科修士課
  程修了。学生時代から社会運動に主導的に参加。成田空港
  に反対する三里塚闘争では管制塔占拠闘争を実現。現在、
  季刊『ピープルズ・プラン』編集長。著書に『もうひとつ
  の革命』(社会評論社))『脱国家の政治学(社会評論社)
  『格差社会を撃つ―ネオ・リベにさよならを』(インパク
  ト出版)。『金融危機が人々を襲う』(樹花舎)など。

 【座標塾(ざひょうじゅく)】

  6年前に東京で開設。この間は、格差・貧困をこえて「生
  存権」を基盤とする社会をめざす議論を進めている。
   http://www.winterpalace.net/zahyoujuku/


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  【連絡先】京都市伏見区納所星柳17-2、
       セントラルハイツ淀607 五十嵐気付
       電話・FAX 075-632-1389 mmr@mxs.mesh.ne.jp
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 ■  未読の『1968』を論じる

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 小熊英二の『1968』がボロクソに言われています。ホンマにそんなにひどい「誤読」「誤用」「捏造」「歴史偽造」満載本なのでしょうか。私自身はまだ読んでいません。本が出てすぐに図書館に予約を入れましたが、いまだに音沙汰なしです。それだけ人気があるということなのでしょう。いや、価格が高すぎて個人での購入をためらう人が多い、ということなのかも知れません。
 「ボロクソに言われている」と書いたのは、私がたまたま目にした3つの「書評」(分量的には遙かに「書評」の域を超えているが)がそうだった、というだけの話しで、世間的には高い評価を得ているのかも知れません。3つの書評とは『ピープルズ・プラン』48号の「東大解体はきらいですか」(安藤紀典)、『運動<経験>』30号の「<1968>論議」(天野恵一)、『金曜日』09.12.25号の「『1968』を嗤う―」(田中美津)。
 安藤は自身が直接関わった東大闘争の評価をめぐって、天野も自身が参加した中大闘争の経緯をめぐって、小熊の事実誤認を激しく指弾しています。田中は、田中自身が一章設けて取りあげられていることもあって(そうらしい)反応も激しい。小熊の田中とリブに対する「無知」「無法」ぶりをコテンパンにやっつけています。
 それぞれ「身に降る火の粉ははらわにゃならぬ」とばかりの「返し業」。するどく決まっているように見えます。小熊先生危うし。でも3つの「書評」を読んで率直に感じることは、史料しか目を通さない小熊より、その現場に居た当人が当時のことをよく知っているのは当然のことじゃないの、ということです。これでは「フェアな争い」とは思えません。(べつに「争って」いるわけじゃないけど)。
 その意味で、1968年の経験者には、自分の経験したことは勿論のこと、自分が経験していない「他者の経験」もふくめて「1968」とはいったい何だったのか、ということについて語って欲しいと思う。その結論が小熊の結論と違うならば、なぜ違うのか、小熊の見方のどこが間違っているのか、という議論を発展させて欲しいのです。
 小熊の「1968」運動の総括(?)は、「自分探し」の運動であり、結果として「消費社会」を準備した、というような内容だといいます(読んでないからよくわかりませんが…)。だとすれば、いかにも当世流行のニューレフト批判(=「新自由主義との親和性」などの批判)に乗かった「いかがわし」総括です。でも、小熊にはそう言わせておけばよいでしょう。問題は「1968」を体験した者、それを継承する立場に経つ者が「1968」をどう総括するのか、時代の中に位置付けるのか、ということではないでしょうか。『1968』の個々の運動の記述・評価をめぐる「争い」よりも、そっちの方が大事なことではないかと思わざるをえません。
 全共闘運動から40年を経て、なおもその評価が定まっていないというのは、決して現代史研究者の怠惰のせいではないでしょう。全共闘運動や「1968」がいまだ続いていることの明かしです。三つの書評の筆者たちが本当に言いたかったことは、そのことかもしれません。
 なお、紹介した3つの「書評」の中で一番読み応えのあったのは、田中美津さんのものでした。小熊の無知をバッサリと斬る大事な二ヶ所の場面で、本ブログでも紹介した西村光子さんの『女(リブ)たちの共同体』が紹介されています。田中さんが西村さんの本を高く評価していることがわかる文章です。
 さて、私のケータイに京都市図書館から予約本が揃ったという案内がくるのはいつのことだろうか。

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2010年01月01日
 ■ 2010 年頭のあいさつ

新年明けましておめでとうございます。

新しい年があけると同時に、近所のお寺(妙教寺)に鐘を突きに行ってきました。最近はこれが年中行事です。

除夜の鐘は本当に108ツ突いているのか? 前から疑問に思っていましたが、今年も寺の跡継ぎ(娘の同級生)が、片手にカウンターを持って、ちゃんと、数えていました。私が帰る時、「まだ19」。「先が長いですわ」と苦笑いしていました。

鐘は二つ突きましたが、108ツの煩悩を「除去」するのはむずかしい。しかし、環境負荷が極限を超えた今、108ツの欲望を自分の力でコントロールしようという考え方は、貴重と思います。
 
さて、昨年は「起こり得ない」と思っていた二つの出来事が起こりました。一つは言わずと知れた「政権交代」。もう一つは私の故郷・新潟県の代表チーム(日本文理高校)が甲子園の決勝に進出したことです。

とくに「野球後進県」と言われ続けた新潟県の高校生が、決勝の大舞台で「9回・奇跡の大反撃」を演じたことには、胸を熱くさせられました。実況中継は見ることができませんでしたが、その夜、明け方までYou Tube でくり返し見続けました。

民主党政権がどのような社会を目指すのか、今だ不明です。にわか「応援団」に転じたり、「限界」を指摘するだけのスタンスをこえて、社会運動の側から「新しい社会ビジョン」を示す時だと感じています。

長引く不況ですが、これを「脱成長社会」へのトバ口にしたいものです。

本年もよろしくお願いいたします。

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