2008年01月06日
 ■ 妙教寺と三つの戦(いくさ)

 ◆戊辰戦争-いまも柱に残る弾痕

 私が住む京都・伏見は、日本を二分した内戦が勃発した土地です。明治維新に軍事的決着をつけた戊辰戦争は1868年1月2日(いまからちょうど140年前)、ここ鳥羽、伏見からはじまりました。

PC020022.jpg その戦跡は今も地区のいたるところにあります。中でも有名なものが、私の住まいのすぐ近くにある「妙教寺」というお寺の境内にある柱の弾痕です。西軍と東軍が宇治川堤・伏見街道と桂川沿いの鳥羽街道に分かれて激しく撃ち合い、その弾の一発が本堂の壁を突きやぶって飛び込み、内陣の柱を貫通し裏庭にまで転がったといいます。その柱が今でも残っているのです。

 また、戦没兵を偲ぶ「東軍戦死者慰霊碑」もあります。私のすむマンションの横、自治会館前、東軍が進軍した鳥羽街道沿(愛宕茶屋跡)、伏見街道沿いの京都競馬場駐車場入り口など、地区内をちょっと歩くと目にすることができます。勝者(西軍)の戦没者は靖国神社で「英霊」あつかいされていますが、敗者(東軍)のそれは地域の民によってこうしていまでも弔われているのです。でもなぜ、この地に東軍兵の碑はあるのに西軍兵の碑がないのか、本当の理由を私は知りません。

 ◆秀吉を天下人にした「天王山の戦い」

 この地にはもう一つ、歴史を画した大きな戦(いくさ)の跡があります。秀吉と光秀が激突した「天王山」の戦いです。「天王山の戦い」というと、天王山がある山崎が主戦場だったようなニュアンスがありますが、それは秀吉側にとっての話しであり、光秀側は淀城があるこの地を拠点にして戦いました。そして、この中世淀城の掘の脇にあったお寺こそ「妙教寺」なのです。詳しい史料はないようですが、両軍あわせて6600人もの戦死者を出した大戦(おおいくさ)ですから、妙教寺の周りががどんな様子だったか、想像はつくと思います。

 ◆アジア太平洋戦争と妙教寺

 「妙教寺」と「戦(いくさ)」の「縁」は実は、これだけではないのです。というよりも、ここからが今回のエントリーのハイライトです。それは、ここの元住職さんとアジア太平洋戦争にかかわる話しです。わたしの拙い文章より昨年8月に「産経新聞」に掲載された文章の方がずっと感動的ですので、それを全文紹介します。

伝えゆく戦争
破戒の悔いを季刊紙に
京都・妙教寺の「洛南の鐘」

 約60年間にわたって平和を願う季刊紙を発行し続け、戦争体験を語り継いでいる僧侶がいる。京都市伏見区の妙教寺前住職、松井東祥さん(93)。太平洋戦争で九死に一生を得て生還したものの、僧侶でありながら人を殺したジレンマは今も消えることはない―。

 松井さんが赤紙を受け取ったのは、昭和18年。住職になって数年後のことだった。兵役検査では最低の「丙種合格」だったため、当分戦場に行くことはないだろうとタカをくくっていた直後に招集され、中国・太原へ出征した。

 現地では一日中演習に明け暮れた。上官の理不尽な仕打ちにたえうる
うち、「牛や馬のように何も考えられない奴隷になった」という。約1年後、松井さんを含む7~8人が突然上官から呼び出された。「今日は実際の訓練だ」。目の前のナツメの木には中国人の男性が縛り付けられ、1人ずつ銃剣で突き刺すよう命令された。

 「突け」。松井さんの番が来た。「こいつは人間じゃない。でくの坊だ」。そう無理に思い込んで、男性の左胸めがけて突き刺した。上官の命令は絶対で、人を殺すという行為を深く考える余裕はなかった。

P1060093.jpg 昭和21年に帰還したが、喜びもつかの間、僧侶である自分が人を殺したという事実が次第に心に重くのしかるようになった。仏教であらゆる生き物を殺すことを戒める「不殺生戒」。この戒めを僧侶である自分が破ってしまった―。「戦争は人を殺すことだという当たり前のことに、ようやく思い至ったのです」「真の平和は武力によって得られるものではない」「畜生の心は弱きをおどし、強きにおそる」―。松井さんは23年から、そんな巻頭のことばを毎回掲載した季刊紙「洛南の鐘」を執筆、檀家むけに配りはじめた。同時に、説法で自らの戦争体験を包みかくさず話した。

 今年3月。高齢の松井さんに代わって、長男の遠妙さん(58)が仕事を辞め住職を引き継いだ。同時に「洛南の鐘」の執筆もバトンタッチ。「いつの時代も変わらないのが戦争の悲惨さ。父親が命をかけた活動を、私の代で終わらせるわけにはいかない」

 終戦から62年目の今夏、「洛南の鐘」の244号を発行した。平和を願う”灯”もまた親から子へと引き継がれた。

「産経新聞」(07年8月13日)


 ◆戦没学徒・木村久夫の碑

 私は、妙教寺にある弾跡柱の話しは知っていましたが、元住職の戦争体験とそれに基づく活動についてはまったく知りませんでした。昨秋、東軍碑でも見せてもらおうとぷらりと立ち寄った際、たまたま寺前の掲示板にある新聞の切り抜きを読んで、はじめて知ったのでした。そして境内に入って、さらにもう一つの戦争の歴史と向き合わされることになります。それが戦没学徒・木村久夫の歌碑と、それをしのぶ碑です。

 音もなく我より去りしものなれど、書きてしのびにぬ明日という字を 木村久夫

 この碑の横に、元住職の筆によるものと思われる、木村久夫を偲ぶ碑もありました。

木村久夫君は、京都大学に在学中学徒兵に徴集され、終戦後シンガポールにて逃げ去った上官の責任を負わされ、無法にも絞首刑となって若き命を断たれた。昭和二十一年五月二十三日、二十八歳。この歌は刑執行確定後の作である。木村君の遺書全文は「きけわだつみのこえ」に収録されている。 乞必読。

 木村久夫の歌碑は、檀家である木村家によって10年ほど前に建立されたそうです。この巡り合わせにも驚きます。私は、「乞必読」に促されて「きけわだつみのこえ」をひもといてみました。田辺元の『哲学通論』の余白に書かれた遺書。木村久夫が戦争法に照らしても、無実であることは間違いないように思います。それでも彼は遺書でこう書いています。

 私は死刑を宣告された。…略……我ながら一遍の小説をみるような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いてきた。大きな歴史の転換の下には、私のような陰の犠牲がいかにおおくあったかを過去の歴史に照らして知る時、まったく無意味にみえる私の死も、世界歴史の命ずるところと感知するのである。

 日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難とのまっただ中で負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのはまったく当然なのである。今私は世界人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世界人類の怒りがすこしでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を残すことなのである

岩波文庫 新版「きけわだつみのこえ」P444~445)

 月並みですが胸を締め付けられます。戦争の責任をとらなかった上官。無実でありながら「将来の日本に幸福の種を残す」と絞首台の露と散った学徒兵。この関係が、あれから63年を経た今も、なんら変わっていないことを考えると、木村久夫に申し訳ない気持でいっぱいです。

 最後に木村が処刑の前夜に作り、処刑の半時間前に書き終えた歌を紹介して終わります。
 

☆おののきも悲しみもなし絞首台 母の笑顔をいだきていかむ

☆風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし

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2007年09月23日
 ■ 「靖国神社」と「東京都慰霊堂」を訪ねて

 のどかな日曜日の靖国神社

 9月16日~17日、東京に用があって出掛けたついでに、靖国神社と東京都慰霊堂を訪れました。用があった場所の近くに、たまたま靖国神社と東京都慰霊堂があったので、散歩がてら足を伸ばしたわけです。
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 靖国神社は、地下鉄半蔵門線の九段坂駅を降り、一番出口を上って2、3分歩いたところにありました。さっそくあの大鳥居が出迎えてくれました。写真では何回も観ていますが、ホンモノはさすがにデカイ。地上25メートルと言います。近づいて説明文を読むと「戦時中は取り壊された」とあり、とっさに「供出?」と思いましたが、まさかね~。
 日曜日とはいえ靖国神社にとっては「普通の日」。訪れる人はまばらでした。おどろいたことは青空市が開かれていたこと。のどかな風景でした。反対側には「英霊にこたえる会」のテントが二張り。ボランティア風の老人と老婦人が何やら署名を訴えていましたが、こちらも「のどか」でした。

  遊就館―ヒロシマもナガサキも東京大空襲も無視 

 靖国神社と言えば遊就館。入館料=800円也。だだし、これは二階の展示室に入るための料金(「拝観料」とリーフには書いてあった)で、一階部分は無料です。入ったすぐのロビーには「ゼロ戦」が展示してありました。幾人もの人が「ゼロ戦」をバックに記念撮影をしていました。奥には売店「ミュージアムショップ」と喫茶「結(ゆい)」。売店にはお土産品と書籍が並んでます。タイトルを見ると、どれも靖国神社がお墨付きを与えそうな本ばかりでした。
 二階の展示室には圧倒されました。とにかく広い。史・資料類も多い。私は、最初に映像ホールで「私たちは忘れない」という日本会議・英霊にこたえる会が企画・制作した映画を15分ほどみて(途中退席)、それから展示室を順路にそって廻りましたが、時間が無くて展示物の前を通るだけになってしまいました。詳しく観ていけばおそらく一日は優にかかるでしょう。
 ですから展示物や説明書に対する詳しい批評はできませんが、私が「おかしいな」と思ったことを2つだけ上げます。一つは、映画の中で日中戦争の原因を中国民衆の「反日運動」にあるかのように描いていたことです。肝心なことは、反日運動の対象になった日本軍が何故そこに居たのかということですが、その説明は映画ではまったく略されていました。(ここで私は席を立ったわけです)。
 もう一つは、1940年代から戦後にかけての史資料を展示している部屋で、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下の記述があまりにも少なかったことです。ヒロシマは6行、ナガサキは4行しかありませんでした。「東京大空襲」にいたっては皆無です。いくら皇国史観でもこれはひどすぎます。
 とは言え、遊就館に展示してある史・資料は膨大です。ここより多くの史・資料を収蔵している機関は日本にあるでしょうか。(私は京都に住みながら立命館大学の「平和ミュージアム」には行ったことはありません)。遊就館を見て、かつて「平和記念館」構想というものがありましたが、日本の戦争の歴史をありのままに伝える「戦争・平和ミュージアム」は必要だと思いました。

  喫茶店で会った遺族の想い

 正午を廻っていたので展示室を出て喫茶「結」で昼食をとりました。ここのメインメニューは「海軍カレー」。現代風のカレーもありましたが680円の海軍カレーを注文しました。味気は確かに無かったです。
 カレーを頂きながら、テーブルの向かいに座っていた80歳くらいの男性に「ここにはよく来られますか」と声を掛けてみました。男性は「はい、よくきます。フィリピンで戦死した兄が祀られています」とニコニコしながら答えくれました。私が「京都から来ました」と告げると、驚いたように「奇遇ですね。実は兄は京都の16師団にいました。三回招集され、満州、シナ、そして最後にフィリピンに送られ、戦死しました」と話されました。そして、ご自身は静岡に疎開して、そこで米軍の機銃掃射で民間人がたくさん殺される現場を見たこと、一般兵士と民間人に戦争犠牲者を多くだしながら、上層部は誰も責任をとっていないことなど、押さえた口調ながらしっかりとかつての戦争についての思いを私に話して下さいました。
 靖国神社に集まる人は、顕彰一色ではありませ。戦争への憤怒を抱えながら、それをカタチにして示す方法、場所が発見できず、代替として、靖国神社に足を運んでく人も多いのでしょう。こうした遺族の思いと靖国神社の教義の間には大きな溝があることを、忘れてはならないと思いました。

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 「晋ちゃんまんじゅう」で恩返し?

 最後に帰りしなに靖国神社のお土産場屋さんで面白いモノをみつけました。「晋ちゃんまんじゅう」です。安倍晋三をパロッたお土産。他にも「太郎せんべい」なども並んでいました。以前のブログで写真だけ載せましたが、ホンモノははじめて。ワイドショーでも取り上げられ、辞任表明後、一日1200個も売れる超人気商品だそうです。もちろん私も1箱買いました。
 結局、晋ちゃんは、首相になってから一度も靖国神社を参拝しなかった不義理者でしたが、最後はきっちりとまんじゅうで恩返しした恰好です。ヨシ、ヨシ。


 国技館近くにある東京都慰霊堂

 靖国神社をたずねた翌日、墨田区両国にある東京都慰霊堂を訪ねました。場所は国技館のすぐ北側にある横綱公園の一角です。こちらは靖国神社と違っていたって地味。
 公園内には三つの建物がありました。一つは東京都慰霊堂。1923年の関東大震災によるの犠牲者(5万8千人)の遺骨を納める場所として1930年に立てられ、1951年には東京大空襲の犠牲者(10万人5千人))の遺骨も納められ、両方の犠牲者の慰霊施設となっているところです。二つ目は慰霊堂と同じ年に建てられた東京復興記念館。そして三つ目が「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。こちらは東京都議会の決議をうけた遺族関係者の募金活動によって2001年に建設です。

 関東大震災の生き証人

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 私は最初に慰霊堂の中に入りました。中は一見お寺のようでありながら、椅子が並んでいるので教会のようでもありました。すぐ目についたのは堂の左壁に掲示されている東京大空襲の写真です。当時の警視庁の写真担当者が撮影したものです。この写真の前に私も含め4人の来場者がいました。70歳を超えた女性が2人とかなり高齢の紳士です。写真にじいっと見入っている女性に「遺族の方ですか」と声を掛けると、そうではなく、長野県にお住まいとのこと。「今日はたまたま東京に出て来たんです。慰霊堂は一度たずねてみたいと思っていました。長野でも空襲がひどかったんですよ。日本も悪いことをしましたが、米兵も悪いことしました。子供がねらい撃ちされましたから。」と話して下さいました。
 この会話に高齢の紳士も加わり、「この辺は震災と空襲の二回やられましたからね。私は震災の生き残りですよ。ただ、当時4歳だったので記憶はまったくありません。両親が犠牲になりました」と語りました。「9月1日の慰霊祭に参加できなかったので、今日ここにきました」。
 東京大空襲については、親父が被災者の一人だったので身近に感じていましたが、関東大震災の生き証人にここでお会いできるとは思っていませんでした。ビックリです。堂の右壁に展示されている大震災の絵は写真にはない迫力があります。

 「神聖不可侵」の絵がそのまま展示

 「東京復興記念館」は特別に貴重は歴史資料館だと思います。まず、ここには靖国神社のような歴史の偽造がありません。初期の展示物は昭和5年の建設時のままで、これに新しい展示物を加えて展示するという方法がとられているからです。初期の展示物の中には「自警団」と名付けられた自警団の活躍を称える絵もありました。自警団が果たした負の側面がその後明らかになっているはずですが、絵と説明文は当時のままです。
 また天皇(摂生?)が被災地を激励してまわる絵と説明は、戦後の憲法の「主権在民」とはまったく不釣り合いなのですが、そのまま残されています。ほかに、「東京市」の復興状況を描いた地図も面白いです。当時の250万人の東京市はいかにもスリムで、逆に、その後の膨張、開発がいかに破壊的なものだったかに気付かせてくれます。

 空襲の犠牲者は下町の下層に集中
 
 よくよく考えてみると、この地は震災と空襲という二重の災害をうけた地なのです。横綱公園自身は、もともとは陸軍の被服廠で、公園として造成中に関東大震災がおこり、ここに逃げ込んだ被災者数万人が、風が逆に吹いて焼死しました。それから約20年後、今度は戦争による大空襲です。大空襲も東京一円がやられますが、中心は本所区、荒川区、向島区等の下町でした。この地に軍需工場の下請け零細企業が密集していたことも関係があるでしょう。
 空襲などによる被害は国民が等しく受けるものではありません。ここには明らかに地域間、階層間の格差が存在しています。兵士・庶民と指導層では明らかに違います。この問題に光をあて、空襲犠牲者に国家賠償を求める裁判も今年からはじまっています。

 被災者を「尊い犠牲者」と呼ぶ東京都

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 最後に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」について。モダンな花壇が犠牲者への追悼の意を表しています。デザイン的には明るい感じがしてステキだと思いました。しかし、碑の主旨を説明した東京都発行の冊子の一文には異義ありです。そこにはこうあります。

「…東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築きあげられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました」

 なんと、東京都は、空襲犠牲者を「尊い犠牲者」に祭り上げ、その犠牲なくして今日の「平和」と「繁栄」はなかった、と言っているのです。要するに犠牲者に感謝せよと。このものの言いかたは、ナガサキへの原爆投下を「しょうがない」と発言した久間元防衛大臣の発言よりもヒドイものです。せっかくの追悼・平和祈念碑もこの一文で台無しです。ひょっとしたら石原都知事自身が、直接原稿に目を通して、この一文を挿入したのかも?と勘ぐりたくなるような文章です。
 あらためて東京大空襲は終わっていない、日本の戦争は終わっていない、と思う訪問になりました。

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2007年04月25日
 ■ <観る前の映評>号泣しても、忘れてはならないこと/ 『俺は、君のためにこそ死にに行く』(新城卓監督)

 のっけから問題です。以下の言葉は映画やテレビドラマのタイトルを縮めて表現したものです。それぞれ正式なタイトル名を答えなさい。

(1)フユソナ
(2)キミヨム
(3)アイルケ
(4)オレキミ

orekimi.JPG 正解はこのエントリーの最後に書いてあります。今日、取り上げたいのは(4)の「オレキミ」についてです。『俺は、君のためにこそ死ににいく』。5月12日に公開される東映映画です。4月8日に東京都知事に三選したばかりの石原慎太郎が制作総指揮、脚本を担当し、話題となっています。

 本作は“特攻の母”として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊員たちの熱く哀しい青春や愛といった真実のエピソードを連ねて描いた戦争群像劇である。製作総指揮は現東京都知事であり作家の石原慎太郎。トメさんと長年親交を深めてきた石原氏は、隊員たちの心のヒダに入り込み彼らの想いを汲み続けた彼女自身の口から若者たちの真実の姿を聞かされ、8年前に本作を企画し、自ら脚本を執筆した。

公式サイトの「イントロダクション」より。

 18億円の制作費をかけて「無惨にも美しい青春」や「彼らを心で抱きしめた女性」を描いたというのだから、これはもう、涙なしには観れないでしょう。
 わたしは、岸恵子さんが演じる鳥濱トメさんが、攻隊員たちの手紙を検閲を受けずに出し、それを咎める憲兵にむかって「国のために死んでいく者に、なぜ、検閲が必要か!」と食ってかかるあたりで、ウルウルでしょう。
 泣いたからと言って恥じる必要もないと思います。これは特攻をネタにしたエンターテイメント=ビジネス。向こうは、泣かしてナンボの世界。「生」と「死」それに「母もの」が加わるわけですから、泣かない方がおかしいのです。大いに泣きましょう。
 その上で、私は、どんなに泣いても、次ぎの2点だけは忘れないようにしたいと思います。

 1つは、特攻隊員が飛び立つ瞬間は、実は、かなり悲惨だったということ。

 『「特攻」と日本人』(講談社現代新書)の著書がある昭和史研究家の保阪正康氏は、同じく『特攻とは何か』(文春新書)を著した森史郎氏との対談で次ぎのように語っています。
 

 僕は自分の本には書かなかったんだけれども、沖縄戦の最後の頃、失禁したり、腰が抜けて立てなくなったりする特攻隊員がいたりした。茫然自失しているのを抱え込んで乗せ、そして飛ばしていった、と学徒の整備兵が言うんですね。で、彼らはその乗せた罪というのをやっぱり今でも背負って生きている、と何人かから直接聞いている。

http://www.bunshun.co.jp/pickup/tokkou/tokkou02.htm より

 失禁は「生きたい」という思いの表れであり、生き物として正常な反応だと思います。ちっともカッコワルイことではありません。私もその場になれば、たぶん、失禁し、腰を抜かすと思います。こうした特攻隊員が(おそらく)多数いたことを忘れないようにしたいと思います。

 2つには、「特攻」は「計画を策定」し「命令」を下した者がいてはじめて現実化したということ。

 公式サイトの「イントロダクション」では、「特別攻撃隊の編成により、本来なら未来を担うべき若者たちの尊い命が数多く失われていった」と述べています。そして「封印されていた特攻隊員達の衝撃の真実が、今、明かされる」と。
 しかし、いったい誰が、9564名にものぼる「本来なら未来を担うべき若者」の「尊い命」を奪う作戦の責任者なのか、その「真実」は「明かされ」ているのでしょうか。
 公式サイトの「ストーリー」を読むと、特攻は大西滝治郎がはじめたことになっています。しかし戦後一般に流布された「大西=特攻の創始者」説が誤りであることは、さまざまな証言、検証によって明らかにされています。大西が最初の神風特攻隊を組織する一年以上前に「特攻作戦」は軍令部で「策定」されていたからです。

 特攻計画策定時の軍令部の幹部官僚は次ぎの者たちです。総長=及川古史郎大将、次長=伊藤整一中将、第一部長(作戦担当)=中沢拓少将、第二部長(装備担当)=黒島亀人大佐。

 映画が若い特攻隊員を「美しい日本人」として描けば描くほど、この無意味な作戦(「統率の外道」!)を策定し、命令を下した軍令部の無能なこの官僚たちの責任は曖昧になります。

 私は、映画を観て、若い純粋な若者たちの死に涙したあと、彼らに「命令」を下した幹部が、戦後のうのうと生き延びた(戦艦大和と共に沈んだ伊藤と、終戦の翌日に自死した大西を除いて)ことを、チョコッとだけ思いだそうと思います。


答え

(1)フユソナ―>「冬のソナタ」
(2)キミヨム―>「君に読む物語」
(3)アイルケ―>「愛の流刑地」
(4)オレキミ―>「俺は、君のためにこそ死にに行く」

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2006年11月06日
 ■ 陸軍特別操縦見習士官之碑

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 11月3日の文化の日、京都市東山区にある「京都霊山(りょうぜん)護国神社」に行ってきました。反戦・平和の集会のために円山野音にはよく行きますが、そのすぐ近くに、こんなところがあるなんてちょっとショックでした。
 この日も「憲法集会」が開かれていましたが、今回は、パスをして、護国神社に廻りました。


 先日(10.21)NHKのETV特集で「許されなかった帰還、知られざる特攻隊員の収用施設」という番組が放映されました。これは、福岡にあった特攻帰還者の収用施設=振武寮のことをあつかった番組です。

 特攻隊の中には、飛行機の故障などで帰還した隊員が少なからず存在しました。振武寮というのは、「死ぬこと」を前提にして飛び立った特攻隊員が生きていてはマズイので、その隊員を隔離し、再洗脳したとされる施設です。その存在は、陸軍の正式の記録にもなく、また、収用されていた多くの人が戦後60年間、沈黙していたため、歴史研究者にとっても「謎」とされたものでした。

 1993年に映画『月光の夏』の中で、振武寮に収用されて人格が破壊されてしまった元特攻隊員の役を仲代達矢が好演し(私はこの春、ビデオで観ました)振武寮の存在が多くの人に知られました。また、最近になって、沈黙を守っていた元特攻隊員が、振武寮でどのような仕打ちを受けたかを語りはじめ、番組は、この収用体験者の話しを、記録作家の林えいだい氏が聞き出すという内容でした。

 この番組の中に、京都の護国神社が出てきました。この学徒特攻隊員の全戦死者名を刻んだ石碑が、そこにあるというのです。私は、訪れて、確かめたいと思いました。

 はたして、それはありました。入ってすぐ左手の正面にある「陸軍特別操縦見習士官之碑」がそれでした。題字は「ノーベル平和賞」の佐藤栄作元首相が書いたと銘記されていました。裏に、戦死者の名簿がびっしりと刻まれています。905名。横に説明文の石碑があり、内容は戦争を賛美するというより、学徒特攻の働きを称え、同時に、悲しみを表明するというようなものでした。

 


(略)
 祖国の危機に立ち上がり、二期、三期とつづくペンを操縦桿にかえた学鷹は、懐疑思索を超えて、肉親、友への愛情を断ち、ひたすら民族の栄光と世界の平和をめざして、死中に生を求めようとした。悪条件のもと、夜に日をついた猛訓練をおこない、学鷹は遠く赤道、大陸をこえて雄飛し、あたまの戦友は空中戦に葬れ、また、特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じたのであった。無名の栄誉は歴史に刻まれたが、哀惜と悲しみはつきない。
(略)

 「陸軍特別操縦見習士官(略して特操)」とは、学徒出陣した学生達を短期間に特攻パイロットに仕上げる陸軍の機関です。振武寮に隔離された特攻隊員もこの「特操」出身者が多かったわけです。

 905の名碑は、実際に見てみると、圧巻でした。一人一人の名前を追いながら、この中に、知人のおじさんの名前もあるかも知れない、と思いました。

 護国神社には、特操の碑以外にも、従軍部隊の碑がところ狭しとならんでいます。その碑文は、ほとんど戦争中のモードそものです。またここは、戦友会などの懇親会の場としても使われているらしく、そんな張り紙がありました。

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 もっと驚いたのは、この神社の一角に「昭和の杜」というスペースがあり、そのまた一角に「パール博士顕彰の碑」というのがあったことです。パール博士は、東京裁判で日本の被告全員に無罪の判決を下したインドの判事です。碑はこの「功績」を称えるものです。パール博士の主張は、日本の指導者が有罪ならヒロシマ、ナガサキに原爆を投下したアメリカの指導者も有罪としなければならない、というもので、戦勝国のダブルスタンダードを批判したものでした。決して、日本の侵略戦争を肯定・放免するものではありません。

 顕彰碑は建立委員会によって立てられており、会長は瀬島龍三と書いてありました。驚いたのは、顧問として、元京都府知事の林田悠紀夫、前知事の荒巻禎一、現市長の桝本頼兼の名前が上がっていたことです。建立費を、もし、京都府や京都市が出しているとすると問題です。護国神社はれっきとした宗教法人なので、その施設にある顕彰碑の建設に公費を出したとしたら憲法の定める「政教分離原則」に違反します。

 建立されたのが1997年。京都市民として完全に見過ごしていました。その近くの円山野音で一年に何回も戦争や靖国参拝に反対する集会を行っているにも関わらずです。恥ずかしい限りです。

 「昭和の杜」には、次ぎのよう和歌が、掲げられていました。「特攻の父」と言われている大西瀧二郎の辞世のうたです。

 

くにのため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな 時うつれども

 さきの「昭和戦争」肯定する立場であっても、否定する立場であっても、色々なものが学べる場所だと思いました。

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