2013年11月27日
 ■ 「赤ちゃん取り違い裁判、判決」への違和感

 今朝、このニュースを知ってから、ずっとひっかかっていました。この裁判の判決内容とこれをめぐる報道に、どうしても違和感があります。

 NHKのニュースでの判決文の紹介は次ぎの通り。

 「本来、経済的に恵まれた環境で育てられるはずだったのに、取り違えで電化製品もない貧しい家庭に育ち、働きながら定時制高校を卒業するなど苦労を重ねた」。

 別のメデアでの判決文の引用は「取り違えによって被った不利益は明か」ともあります。

 「本当の両親との交流を永遠に絶たれてしまった男性の無念の思いは大きい」…これには同情します。でも、貧しい家庭に産まれたりそこで育つことを「本来」あってはならぬことのように扱う裁判所の見解や報道には、強烈な違和感をもちます。

 損害賠償の裁判ですから、本来得られた利得が人間(機関)の過失によって得られなかった、そのことの当否を判断するのは当然なのですが、「恵まれた環境」と「電化製品もない貧し家庭」の社会的な分岐を当然のこととして是認した上で、どちらに産まれ育つのが得か、という立て方自身に、寒々とした気持になります。

 「本来」という言葉をあえて使えば、本来、どの家庭に産まれようが、例え、乳児の時に取り替えられようが、人間として生まれてきた限り、等しく、「健康で文化的な生活」ができるのが「憲法25条の世界」です。

 日本人に生まれようが、朝鮮人に生まれようが、男に生まれようが、女に生まれようが、障害者に生まれようが、親の無い子に生まれようが、被差別部落に生まれようが、皇族に生まれようが、貧困な家庭に生まれようが…人間として生まれた限り、そのような属性に規定されず、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」するのです。そうしたことを可能にするために「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」のです。

 この赤ちゃん取り違え事件で賠償を求められているのは、直接に赤ちゃんを取り違えた賛育会病院ですが、憲法25条の観点から言えば、取り違えられた男性が「健康で文化的な」生活を営むことを保障してこなかった国こそ「賠償」の義務があるのではないでしょうか。これが理想論と分かっています。でも、この理想を実現するために、人類は時を重ねてきたのではないでしょうか。


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赤ちゃん取り違えで病院側に賠償命じる

2013年11月26日 17時56分 NHK
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60年前に生まれた東京の男性について、東京地方裁判所はDNA鑑定の結果から病院で別の赤ちゃんと取り違えられたと認めたうえで、「経済的に恵まれたはずだったのに貧しい家庭で苦労を重ねた」として病院側に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡しました。

この裁判は、東京・江戸川区の60歳の男性と実の兄弟らが起こしたもので60年前の昭和28年に生まれた病院で取り違えられ、別の人生を余儀なくされたとして病院を開設した東京・墨田区の社会福祉法人「賛育会」に賠償を求めていました。
判決で東京地方裁判所の宮坂昌利裁判長は、DNA鑑定の結果から男性が赤ちゃんだったときに別の赤ちゃんと取り違えられたと認めました。
そのうえで、「出生とほぼ同時に生き別れた両親はすでに死亡していて、本当の両親との交流を永遠に絶たれてしまった男性の無念の思いは大きい。本来、経済的に恵まれた環境で育てられるはずだったのに、取り違えで電化製品もない貧しい家庭に育ち、働きながら定時制高校を卒業するなど苦労を重ねた」と指摘し、病院を開設した社会福祉法人に合わせて3800万円を支払うよう命じました。
判決によりますと、男性は同じ病院で自分の13分後に出生した別の赤ちゃんと何らかの理由で取り違えられたということです。
去年、実の兄弟が病院に残されていた記録を元に男性の所在を確認し、DNA鑑定を行った結果、事実関係が明らかになったということです。

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2011年10月22日
 ■ 「ウォール街を占拠せよ」 /拡大する「デモス(99%)による革命」

 アメリカ・ニューヨークで「ウォール街を占拠せよ」の運動が続いている。カナダの環境問題を扱う「アドバターズ」誌の呼びかけで、九月一七日からズコッティ公園を中心にして始まった「占拠」とデモ。大量の逮捕者を出しながら、またたく間に全米各地に波及し、一〇月一五日には全世界的な同時アクションも行われ、日本でも「オキュパイ・トウキョウ」が取り組まれた。
 この運動を評して「アラブの春に触発」「リーダー不在」「ツイッターやフェイスブックで参加者拡大」「政治目標(要求)が不鮮明」などと語られているが、いずれも「当たらずとも遠からず」にとどまる。運動参加者が何に怒って「ウォール街を占拠」し続けているのかが見えて来ないからだ。

 『インサイド・ジョブ』

 「リーダー不在」「ツイッターやフェイスブックで参加者拡大」とは、問題の本質がそれだけ多数の民衆に共有されている、ということの現れだ。では、運動参加者は何に怒り、何を求めているのか、それを理解するのに役立つDVDがある。『インサイド・ジョブ―世界不況の知られざる真実』(監督・チャールズ・ファーガソン/二〇一〇年/アメリカ)。三年前のリーマンショック(投資銀行リーマン・ブラザーズの経営破綻を契機にした世界的な金融危機)とは何だったのか、関係者のインタヴューで明らかにしたドキュメントだ。
 映画は、発端となったサブプライムローン問題を、証券会社と銀行と格付会社と学者、それに政府がグルになって、一般市民から金を巻き上げるために作ったネズミ講だったと、断じる。さらに、リーマン破綻の一方で、FRBからの融資(八五〇億ドル)で救済された保険会社AIGからゴールドマン・サックスに巨額の資金が流れたことも明らかにする。そして、勝ち残ったゴールドマンサックスをはじめウォール街の強欲金融機関の幹部が、今もオバマ政権で要職についていることを告発している。
 映画は最後のシーンでこうよびかける。「相手は手強い。だが闘う価値はあるのだ」。
 リーマンショックは「九九%」の人達から、家を奪い、職を奪い、健康保険を奪った。これに対して「一%」の人達は、金融機関救済のために投じられた税金を自分の懐にしまい込み、今も政府の要職に就き、金融機関を優遇する歪んだ政治を続けている。こうした政治全体を変えようと、リーマン・ブラザース破産から三年目の本年九月一七日、「ウォール街占拠」が始まったのである。

 「占拠闘争」はウィスコンシンから

 アメリカの民衆が、金持ち優遇政治に対する抗議運動を「占拠闘争」として始めたのはウォール街が初めてではない。ウィスコンシン州では、本年一月に就任したスコット・ウォーカー新知事が「赤字対策」とし称して、公務員労組の団体交渉権を大幅に制限する法案を含む予算修正法案を提出し、これに反対する公務員労組をはじめ警察や消防の労組や市民七万人がデモを行ない、州議事堂を三週間にわたって「占拠」する大闘争が展開された。
 知事が州兵を動員する姿勢をみせると「戦争に反対するイラク帰還兵の会」の元兵士が、州兵に対して、民衆のために働く公務員として出動しないよう、呼びかけたという。(参照『世界』六月号「米国に広がる民主主義の崩壊と寡頭政治の台頭」金克美)。
 反動知事スコット・ウォーカーの狙いは「州財政の赤字」を演出して労働組合との「最終戦争」に決着をつけることであった。ナオミ・クラインはこの手法を「ショック・ドクトリン」と呼び、ウィスコンシン州にも適用されたと言う。
 法案が強行採決された翌週にはトラクターも含め、一八万人がデモで抗議した。これだけ多くの人々が立ち上がったのは、事の本質は一労組の権利問題にとどまらず、財政赤字の解消を口実にして一層の市場化=貧困化が進められようとしていること、そして、政治がますます一握りの富裕層によって牛耳られることへの危機感と怒りがあったからに違いない。

 「デモス(九九%)による政治」へ

 アメリカも日本も、政権交代があったにも関わらず、格差拡大―企業・富裕層優遇の政治から脱することが出来ない。それは「ポスト・デモクラシー」と呼ばれる、不利益を被る圧倒的な多数者を政治参加から排除する体制が、高度成長の終焉、グローバル化の進展とともに構築されてきたからである。
 しかし「ウォール街を占拠せよ」運動は明らかに「ポスト・デモクラシー」体制への民衆側からの挑戦となっている。打倒すべきはウォール街の強欲どもとともに、「一%の一%による一%の政治」(ジョゼフ・ステグリッツ)、つまり、格差拡大を生む政治構造それ自身だ。替わって創りだされるべきは「デモス(九九%)による政治」に他ならない。それは「アラブの春」として、ウィスコンシン州議事堂占拠として、ウォール街占拠として、そして、日本では「原子力ムラ」への挑戦として、すでに始まっている。

 「相手は手強い。だが闘う価値はあるのだ。」


* 『グローカル』2011/11/01号、掲載予定稿

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2011年04月18日
 ■ 戊辰戦争と脱原発

 集落をのみ込む大津波と噴煙をあげて爆発する福島第一原発をテレビで見ていて、思わず「また東北!」「また福島!」と唸ってしまった。「また」と言うのは明治と昭和の三陸沖地震のことを思ってのことではない。今回の震災の最大アクシデントの中心が福島県であり、さらに被災地域が東北地方全体に及んでいることに、会津藩を中心にして展開された戊辰戦争(東北戦争)が重なって見えたからである。
 戊辰戦争は、王政復古のクーデターで新政府を樹立した薩摩・長州藩連合が、幕府勢力を一掃するために仕掛けた戦争で、鳥羽・伏見の戦から始まり東北、函館戦争を最後に薩長連合の勝利に終わったものだ。その中でも、新政府側に「朝敵」の烙印をおされた会津藩の抵抗は苛烈で、白虎隊や会津若松城に籠城した婦女子の自刃などの悲話は、いまでも語り継がれている。
 また、昨今の研究では、新政府から命ぜられた会津藩への追討を拒否した仙台藩などが作った奥羽越列藩同盟(三十一藩が参加)は、天皇を独占して専制支配を強める薩長連合の国家構想に対する明確な批判意識を持っていたことが明らかになっている。
 東日本大震災と福島原発事故に戊辰戦争の悲話を重ねるのは私の勝手な感傷である。しかし、戊辰戦争と原発立地について次のような指摘を知ると、ことは単なる感傷ではすまなくなる。
 「戊辰戦争、西南戦争で負けたところが原発の立地に選ばれている」。(ブログ「ミサイルがウインナーだったら」)

    *     *     *

 なるほど、今回の震災で被災した地域では、原発と戊辰戦争に関係した地は不思議と重なっている。福島県の第一・第二原発と浪江・小高原発(計画中)は場所が少しずれるとは言え戊辰戦争の中心藩=会津藩の近くだ。宮城県の女川原発は奥羽越列藩同盟の「大国」である仙台藩。青森県下北半島の大間(建設中)、東通(東電、東北)、六ヶ所村再処理工場の近くには斗南藩が存在した。斗南藩は会津藩領の没収をうけた松平家が移封先として立てた藩。ここも福島県同様、原発施設が集中している。
 ついでながら今回の地震と連動して起きた長野県北部・新潟県中越ではどうか。柏崎刈羽原発のある柏崎市は、場所的には奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩に近く、さらに桑名藩の飛地でもあり、松平定敬(会津藩主・松平容保の弟)が本藩の帰順決定に抗して最後の抵抗をした場所である。
 東北・新潟以外の地ではどうか。日本で最初の商用原子炉を稼動させた茨城県の東海村は、徳川御三家の一つで最後の将軍・徳川慶喜を生んだ水戸藩。静岡県の浜岡原発は天領(旧幕府直轄地)。さらに先ブログの記述をたどると、石川県の志賀原発は大政奉還の時に徳川慶喜を支持した加賀藩、西の原発銀座である若狭湾がある福井県の敦賀藩は佐幕派(維新前年に新政府軍に恭順)、鹿児島県の川内原発は西南戦争で敗北した薩摩藩、と続く。
 例外的には愛媛県伊方原発(伊達宇和島藩)、計画中の山口県上関原発(長州藩)など新政府側の地もあるが、ほぼ、このブログが言うように「戊辰戦争、西南戦争で負けたところが原発の立地に選ばれている」と言ってよい状況だ。ただし、それはストレートな結び付きというより、原発立地の条件とされる「過疎地」が戊辰戦争に敗れた側の地に多い、という関係なのであろう。

    *     *     *

 原発立地の条件を「過疎地」とするというのは、一九六四年に原子力委員会がつくった「原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断のめやすについて」という文書に由来する。そこでは立地のための三条件が示されている。(1)原子炉の周囲は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること。(2)原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること。(3)原子炉敷地は、人口密集地帯からある距離だけ離れていること。
 要するに「過疎地」に作れ、ということだ。これは何も住民の安全・健康を考えてのことではない。事故が起こった時の損害賠償を最小限に押さえ込もうと狙いからだ。逆に言えば原発は、法的には「低人口」の犠牲は止むをえないものとして、事故を見越して立地許可されているということだ。
 戊辰戦争で「賊軍」となった会津藩・東北は、明治政府から差別的な待遇を受けてきた。「白河以北一山百文」。明治政府の東北地方を価値の無い「後進地」と表現した言葉だ。「後進地東北」においては、昭和初期には凶作により農村地帯から娘が売られ、若者は次々に軍隊に取られて多くが戦死した。戦後も集団就職によって人材を都会に奪われ農村・漁村は疲弊し過疎化が進んだ。その「過疎地」に対して、狙いすましたように原発が電源交付金付きで侵略し、大都会の電源植民地にしてしまった。
 「戊辰戦争、西南戦争で負けたところが原発の立地に選ばれている」ように見えたのは、原発をめぐるこの差別構造があったからである。だから新政府側であっても、この差別構造があるところに原発は立てられてきた。さらに、原発はウラン採掘現場と原子力施設の中で日々被ばくしながら働く労働者がいなければ動かない。まさに原発は差別と格差なしには成り立たないのだ。
 いま、盛んに叫ばれる「頑張ろう日本!」のフレーズは、今回の原発震災の背景にある東北に対する差別、あるいは東京と地方にある格差と差別の構造を覆い隠してしまう。東北地方の復興、そして脱原発社会の実現とは、戊辰戦争以来、この国がとってきた専制的で中央集権的な在り方を、「いくつもの日本」が対等・平等に共存するものへと作りかえる事業を含む。それは、奥羽越列藩同盟が描いた「諸藩連合政府」を一五〇年の時を経て、カタチを変えて実現することだ、と思う。

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2010年05月03日
 ■ デモに「風呂」が登場!/4、29 逃散・不服従メーデー

 メーデーは5月1日と決まってたのは昔の話し。最近は開催日が分散する傾向です。先鞭をつけたのは「連合」。ゴールデンウイークの初日(4月29日)に定着しているようです。

 私が今年参加したメーデーも4月29日に行われました。しかし大企業の労組の集まりである「連合」とは対照的な、不安定雇用にある人々を中心にしたインデーズ系のメーデーです。

 日差しはあるが、風が強く、少し肌寒い「昭和の日」の午後。京都の繁華街、四条河原町を二筋下がった東側にある「仏光寺公園」に人々が三々五々、集まってきました。その数最終的に約100名ほど。

 すでに色々なプラカードや横断幕が公園に並べられていますが、これがメーデー会場だと気付く通行人は少ないはずです。何故なら、ここにはメーデにはつきもの「労働歌」が流れていません。恒例の「大幅賃上げを勝ち取るぞ!」などというスローガンもありません。そして、集まってくる人々は、人生のスタートを切って間もないか、今、まさに切ろうとしている若者が圧倒的なのです。おそらく連合系のそれにも、また全労連系のそれにも、参加した体験のない若者たちによる「手作りのメーデー」。題して「逃散・不服従メーデー」のはじまりです。

 とは言っても力強い演説が延々と続く、というものではありません。主催団体の「ユニオンぼちぼち」「反戦生活」「ユニオンエクスタシー」の3団体のメンバーが、普段通りの口調であいさつ。

 「祝日であっても、多くの仲間が働いており参加できません。祝日をふやすよりも、有給休暇がとれるよう現実を変え、自分の時間を取り戻したい」などなど。

 そのあと「模擬団交」の寸劇。残業代を払わない引っ越し屋の社長を、団交で追いつめていくストーリー。

 「ウチは30分単位でしか残業代払わないから、28分で仕事が終わったら、グズグスせずタイムカードを押せ」。

 「分の世界」で賃金をもらった経験のある人にとっては、リアル過ぎる言葉。団交の中で「30分単位の支払い」に法的な根拠がないことも明らかになり、勉強になります。

 続いては、色々な団体・個人の発言が続きます。
 「反学費会議」という団体の学生の話し。学費を払わないとはなんと反社会的な! と思うなかれ。大学の学費は無償であるべきだ、ということを訴えているのです。親の経済力の違いで子どもの選択が狭められる社会はおかしい、と。

 また「保護者団」の女性の発言にも考えさせられます。
 一人で子育てをしてきたが「一人で保護者をやるはヤメ!」。「保護者団」を募集して今は数人で子育てをしているそうです。ところが子どもが不登校。フリースクールに通っているのですが、その費用を行政に要求しているそうです。
 また、最近は子どもが「習い事」をしたいと言い出し、回りの母子家庭のアドバイスは「子どもに親の立場をわきまえるように説得せよ」。しかし、親の貧困が原因で、子どもの進路が決まるのは納得できない…。

 うーん。

 徹底して社会の側に問題を投げ返して行こうという立場はわかります。しかし、貧困層はエリート層とは違う、別の文化を形成していく道筋もあるんじゃないでしょうか。その文脈で「わきまえ」ることは闘いかも。でも難しい問題ですね。

 発言が終わったあと、メーデーはいよいよデモ行進に。そのデモの中にな・な・な・んと「風呂」が。私が知る限り、日本人民闘争史上初めてデモに「風呂」が登場したのではないでしょうか。

 シュプレヒコールもイケてました。宣伝カーからは、通行人に向かって、「みなさん、私たちは不埒なデモ隊です。シュプレヒコールも変わっています。ぜひ、この変わったシュプレヒコールをお楽しみ下さい!」

「失業保険をもっとよこせ!一生失業保険でい生きたい!」
「婚活なんてクソくらえ!」
「女性を結婚に追い込むな!
「働きたくない!」
「忙しい生活は貧困だ!」
「テレビ漬けの生活は貧困だ!」
「金をかけずに楽しむ時間を持とう!」
「怠ける権利をうばうな!」
「頑張る人生から降りよう!」
「逃散上等!」

(もっとぎょうさんありますが、略)

 生の声で「常識」と「体制」に挑戦する! そんな意気込みが「昭和の日」の京都の街にしっかりとこだました一日でした。

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2009年04月21日
 ■ 4.15 きょうと反貧困集会 橘木俊詔さんの話し

 4月15日、キャンパスプラザ京都で「貧困・格差社会を打ち破ろう!4、15 きょうと反貧困集会」が開かれた。橘木俊詔さん(同大教員)が「金融危機と貧困・格差の行方」と題した講演を行い、「きょうとユニオン」など3名の仲間が、貧困と向き合う現場からの報告を行った。
 主催は、今秋(10月18日)円山野音で三度目の集会を予定している反戦、反貧困、反差別共同行動(きょうと)実行委員会。集会には約100名が集まった。

 橘木俊詔さんは、「12年ほど前に『日本の経済格差』を出して、一億総中流社会が終わったと報告した。昨年来のアメリカ発の金融危機がさらに格差と貧困を拡大している。日本の金融機関への影響は少なかったが、アメリカ経済の縮小で輸出が減少し、国内経済が減速した。そのつけが『派遣切り』として労働者に向けられている」と現状を分析した。そして「今後の運動の方向性」として次のように提起した。

 「日本の最低賃金=時給700円では生活できない。欧米と比較しても低すぎる。何故上がらないのか。経営側の抵抗や連合のサボタージュなど理由はあるが、最低賃金を上げたら失業者が増える、という脅しを打ち破ることが必要だ。そのためには失業保険などのセフティーネットを充実させ、大企業・フルタイム・男性・正社員をモデルにした雇用保険制度を、非正規労働者も入れるようにすることが必要だ」と訴えた。

 そして新自由主義者が吹聴する「トリクル・ダウンセオリー(上層が潤えば自然に下層も潤う)」は資本主義の実態を反映しておらず、「ウィナー・ティク・オールモデル(勝者独り占め)」こそが現実を説明しているとして、「だから上から下への所得の再分配が必要なのだ」と力強く結んだ。

 講演の後に「ブラジル人労働者の家族や子どもたち」の生活相談活動の報告を「愛知県語学相談員」の右田マリアナ春美さんが、「京都における争議、労働相談の実態」を「きょうとユニオン」の玉井均さんが、京都の野宿者の支援活動の報告を「きょうと夜回り会」の本田次男さんが行った。
 その中で玉井均さんは、インフルエンザの派遣労働者を寮から追い出そうとしたパナソニックの例を報告しながら「マスコミは、派遣問題の旬は過ぎた、次は正社員切りだ、という雰囲気だが、資本はより巧妙に間接雇用と有期雇用を活用しようとしている。事態はむしろ悪化している」と警告を発した。

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2009年02月15日
 ■ 正規と非正規の「所得格差」は放置していいのか―湯浅誠さんの講演を聞いて

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 2月11日、「建国記念日」のこの日、湯浅誠さんの話しを聞きました。大津市で開かれた集会です。自治労や日教組など連合系組合にキリスト者やその他の人々が加わった実行委員会の主催でした。私は湯浅さんの話しを直接聴くのは初めてです。「年越し派遣村」以降、最近はテレビに出ずっぱりの感がある湯浅さん。この講演は昨年の秋にセットされたとのことです。ひょっとしたら派遣村以降、初の地方での講演だったのではないでしょうか。

 湯浅さんは、最初はクールな表情で坦々と話していましたが、話しが進むにつれて段々と熱が入って来ました。終わってみれば予定時間を10分もオーバー。しかし長さを感じさせない充実した内容の講演となりました。
 私としては、質疑も含め、湯浅さんから聞きたかった大方のことは聞けたので大満足でした。集会の全体の様子や湯浅さんの発言の要旨は新聞報道に任せ(中日新聞と毎日新聞のWebを「無断転載」しておきます)、ここでは私が関心がある論点にしぼって、湯浅さんの発言を紹介し、コメントしたいと思います。

 「正規労働者」を敵にまわさない

 湯浅さんは「貧困」を問題にしています。それを無くしていく運動として「反貧困」運動を行ってきました。そして貧困を無くすための手段が「社会保障」の充実です。それを湯浅さんは「すべり台社会」に「階段」を付けると表現します。本来、それは公的機関の責任でなされるべきものですが、それが非在の場合は、民間が行う、「年越し派遣村」はそういう中で位置づけられています。
 ここで一つ疑問がわくのは、貧困は確かに「社会保障」の不備によって生じているのですが、一方、格差拡大の一極として存在していることも事実であり、だとすれば正規労働者=安定労働者層と非正規労働者=不安定労働者層の格差、とりわけ所得の格差を是正するという方向も「反貧困」運動にとっては必要ではないか、ということです。
 これについて、湯浅君は雑誌のインタヴューなどで否定的は説明をしてきました。今回の話しでも「400万円から800万円の所得がある正規労働者も、住宅ローン、高い学費、親の介護などでギリギリの生活をしているのが実感だから、所得を削ることはできない」と明確に語っていました。これは連合系の参加者に配慮しての発言ということではなく、彼がめざしている社会と、それにいたるプロセス・戦略を描いた上での判断だと分かったのが、今回の収穫でした。

 「中支出・中所得」社会

 湯浅さんは「所得格差」の存在は認めつつ、いきなりそれに手をつけるのではなく、「400万円~800万円」の所得が必要となっている、その背景にある「支出」を削減するところから手を付けるべし、と述べました。特に住宅費と教育費です。後者の教育費は日本はOECDでトップクラス。ヨーロッパはほとんど無料。まずそれに近づける。
 同時に社会保障=セーフテーネットを充実させ、「すべり台社会」に「階段」をつけ、就労支援を社会の責任として行う。湯浅さんはそうした社会を「中支出・中所得社会」と呼びました。ヨーロッパや北欧の「福祉国家(社会)」は目標たりえず、日本が置かれた条件を考慮すると「中支出・中所得社会」だ、と言うわけです。
 そして正規労働者と非正規労働者は、教育費の引き下げをふくめた「社会保障」闘争によって連帯する、という戦略です。逆に言えば「所得」の平等化をめざす闘争では正規労働者と非正規労働者は連帯できない、というふうに湯浅さんは見ている(見越している)ということです。そこを資本の側に突かれて隊列が分裂するような愚は冒すべきではない、ということでしょう。

 「豊かさを問う」反貧困運動へ
  
 これは湯浅さんらしい現実論です。テレビの討論番組などでも、湯浅さんの説得力が冴えるのは、湯浅さんが決して無理な論述を行わないからです。しかしこの「社会保障闘争」を優先させる戦略・運動論は、反貧困運動の論理としては(なるべく敵を作らないという意味で)妥当かもしれませんが、私は次の2点において疑問があります。

 まず、労働運動として見ると著しく「正義」に欠けるということです。例えば今、公共サービスを担う労働が次々とアウトソージングされており、そこから官制ワーキングプアが生み出されています。今までと同じサービスが、民間委託によって大幅にコストダウンする。こうしたことを労働組合は建前では認めませんが、現実には是認し、是認した後にその職場の労働条件に関心をよせ、その向上=均等待遇のために闘う、ということを自治労なり自治労連はほとんどやりません。現場での「連帯」を放棄した上で「社会保障」という場での「連帯」や「所得再配分」についてだけ闘う、ということは自己矛盾であり、既得権を守るための詭弁とならざるを得ません。

 もう一つは「豊かさ」を問う視点の欠落です。「中支出」の実現は、個人の支出を社会が肩代わりすることで実現されますが、その際、享受する「豊かさ」の水準・総量は変化しないと想定されています。これは環境の視点からするとちょっと現実的ではありません。
 例えば地球温暖化防止。2050年までに二酸化炭素の排出量を半減させることが必要です。財であれサービスであれ全体的に見ると縮小していかざるを得ません。そこで問われるのはマイナスをどう公平に配分していくのか、です。逆に言うと、市場から調達する財・サービスが減り、手作りの財とサービスの時代がくるということです。それは一面では不便な、しかし市場に生活が左右されないという意味では自由で豊かな時代の再来かも知れません。戦後の5年間がそうであったように。

 正規労働者層が高額な所得を維持して行くことは、労働運動の「正義」との観点からも、環境の視点からも、もはや限界です。「社会保障」による「脱貧困社会」の実現のためには、制度に先行して社会の中に、労働者の連帯と、自然との共生の芽が育っている必要があるのだと思います。

<中日新聞> 「すべり台社会」に警鐘 大津で「派遣村」の湯浅氏講演 2009年2月12日

 失業者や貧困層を支援する「反貧困ネットワーク」の湯浅誠事務局長が11日、大津市のピアザ淡海で講演した。

 湯浅さんは30代の男性が「生きていけない」と電話相談をしてくる実例を紹介。非正規労働が拡大し、雇用保険や失業者用のつなぎ融資も機能しない現在の社会を「すべり台社会」と説明。親の世代が子どもに教育費を掛けられず、貧困が再生産されていると訴えた。

 貧困層の現状について「社会のすべり台を落ちた人は実家に帰るか、自殺、犯罪、ホームレス、劣悪な環境のノーと言えない労働者になるかの5つの道しかない」と解説した。

 自身がかかわった東京・日比谷の「年越し派遣村」について「集まってきた本人に問題がある」と批判があったことに、「社会から余裕が失われ、ほかの人のことを考えられずに自己責任論が強くなっている。突き詰めれば、貧困に生まれたその人が悪いということになってしまう」と警鐘を鳴らした。(小西数紀)


講演:反貧困ネット・湯浅事務局長、
派遣村から見た日本社会を語る
(大津 /滋賀)

 年末年始に東京・日比谷公園に開設された「年越し派遣村」村長を務めた反貧困ネットワーク事務局長・湯浅誠さんの講演が11日、大津市であり約450人が参加した。

 湯浅さんは「派遣村から見た日本社会」のテーマで講演。▽非正規労働の拡大▽不況下の派遣切り▽生活保護費の受給を制限する行政の「水際作戦」--などを挙げ、「現代社会は一度滑り出したら止まらずに貧困に陥る『すべり台社会』」と分析。「教育費をかけてもらえない家庭では、貧困が世代間連鎖し、『貧困の再生産』を繰り返す」と指摘し、「正規雇用者と非正規雇用者が一体となり、不器用な人も守ることのできる社会にしなければならない」と話した。【豊田将志】

毎日新聞 2009年2月12日 地方版

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 ■ なすびさんが書いた『恐慌・失業・貧困―「派遣村」が伝えたことと、伝えられなかったこと』を読んで

 山谷で野宿者の支援運動を行っている「なすび」さんが、『恐慌・失業・貧困―「派遣村」が伝えたことと、伝えられなかったこと』という文章を1月21日付の『反改憲通信』第16・17号に書いています。これまで『ピープルズ・プラン』誌でなすびさんの湯浅君たちの運動への見方は出されていたので、内容的には予想していたものでした。しかし、今の時期にあえて「派遣村」の「限界性」を指摘することはかなり勇気のいることだと思います。その意味で、すごいな、と思いました。彼も書いているように「天に向かって唾をしていることを自覚しながら」自分が提出した課題を引き受ける覚悟があってのことでしょう。

 この文章の論点は3つあります。

 1つは、マスコミによる「派遣切り」焦点化が「下層労働者」に「分断を持ち込む」ことになるのではないか、という懸念。これは、私も含め、多くの人が感じたことだと思います。
 私は講堂開放を報じた「朝日」が、「生命の危険に配慮」だったか何かの見出しで、その理由を説明したのをみて「アレ?」って思いました。もしそうなら、政府は、命の危険にされされている全野宿者が、公的施設に押し掛けたら開放するのだろうかと。そうではないことは明かです。とすると、なぜ、派遣村村民に対してだけ「開放」なのだろうか。その理由は?
 これについて政府は説明を省いていたと思います。「超法規的」な人道的であったとすると、それは結果として「分断」になる、とその時思いました。おそらく、山谷にしろ釜ケ崎にしろ、これまで野宿者の支援を行ってきた運動体は、同じようなことを感じたのではないかと思います。

 2つめは、派遣村の運動の「限界性」の指摘、その中でも「政策目標」「綱領レベル」における「限界性」の指摘です。これは『ピープルズ・プラン』誌ですでに語られて来たものを、派遣村に即して述べている、という印象を持ちました。指摘が妥当な面と、いささか紋切り型に終わっている点が同居していると思います。
 派遣村の運動が、結局は「セフテーネットの拡大」と「就職」に収斂されて終わってしまうのではないか、という指摘、さらに、派遣法を99年改悪「前」に戻しても不安定雇用問題は解決しない、貧困だけではなく「格差」を問題にして所得再配分を実現すべき、という指摘も、それなりに妥当でしょう。妥当ではあるけれど、派遣村の運動を担った人達には「外在的な批判」と受け取られる可能性はないか、心配します。
 その心配は、なすびさんが一番力を込めて書いている、失業と貧困は「資本主義システム」を転換しない限りなくならない、という言うあたりで、一層大きくなります。

 資本主義が資本主義である限り、恐慌からは免れない、あるいは、資本主義が資本主義であるかぎり戦争からは免れない…、この使い古された言い回しで、次に何か別の社会、別のシステムが見えて来たり、それが共有できるのであれば、この言い回しでもいいでしょう。でも、少なくとも、東欧革命以降(社会主義の敗北以降)、この言い回しで提示できる新しいものは何もありません。その点を、なすびさんは、どう考えているのでしょう。
 ひょっとしたら、昨夏の反G8の運動は、現実の資本主義と切り結ぶ新しい何かをつかみ取り、それに参加した山谷の運動体は、それを蓄積したのかも知れません。いや、すぐその後に、「派遣村だけではなく、山谷の運動も本質的なメッセージ(=資本主義システムの転換)はなかなか伝えられていない」と書いていますから、資本主義とはそもそも何なのか、それを転換した社会となどのような社会なのか、という根本のところから一緒に考えて行きましょう、というエールと受け止めるのが正解なのでしょう。

 私自身は、派遣村の限界性の指摘というほどのことではありませんが、例の坂本政務官の「ほんとうに働きたいと思っている人か?まるで学生運動の戦略のような…」発言に対して、運動側が正面から批判しなかったことが悔やまれます。運動の側ないし運動に肩をもつ側は、坂本の派遣村に対する「認識」が「間違っている」という点は指摘しましたが、「働きたくない人がいたとしても何が悪い!」「学生運動の戦略のどこが悪い!」という立場から、批判する声はありませんでした。坂本も「派遣村には働きたくない人はいないんですね。それはよかった。私の認識が間違っていました。発言は撤回します」と引き下がりました。
 ここで太い線引きが行われた意味は大きいと思います。その延長線上に今、浮上しているのが「雇用のミスマッチ論」。「本当に働きたいのなら、はたらくところはナンボでもあるだろう…。あれはやりたくない、これはやりたくないでは、甘えてる!」 働く意欲があるか無いかで、人を判断する、この能力主義的な価値序列への抵抗のメッセージは、派遣村からは伝わってこなかったと思います。

 3つめは、同じく派遣村の「限界性」―その中でも運動論レベルでの指摘です。これは、ついでに述べているような感じですが、こっちの方が私には面白いし、今後の議論として広く共有されていくのではないかと、思います。
 たとえば、ボランティア。なすびさんは、報道陣とともにボランティアの人波に「居心地の悪さを感じた」と述べています。また、言い方は逆ですが、日比谷の運動は山谷と違って「世話をする人」「される人」の二極分化している、と言っています。実際にどうであったのか、私にはコメントする材料がありませんが、2月1日に開催した「座標塾-京都出張講座」でもこの問題が話題になり、参加者の一人が、釜ケ崎支援者から聞いた日比谷で体験した違和感について紹介していました。
 それによると、日比谷のボランティアは村民を「仲間」だと見ていない感じだった、というのです。釜は支援者も、色々な困難に遭遇した体験者が多く、日雇いや野宿者を仲間と思って支援している。しかし、日比谷はそうではなかった。それが一番の違和感だった、と。

 日比谷の派遣村は、労働運動の場に初めてボランティアが登場したという意味では画期的だったと思います。1700名を超えるボランティアの中には、色々な動機があったと思います。しかし「世話をする人」「される人」の二極化は、ボランティアであれば当然のことでしょう。そもそもボランティアは「世話をしたい」と思ってはせ参じたわけですから。
 さらにユニオン運動の原基形態からして当然という気もします。なぜなら、多くのユニオンの組織化は、「電話相談」ホットラインから始まるからです。「相談する人」「聴く人」の関係です。今回の派遣村のきっかけを作ったのも、11月下旬の「派遣ホットライン」でした。
 派遣村に登場したボランティア。「世話をする人」「される人」の二極化。それが日比谷の派遣村と山谷、釜ケ崎の運動の違いであることは間違いないように思います。しかし、それは、どちらがすぐれた運動でどちらに限界があるか、性急に断じる問題ではないでしょう。いまは、なぜ、どうして違うのか、それぞれが体験したことを出し合いながら論じ合うことが大切ではないかと思います。

 とまれ、「なすび」さんの文章が、派遣村について多角的に論じ合う、前向きな契機になることを願います。

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 ■ 「労働」と「所得」の分離ということ

 子どもの頃から就きたい職業というものがなかった。実家が農家だったので、それだけは勘弁して、と言う気持はあったが、積極的にやりたい仕事というものは思い浮かばなかった。それは五四歳になる今でもまったく変わらない。
 地方の公立高校を卒業して京都に出てきてから三六年余。その間いろいろな仕事に就いた。西陣織ネクタイの営業、分析機器メーカーの溶接工、全国チェーン店の弁当屋、請負トラックの運転手、合板の営業と配送などなど。今は小さな地域スーパーの倉庫で働いている。会社や事業所名をあげると両手に納まらず、履歴書の行が足りなくなる。要するに今で言うフリーター、プレカリアートの走りなのである。
 決して意識してそういう職歴を重ねてきたわけではない。単に縁や偶然が重なっただけの話しだが、さりとて、特定の職業・職種に就くために集中して努力を重ねた、という経験もない。怠惰な性格と言えばそれまでだが、働くことに関して昔からが抱いてきた一つの疑問があったからだ。
 それは「なぜ労働と所得は結びつけて考えなければならないのか」という疑問だ。逆に言えば、労働と所得を結びつけることへのアンチの気持が強くあった。
 学校では職業に貴賎はない、と教えられた。しかし現実には職業、職種ごとに報酬が違う。もちろん報酬の多寡と職業の貴賎という尺度は位相が違う。しかし両者は大ざっぱに見れば重なるだろう。だからこの社会には、特定の報酬・所得と連動した職業の位階システムが存在し、それに就くための選抜システムとしての学校が存在する。
 私の疑問や気持とは裏腹に、世間では職業や職種ごとに報酬が異なることは「自明の理」だ。だって、何年も難しい勉強をしてきた弁護士さんやお医者さんと、コンビニでレジを打つアルバイト高校生の「時給」が同じではおかしいでしょ、というわけだ。
 ここでは仕事の内容の違い、つまりその仕事に必要な技術や知識を得るために投入された労力の総量の違いが報酬の違いとして理解され説明される。そこから高い賃金を得たければ自分の努力でスキルアップをして、より上位の職業・職種に就くことが奨励される。もっとも昨今は、その機会がロストゼネレーションの若者に閉ざされていることが「格差社会」として指弾されているが。
 人それぞれに能力の違いというのはある。そのことを否定しない。生まれ持った能力をベースにして、それに磨きをかけ訓練した後でも労働力能には差がある。当然、労働の成果においても違いは出てくる。
 しかし、そのことを全部認めてもなお、なぜ労働力能や成果の違いを「給与」「お金」として表さなければならないのか、その点の説明は空白のままだ。
 最近ではその人が保持する労働力能への評価ではなく「職務」へと評価の対象をシフトさせ、その公正な評価を通じて、雇用形態の違いを理由とした賃金格差を是正させようという運動が活発だ。同じ価値の労働には同じ賃金を、というわけだ。
 だが「職務」の内容を公正に評価するシステムが出来たとしても、「低い評価」しか受けられない職務が無くなるわけではない。いや「低く評価される職務」があってもいい。逆に「高く評価される職務」もあってもいい。大切なことは、職務(労働)の「評価」を「給与」で表す必要性も必然性も、本当のところは無いということだ。
 「給与」や「所得」は、その人の暮らし・生活の必要性から導きだされるべきものだ。そのことと、その人がどのような労働(職務)を為しているかは全く別の問題だ。
 これは私のオリジナルな考えではない。ルドルフ・シュタイナーも次ぎのように語っている。「所得と職業、報酬と労働が一つになってしまっていること」が現代の悲惨の原因だ。「同胞のために働くということと、ある決まった収入を得るということは、相互に完全に分離された二つのことがらである」(『エンデの遺言―根元からお金を問うこと』NHK出版)。
 ここから地域通貨やベーシックインカム(基本所得)の構想や実践が生まれた。
 世界金融危機による世界的な景気後退は、日本でも大量の失業者を生み出している。いま必要な対策は、景気浮揚による雇用の創出などというマダラッコシイ方策ではない。暮らし・生活に必要な「所得」をまずは保障することだ。一万二千円の「定額給付金」はそっちに回して欲しい。



「はなかみ通信」2009.睦月(其の25通)に掲載

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 ■ 「労働」と「所得」の分離ということ

 子どもの頃から就きたい職業というものがなかった。実家が農家だったので、それだけは勘弁して、と言う気持はあったが、積極的にやりたい仕事というものは思い浮かばなかった。それは五四歳になる今でもまったく変わらない。
 地方の公立高校を卒業して京都に出てきてから三六年余。その間いろいろな仕事に就いた。西陣織ネクタイの営業、分析機器メーカーの溶接工、全国チェーン店の弁当屋、請負トラックの運転手、合板の営業と配送などなど。今は小さな地域スーパーの倉庫で働いている。会社や事業所名をあげると両手に納まらず、履歴書の行が足りなくなる。要するに今で言うフリーター、プレカリアートの走りなのである。
 決して意識してそういう職歴を重ねてきたわけではない。単に縁や偶然が重なっただけの話しだが、さりとて、特定の職業・職種に就くために集中して努力を重ねた、という経験もない。怠惰な性格と言えばそれまでだが、働くことに関して昔からが抱いてきた一つの疑問があったからだ。
 それは「なぜ労働と所得は結びつけて考えなければならないのか」という疑問だ。逆に言えば、労働と所得を結びつけることへのアンチの気持が強くあった。
 学校では職業に貴賎はない、と教えられた。しかし現実には職業、職種ごとに報酬が違う。もちろん報酬の多寡と職業の貴賎という尺度は位相が違う。しかし両者は大ざっぱに見れば重なるだろう。だからこの社会には、特定の報酬・所得と連動した職業の位階システムが存在し、それに就くための選抜システムとしての学校が存在する。
 私の疑問や気持とは裏腹に、世間では職業や職種ごとに報酬が異なることは「自明の理」だ。だって、何年も難しい勉強をしてきた弁護士さんやお医者さんと、コンビニでレジを打つアルバイト高校生の「時給」が同じではおかしいでしょ、というわけだ。
 ここでは仕事の内容の違い、つまりその仕事に必要な技術や知識を得るために投入された労力の総量の違いが報酬の違いとして理解され説明される。そこから高い賃金を得たければ自分の努力でスキルアップをして、より上位の職業・職種に就くことが奨励される。もっとも昨今は、その機会がロストゼネレーションの若者に閉ざされていることが「格差社会」として指弾されているが。
 人それぞれに能力の違いというのはある。そのことを否定しない。生まれ持った能力をベースにして、それに磨きをかけ訓練した後でも労働力能には差がある。当然、労働の成果においても違いは出てくる。
 しかし、そのことを全部認めてもなお、なぜ労働力能や成果の違いを「給与」「お金」として表さなければならないのか、その点の説明は空白のままだ。
 最近ではその人が保持する労働力能への評価ではなく「職務」へと評価の対象をシフトさせ、その公正な評価を通じて、雇用形態の違いを理由とした賃金格差を是正させようという運動が活発だ。同じ価値の労働には同じ賃金を、というわけだ。
 だが「職務」の内容を公正に評価するシステムが出来たとしても、「低い評価」しか受けられない職務が無くなるわけではない。いや「低く評価される職務」があってもいい。逆に「高く評価される職務」もあってもいい。大切なことは、職務(労働)の「評価」を「給与」で表す必要性も必然性も、本当のところは無いということだ。
 「給与」や「所得」は、その人の暮らし・生活の必要性から導きだされるべきものだ。そのことと、その人がどのような労働(職務)を為しているかは全く別の問題だ。
 これは私のオリジナルな考えではない。ルドルフ・シュタイナーも次ぎのように語っている。「所得と職業、報酬と労働が一つになってしまっていること」が現代の悲惨の原因だ。「同胞のために働くということと、ある決まった収入を得るということは、相互に完全に分離された二つのことがらである」(『エンデの遺言―根元からお金を問うこと』NHK出版)。
 ここから地域通貨やベーシックインカム(基本所得)の構想や実践が生まれた。
 世界金融危機による世界的な景気後退は、日本でも大量の失業者を生み出している。いま必要な対策は、景気浮揚による雇用の創出などというマダラッコシイ方策ではない。暮らし・生活に必要な「所得」をまずは保障することだ。一万二千円の「定額給付金」はそっちに回して欲しい。



「はなかみ通信」2009.睦月(其の25通)に掲載

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2009年01月21日
 ■ 雇用攻防―「ワークシェア」「生活保護」「派遣法抜本改正」を考える

  正規/非正規「共生」のワークシェア

 日本経団連がワークシュアリングを言い出している。御手洗会長が経済三団体の新年合同記者会見(6日)で、雇用確保策について「ワークシェアリング(仕事の分かち合い)も一つの選択肢だ」と発言し、15日には連合の高木会長との会談でもチラつかせた。「順番が違うだろう」と思う。昨秋以降、数万人の派遣労働者を切り捨てて路頭に迷わせ、いまも「派遣切り」を続けている張本人が、反省も何も無く「雇用確保策」と称してワークシュアリングを提案する。まったく空いた口がふさがらない。
 だが、よく考えれば御手洗にとっては「順番通り」なのかも知れない。「過剰」な派遣労働者は契約途中でも解約し、残った2009年に満期終了を迎える者(23万9000人)は自動的に辞めてもらう。そして、次なる経費削減策がワークシュアリングだ。その対象の多くは連合系の組合に加入している正規社員だ。
 となると連合がこのワークシェアに慎重になるのにもうなづける。しかし、こうした連合の対応に歯がゆさも感じる。なぜ派遣切りが急浮上した時、対案としてワークシェアを提案しなかったのか、と。正社員の時短と賃下げを受け入れてもなお派遣社員の雇用を守る、という気概を示せば、圧倒的な世論の支持を得られたはずだ。それは「年越し派遣村」への共感が証明している。
 その「派遣村」の全国事務局を担った全国ユニオンは、昨年の一二月の春闘セミナーで「正規・非正規『共生』のための緊急ワークシェアリング」を呼びかけた。その内容は、正社員の「時短とワークライフバランス(仕事と生活の調和)の実現」と、非正規労働者の「雇用の確保」を同時に追求するもの。具体的には正社員を「レイオフ(一時帰休)」し、非正規労働者で生産を稼働させ、休業補償は雇用調整助成金で対応させる、というものだ(「連合通信」No.8139)。
 「時短」ではなく「一時帰休」としているところは議論の余地があるかも知れない。だが大企業正社員の「働き方革命」を視野に入れている点は大いに評価できる。ワークシェアの精神には「仕事の分かち合い」と同時に「自由時間の分かち合い」という面があるからだ。
 せっかくの御手洗からのワークシェアの呼びかけだ、「雇用確保策」としてどうあるべきか、「政」(政/与/野)「労」(正規/非正規)「使」(大/中/小)の三者による大討論会をやってほしいものだ。

 命をつなぐ「生活保護」

 いま、もっとも強く雇用の危機にさらされているのは、昨秋から続いている「派遣切り」の被害者だ。「派遣村」にたどり着いた者の中には、命の危機にさらされている被解雇者もいた。雇用からの排除が即、命の危機に直結する現実。その時、我が身を支えてくれるのは「生活保護」である。
 「派遣村」では「村民」約250名が生活保護申請をし全員が受給決定を得た。生活保護で命をつなぎ再就職をめざすことになった。この報道は多くの人に「生活保護は誰でも使える制度」と自覚させたに違いない。しかし、これは運動によって勝ち取った「超法規的な特別扱い」ではない。そうではなく「法律本来の姿」なのである(生活保護支援14団体の声明「『派遣村』での生活保護活用こそ、法律本来の姿」1月15日)。
 生活保護を「施し」ではなく憲法二五条が保障する「国民の権利」として社会の中に埋め直さなければならない。
 生活保護は命をつなぐ「最後の砦」であるが、本来、失業者の生活を支える安全網は雇用保険制度だ。しかし現行制度は対象が正規労働者であることを前提としており、非正規労働者の多くは未加入である(約1005万人)。政府は加入条件を現行の「雇用見込み1年以上」から「半年以上」に緩和するなど、手直しようとしているが、それでも858万人が対象外となる(『日経』1月15日)。学生アルバイトやパートなどの短時間労働者も含め、希望する全ての働く者が「雇用保険」に加入でき、さらに、給付期間を伸ばして余裕をもった再就職活動と職能訓練が可能となるような「雇用保険制度」の改正が必要だ。

 派遣の原則禁止と「均等待遇」

 「派遣切り」が人災であるという認識が広く行き渡る中、製造業への派遣禁止が浮上している。これは当然のことだ。
 労働者派遣法は、1985年に成立し86年に施行されたが、当初は13業種に限定されていた。それが1999年に原則自由化され、さらに小泉政権下の2004年の改悪で製造業への派遣禁止が撤廃された。自動車、電気などの製造現場では、コスト削減策として常用代替の派遣労働者が活用され(現在46万人)これによって「競争力」が強まり輸出を急増させた。この間、キャノン、トヨタなどの大企業は巨額の内部留保金(34兆円)をため込んだ。
 サブプライムローン、リーマンショックはこの流れを逆転させている。まっさきに切られたのが製造現場での派遣労働者だった。景気の調節弁としての「派遣法」の本領がまさに発揮されたのだ。しかし「派遣切り」の原因に対する政府の見解は異なる。
 「今回の事態はサブプライムローンに端を発する金融危機の影響が日本経済に波及したもので、労働法制に起因するものではない」(鈴木宗男衆議院議員への閣議署名の政府公式返答)。
 この後に及んで自公政権は、派遣労働者の大量解雇が労働者派遣法という労働法制の規制緩和に端を発する「政治災害」であることを否定しているのである。この壁をくずさなければならない。その最低ラインが労働者派遣法を改正して製造業への派遣を再禁止することである。
 しかし派遣法の問題点は、2004年に製造業への派遣が解禁になったことだけではない。サービス業でも、流通業でも、不安と背中合わせの派遣労働は禁止されなくてはならないのだ。そして、どうしも必要な場面においては、正規社員との均等待遇を実現し、派遣契約が切れても生活できる措置が取られなければならない。つまり1999年の原則自由化される以前の状態に戻すことを柱とする「派遣法の抜本改正」がなされなければならない。
 それには次のような内応が盛り込まれる必要がある。

(1)派遣事業は専門的、一時的、臨時的な分野に限定する。
(2)登録型派遣は禁止する。
(3)常用型派遣においても日雇い派遣は禁止する。
(4)常用代替を目的とした派遣、グループ内派遣は禁止する。
(5)派遣期間を限定し(一年)それを超えた場合は直接雇用と見なす。
(6)派遣先企業は、派遣先正規労働者と派遣労働者の均等待遇の義務を負う。
(7)マージン率の上限を規制し公開させる。
(8)派遣先の事前面接、特定行為を禁止する。等々。

 製造業への派遣禁止については、現在、民主党もふくめ全野党が合意しつつある。野党だけではなく与党のプロジェクトチームも提出済みの「派遣法改正案」の「修正」のための作業をはじめている。そこでは「製造業への派遣禁止」も検討課題だという。危機は前方へと扉を押し開きつつある。
 「2009年」問題で新たに生み出される「派遣切り」被害者への支援を強めながら、これ以上被害者を出さないための「派遣法の抜本改正」を勝ち取ろう。



 この文章は、『グローカル』090/02/01号に掲載予定のものです

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2009年01月11日
 ■ 奨学金滞納者ブラックリスト化反対!学費をタダに!デモ

「奨学金滞納者ブラックリスト化反対!学費をタダに!デモ」のお知らせ

●日時:1月25日(日)午後1時~(3時デモ出発)
●場所:三条河川敷(京阪三条下車すぐ)

ただでさえ高い日本の大学の学費!
2008年末には、日本学生支援機構が、奨学金の滞納者がカードローンを組みにくくする「ブラックリスト化」を発表しました。

現在20万人以上の学生・元学生が、一年以上奨学金を返済できていないようです。
個人に400万以上の金を貸付け、利子をつけて返済を迫るシステムが、雇用・労働状況の悪化と共に崩壊しつつあります。

さぁそろそろデモでもしようか
学費タダに向けた物語の始まりの始まり
面白デモに、知り合いのスピーチ、交流会と何でもありの「学費タダの日」
学生もそうでない人も、友達さそって是非来てね!
あっそうそう、当日は仮装コンテストもやるみたい
バッチリ決めてきた人には豪華商品も出るかもね!

では日曜日に、京都で会いましょう

13:00 ~ 後期集中講座「高すぎる日本の学費と社会」(二単位)
14:00 ~ 公開講座「気づいたときには院生ワーキングプア」
15:00 ~ 徳政令デモ!
(三条河川敷→四条通り→烏丸四条→Uターン→三条河川敷)
16:00 ~ 「ちょっと話を聴いてくれ」
高学費に苦しむ学生と奨学金返済に追われる人々によるフリーアピール
(飛び入り歓迎)

ブラックリストの会

about
 『ブラックリストの会』は08年12月、日本学生支援機構が奨学金を三ヶ月以上滞納したひと(1年以上滞納している人は現在20万人以上!)を通報してカード・ローンを組めなくすると発表したこと(いわいるブラックリスト化)にはんたいする個人参加の集まりです。
 そもそも高すぎる日本の大学の学費をタダにしたいな~とも思ってるよ。奨学金の返済に悩んだり、学費がたかすぎて大学にいけないって思ったらアナタもブラックリストの会会員かも!
 テストが大変だ~っ!てひともにちようびは思いっきりオシャレして京都のまちにくりだそう!
デモしてもなんにもかわんないかも…
でも、
何もしないよりしたほうがいいかも…
でもでもでもでもデモ!

連絡先09078729327(しろー)

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2009年01月03日
 ■ 「ニュー野宿者」と「オールド野宿者」

 反貧困ネットワークの湯浅誠さんたちがやっている東京・日比谷公園の「派遣村」は、歴史を画する大闘争になりました。連日、正月のテレビニュースのトップを飾り、昨夜(2日)は、ついに厚労省の講堂が開放されました。ボランティアの人たちの献身的な活動に頭が下がります。「100年に一度の危機」にふわさしい、新しい時代のリーダー・活動家が生まれたように感じます。

 しかし、一方でちょっと懸念されることもあります。

 それは「派遣切り」によって、今まさに「野宿者」になろうと言う人たちと、従来からの「野宿者」の「分断」の問題です。

 この間、マスコミは「派遣切り」された被解雇者に焦点をあてた報道を続けています。報道の価値があるのは「ニュー野宿者」であって、従来からの「オールド野宿者」はおよびでない、と言わんばかりです。昨夜の厚労省の講堂開放も、日比谷公園の「派遣村」入村者に対して、という限定的なものではなかったでしょうか。

kita.jpg今日(3日)、大阪に出たついでに、扇町公園の「大阪キタ越年越冬闘争」に寄ってきました。今日の朝日新聞(関西)で日比谷「派遣村」の大阪版として紹介されていたところです。そこで、お話を聞いたボランティアスタッフの人も、私と同じことを懸念されていました。

 「派遣切りがマスコミでブームだけど、家がない、仕事がない、金がない、飯が食えない、なんてめずらしくないのにね。派遣切りされた労働者と、野宿の仲間が、仕事や居住のことを一緒に語っていけるといいが、厚労省の講堂開放への素早い動きを見ると、両者を分断したいんでしょう」

 日比谷だけはなく、路上で「年越し」を迎える人々を支援するための炊き出しやテント提供などの「越年越冬闘争」は、東京では他に山谷や渋谷の「のじれん」などがあり、全国的にも各地に存在します。関西では(私はまったく関わっていませんが)釜ケ崎で「越冬年闘争」がもう何十年も前から続けられています。

 ところが「派遣切り」報道ブームであるにも関わらず、イヤ、そうであるがゆえにか、マスコミは山谷や釜ケ崎の運動をまったく取りあげません。その一方で、派遣切りされ職を失った者への住宅提供と職業訓練を急げ、と主張しています。従来からの「野宿者」は放置、「派遣切り」による被解雇者は「救済」という厚労省の意を受けての報道姿勢なのでしょうか。

 とまれ、日比谷の「派遣村」が、この国の一流企業の非道さとセフティーネットの脆弱性をあぶり出し、政治をしてネット張りに動かざるを得なくさせた功績は絶大です。そのことは賞賛してもし過ぎるということはありません。

 そのネットを「選別的ネット(社会保障)」ではなく、従来からの野宿者もふくめた全ての人への「普遍的ネット(社会保障)」へと拡充させていくことができるかどうか、ここが今日のポイントのような気がします。

 そして、さらに言えば、そのネットを、就労促進のための手段と位置付けるのか(アメリカ型~スウェーデン型)、それとも、就労する/しないを含めた生活の自律権を保障するものとして位置付けるのか(オランダ型)、この微妙ではあるが大きな原理的な違いを踏まえ、私達は、新自由主義から次の社会へ、どう舵を切るのか、いま待ったなしに問われています。

 「ニュー野宿者」と「オールド野宿者」の連帯を!

 

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2009年01月01日
 ■ 新年あけましておめでとうございます!

 厳しい年明けとなりました。「100年に一度の経済危機」が進行中です。「派遣切り」「内定取り消し」など、人々の人生が翻弄されています。と同時に、支援・連帯の輪も急速に広がっています。ここに希望を見いだします。

 新年を迎えてすぐ、近くにある妙教寺に除夜の鐘を突きに行ってきました。檀家だけではなく、近所の人でいっぱいでした。その足で與杼(よど)神社にも初詣。ここも人でいっぱいでした。

 難局の中で人々はどこへ向かえばいいのでしょう。

 「不足を憂いず、等しからずを憂う」

 公共事業であれ、グリーン・ニューディールであれ、経済成長の再現で問題が解決するとは思えません。少ない富を公平に分かち合える社会の実現。このシンプルな目標にむけて、大きなつながりを作りだし、「CHANGE」を実現したいものです。

 本年もよろしくお願いいたします。

 2009年 元旦

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2008年10月02日
 ■ 「規制された資本主義」への転換か?

 アメリカ発の金融危機が凄まじいです。『日経新聞』が9月下旬に4回に渡って連載した特集のタイトルは「金融資本主義の誤算」。「グローバル経済の発展を支えてきた市場主義はどこで歯車が狂った(ママ)のか。マネーの膨張と収縮にゆれる金融資本主義はどこに向かうのか」。

 危機発生の地アメリカでは、75兆円の公的資金投入で不良資産を買い取る「金融安定化法案」が、民衆の突き上げによって、下院で否決されました。これをうけて世界的に株価が暴落(全世界で2000兆円の減価だとか)。再度、民衆の反発をかわすために12兆円の減税と抱き合わせの修正案が出され、上院を通過しましたが(2日)成立する保障はありません。

 民衆の怒りはもっもです。他人のお金でバクチして、大損して出来た穴を「税金」で埋め合わせる。すでに2つの政府系住宅機関の救済に22兆円、AIGの救済に9兆円。そして今度の「金融安定化法」です。リーマンを見捨てる一方で、この巨費(税金)の投入は、モラルハザード論が聞いて呆れます。なりふり構わず、とはこのことをいうのでしょう。それほど事態は深刻だということです。「小さな政府」を言い立てた金融資本主義(新自由主義的グローバリゼイション)が、結果として「大きな政府」を呼び寄せた、というのは、なんと皮肉なことでしょう。

 今は、金融危機の世界的な連鎖をくい止めるのに必死の様相ですが、それを食い止めることができたとしても、実体経済へのダメージは、すでに世界中に出始めています。アメリカの消費が落ち込む中、日本の自動車、半導体、家電メーカーは、いずれも米国市場での販売実績を軒並みマイナス10%~20%に落としています。その影響で、トヨタは中国工場での1割減産をはじめました。その中国(経済)はアメリカへの輸出が落ち込み黄色信号です。インドの成長も止まってしまいました。世界経済が縮小し始めています。

 「日本経済は全治3年」。知ったかぶりをしてこう言いまわっている麻生ですが、不思議なことに「病名」を言いませません。所信表明で言うかなと期待しましたが、やっぱり言いませんでした。「病名」も告げずに手術をする医者はいません。アメリカの当局者が「100年に一度の危機」と言い、「29年世界恐慌以上」と言っているのに、日本だけ「全治3年」のはずがないでしょ。29年恐慌の傷が癒えるのに少なくとも10年はかかっています。日本にもバブル崩壊後の「失われた10年」という言葉があるじゃないですか。

 私は今、歴史が大きな転換期に突入したように感じます。

 20世紀に入り、自由放任経済のツケが29年世界大恐慌となって爆発しました。そのなかから市場を国家によってコントロールする「新しい資本主義」=ケインズ主義が生まれました。ケイズ主義は戦後、世界に広がり、需要創出策はインフレと同時に「豊かさ」(福祉国家)を生み出しました。しかし、オイルショック(73年)を契機にインフレが「豊かさ」と結びつかなくなります。スタグフレーションです。

 このスタグフレーション打開の中から、ケインズ主義に代わる「新しい資本主義」=金融資本主義が生まれ出ます。お金と国家が堅く結びついていた時代(固定相場制)から、お金が国家を超えて世界に自由に展開する(変動相場制)時代が到来します。お金が交換の道具、蓄積の道具から、お金自身を買う道具に変化します。その極点に位置するのがデリバティブ、レバレッジ…ようするに、他人のお金でバクチをすること。「金融工学」などと難しそうに言いますが、ネズミ講とお同じゃないですか。いつか破綻することは分かっていました。

 そして、時代は、再び、お金の自由をコントロールする「新しい資本主義」を要請しています。

 フランスのサルコジ大統領は、23日の国連演説で、「『1930年代の経験(大恐慌)以来最も深刻な金融危機の教訓』を検討する必要があるとし、『金融活動が市場の相場師の判断だけに委ねられない、規制された資本主義』の再建に取り組むべきだと述べた」(2008年9月24日 読売新聞)

 「規制された資本主義」。これはアメリカ型の「市場万能」資本主義へのアンチであり、オルタナティブです。サルコジだけではありません。ブッシュ政権自身もサブプライム危機以降、投機を規制する法案を議会に提出しています。次期大統領を目指すオバマもマケインも「規制」を打ち出しています。日本だけです、「実需か投機かお金に書いてないから規制はできない」(伊吹文明)などと、時代錯誤のおとぼけで逃げいるのは。

 「資本主義の規制ではなく廃絶を!」。左翼たるものこの原則を忘れてはいけませんね~(^^;)。しかし、私は、いま起こっている「危機」だけではなく資本主義の「転換」の大さに身震いします。

 思えば、高校を卒業した年が73年でした。19歳。ネクタイの営業で大阪の街を走り廻っていました。その年の秋にオイルショックが起こり、アジェンデ政権が暴力的に破壊されました。あの時はまったく気付きませんでしたが、あれが、金融資本主義=新自由主義的グローバリゼイションの始まりだったのです。そして、それは、破綻しました。そして、29年恐慌の後にケインズ主義があらわれたように、サブプライム危機の世界的波及の中から、再び「規制された資本主義」を歓迎する声があがっています。

 しかし、この「転換」がどれくらいの深度になるのか、あるいは、すべきか。正直言って、事態の急速な展開に、頭がついていきません。整理すべきことが盛りだくさんです。例えば、サブプライム危機は、繰り返されてきたバブルの一つの崩壊に過ぎないのか、それとも、バブルを生み出す構造が破綻したのか。投機の規制というけど、投機にだけ限定すべきなのか、資本の自由な移動それ自身を規制(固定相場制の復活)すべきなのか。

 一つだけ確かなことがあります。アメリカ一極集中が、経済的に終わろうとしていること。その中で、アメリカに依存(輸出)して成長してきたグローバル企業の縮小は必至だということ。麻生自民党にしても、小沢民主党にしても、これが所与の現実です。このステージでは、「改革」政治はもはや通用しません。グッドバイ小泉。大きくか、小さくかは別にして「転換」は必至です。だから総選挙で、自民と民主のどっちが勝っても、日本は「変わり」ます。

 いま起きている資本主義の変容・転換は、日本の総選挙よりはるかに壮大です。衆議院解散も、ジワリ、ジワリと延びまじめました。

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2008年09月07日
 ■ 東レ商品の不買のお願い!

 派遣労働の「見直し」の動きが急です。自民党の総裁選や総選挙で国会での審議は遅れそうですが、一部の手直しや、労働者を放置するやり方ではなく、ヤクザ稼業の「ピンハネ」を合法化した政治家の責任も合わせて問題にしてほしいものです。

 以下に紹介するものは、地域のユニオン運動から届いたお願いです。派遣労働の問題点は、「日雇」の問題だけではなく、大企業が直接雇用を回避するために行う「グループ派遣」も問題です。この争議はSさん一人だけのものではないでしょう。

(注)小見出しは管理人


2008年9月

仲間の皆さん!

きょうとユニオン(京都地域合同労働組合)
京都市南区東九条上御霊町64番地の1アンビシャス梅垣ビル1階
Tel :075-691-6191
Fax:075-691-6145


■東レ商品の不買のお願い!

 皆さまにおかれましてはますますご清祥のこととお慶びいたします。 
さて、東レ・エージェンシー(派遣元)から東レリサーチセンターに派遣され3年2ヶ月間継続して働いていた組合員のSさんは、2007年5月31日に解雇されました。

 現在Sさんはこの不当解雇に対して、
①東レリサーチセンター(派遣先)に対する地位確認(派遣元の東レ・エージェンシーはグループ企業を中心にもっぱら派遣する会社であり、派遣先の東レリサーチセンターとの黙示の契約が成立していると主張)
②東レ正社員のセクハラ・ストーカー行為に対する損害賠償請求
を内容とした訴訟を行っています。

 この裁判・争議に勝利するために、全国の仲間の皆さんに、東レ(株)商品と東レが資本を25%出資している合弁会社―松下プラズマディスプレイの商品の不買を呼びかけます。

 ■セクハラ・ストーカー告発に対して報復解雇

 Sさんは、2002年9月に東レ・エージェンシーに派遣登録し、2003年7月から別の派遣先(東レ関連会社)に派遣させたあと、2004年4月1日から、東レリサーチセンター(派遣先)の面接を受け、専門の26業務である「事務用機器操作」に従事するという「派遣労働契約」を締結して,東レリサーチセンター滋賀事業場に派遣されました。
 しかし、実際に従事した仕事は専門業務といえるものではなく、一貫して庶務的な仕事であり、仕事内容についても派遣元から提示されたものは皆無で、就労してから新たな業務が次々に付け加えられていく、というずさんなものでした。

 東レ・エージェンシー(派遣元)は、業務内容を把握することもなく、勤務実態も月末の賃金計算時に知るという状態で、派遣元管理台帳も作っておらず、賃金さえも自らで決定することができず、すべて東レリサーチセンター(派遣先)の言いなりでした。

 さらに、2004年7月頃からSさんは、東レリサーチセンター(派遣先)に出向していた東レの男性正社員より、職場のみならず通勤途上でも2年以上にもわたって、執拗なセクハラ・ストーカー行為を受けていました。Sさんは被害からの救済を求めて東レ本社に訴えました。その結果、東レ側はSさんが東レリサーチセンター(派遣先)で今後も長く働き続けるための環境を整え、セクハラ行為を謝罪し、加害者を異動させることなどを約束し、一時的に別会社への異動を行いました。

 にも関わらずその後、東レ側は、加害者を元職場に戻すという方針転換を行い、派遣社員という弱い立場のSさんを排除することで問題を葬り去ろうとして、Sさんに解雇(第一次解雇)を言い渡しました。

 Sさんはこれに抗議し、解雇を撤回させ元職場に復帰し、結果的に加害者は自主退職したのですが、東レリサーチセンター(派遣先)の役職者や社員から、加害者に同情的な立場からの暴言が吐かれるなど、様々なセカンドハラスメントが行われました。

 そして最終的に、2007年5月末日、報復的な第二次解雇を行いました。この間、東レ・エージェンシー(派遣元)はこの問題に対して一切何も行わず、解決する努力を一貫して怠っていました。
 

 ■東レによるさらなる不当労働行為

 Sさんは、当組合に加入し団体交渉を申し入れ、解雇の撤回を要求しましたが、東レ側は一切誠実な団交を行いませんでした。3回行われた団体交渉には、派遣社員のSさんとは雇用関係がないという理由から、団体交渉を拒否していた東レリサーチセンター(派遣先)の役職者が、立会いと称して団交に介入し妨害を繰り返し、東レ・エージェンシー(派遣元)の弁護士までもがそれに加担したばかりか、セカンドハラスメントを積み重ねるという不当労働行為の状態が続いていました。

 これに対して労働組合側が地労委への救済申立てを準備中している最中に、派遣元と派遣先が結託して、あろうことか大津地裁にSさんを被告にした労働審判の申立てを行い、さらなる不当労働行為を行いました。

 東レリサーチセンター(派遣元)、東レ・エージェンシー(派遣先)とも東レ㈱の100%子会社の東レグループの企業です。現在、東レグループでは、もっぱら派遣など違法派遣が常態化しています。また、東レグループは、対外的には「人権意識の高い企業」「セクハラは、絶対容認しない」と、公言している企業です。そのような企業で、セクハラ・ストーカー行為が2年にも亘って続けられ、これを訴えたあとに行われたセカンドハラスメント、そして二回にわたる解雇、さらには、労働組合に対する不誠実団交と「労働審判制度」を悪用した更なる不当労働行為は決して許せません。

 Sさんは、今回の問題を決してSさん個人にかけられたものではなく、同じように働く派遣社員をはじめ全ての労働者の働く権利と尊厳を踏みにじるものであり、労働組合に対する不当労働行為であると考え、闘っていく構えを固めています。
 全ての皆さん!ぜひ、東レ(株)関連商品への不買にご理解をいただき、ご協力いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。

 ■東レ商品一覧

 東レ商品は多岐にわたり象徴的なものはありません。また、商品化されたものだけでなく、その前段の素材にも使われている場合がありますが、以下の商品をあげることができます。

◎トレビーノ(家庭用浄水器)
◎トレシー(メガネレンズ拭き)
◎トレシー(洗顔クロス)
◎ブレス・オー(コンタクトレンズ)
◎風通るシャツ(盛夏用カッターシャツ)
◎竹爽(竹繊維・服地)
◎キューブ(肌着)
◎ボディシェル(肌着)
◎シルック(きもの地)
◎ケバック(抗菌・防臭機能のふとんの中綿)
◎東レテトロン
◎東レナイロン
◎インターキャット(ペット用抗がん剤)
◎インタードック(ペット用抗がん剤)
◎テグス(釣具)
◎水着を始めスポーツウェア素材

◎エクセーヌ(鹿革調人工皮革/婦人靴・バックなど、高級家具・高級車のシート素材など)
◎トレカ(炭素繊維/テニスラケット・ゴルフクラブなどの素材)
◎その他、通販の「ディノス」「千趣会」などで東レ商品がカタログ販売されています。
◎スポーツ分野/東レパンパシフィックテニス・東レ杯上海国際マラソン主催
バレーボールプレミアリーグ男女とも出場。
◎テレビの提供番組/冠番組「世界うるるん滞在記」(TBS系日曜22時)
ニュース23(TBS系)報道ステーション(ABC関西エリア)など

◎松下パナソニックプラズマディスプレイ(東レが資本の25%を出資)

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2008年07月22日
 ■ 職場占拠で「破産」「解雇」と闘う大美堂労組を訪ねて

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 京都に西京極というところがあります。阪急電車の「西京極駅」を降りると、全国高校駅伝や都道府県対抗女子駅伝のスタート=ゴール地点として知られる西京極陸上競技場があります。そこは同時にJリーク・京都サンガの本拠地でもあります。隣には西京極野球場もあり、関西六大学や高校野球のメッカとなっています。

 この一群のスポーツ施設から東に10分ほど歩いたところに、京都の中堅印刷会社=(株)大美堂印刷社の社屋・工場があります。先月27日、突然、社長が「事業閉鎖=破産」を宣言をし、約60名ほどの社員全員を「解雇」しました。前日には、労働組合の夏の一時要求に対して「7月7日に回答する」と答えたばかりですから、まさにだまし討ち的な「事業閉鎖=破産」といえます。
 この一方的な社長の蛮行に対して、大美堂労働組合(従業員の約半数を組織)は、即日「全員解雇・事業廃止を許さない」という要求を掲げ、会社社屋への泊まり込み・職場占拠をはじめました。闘争はもうじき一ヶ月を経過しようとしています。

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 7月22日、気温が37.4Cもあったこの日、西京極球場の高校野球「準決勝」を観戦したその足で、大美堂労組を訪ねました。新築マンションの群に埋もれるように大美堂印刷はありました。工場の門は、閉鎖されていました。蛇腹の門扉には争議を支援する組合の赤旗が林立しています。労働組合に電話をするとすぐに開門にきてくれました。頭に赤いはちまきを絞めた委員長じきじきのお出ましでした。
 とはいえ、ここの委員長の奥田さんとは、もうずいぶん以前からの知り合いです。かれこれ35年になるでしょうか。まったく裏表のない人で、職場でも地域でも信頼されています。その昔、私も含め8名の同僚で、会社の御用組合に対抗して少数組合を立ち上げ、それを理由に組合員全員が解雇された争議でも、無心で支援をしていただきました。今度は、私(たち)が、支援する番です。

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 奥田さんから、工場の中を詳しく案内していただきました。印刷機の種類、工程の流れ、どの機械が新しく、どの機械が古いか、などなど。印刷の知識はありませんが、奥田さんが、いかにこの仕事・職場を愛しているか、伝わってきました。応対は、奥田さんの他に、版下工程を30年以上やってきた人、輪転機を18年間回してきた人。版下の仕事は、コンピュターからのダイレクト印刷の普及で、急速に無くなってきた、こと。輪転機も、忙しい時の半分以下に仕事が減っていたこと、など話してくださいました。

 印刷業界というと斜陽産業というイメージがあります。大美堂印刷も売り上げが全盛期の三分一にまで落ち込む中、債務が9億円になりました。しかし、話しの中ではじめて知ったことですが、大美堂印刷は王子製紙とタイアップしてユポ印刷を最初にはじめた印刷会社なのでした。ユポ印刷とは樹皮への印刷のことで、選挙用のポスターの多くは10年ほど前から、紙からユポに変わりました。昨年の統一地方選挙でも、大美堂では政党をこえて、450名ほどの候補者のポスターを印刷したそうです。

 その意味では、経営は厳しいが、技術力は先端を行っている、という自負が働いている人にはあります。それが、今日の事態になったのは、ひとへに、ベテラン営業職を大幅にリストラするという方向違いの「改革」以外に、なんら事態打開の手をうたなかった中路社長の無責任さにある、との意見で労働者は一致します。だからこんな無責任な「破産」「全員解雇」は絶対に認めることはできない、と。

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 意気軒昂に闘い続ける大美堂労働組合。しかし事業に不可欠な紙・インクなど原料の値上げは続き、中小・零細の印刷会社の倒産が増えていることも事実です。加えて、組合員にも、年老いた親の介護など、日々の生活があります。これを機会に新しい生活を始めたい、と思ったとしても、誰も責めることはできないでしょう。

 闘争が長期になることは必至です。非正規雇用の若者によるユニオン運動が広がる中、30年、40年働いてきた大人の労働者が、気まぐれな無責任経営者に、きちんとした責任をとらせること。困難ではあれ、それを実現することは、地域の多くの労働者の共有の財産となるでしょう。

 「行動があったら知らせて下さい。駆けつけますから」。門まで送ってくれた奥田委員長にこう約束して、赤旗が翻る大美堂印刷を後にしました。



大美堂労働者は全員解雇・事業廃止を許さない!

大美堂労働組合


■突然の解雇通告と多額の未払い賃金

 6月27日、夕方、中路社長から突然、社員全員に集合するよう指示がありました。
 何事かと全員が集合したところ社長が「もうしわけありません、会社を閉鎖する、あとは代理人の南弁護士にまかせる」とだけ発言し、それ以降は会社側代理人の南弁護士が「退職金はいつ、いくら払えるかわあらない、私物をまとめて30分後に退出してくれ」と一方的に言い渡しました。代理人がしゃべっている間に社長はいつのまにかいなくなっていました。
 大美堂に30年、40年働いて労働者もいるのに、満足な謝罪や説明もなく紙切れ一枚で解雇されたのです。
 その後、社長は雲隠れし連絡がとれません。それどころか破産申請の申し立てを早急におこない。私たちの反対の声を無視して事業廃止を強行しようとしています。

■社長は謝罪し団体交渉に出席せよ

 多くの労働者が大美堂労組に参加し、不当解雇撤回と事業継続にむけ戦う決意をかためています。6月27日から組合員は会社に泊まり込み労働債権確保の戦いを開始しています。
 私達、大美堂労組は不当解雇撤回と事業継続にむけ全力で戦う決意です。私達の闘いにご理解とご支援をお願いします。


●連絡先 080-3835-1590
●京都市右京区西京極豆田町7
●カンパ振込先 ゆうちょ銀行

 記号14440 番号17722201 奥田雅雄


ブログ★大美堂労組を支援するつどい
中西印刷労働組合の有志の方々が、メーリングリストとリンクしたブログで、闘争の様子を報告しています。ごらんください。

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 ■ 教員採用は「くじ引き」で

 大分県の「教員採用汚職」が大きな問題になっています。他の府県でも似たような状況であることが徐々に明らかになりつつあります。しかし、いったいこの事件、何が問題なのでしょう。

 教員という地位を手にいれるために「お金」が動いていた、というとことが一つ。それに「コネ」というもの問題です。でも「コネ」は、「自治体は民間を見習え」という橋下・大阪府知事流に言えば、「民間」のほうこそ先進です。採用に際して「コネ」が第一で「成績」は第二の世界です。教育の世界でも私立高校の教員の多くは「コネ」と「口利き」で採用されます。大学の教員も然り、ですよね。

 で、結局、今回の問題で、最後に残るのは「金で教員の地位を買うのが悪い」ということになります。では、どう「改革」したらいいのでしょう。多くの人々は、教員採用は試験の「成績順」にすべきだ、と思っていることでしょう。はたして、それでいいのでしょうか。

 教員採用の要件に、試験の成績「以外」の要素を入れることは、別に悪い話しではありません。それはすでに行われています。文科省や教育再生会議が奨励する「社会人教員」制度がそれです。これは教員免許を持っていない社会人を「特別枠」で教員にしようというもので、将来的には教員の2割にまで増やそうという話しです。採用に際して、ここでは「成績順」は適用されません。

 この「社会人教員」と比べれば、今回、「不正採用」された「教員」は、少なくとも教員免許を取得している人たちです。ですから「教員としての資質」は問題ないはずです。もし、問題があるとするならば、それは教員免許を与えるシステムのほうにある、ということになります。

 一方、「成績」以外の要素として「お金」と「コネ」が強い力を発揮するというのも、困ったものです。なぜなら、それは著しく公平性・機会の平等に反するからです。そこで人々は、反射的に「成績順に採用するのが一番公平だ」と思ってしまうわけですが、私は、その考えを採りません。

 むしろ、成績順による採用は「成績」に表れる階層的な有利、不利の「不公平」を不問するのでより悪質だと思っています。現ナマで露骨に地位を買うのはダメだが、所持する「文化資本」で「成績」を「買い」その「成績」で教員という地位を手に入れるのは「公平」だ、などと言えるはずがありません。

 私は、本当に教員採用に際して公平性を担保したいのであれば、くじ引きで決めるのが一番だと思います。「コネ」「金」はもちろんのこと「成績順」よりも偏りのない採用になるに違いありません。
 公立学校の教員採用をくじ引きで決めて、なにか不都合なことがあるでしょうか。

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2008年06月23日
 ■ アキバ事件―「派遣」を使い捨てるトヨタに責任あり

  クローズアップされる「派遣問題」

 人は一人の力で七人もの人間を殺すことはできない。戦争が典型だが犯罪もまた同じである。
 東京・秋葉原で起きた無差別殺傷事件の背景に、派遣労働者に対する苛酷で不当な待遇があることがクローズアップされている。派遣などの非正規雇用の増大による格差拡大が若者を絶望感に追いやっているとの指摘も多い。
 犯罪の背景にある「社会問題」が強調されるのは最近ではめずらしい。七年前の同じ日に起きた池田小学校事件では、宅間守の「異様さ」「暴力癖」のみが語られ、宅間が阪大付属池田小学校という自分より上位の階層に属する子供たちが通う学校を標的に選んだことの意味は、ほとんど触れられることはなかった。
 これとくらべると今回の事件の世間の受け止め方は明らかに違う。宅間守が公判でも胸の内を語らなかったのに対して、秋葉原事件の容疑者・加藤智大(二五歳)は携帯電話サイトの掲示板に様々なメッセージを書き込んでいたことが大きい。「高校出てから八年、負けっ放しの人生」「勝ち組みはみんな死んでしまえ」。同じ境遇にある若者が「気持はわかる」と反応した。
 政府も素早く「再発防止策の検討」を行い「派遣の見直し」を示唆した。記者会見で町村官房長官は「派遣社員の身分の不安定さが本人の精神的不安定を呼んだとの解説もあり、派遣労働者への規制のあり方は今のままでいいのか考える必要がある。できるだけ常用雇用を増やしていく方向で見直すこともある」と語った(『朝日』六月十二日)。
 派遣制度の問題点が社会で注目されるのはいいことだ。派遣会社の「自主ルール」や一部の「見直し」ではなく「廃止」すべきである。しかしこうした制度の改変をめぐる問題と平行して、今回の事件に即して関連する企業の法的・社会的な責任が問われなければならない。

  加藤容疑者の解雇への怒りは正当だ

 加藤容疑者が事件を「決意」したのは、派遣先の関東自動車から、まったく唐突に「契約途中解約」=解雇通告を受けたことを契機にしている。そこには単に就労の機会が奪われることへの不安だけではなく、その過程で人間としての誇りや尊厳を深く傷つけられたことへの怒りがあったに違いない。そしてこの怒りを秋葉原で暴発させたと推測できる。
 むろん一七人もの市民を殺傷するような怒りの爆発の仕方は許されない。しかし加藤容疑者の抱いた怒りそれ自身はまったく正当なものだったと擁護したい。この点をあいまいにすると日研総業の責任も関東自動車工業=トヨタの責任も見えてこない。
 日研総業と関東自動車の間には本年四月から来年三月まで一年間の「派遣契約」があった。それが「六月三〇日をもって契約を解除する」旨の一方的通告が日研総業をふくむ四つの派遣会社(約二〇〇名の労働者を派遣)になされたのが五月下旬。それは加藤容疑者にも告げられた。
 この「契約途中解約」は「派遣契約を途中解約する場合は派遣先企業が労働者に就業機会を確保すること」と定めた厚労省告示第四四九号「派遣先が講ずべき措置に関する指針」に違反していることは濃厚である。関東自動車は当然この件で説明責任がある。
 一方、加藤容疑者にとって、関東自動車からの「解雇」は特別のダメージがあったはずだ。昨年十一月に東富士工場に派遣されて塗装検査の仕事につくまで、加藤容疑者は非正規雇用の仕事を転々としていた。工事現場の誘導員、自動車工場、住宅建材工場、トラック運転手などなど。社会に出たのが就職氷河期のまっただ中だからだ。だからトヨタの子会社=関東自動車で働くことには「再出発」の夢が込められていた。正社員への登用という夢だ。その夢が「契約途中解除」で断たれた。加藤容疑者の落胆は相当なものだっただろう。
 しかしダメージはそれだけにとどまらない。いったん「解雇通告」された後に今度は「契約延長」を告げられる。一部の論者はこのことをもって「解雇通告」と事件とは無関係だと主張する。しかし、事実は逆だろう。何故なら「契約延長」の理由は、人員を削減しすぎて納期が間に合わなくなったことにあるからだ。一方的に婚約破棄された相手から「新しい結婚相手が見つからないから、結婚して欲しい」と言われたに等しい。これは人間の尊厳を深く傷つける。
 この関東自動車の理不尽さに加藤容疑者は怒りを募らせる。「お前らが首切っておいて、人が足りないから来いだと?おかしいだろう」と掲示版に書き込む。この怒りは正当だ。そして「ツナギ事件」が起こる。真相は定かではないが加藤容疑者は「辞めろってか、わかったよ」と一つのクギリを付ける。事件が起きたのはこの書き込みの三日後である。
 日研総業と関東自動車工業は事件後「お詫び」のコメントを公表した。しかし「契約中途解約」(解雇)には触れていない。関東自動車は日研総業に日研総業は派遣労働者に責任を丸投げしているだけだ。加藤容疑者が「契約途中解約」の通告さえ受けなければ事件は起きなかった、かも知れない。関東自動車は、なぜ唐突に「契約途中解約」を二〇〇名の労働者に対して行ったのか。その背後に親会社=トヨタの影響は無かったのか。

  非正規を使い捨てるトヨタの罪

 トヨタ自動車が売り上げ高、経常利益とも過去最高を記録したと発表したのは五月の決算報告会であった。販売総額二六兆円、営業利益二・七兆円、純利益一・七兆円という膨大な数字であった。こうした利益を支えてきたのは販売台数の延びもさることながら、トヨタによる子会社、さらにはその下に位置する元請け、孫請、三次下請け、四次下請けと続く下請け企業への支配の強化だった。さらに九〇年代後半からは期間工、請負、派遣、外国人研修生などの非正規労働者の活用があった。
 ところが同じ日、渡辺捷昭社長(六七)は、今後の方針として「徹底した節約」を指示した。「世界経済の潮目が変わった」からだ。円高による差益損、原資材の上昇、米国景気下落という「三重苦」により、今年の売上は四・九%、営業利益は二九・五%減も減少するとの予測が出ていた。
 渡辺は、かつて主要一七三部品の原価を平均三〇%節減させたほどの辣腕トヨタマンだ。「乾いた雑巾から水を搾り取る」トヨタ式下請けイジメで台頭してきた男だ。その当の人物がグループ全体で三〇〇〇億円のコスト削減を決定した。五月下旬のことである。
 この決定は即座に全子会社に具体的な削減目標と共に通告されたと推測される。当然、関東自動車本社と東富士工場にも通告されたに違いない。その具体的内容は知る由もないが、その後、東富士工場で何が起こったかを考えれば、容易に想像がつく。
 トヨタは今、一見、非正規雇用から正規雇用へと転化するかのような動きをみせている。だが行われていることは非正規雇用者の切り捨てだ。販売が拡大している時期には低コスト低リスクの非正規雇用者を活用してボロ儲けをし、「世界経済の潮目」が変わり始めたら、今度はボロ儲けを維持するために「三重苦」で生じる減収を非正規雇用者の切り捨てで穴埋めしようという算段だ。その最初の標的にされたのが、加藤容疑者を含む東富士工場の派遣社員だ。
 「負け組みの絶望感が社会を切り裂く」。こんな副タイトルを付けた本が注目されてから四年が過ぎた。警告は現実になった。時代を象徴する街=アキバの交差点を二トントラックが疾走し、降りてきた運転手は手にしたガダーナイフで人と街を切り裂いた。「誰でもよかった」。そう語ったとされる加藤容疑者だが、はたしてナイフの柄に添えられていたのは加藤容疑者の手だけだったのか。
 加藤容疑者の罪は重い。しかし、トヨタ、関東自動車、日研総業、そして労働の規制緩和を進めてきたすべての政治家、学者の罪もまた重いのだ。

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 ■ アキバ事件―「派遣」を使い捨てるトヨタに責任あり

  クローズアップされる「派遣問題」

 人は一人の力で七人もの人間を殺すことはできない。戦争が典型だが犯罪もまた同じである。
 東京・秋葉原で起きた無差別殺傷事件の背景に、派遣労働者に対する苛酷で不当な待遇があることがクローズアップされている。派遣などの非正規雇用の増大による格差拡大が若者を絶望感に追いやっているとの指摘も多い。
 犯罪の背景にある「社会問題」が強調されるのは最近ではめずらしい。七年前の同じ日に起きた池田小学校事件では、宅間守の「異様さ」「暴力癖」のみが語られ、宅間が阪大付属池田小学校という自分より上位の階層に属する子供たちが通う学校を標的に選んだことの意味は、ほとんど触れられることはなかった。
 これとくらべると今回の事件の世間の受け止め方は明らかに違う。宅間守が公判でも胸の内を語らなかったのに対して、秋葉原事件の容疑者・加藤智大(二五歳)は携帯電話サイトの掲示板に様々なメッセージを書き込んでいたことが大きい。「高校出てから八年、負けっ放しの人生」「勝ち組みはみんな死んでしまえ」。同じ境遇にある若者が「気持はわかる」と反応した。
 政府も素早く「再発防止策の検討」を行い「派遣の見直し」を示唆した。記者会見で町村官房長官は「派遣社員の身分の不安定さが本人の精神的不安定を呼んだとの解説もあり、派遣労働者への規制のあり方は今のままでいいのか考える必要がある。できるだけ常用雇用を増やしていく方向で見直すこともある」と語った(『朝日』六月十二日)。
 派遣制度の問題点が社会で注目されるのはいいことだ。派遣会社の「自主ルール」や一部の「見直し」ではなく「廃止」すべきである。しかしこうした制度の改変をめぐる問題と平行して、今回の事件に即して関連する企業の法的・社会的な責任が問われなければならない。

  加藤容疑者の解雇への怒りは正当だ

 加藤容疑者が事件を「決意」したのは、派遣先の関東自動車から、まったく唐突に「契約途中解約」=解雇通告を受けたことを契機にしている。そこには単に就労の機会が奪われることへの不安だけではなく、その過程で人間としての誇りや尊厳を深く傷つけられたことへの怒りがあったに違いない。そしてこの怒りを秋葉原で暴発させたと推測できる。
 むろん一七人もの市民を殺傷するような怒りの爆発の仕方は許されない。しかし加藤容疑者の抱いた怒りそれ自身はまったく正当なものだったと擁護したい。この点をあいまいにすると日研総業の責任も関東自動車工業=トヨタの責任も見えてこない。
 日研総業と関東自動車の間には本年四月から来年三月まで一年間の「派遣契約」があった。それが「六月三〇日をもって契約を解除する」旨の一方的通告が日研総業をふくむ四つの派遣会社(約二〇〇名の労働者を派遣)になされたのが五月下旬。それは加藤容疑者にも告げられた。
 この「契約途中解約」は「派遣契約を途中解約する場合は派遣先企業が労働者に就業機会を確保すること」と定めた厚労省告示第四四九号「派遣先が講ずべき措置に関する指針」に違反していることは濃厚である。関東自動車は当然この件で説明責任がある。
 一方、加藤容疑者にとって、関東自動車からの「解雇」は特別のダメージがあったはずだ。昨年十一月に東富士工場に派遣されて塗装検査の仕事につくまで、加藤容疑者は非正規雇用の仕事を転々としていた。工事現場の誘導員、自動車工場、住宅建材工場、トラック運転手などなど。社会に出たのが就職氷河期のまっただ中だからだ。だからトヨタの子会社=関東自動車で働くことには「再出発」の夢が込められていた。正社員への登用という夢だ。その夢が「契約途中解除」で断たれた。加藤容疑者の落胆は相当なものだっただろう。
 しかしダメージはそれだけにとどまらない。いったん「解雇通告」された後に今度は「契約延長」を告げられる。一部の論者はこのことをもって「解雇通告」と事件とは無関係だと主張する。しかし、事実は逆だろう。何故なら「契約延長」の理由は、人員を削減しすぎて納期が間に合わなくなったことにあるからだ。一方的に婚約破棄された相手から「新しい結婚相手が見つからないから、結婚して欲しい」と言われたに等しい。これは人間の尊厳を深く傷つける。
 この関東自動車の理不尽さに加藤容疑者は怒りを募らせる。「お前らが首切っておいて、人が足りないから来いだと?おかしいだろう」と掲示版に書き込む。この怒りは正当だ。そして「ツナギ事件」が起こる。真相は定かではないが加藤容疑者は「辞めろってか、わかったよ」と一つのクギリを付ける。事件が起きたのはこの書き込みの三日後である。
 日研総業と関東自動車工業は事件後「お詫び」のコメントを公表した。しかし「契約中途解約」(解雇)には触れていない。関東自動車は日研総業に日研総業は派遣労働者に責任を丸投げしているだけだ。加藤容疑者が「契約途中解約」の通告さえ受けなければ事件は起きなかった、かも知れない。関東自動車は、なぜ唐突に「契約途中解約」を二〇〇名の労働者に対して行ったのか。その背後に親会社=トヨタの影響は無かったのか。

  非正規を使い捨てるトヨタの罪

 トヨタ自動車が売り上げ高、経常利益とも過去最高を記録したと発表したのは五月の決算報告会であった。販売総額二六兆円、営業利益二・七兆円、純利益一・七兆円という膨大な数字であった。こうした利益を支えてきたのは販売台数の延びもさることながら、トヨタによる子会社、さらにはその下に位置する元請け、孫請、三次下請け、四次下請けと続く下請け企業への支配の強化だった。さらに九〇年代後半からは期間工、請負、派遣、外国人研修生などの非正規労働者の活用があった。
 ところが同じ日、渡辺捷昭社長(六七)は、今後の方針として「徹底した節約」を指示した。「世界経済の潮目が変わった」からだ。円高による差益損、原資材の上昇、米国景気下落という「三重苦」により、今年の売上は四・九%、営業利益は二九・五%減も減少するとの予測が出ていた。
 渡辺は、かつて主要一七三部品の原価を平均三〇%節減させたほどの辣腕トヨタマンだ。「乾いた雑巾から水を搾り取る」トヨタ式下請けイジメで台頭してきた男だ。その当の人物がグループ全体で三〇〇〇億円のコスト削減を決定した。五月下旬のことである。
 この決定は即座に全子会社に具体的な削減目標と共に通告されたと推測される。当然、関東自動車本社と東富士工場にも通告されたに違いない。その具体的内容は知る由もないが、その後、東富士工場で何が起こったかを考えれば、容易に想像がつく。
 トヨタは今、一見、非正規雇用から正規雇用へと転化するかのような動きをみせている。だが行われていることは非正規雇用者の切り捨てだ。販売が拡大している時期には低コスト低リスクの非正規雇用者を活用してボロ儲けをし、「世界経済の潮目」が変わり始めたら、今度はボロ儲けを維持するために「三重苦」で生じる減収を非正規雇用者の切り捨てで穴埋めしようという算段だ。その最初の標的にされたのが、加藤容疑者を含む東富士工場の派遣社員だ。
 「負け組みの絶望感が社会を切り裂く」。こんな副タイトルを付けた本が注目されてから四年が過ぎた。警告は現実になった。時代を象徴する街=アキバの交差点を二トントラックが疾走し、降りてきた運転手は手にしたガダーナイフで人と街を切り裂いた。「誰でもよかった」。そう語ったとされる加藤容疑者だが、はたしてナイフの柄に添えられていたのは加藤容疑者の手だけだったのか。
 加藤容疑者の罪は重い。しかし、トヨタ、関東自動車、日研総業、そして労働の規制緩和を進めてきたすべての政治家、学者の罪もまた重いのだ。

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2008年01月07日
 ■ 闘う女性マッサージ師、勝利的和解かちとる

メーリングリスト[shokuba_no_jinken]の投稿をそのまま紹介します。



[shokuba_no_jinken][00719] 第一物産争議、解決いたしました。


研究会『職場の人権』の皆様
明けましておめでとうございます。
 きょうとユニオンの○○○○です。本年も、よろしくお願いいたします。さて第一物産争議の件ですが、おかげさまで、昨年末の2007年12月29日に、京都府労働委員会において(株)第一物産と、きょうとユニオンとの間で和解が成立いたしました。

和解の内容についてですが、
会社側は、マッサージ師組合員およびパート組合員に対して、ほぼ組合の要求額に見合う解決金を支払うことを約束。
そして組合側は、この条件で退職に応じる。
ことで合意・解決いたしました。したがって職場泊り込みは、昨年末の12月31日大晦日に解除いたしました。

 第一物産の組合員が3ヶ月にわたって職場泊まりこみを続けましたが、これもユニオンや地域の労働組合、そして、研究会『職場の人権』の皆様方のご支援とカンパのおかげで勝利できました。組合員にとっても良い年越しとなり、喜んでおります。
 
 なお第一物産側においては、今後の更なるリストラが予想され、きょうとユニオンとしては対応を準備しているところです。
 皆様のご支援、誠に有難うございます。今回の勝利は、皆様のご支援の賜物です。重ねがさね、御礼申し上げます。

きょうとユニオン 執行委員
○○ ○○

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2007年11月13日
 ■ 闘う女性マッサージ師

 京都一番の繁華街=四条河原町。その一角で異色の労働争議が続いています。現場は、四条河原町を下がった「焼き肉の南大門」があるビルの3F~5Fのサウナ。ここで働く60歳代、70歳代の女性マッサージ師たち19人が、店の閉店とリストラに抗議して連日、就労=泊まり込み闘争を続けています。

 背景には、あの「ホリエモン」にフジテレビ買収の資金を提供した投資ファンド「リーマンブラザース」(本社・東京六本木ヒルズ)の存在があります。サウナ店や焼き肉店を経営する会社=(株)第一物産=本社・京都市中京区の債権を握り、言いなりにさせようとしています。今回の閉店・リストラもリーマンブラザースの指示によっておこなわれました。

 泊まり込みはすでに40日を過ぎました。しかしマッサージ師たちはいたって元気です。人生の荒波をくぐり抜けてきた彼女らにとって、ハゲタカファンド=リーマブラザースもなんら恐れずに足らず。東京にまで出掛けていき、六本木ヒルズビルの前で、ビラまき行動などをやっています。

 闘うマッサージ師に支援を。事業再開でリストラを撤回せよ。

2007年11月07日 「読売新聞」京都版より(PDF)

●闘う女性マッサージ師
  ・四条河原町のサウナ閉店
●19人営業再開求め泊まり込み
●ベテラン70歳「お客さんの笑顔励みだった」
  ・外資債権取得リストラ



 京都・四条河原町のサウナ店が開店した。レジャー多様化の波をかぶって赤字が膨らみ、外資系企に債権を買い取られた運営企業が系列店のリストラに乗り出した。「雇用を守れ」「閉鎖撤回」。従業員らは手書きの横断幕を掲げて、店での泊まり込みを続ける。
 最高齢71歳から44歳までの女性マツサージ師ら19人。「お客さんのためにマッサージを続けたい」と口をそろえ、閉鎖された店内で、厚いタオルを一枚一枚たたみながら、客の訪れを待っている。(沢野未来)



 むくんだ両手のどの指も、ごつごつした茶色のタコが盛りあがる。「昔は白くてきれいな手だったんだよ。すっかり手の指が変形しちゃつた」。泊まり込みを続けている中田初子さん(70)は、マッサージ師歴数十年。その勲章ともいえる指のタコに胸を張る。
 パチンコ店などを運営する第一物産(中京区)が経営していた「グリーンプラげ河原町店」(下京区)。10月1日に20年の歴史を閉じた。

 マッサージや宿泊施設、レストランなどを備え、バブル期には会社員らでにぎわった。近年、低価格のスーパー銭湯や、シャワー付きのネットカフェに客を奪われ、赤字続きに。昨春から夏にかけて、外資系投資銀行リーマンブラザーズの関連企業が第一物産の債権を取得。

 第一物産は赤字の圧縮を目指して、昨年6月に系列の山科店を閉じ、今年7月には西京区内と河原町店の2店の閉鎖も決めた。 「私たちの生活はどうなるのか」。反発した従業員らは個人加盟労組「きょうとユニオン」に助けを求め、第一物産に営業の継続と雇用を訴えた。10月17日には府労働委員会に救済申し立てを行った。

 リーマンブラザーズ広報部は「第一物産の労働問題にかかわる立場にはない」と説明する。第一物産の坂本真吾常務は「かつて夜のレジャー施設はサウナぐらいだったが、時代の流れの中で厳しくなり、赤字が大きくなりすぎた」と話す。

 確かに、店には流行の岩盤浴も、インターネットもない。けれども、古ぼけてはいてもピカピカに磨かれた床、なみなみと湯をたたえた湯船、真っ白なシーツがしわ一つなく並べられた2段ベッドは、これまでと変わらず、疲れをいやす客を待っている。

 「若い子のマッサージがいいでしょ、とお客さんに言ったら、『ほんまに、疲れをほぐしてもらいたいから来るんや。京都で一番うまいで』と言われたんだよ」。中田さんは言う。
  「『ありがとう、楽になったよ』というお客さんの笑顔で、世の中の役に立っている、がんばろうつて思えてん」。

  同社は、系列パチンコ店やレストランへの配置転換を働きかけたが、従業員らは「マッサージ師こそが、私たちの仕事」と応じず、10月12日付で全員が解雇された。
 同社は店からの立ち退きを求めているという。


<激励先>
 きょとユニオン・第一物産分会
 京都市南区東九条上霊町64-1アンビシャス梅垣ビル1階
 TEL 075-691-6191 FAX075-691-6415

<抗議先>
◆リーマンブラザーズ証券株式会社
◇サンライズファイナンス株式会社 トマス・ピアソン社長
 東京都港区六本木六丁目10番1番 (六本木ヒルズ森タワー20F)
 電話03-6440-3000 (リーマンブラザース代表)

◆株式会社第一物産 坂本照子社長
  パチンコ店オメガ・サウナグリーンプラザ・屋肉にの南大門などを経営!
 京都市中京区大宮四条上ル錦大宮町131番地
 075-841-1102  FAX075-811-2387

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2007年10月22日
 ■ ワークフェア vs ベーシック・インカム――貧困・格差を超える新しい福祉ガバナンス

 ◇福祉を切り捨てる「ワークフェア」

 『季刊 ピープルズ・プラン』三九号が「労働と生活の場から貧困を撃つ」という特集を組んでいる。その中に湯浅誠さん(自立生活サポートセンター「もやい」事務局長)のインタヴューが掲載されている。現代の「貧困」を告発する湯浅さんの現場からの報告は読み応えがあった。その中でワークフェアについて触れている部分が特に考えさせられた。
 ワークフェアとは、福祉を給付する際にその条件として就労か職能訓練プログラムを義務づける考え方のことである。日本ではこの用語はあまり普及していないが「自立支援」や「再チャレンジ」と同じであると考えてよい。
 湯浅さんがワークフェアを問題とするのは、生活保護受給者を自立=就労に追い立て、追いつめている現実があるからだ。福祉事務所の個々の職員の対応の善し悪しを超えて、日本の福祉政策のバックボーンにワークフェアの考えが据えられている。湯浅さんはエスピン・アンデルセンの福祉国家の比較(福祉レジーム論)から、アメリカ型ワークフェアとヨーロッパ型ワークフェアの違いを紹介し、日本は「懲罰的なワークフェア」を採るアメリカの後を追っていると警告する。
 私もワークフェアへの批判は重要だと思ってきた。しかしそれは「就労」が「福祉切り捨て」の口実や「懲罰」の意味で使われているとの理由からだけではない。労働市場にただ放り出すだけの「アメリカ型」のそれであれ、就労のための職業訓練を政府が手厚くサポートする「ヨーロッパ型のワークフェア」であれ、ワークフェア論が前提にしている「完全雇用」による「完全福祉」(社会的包摂)という構想自身が、脱生産主義=定常型社会への移行という時代の要請に応えられないと思うからだ。
 新しい福祉ガバナンスを構想するためには、「公的支援の強弱」という軸だけではなく「就労規範の強弱」つまり、経済成長を至上のものとするか否かという軸からも構想されなければならないと思う。それが近年ワークフェアへの対極的モデルとして注目されているベーシック・インカムである。
 
 ◇「福祉から就労へ」 アメリカと日本の場合

 昨年の五月、北九州市で一人の男性(五六)が餓死状態で発見された。男性は福祉事務所を二度訪れて「生活保護の申請をしたい」旨を告げたが、二度とも追い返されて申請できなかったという。この事件をきっかけに福祉事務所の「水際作戦」が大きな問題になった。各地で申請者への同伴などのサポート運動が展開され、あからさまな「水際作戦」は影をひそめつつある。
 その北九州市で今年の七月、またもや、生活保護の支給を打ち切られた男性(五二)が自宅で餓死し、一カ月後に発見されるという事件が起こった。今度は「水際作戦」ではない。男性に「就労」を強制し「支給辞退届」を出させて支給を打ち切ったことが原因だった。「硫黄島作戦」(湯浅)である。
 今、日本の福祉の現場では「自立支援」という名で福祉と就労を連結させる制度改革(悪)が進められている。〇二年には「児童扶養手当法が改悪され「児童手当の支給を受けた母は、自ら進んでその自立を図ら」なければならないと定められた。(日本の母子家庭の八割がすでに働いている)。同年には「ホームレス自立支援法」も制定された。また〇四年には生活保護法が改定、翌年から「自立支援プログラム」がスタートし、連動して給付水準の切り下げも策動されている。さらに〇五年には障害者にサービスの応益負担を強いる「障害者自立支援法」が制定された。
 母子家庭(一二二万世帯)について詳しく見ると、来年度から「就労支援」と引き替えに児童扶養手当(受給世帯九八万戸)が半減されようとしている。「就労支援」の中身は二コースにわかれる教育訓練と高等技能訓練であるが、育児支援や貯蓄がある人しか利用できず、また、利用できても安定した仕事につける率が極端に低いという問題がある。
 教育訓練を利用した者(四五一三人)の内、就職できた者が二一一四人、その内、常勤者はたったの六一七人である(〇五年、厚労省)。七〇万世帯の母子家庭の手当が半減されようというのに、それと引き替えの「就労支援」の実態がこれだ。
 それではワークフェアの本家であるアメリカでは、この理念はどのように推移して来たのだろうか。
 アメリカでは六〇年代に公民権運動と平行して困窮層を対象にした福祉政策が拡大し受給者が増大した。七〇年代に入り、負担増に反発する中間層に配慮した共和党ニクソンが「要保護児童家族扶助」(AFDP)に就労義務を導入することを考え、これを正当化するために大統領のスピーチライターが造語したのが「ワークフェアー」であると言われる。このタイプのワークフェアーは、福祉より就労を優先させるため「ワークファースト」と呼ばれる。
 一方、民主党に影響力をもつエルウッドは、ワークフェアの概念を拡大して福祉受給者に対して「就労義務」だけではなく各種の「就労支援」の必要性を訴えた。これを「サービスインティンシブ」という。同じワークフェアでも強調する点が違うのである。八〇年代、レーガン政権のもとで成立した「家族援助法」(FSD)はこの両者の妥協であった。各州に一九九五年までに「要保護児童家族扶助」を二割削減することを義務付けた一方、就労機会と基礎技能プログラム(職業訓練)を命じたからである。その後、九〇年代のクリントンの時代になって一九九六年の福祉改革法では、クリントンが支持する「サービスインティンシブ」モデルが、議会多数派の「ワークファースト」モデルに敗北し(クリントンは二回拒否権を発動)「貧困家庭への一時的扶助法」(TANA)が成立し、AFDPは廃止される。新法は受給期間を最長五年に制限し、受給者に週三〇時間の労働を義務づけた。まさに「懲罰的なワークフェアー」の成立である。

  ◇「成長と福祉の両立」に挑戦したスウェーデン

 発祥の地アメリカにおいてすでにそうであったように、ワークフェア概念は多義的である。日本とアメリカのそれは「自立支援」の名による福祉切り捨てを含意している。一方、ヨーロッパ、特にスウェーデンにおいてはこれとは別の展開を見せてきた。アメリカ型と区別して「アクティベーション(活性化策)」と呼ばれている「積極的労働市場政策」がそれである。それは、失業者対策を、失業手当やケインズ的な有効需要の創出によってではなく、失業者の労働能力の向上を支援することによって就労場所を確保しようという立場だ。イギリス・ブレアの「第三の道」の手本となった政策だ。
 スウェーデンを目指すべき福祉社会のモデルとすべき、という意見は日本では「左翼」に多いが、ここに来て、スエーデン型のワークフェアを日本にも導入すべきだという主張が、エスタブリッシュメントの側からも出されている。日本総研の山田久がこの夏に著した『ワーク・フェア―雇用劣化・階層社会からの脱却』(東洋経済)がそれだ。
 山田はスウェーデンの「積極的労働市場政策」を、低生産性部門の労働者を職業訓練で高生産性部門に移動させ、「産業構造の高度化」をはかり、「経済成長と福祉の両立」を実現した、と評価する。確かにスウェーデンの経済成長は輸出によって支えられ、その高い国際競争力を支えてきたのは、労働者への職能訓練による「社会的包摂」であった。その面では山田のスウェーデン理解は間違ってはいない。
 しかし山田が見落としている重要なことがある。一つは、スウェーデンでは「積極的労働市場政策」に潤沢に税金が使われていることだ。GDP比で、日本〇・二八%(九九年から〇〇年)に対してスウェーデン一・八二%(〇〇年)である。中でも、職業訓練と補助金付き雇用の比率が高い(〇・四八%、〇・四五%)。さらに公的雇用への支出も多い。雇用の半数は公的部門がしめている。公務員の削減を「改革」と誤解し続けているどこかの国の政府とは違うのだ。
 もう一つは、労働組合の役割である。スウェーデンにおいて「福祉と成長の両立」を実現してきた担い手は、政府・企業であると同時に労働組合でもあった。山田も指摘しているようにスウェーデンにおいても労働のフレキシビリテーの中で、労組と経営側の労働条件をめぐる交渉は、中央交渉から産別さらには各事業所、各個人別へと変わってきている。目標管理も導入されている。しかし、労働組合は何千人という組合員の個別の待遇を掌握しており、個別の交渉の前に組合員への適切なアドバイスを行っている。雇用の数・量だけではなく「雇用の質」をチェックしているのがこの労働組合なのである。
 山田は、自身の「日本型ワークフェア」構想において、それを支える人間像(=自立した職業人像)をこう描く。
 「新しい知識社会の時代には機械設備ではなく知識や経験といった個人の能力が付加価値の最大の源泉になる。このため、時代の変化が要請する新しい知識や技能を、不断に主体的に学び修得し続けていくことが求められる。そのためには個人が職業人として自立し、職業人として生き抜く覚悟と、そのための基本的なものの考え方を身につけておくことが出発点となる」(前出、P二六三)。
 「アメリカ型のワークフェア」の根底には「自己責任」論があった。対してヨーロッパ、特にスウェーデンのアクティベーションでは「個人」をサポートする「公」(労働組合も含む)の責任の強調があった。しかし山田はせっかくアメリカ型とは異なるスウェーデン型に注目しながら、それを日本に「導入」するにあたって「構造改革」を補完する「社会改革」と位置付けしまったがゆえに、再び「自己責任論」に舞い戻ってしまった。
 しかし、それは山田だけの責任ではない。個人の労働能力の向上を雇用の条件にする社会である限り、それに沿わぬ者は必然的に排除される。アクティベーションによる社会的包摂の戦略は、社会的排除へと容易に反転するのだ。スウェーデンでも労働市場のEU規模への拡大に伴い、労働率の低下と不安定雇用が増大している。「経済成長=完全雇用=高福祉」という二〇世紀型の福祉国家が転換の時期を迎えている。

 ◇「第4の道」としてのベーシック・インカム

 「アメリカ型ワークフェア」と「ヨーロッパ型アクティベーション」の違いは、福祉政策において公的な支援が強調されるか否かにあった。この対立は決して小さくはない。しかし、いま新しい福祉ガバナンスに求められているのは、この一つの対立軸だけでは解けない。むしろ、福祉や所得を就労と結びつけて発想することを超えることが求められている。(図―宮本太郎作成―参照)。
 そこから構想されるのがベーシック・インカムである。その内容は「すべての人が、生を営むために必要なお金を無条件で保障されること」。いたってシンプルな構想だが、その核心は「無条件性」にある。つまり、働いているか否か、結婚しているか否かに関わらず、すべての住民に基本的所得を保障する制度だ。
 こうした考えは人間の歴史の中では古くからあった。それがベーシック・インカムとして主張されるのは、一九八〇年代に入ってからである。二〇世紀型の福祉国家を支えてきた条件(労働、家族、市場、環境)が大きく揺らいできたからだ。パイの拡大によってパイの分け前を増やそうというシステムは、市場経済的には可能であったとしても環境的には許されなくなった。さらに経済の脱工業化・サービス化は、経済成長と雇用増大が結びつかず、逆に労働の二極化によって、労働が所得=生活を保障するものではなくなりつつある。また、男女共同参画によって一人の男性が賃労働によって一家を養うという近代のモデルも通用しなくなった。ここに労働(雇用)と所得保障を一旦切り離して構想する新たな社会保障制度=ベーシック・インカムが浮上してくる根拠がある。
 だが、ベーシック・インカムには、多くの誤解とともに議論すべき課題も多い。一つは「働かざる者食うべからず」という考えに、説得力ある反論ができるかどうかだ。説得の例をひとつだけあげると「富は遊んでいる人にも分かち与えるだけすでに存在している」(トニー・フェッツ・パトリック)というのがある。富は自然からの贈り物であり、蓄積された労働の結果であり、現在の労働が付け加えたものは少ない。働いている人もそうでない人も、自然からの贈り物を受けているだけなのだ、というのだ。富の源泉としての「自然」という考え方である。これと似た考えとして「社会的公共物としての雇用機会」(アンドレ・ゴルツ)という考え方もある。ここからは、時短・ワークシュアリングとベーシック・インカの結合が構想される。
 さらに「働く人がいなくなってしまうのではないか」という危惧もある。これに対して私はまったく心配していない。市場経済の中では、圧倒的多数の人が、面白くもない仕事に、生活の糧(基本的所得)のために長時間従事させられている。その生活の糧が保障されるならば人間はどうするか。本当にやりたいことをやり始めるだろう。そして、本当にやりたいことのためには、人間はこれまで発揮してこなかった潜在的な能力を発揮するものだ。そこから別の質の生産力が社会にみなぎるかもしれない。
 「財源はあるのか」との質問・恫喝も多い。これに対しては小沢修司が精緻な計算をして一ヶ月・八万円という数字を出しているので参照して欲しい。だが「財源はあるのか」との質問や恫喝は、たいてい福祉関係の予算に対してなされることが多い。決して米艦への給油や弾道ミサイル防衛システムに対して「財源はあるのか」の声はでない。この不思議さを考えることの方が大事かもしれない。
 ベーシック・インカムは決して荒唐無稽な空論ではない。ヨーロッパでは「緑の党」がベーシック・インカムの強力な推進者であり、部分的に実現されてもいる。スウェーデンでは「フリーイヤー」が法制化されている。日本的に言えば「有給一年休暇」である。企業は休んでいる労働者の代わりに失業者を雇用する義務もある。環境党の政策が連立政権の中で実現したのである。
 イギリスでは二〇〇二年以降、「市民年金」が議論になっている。一定期間イギリスに在住すれば国籍を問わず無条件に年金が支給される制度だ。
 日本でも連合総研が、先月(十一月)「市場万能社会を超えて―福祉ガバナンスの宣言」というシンポジウム行った。ベーシック・インカムを評価する論者らが討論を展開した。そのよびかけ文には「市場主義とも、かつての利益誘導型『土建国家』とも、さらには二〇世紀型福祉国家とも異なる、いわば『第4の道』ともいえる新しい福祉ガバナンスについて、パネルディスカッションと講演を通じて深めていきます」とある。
 「貧困」と「格差」を超える社会構想の中心にベーシック・インカムを据えよう。

参考文献(論文)
『ピープルズ・プラン』三九号、〇七年八月)
『ワーク・フェア―雇用劣化・階層社会からの脱却』(山田久、東洋経済、〇七年七月)
『自由と保障―ベーシックインカム論争』(トニー・フェッツパトリック、勁草書房、〇五年)
『福祉社会と社会保障改革―ベーシックインカム構想の新地平』(小沢修司、高菅出版、〇二年)
「ポスト福祉国家のガバナンス―新しい対抗」宮本太郎、『思想』〇六年三月号所収)
「完全従事社会と参加所得―緑の社会政策にむけて」(福士正博、同)
「『「もう一つの社会』は可能か」第五章~六章(宮部彰『グローカル』六六四号、六六五号、六六八号、〇四年)

この論文は『グローカル』07年12月1日号に掲載されたものです。

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2007年07月29日
 ■ 参院選―結果が出る前に言っておきたいこと

 ■7月29日、午後1時45分。
 今日は参院選の投票日である。朝、散髪屋に行った返りに近くの小学校に寄り投票を済ませてきた。学校の門を入るとそこは自転車や徒歩や車での来場者でごった返していた。マスコミも報じているように、なるほど有権者は高い関心を示しているようだった。
 結果が出る前に、今度の選挙について、二つのことを書いておきたい。

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 第一は、おおかたの勝敗予想は与党の惨敗、民主党の一人勝ちであるが、果たしてその場合、安倍は続投するのだろうか、ということである。これは何も安倍の責任問題への関心から言っているのではない。小泉が築いた「利益誘導型政治」へのアンチとしての「劇場型政治」「大統領型首相」が定着するのかどうかは、今後の政治のあり方にとって大事だと思うからだ。
 小泉があれほどの「改革力」を発揮できたのは、自らがよってたつ基盤を自民党内におかず、直接の国民からの高い支持においたからだ。小泉が発した「ワンフレース」は「改革」で「痛み」を強制される層をも自らの支持層へと動員することに成功した。その意味で小泉政権は中曽根政権と並ぶ戦後最強の保守政権だった。
 ところが、今回の選挙で安倍が国民から完全に見放されることになっても、「次ぎのリーダーが不在」などという自民党内の事情で安倍が続投するようなことになれば、それは、小泉が敷いた「劇場型政治」「大統領型首相」路線からの大きな後退となるだろう。与党惨敗にも関わらず安倍が続投するか否かは、安倍個人の責任問題を超えて、今後の政治の質そのものを規定する大きな出来事だと思う。

 二つめは、「大勝」のお墨付きをマスコミ各社からもらった民主党、とりわけそのトップの小沢一郎をどう評価するかである。「生活第一」を掲げる小沢は、選挙期間中、一人区を中心に遊説して廻った。「勝ち組」と「負け組」、「都市」と「地方」、「大企業」と「中小零細企業」、「先端産業」と「農林漁業」、そして「官」と「(国)民」。マニュフェストは、ほぼ「負け組」「地方」「中小零細」「農林漁業」「国民」に焦点をあてて書かれている。
 ここ10年、「改革」と称する「経済・労働の規制緩和」がごり押しされ、日本は未曾有の「格差社会」になった。政治から見放されたと感じる膨大な層が生み出された。今回、民主党は「政治から見放された」「弱者」の側に立つことを明確に打ち出している。年金について「基礎(最低保障)部分の財源はすべて税とし、高額所得者に対する給付の一部ないし全部を制限します」マニフェストで書いている。これには少し驚いた。民主党・小沢は、自民党から切り捨てられたかつての自民党支持層や地域に着目し、それを奪取する戦略を立てたのである。その象徴が地方の一人区であった。
 マスコミの予想通り、今回の選挙で民主党が大勝するとすれば、それは「格差社会」に対する有権者の明確な審判が下されたことを意味する。このことの重要性はしっかりと押さえておきたい。
 しかし、である。民主党および小沢一郎は、本当に「弱者」の側にたつ政治を行うことができるであろうか。民主党にとっての「民」とは「民間企業」のことであった。小沢こそ「官」から「民」への規制緩和策の旗振り人だった。それに反対する人々を「守旧派」のレッテルを貼って攻撃する先鋒だった。小沢の『日本改造計画』は小泉の「構造改革」を先取りしたものだった。だから、民主党は、小泉の「構造改革」を正面から批判するのではなく、その「不徹底」を批判したのではなかったか。それが今回は政策をガラリと変えた。
 小沢にとって大切なことは、「弱者の政治」でも「生活第一」でもなく「政権交替」である。すべてそこから逆算して戦略を立てているはずだ。だから参院選ではまず「生活第一」を掲げる。しかし政権交代の本番である次期衆院選では、それだけでは勝てないことは分かり切っている。大都会の票と大企業からの支持調達は不可欠だ。
 その場合、今回、票獲得のために政策を変えたように、大都会と大企業むけの政策にガラリと変えることはありうるだろう。それは、今回構築した支持基盤と矛盾した政策になる。だが小沢は「人は政策がどうこうより勝つ側、リーダーシップのある側に付いてくる」と思っているはずだ。そのために小沢に必要なのは「小選挙区に強い小沢」の神話である。そこを今回クリアすると小沢にとっての「政権交代」が見えてくるはずだ。それが私たち「弱者」にとって、歓迎すべきものかどうかは、また別の話しであるが。

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2007年05月22日
 ■ 教育三法改悪を許さない/イギリスの失敗に学ばぬ安倍「教育再生」

 『グローカル』6月1日号に掲載予定の文章です。



 ■文科相の「権限強化」は分権時代に逆行

 安倍晋三が最重要法案と位置付ける教育関連三法の改悪案が衆議院で強行可決された。「学校教育法」「地方教育行政法」「教員免許法および教育公務員特例法」の三つの改悪案だ。この改悪法案を参議院で廃案に追い込まなければならない。

 「学校教育法」の改悪案は、新たに義務教育の「目標」として「規範意識」「公共の精神」「わが国と郷土を愛する態度」などを設定した。昨年十二月の教育基本法「改悪」の具体化である。法案が成立すれば次ぎのステップとして習指導要領の改訂がなされ、愛国心教育は現実に教室に持ち込まれることになる。

 また、校長、教頭の他に副校長、主幹教諭、指導教諭などを設け、教職員の管理強化を図ろうとしている。教職員は学校運営にたずさわる者と教育する者に分けられる。改悪案は、文科省―教育委員会―校長―副校長―主幹―指導教諭―一般教員という縦系列のトップダウン方式での教育統制を目論でいる。

 「地方教育行政法」の改悪案は、文部科学大臣が地方教育委員会に対して「是正の要求」や「是正の指示」ができるようにする規定をあらたに明記している。「法令違反や怠りによって」「生徒等の教育を受ける権利が明白に侵害されている場合」などと一見もっともらしく書いてあるが、狙いは別にある。

 文科省が国会に提出した資料では「教育委員会が…、国旗・国歌を指導しないなど著しく不適切な対応をとっている場合には、文部科学大臣が具体的な措置の内容を示し、『是正の要求』ができる」とある。伊吹文科相も、衆院教育再生特別委員会でこの点を認めた(五月七日)。

 また、四月に行われた「全国いっせい学力テスト」に愛知県犬山市の教育委員会は「競争で学力向上を図ろうとしているテストは、犬山市の教育理念に合わない」と参加しなかったが、文科省とは異なる教育理念の下で独自の「教育改革」を進める地方教育委員会に対して「是正」「指示」が出されるおそれは大である。

 文部省の地方委への「強い権限」(措置要求)は、地方分権一括推進法の制定(〇〇年)で廃止されたものだ。その復活案は、中教審でも強い反対論が出された。今回の権限の復権・強化は明らかに分権の時代に逆行している。

 「教員免許法および教育公務員特例法」の改悪案は、教員免許を一〇年毎の更新制とすることによって「不適格教員を教壇から確実に排除」し、同時に、教員の「資質と能力をリニューアル」するため、とされる。
 しかし、ここには重大な問題のすり替えがある。本来「不適格教員」の処遇や「研修」などは人事、管理の問題である。それをこの法案は「教員免許」という資格の問題にすり替えている。前者には既にいくつもの処分制度(懲戒制度、分限制度、配置転換制度など)や研修制度がある。処分に際して、その恣意性、正当性をめぐって数百人の教員が係争中でもある。

 仮に「不適格教員の排除」と「資質のリニューアル」が必要だとしても、一〇年毎の「更新」では間に合わないことは明かだ。更新制の導入は教員の身分を不安定に追いやり、教員に「イエスマン」であることを求める。これでは公教育から志ある教員が流出し学校現場は疲弊するばかりだ。安倍の人気取りだけの「教員免許更新制度」は天下の大愚策である。

 ■イギリスの失敗に学ばぬ安倍「教育改革」

 安倍政権が拙速に成立を狙う教育三法の改悪案は、文科省による地教委、学校、職員への支配・統制を強めるものあるが、安倍「教育再生」の全体象はこれにプラスして、「学校選択制」「学校評価」「教育バウチャー制度」などで学校相互を競争させ、それによって「学力向上」をはかる、というところにある。四月には「全国いっせい学力テスト」が実施された。
 その安倍が自らの「教育改革」のモデルとしているのが「壮大な教育改革」(『美しい国へ』)と絶賛してやまないイギリスのサッチャー「教育改革」である。

 サッチャーの「教育改革」の中心的柱は「全国共通カリキュラム」の制定、「全国一斉学力テスト」の実施と成績表(リーグ・テーブル)の公表であった。加えて、学校査察機関の設置と親への学校選権の付与である。(「教育法」一九八八年)。サッチャーの狙いは、全公立学校を「共通の土俵」で競わせることで「学力向上」をはかり、その力で「イギリス病」を克服して、経済力を立て直すという戦略であった。しかし、ブレア政権も継承したこの「改革」はほ失敗した。

 自らイギリスに滞在して、子供と共に「教育改革」を体験したジャーナリストの阿部菜穂子は「教育改革」の「副作用」を次ぎのよう報告している。
 ①学校が「勝ち組」と「負け組」に別れて「教育の階層化」が生まれた。②点数至上主義がはびこり、テスト教科以外の教科(音楽、美術など)が軽んじられるようになった。③テストの問題を生徒に事前に教える不正事件は〇五年には六〇〇件にものぼった。④学校査察(一週間)で「失敗校」の認定を受けた結果、二四六校が廃校に追い込まれた。⑤成績不良者の学校追放でニートが増えた。⑥一番肝心の「学力向上」に疑問の声が多い。(『イギリス教育改革の教訓』岩波ブクレット

 ■「市場原理と教育はなじまない」

 サッチャーとブレアが進めた「教育改革」の「副作用」を直視したイギリスの連合王国各地域では「全国一斉学力テスト」の見直しが進んでいる。また、イングランドでも、政府の指導を無視した教育を行い、「リーグ・テーブル」のトップを取った学校も現れている。その学校の校長は、現行の教育制度についてキッパリとこう批判する。

 「(今の教育制度)はナショナルテストで学校を不必要に競争させ、結果を公表して学校を序列化するシステムである」

 そして、理想の教育についてこう語った。

 「(今の教育制度は)確実に敗者をつくる不公正な教育体制」「教育は敗者を作っては行けない。すべての子供に学びと教育の機会を与えてやるのが教育です。市場原理の適用は教育になじまないし、間違っている」
(阿部・前出)

 イギリスの「教育改革」の「副作用」の現状は、日本の教育の現状に似ている。しかしそれは不思議なことではない。なぜなら、サッチャーの「教育改革」のモデルは「受験地獄」「受験戦争」といわれ戦後の日本の学校教育だったからだ。その日本のトップの安倍晋三が、今度は失敗したイギリスの「教育改革」を日本で真似るのだという。本気だとすれば学習能力はゼロだ。

 今、イギリスも日本も、教育問題といわず社会の様々な領域で共通の問題を抱えている。労働党ブレアの十年は、サッチャー改革の「副作用」である「格差」を教育に力を入れることで克服しようとしたものだった。教育によって「階級の一員」としてではなく「個人」として市場に適応できる「能力」を獲得することを奨励した。ブレアは、ワーキングクラス出身者や移民たちの「機会の平等」のために闘ったと言える。

 しかし「学校教育」の比重を上げ、能力獲得の「機会」を「平等」にすることで、人々は本当に幸せになるのだろうか。日本もイギリスも、今日の社会問題のほどんどは、能力主義文化の過剰によって社会が窒息状態にあるところから生まれている。いま必要な「改革」は、能力主義支配=メリトクラシーを相対化する方向のはずだ。教育に市場原理、競争原理を持ち込むことはこれに逆行するのだ。

 政治学者の山口二郎はブレアの一〇年を総括してこう語っている。
 「機会の平等がメリトクラシーや成果主義と結びつく時、普通の人々にとってはむしろ競争から脱落するリスクが拡大する」「メリトクラシーの文化を共有するものだけの機会均等から、より多様な生き方を許容する社会にできるかどうかが、今後の労働党政治の課題である」(『ブレア時代のイギリス』岩波新書)。
 イギリスの失敗に学び、安倍「教育再生」に対抗する私たちの課題でもある。

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2007年03月31日
 ■ 階層の「再生産」としての格差と貧困をこえて―ベーシック・インカムを考えよう

 この論文は、『現代の理論』VOL11(07年春号)に掲載されたものです。


 ■朝日「ロストジェネレーション」の錯誤

 『朝日新聞』が本年(二〇〇七年)一月、「ロストジェレーション―二五~三五歳」という連載ものの新年企画を組んだ。「今、二五歳から三五歳にあたる約二千万人は、日本がもっとも豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。『第二の敗戦』と呼ばれたバブル崩壊を少年期に迎え、『失われた一〇年』に大人になった若者たち。『ロストジェネレーション』。米国で第一次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に従って、彼らをこう呼びたい。時代の波頭に立ち、新しい生き方を求めて、さまよえる世代。日本社会は、彼らとともに生きていく」(『朝日新聞』二〇〇七年元旦一面、「時代の谷間 私らしく ロストジェネレーション」より)。
 十一回の連載では実に多様な二五~三五歳が紙面に登場した。一八歳で就職してから八年間で三〇をこえる「日本を代表する企業」の関連工場を転々とした派遣労働者(二六歳)、海の向こうに「私の居場所」を捜す日本語教師(二九歳・女性)、地方議員を「仕事」として選ぶ候補予定者(二六歳)、官僚レールを「途中下車」して自分の力で「波を起こす」ために転職した元官僚(三一歳)、そして、経済の地盤沈下で「フリーターにすらなれ」ず、生活保護でくらす夕張市出身者(二五歳)などなど。 連載を補完する別紙面での「特集」にも力がこもる。「四人に一人が非正社員」「世帯の所得 働き方で五倍の差」(一日)「彼らの現場の体験記」(三日)「格差 漂う若者 仕事 不安抱え」(五日)「消費 つかみどころなくヒットでず」(六日)「彼ら 海のむこうにも、フランス、イギリス、韓国」(七日)。
 一読してこの新年企画の根っこのところに、格差問題に対する問題意識があることは明かだ。しかし、それをストレートに取り上げずに「世代」の問題として提起したところにこの企画の「らしさ」があったと言える。しかし、ここに大きな錯誤があるように思う。一つは、この世代の「格差」の原因を不況による「就職氷河期」に求めるのはあまりに表面的過ぎるということだ。紙面は語る。「ロストジェネレーションは、企業が新卒採用を一斉に控えた『就職氷河期』に、社会人となった」。だが、その「就職氷河期」は、企業がグローバル化の中で生き残りとして選択した雇用の柔軟化戦略の一つの現れだったのではないか。だから景気が回復した後も非正社員は増え続けているのだ。
 もう一つは、正社員と非正社員・無業者に大きく別れているこの世代の若者=二〇〇〇万人を「ロストジェネレーション」という言葉で一括りにするのはやはり妥当ではないということだ。特集の中に記者による「ワンコールワーカー」の体験記があった。「記者の立場を明かさずに」携帯電話で派遣会社に登録し、電話で指示をうけて現場に行き、タマネギの芯剥きや基盤にジャックを差し込む「単純作業」を「体験」したレポートだ。三三歳の「同世代」の記者が書いている。実質の時給が最低賃金を下回る中での作業のキツさは、タマネギの臭いと共に伝ってきた。しかし一番肝心の「ワンコールワーカー」の不安感は伝わってこない。どんな優秀な記者でも、存在そのものから来る不安感は「体験」しようがないからだ。
 この連載企画の最終回に登場したフリーターをテーマにした劇を上演する「劇団主宰者」は、書かれた「記事」の背景に次ぎのことがあったと報告している。取材に来た朝日新聞の記者が黒塗りのハイヤーを使って来たこと。ブランドのバッグをさげていたこと。乗降時に白い手袋をした運転手がドアを開け閉めしたこと。
 一方に、今日の仕事はあっても明日の仕事が保障されない「ワンコールワーカー」。他方に、黒塗りのハイヤーに乗って「同世代」を取材してまわる朝日新聞の記者。「ロストジェネレーション」という世代をひと括りにする論じ方で見えなくなるのはこの「分岐」だ。問題はこう立て直されねばならない。同じ「就職氷河期」をくぐりぬけながら、誰が「ワンコールワーカー」になり、誰が「朝日記者」になるのか、と。

 ■「分岐」は出身階層と密接に結びつく

 二五歳から三四歳の非正社員は三三四万人、雇用者の四人に一人の割合になる。これに「無業者(ニートなど)」を加えて「フリーター・無業者層」と呼ぼう。ではこの「フリーター・無業者層」になるのはどのような若者なのか。いささ古い資料になるが、この問題に最初に光をあてた耳塚寛明らの調査から次ぎのことが浮かび上がる。首都圏のフリーター一〇〇〇人の調査(二〇〇〇年)による。
 第一に、「フリーター・無業者」として社会に出てくるのは高卒者に多いことである。「パート、アルバイトあるいは無業者」になった者の割合は「大卒者で(中略)は、二三・八%、これに対して高卒者では五四・〇%におよぶ」。第二に、同じ高卒者の中でも「相対的に低い社会階層の出身者に多いのである」。「父親の学歴と子供の正社員率をくらべると、父親が大卒や高卒の場合、正社員率は四~六割だが、父親の学歴が中卒の場合は、正社員率は二割を切る」。第三に、高卒者で「無業者」となるのも低階層出身者である。「父親の職業が専門・技術職、管理職などのホワイトカラー家庭で、無業者となった者は一四%、これに対して、いわゆるブルーカラー家庭出身者のそれは三一%だった」。
 こうした高卒者の情況から、高校中退者や中卒者が、高卒者よりさらに不利な立場に置かれていることは容易に想像できる。「(フリーターや)無業者として卒業していく生徒たちの出現率は、社会階層と密接に結びついている」のである。(以上『世界』二〇〇三・二 耳塚「誰がフリーターになるのか」より)
 これに加えて、無業者の出身世帯の「四割弱が年収三〇〇万円未満」(「若年無業者に関する調査(中間報告)」〇五年)という指摘も忘れてはならない。若年無業者は経済的に貧しい家庭に生まれているのだ。
 今、こうした若年の「フリーター・無業者層」の低賃金による貧困問題がクローズアップされている。その割合や実態は十分には分かっていないが、岩田正美らが「消費生活に関するパネル調査」(九三年~〇二年、若年女性個人を継続調査)のデータをもとにして行った貧困ダイナミクス分析は重要である。それによる学歴と貧困の関係は明瞭だ。
 中卒者で「固定貧困層」か「一時貧困層」になる割合は六八%。対して大卒者の「固定貧困層」は五・三%に過ぎない。中卒者の場合、夫と離死別して子供を抱えた場合は固定貧困層に陥りやすい。逆に高学歴でかつ正社員で、夫がいて子供ゼロの場合はまったく貧困とは無縁だ。(以上『思想』二〇〇六年三月号、岩田「バスに鍵はかかってしまったか?」)
 貧困は、誰もが陥る可能性のある問題ではない。しかし特定の階層出身者にとっては常に隣りにある問題なのだ。ここに今も昔も変わらぬ貧困をめぐる不条理がある。

■ 「新興中間層」と「集団就職層」

 本年一月一七日、歌手の井沢八郎が亡くなった。井沢が歌う「あゝ上野駅」は中学校を卒業して集団就職する若者の心情を歌って大ヒットした。「くじけちゃならない人生が、あの日ここから始まった」。二〇〇三年には上野駅に歌碑が建立され名所となっているという。井沢が歌った集団就職者を中心に、高度成長期に、約二五〇〇万人が農村から都市に大移動した。中には大学生という「身分」を手に入れての「幸せな」移動もあっただろうが、その人数は少なかったと思われる。多くは農村の過剰人口問題といわれた次三男であり女子でり、中卒者だった。都市と農村という異なる文化を背景にした人々が、大都市圏で同居し始めたこと。この歴史始まって以来の出来事が日本社会に与えたインパクトは相当なものだったはずだ。
 埼玉県で高校教師をしていた小川洋(よう)は、『なぜ公立高校はダメになったのか―教育崩壊の真実』(亜紀書房、二〇〇〇年)で、七〇年代後半に「郊外」に新設された公立高校を舞台にして頻発した「校内暴力」「対教師暴力」などの「荒れ」の背後に、教育、しつけ、学校、学歴関心などに対してまったく対照的に異なった考えをする「二つの社会階層」が存在していることを発見し、活写している。一つは、都市出身、高大卒者、大手企業就職者によって構成される「新興中間層」である。高度成長とともに一定の学歴と社会的な地位、一定以上の住宅を得たこの層の人たちは、親の地位を子どもにも獲得させようと「教育ママ」となる。もう一つは、農村出身の中高卒者で、個人商店、零細企業、町工場などに就職した「集団就職層」である。その多くは高度成長で企業が都市出身者、自宅通勤者を優先的に吸い上げることで人手不足におちいった零細な産業、職種に配置された配置された。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で堀北真希が演じた「六子」がそうだったように「住み込み奉公」などに代表される前近代的な労使関係の中で働いた。
 この「集団就職層」の中に後に「連続殺人犯」となる永山則夫がいた。井沢の「あゝ上野駅」がヒットした翌年(一九六五年)、青森からの集団就職列車で上野駅に降り立った永山は、東京渋谷の「西村フルーツ・パーラー」で住み込みのボーイとして働く。しかし「掃除当番」をさぼったことを叱られて「プイ」と辞めてしまう。以後、転職をくり返し、米軍基地で奪った銃で四人を殺害する。一九六八年のことである。時代を席巻していた「学生反乱」とは無縁な場所からの永山なりの精一杯の「貧困」に対する「異議申し立て」だった。「永山が抱いていた強い疎外感は、義務教育終了と同時に追われるように都会にむかった集団就職者たちに多かれすくなかれ共通したものだっただろう」と小川は書く。
 それでも、高度成長による消費社会の出現は、集団就職者たちの「強い疎外感」を「中流意識」に置き換えさせるのに成功する。郊外にまで広がった都市で共存する「二つの階層」は、所得水準の違いはあっても、同じ電化製品をもち、同じスーパーで買い物をするなど、生活様式ではほとんど変わらないところまで「接近」する。

 ■学校教育を通じた階層の「再生産」

 しかし、である。子どもの教育についての考え方において、異なった二つの社会階層は、その溝を埋めることは、ついになかったのである。「新興中間層」のそれについては先にみた。では「集団就職層」の教育に対する考えはどうか。多くが中卒である「集団就職層」の親は、自分の子どもだけは高校まで進学させようと考え、そうした。しかし大学まで進めようと考える者は少数派であった。子どもの教育に割く時間的・経済的余裕が無かったこともあるが、そもそも「かれらの出身地の農村では、子どもに学歴を与えて子どもの将来に期待するという親子関係は、一般的ではなかった」(小川)のである。教育に対する都市と農村の考え方の違いである。高校生の中で集団就職層の子供たちが急増した七〇年代後半、大都市圏で大学進学率が低下を見たのはこのためである。
 親の学歴や階層と子どもの「学力」が密接に連関していることは、教育社会学の中ではずっと語られてきた。子どもの勉学にむかう「意欲」そのものに階層の違いが現れると。同時に、学校で行われる教育内容それ自身が特定の階層と親和的であることも明かとなっている。近代社会は、階層への振り分けを学校の成績によって行う。学校の成績は「学校への順応度合」と相関し、学校への順応能力は育った家庭の「文化水準」と相関する。だからどのような家庭に生まれるか、学校に順応できるか否かが、その人の「階層」配置にとって決定的な要因となる。経済が知識化すればするほど「文化資本」(P・ブルデュー)の相続という問題はますます重要になってくるのだ。

 さてもう一度「集団就職層」の子供たちのその後を追ってみよう。七〇年代後半に「郊外」の新設高校で「校内暴力」を引き起こした彼ら/彼女らは、初期の(五〇年代中頃)「集団就職層」の第一子世代であった。やがて八〇年代後半になるとピーク期の「集団就職層」の子供たちが高校生となる。しかしその時はすでに「校内暴力」は終息していた。文化摩擦を背景にした暴力は、時間とともに解消するからである。代わって問題化するのが「不登校」そして「高校中退」である。文化摩擦を背景にした緊張は学校に向かわず、学校から距離をとる姿勢に変わったのだ。
 そして九〇年代が来る。ピーク時の「集団就職層」の子供たちが大衆教育化された大学を卒業する時期を迎え、ピークに続く世代の「集団就職層」の子供たちが大量に高校から社会に出ようとしたその時、バブル崩壊による「就職氷河期」が始まったのである。
 私たちは、これまで「フリーター・無業者層」が「経済的に苦しい家庭」や「相対的に低い階層」の出身者に多いことを見てきた。そして、そうした「家庭」や「階層」をさぐる作業として「集団就職層」の存在を見てきた。しかしその二つがイコールであるかどうか、断言できるものはない。しかしその一部が重っているであろうことは、小川が考察した時間軸に沿って、視線をそのまま九〇年代から二〇〇〇年代まで延長させてみれば明かだろう。「格差・貧困」問題とは、団塊世代における「新興中間層」と「集団就職層」という二つの階層が、学校教育と労働の規制緩和というアクターを通じて、その子供たちの世代において「再生産」されている問題なのではないか。とすれば「格差・貧困」問題は「あの日ここからはじまった」のである。

 ■「横並び階層社会」とベーシックインカム

 ここまで「格差」の背後にある「階層の再生産」という問題を見てきた。「宿命論」との批判を承知でこの二つを結びつけて考えたのは、「脱・格差社会」を構想する上で「階層」問題への対応が不可欠だと思うからだ。
 出身階層によって就ける職業が規定されることは「機会不平等」ということだ。かつて佐藤俊樹は、九〇年代の日本は「下層」出身者が「上層」に移動できるチャンス(機会)が減り「努力してもしかたない社会」になりつつあると指摘し(『不平等社会日本―さよなら総中流』中公新書、二〇〇〇年)、現在の「格差論争」に引き継がれる「中流崩壊論争」の一方の雄の役をになった。佐藤が依拠したデータは一九九五年のSSM調査であり、抽出した世代も「ロストジェレーション」の親、つまり団塊世代までであるから、その子供の世代では「閉じられ」度合いはさらに大きくなっているはずだ。
 そこで佐藤は「機会平等社会」に対して「上層」への「移動」が比較的容易である「開かれた社会」を対置した。では佐藤が描いた「開かれた社会」は私たちにとって「脱・格差社会」モデルたり得るだろうか。すぐ思い浮かのは「機会の平等だけでは結果の平等は保障されない」という批判だ。さらに「機会の平等だけではいずれ機会の平等すら実現できなくなる」という問題も指摘できる。
 だが今、私が言いたいことはそのことではない。個人の「選択の自由」という原理を認める限り、階層間移動の「自由」を保障する「開かれた社会」は無条件に保障されるべきだ。しかし実際には「自由」や「機会」は一方向のみが重視され奨励されている。「上層」への「移動」という一方向だ。それは私に言わせれば、まだ「閉じられた」社会だ。そうではなく職業選択(=「階層」選択)に際して、たとえ「下層」を選択しても「上層」と比べて不利にならない社会こそ「開かれた社会」なのだと思う。そこには「上層」による「下層」の支配はない(支配を許さない「下層」の力がある)。したがって(複数の)社会階層が「上・下」の関係ではなく並存している。私はこの社会を「横並びの階層社会」と呼びたい。その視点から言えば、「自己責任論」などの経営層の思想、価値観に無防備にさらされている日本の労働者より、「やつらの世界」とは区別された「われらの世界」を持つイギリスのワーキングクラスの方がずっと幸せに思える。
 どのような職業、労働形態を選択しても「不利にならない」ようにするためには、労働が公正に評価されることが必要だ。最賃の大幅な引き上げ、同一価値労働同一賃金の実現などは焦眉の課題だ。だが、私には、こうした労働に対する公正な評価が下される社会になったとしても、格差と貧困を脱した社会とは言えないように思う。なぜなら、労働それ自身がそこから排除されている者からみれば「特権的」であり、さらに労働の評価をめぐっても否応なく格付けが忍び込んでくるからだ。さらに労働者の能力差という問題もある。だから労働に対応させて所得を保障するシステムでは、格差・貧困は克服することはできないと思うのだ。
 そこで新たな社会保障の制度として主張されているのが「ベーシックインカム(略してBI)」である。その内容は「すべての人が、生活を営むために必要なお金を無条件で保障されること」。いたってシンプルな構想だが、その核心は「無条件性」だ。(BIの詳しい内容については、本誌、〇五年秋号で、原澤謹吾が紹介したトニー・フェッツパトリックの『自由と保障―ベーシックインカム論争』〇五年・勁草書房、小沢修司『福祉社会と社会保障改革―ベーシックインカム構想の新地平』〇二年・高管出版、を参照されたい)
 この「無条件性」とは何か。先ほどから議論してきた「開かれた社会」の話しに関わらせて言うとこうだ。「開かれた社会」とは「努力した者が報われる社会」のことだ。そのためには「多少の格差はあってもよい」。安倍晋三も佐藤俊樹もその認識では同じだ。これに対してBIが構想する社会はこうだ。「努力しない者も報われる社会」。つまり働いているか否か、その経験があるか否かに関わらず、一律に基本的な所得を保障するというものだ。いったいどちらが「すぐれた社会」だろうか。私は「努力しない者も報われる社会」のほうがすぐれた社会だと思う。
 しかし、逆に「働かざる者食うべからず」という考えは、今の日本では多数派だろう。そこには働いて経済的に自立している自分への誇りと、働いていない者、怠けている者、努力していない者への蔑視が同居している。この「働かざる者食うべからず」という意見に対して説得力ある反論ができるかどうか。BIの今後の帰趨を決する問題だ。
 トニー・フェッツ・パトリックは『自由と保障』の中でこの問題を取り上げている(第四章)。「遊んでばかりいるサーファーにお金は出すな」というBI批判に対して、深みのある議論で説得している。簡単に言えば、富は遊んでいる人にも分かち与えるだけすでに存在している、というのだ。富は自然からの贈り物であり、蓄積された労働の結果であり、現在の労働が着け加えたものは少ない。働いている人もそうでない人も、自然からの贈り物に「ただ乗り」している、というのだ。
 ポスト産業化の中で労働が二極化し、それに伴う雇用の二極化が「不可避」であり「宿命」であるかのように語られている。また、生産性の高い産業や企業が、生産性の低い産業や企業や労働者を「養っている」かのような言説も跋扈している。いずれも「貧困」や「格差社会」を肯定する言説として作用している。しかし、そうではないのだ。産業のイノベーションを推進する研究・開発の労働も、日雇い派遣の労働も自然からの贈り物に「ただ乗り」しているという点で「同一価値労働」なのだ。脱産業主義で平等主義のベーシックインカムを「貧困」と「格差」を超える社会構想の中心に据えなければならないと思う。

 *本稿は二〇〇〇五年の拙稿「再生産される階層社会日本―誰がニート、フリーターになるのか?」(『グローカル』六八〇号掲載)と記述が重なる部分があることをお断りしておきます)
 
五十嵐守(いがらし・まもる)
一九五四年、新潟県生まれ。活動家。トラック運転手。好きなTV番組「田舎に泊まろう」(テレビ東京系)。京都市伏見区在住。ブログ http://mamoru.fool.jp/blog/

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2007年03月26日
 ■ 競争vs学び合い 「全国いっせい学力テスト」に反対する!

 来る4月24日、「全国いっせい学力テスト」(正式には「全国学力・学習状況調査」)が行われようとしています。教育基本法改悪に続き、今国会では教育三法案の改悪が目論まれていますが、学力テストは、公立小・中学校を主要なターゲットにして、学校をランク付け、格差を拡大し、序列化を一層強化するもので、三法改悪の中身を先取りするものです。

 しかし、残念ながら、昨年秋の教育基本法改悪に反対した運動の盛り上がりに比べると、「学力テスト」への批判の声が小さいのが現状です。すでに、都道府県、その下の自治体レベルで「学力テスト」が広範に行われていること、「学力低下」キャンペーンで保護者が不安に陥っていること、などがその原因でしょう。教育の国家統制、その下での市場原理の導入(学校選択制、学校評価、教育バウチャー制度)が、これを突破口にして行われようとしているにもかかわらず、です。

 こうした中、愛知県犬山市教育委員会が、全国の自治体でただ一つ学力テストに参加しないことを、正式決定しました。これで、建前は「自主参加」と言いながら、公立校の100%参加を実現しようとしてきた文科省の目論は見事に崩れました。(毎日新聞記事参照

 私はまったく知りませんでしたが、この犬山市教育委員会は、前から独自の教育理念をかかげて「教育改革」を進めてきており、今回の学力テストに関しては、「競争で学力向上を図ろうとしているテストは、犬山市の教育理念に合わない」「子供の学力評価は全国一律テストではできない」と不参加を決めました。そして、犬山市教委の立場を広く知ってもらうため『全国学力テスト、参加しません』という本を緊急出版しました。

 また、これまで犬山市教委の活動を高く評価してきた教育学者をはじめ、教育格差への警鐘をならしてきた人々が、今週の土曜日に緊急シンポジウムを東京で開きます。

<緊急シンポジウム>
「このままでいいのか 全国学力テスト」

主催:全国学力テスト緊急シンポジウム実行委員会
後援:明石書店

 4月24日、小6・中3のすべての児童生徒を対象にした全国学力テスト(文科省/全国学力・学習状況調査)の実施が目前に迫っています。予備調査の結果が公表されたにもかかわらず、いったいどんなテスト・調査が行われるのか、保護者や教職員の方々にも十分な情報が届いているとはいえません。

 そこで、急きょ、情報交換・議論・問題提起の場としてシンポジウムを開きたいと思います。保護者や教職員・市民のみなさん、教育行政にたずさわる方々、学生・研究者など、さまざまな立場の方々のご参加をお待ちいたしております。

日時:2007年3月31日(土)9:50-12:30[開場:9:30]
場所:日本教育会館 7階 中会議室
     〒101-0003 東京都千代田区一ツ橋2-6-2
     TEL 03-3230-2831
     【アクセス】http://www.jec.or.jp/koutuu/
参加費:500円

呼びかけ人:
  大塚英志(まんが原作者、神戸芸術工科大学)
  小山内美江子(脚本家)
  苅谷剛彦(東京大学)
  斎藤貴男(ジャーナリスト)
  佐藤学(東京大学)
  汐見稔幸(東京大学)
  田中孝彦(都留文科大学)
  中嶋哲彦(名古屋大学)
  藤田英典(国際基督教大学)
  三上昭彦(明治大学)50音順

シンポジスト:苅谷剛彦
         中嶋哲彦
         藤田英典・松下佳代(京都大学)

進行:田中孝彦

【お申し込み】
参加申し込み用紙にご記入のうえファクス、または、Eメールにて(件名に「シンポジウム申し込み」と明記のうえ)お申し込みください。特にご返信はいたしませんので、当日会場にお越しください。(当日参加も可)

【お問い合せ】
明石書店内 シンポジウム係
TEL 03-5818-1177/FAX 03-5818-1179
Eメール: miwa@akashi.co.jp

<参加申し込み用紙>
http://www.akashi.co.jp/osirase/yousi.doc


 これまで、教育基本法に反対する論理は主に「愛国心」教育批判でしたが、安倍の掲げる「学校選択制」「学校評価」「教育バウチャー制度」は、市場原理によって学校を運営し、学校自身を「勝ち組み」と「負け組み」に分けて、予算で差別していこうというものです。まさに新自由主義に沿い、格差是正に逆行するものです。

 安倍は、イギリスのサッチャーが行った「教育改革」(中心はナショナル・カリキュラムの制定とナショナルテストの実施、および、学校査察制度)を真似ているようですが、しかし、サッチャー自身が手本にしたのが「受験戦争」とまで呼ばれた戦後日本の極度に競争主義的な教育でした。

 そのサッチャー改革も、ブレアによる継承をふくめても、ほぼ、破綻したといってよく(テストによる競争激化―>成績不良者の学校追放―>ニートの増大―>学校平等化の声の高まり)、その破綻の後追いをしようとしているのが、安倍「教育改革」と言っていいでしょう。

 このあたりの倒錯した実状に関しては4月に出版予定の岩波ブックレット『イギリス「教育改革」の教訓―「教育の市場化」は子どものためにならない』(阿部菜穂子)に詳しいはずです。

 格差を拡大する「全国いっせい学力テスト」に反対しましょう。


■資料――さらにくわしく知る為に

「モノ申す」姿勢浸透…愛知・犬山市
http://osaka.yomiuri.co.jp/local/lo51209c.htm

検証 地方分権化時代の教育改革  教育改革を評価する
―― 犬山市教育委員会の挑戦 ――
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0093850.html

犬山市の教育
http://www.inuyama-aic.ed.jp/i-manabi.h.p/index.htm

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2007年03月22日
 ■ 【映評】リトル・ダンサー/階級社会の牢固な規範に挑む

 泣けました。

 イギリスの炭坑の街が舞台。炭住に家族とすむビリー少年がバレエ目覚め、紆余曲折を経て、ロイヤル・バレイ学校に入学し、最後はロンドンの名劇場で主客を演じる話し。

 最初はバレエに反対していた父親が、ビリーのバレエ学校受験費用を捻出するために、スト破りをする場面。ピケ隊の側には長男のトニーが…。その前を父親がバスに乗って門の中へ。それを追ってトニーも中へ。

 「われわれ(炭坑夫)に未来はあるか?
  あの子には未来があるんだ!」(父)

 「お金は、スト破りしなくても作れる
   そのために仲間がいる」(トニー)

 正義はトニーにも父親にもあり…。
 あぁこの無情…。
 ウルウルでした。

 イギリス社会は日本では想像もできないような「階級社会」です。労働者階級(ワーキングクラス)の出身の子供は、ほとんど労働者になります。その上のミドルクラスの子供もほとんどミドルクラスになります。最上級のアッパークラス(貴族)もそうです。

 ついこの前(1988年)までは、義務教育のプライマリー・スクールの最終学年段階(11歳)で進路が分かれました。エリート養成のグラマー・スクール、技術系のテクニカル・スクール、就職組みのセカンダリー・モダン・スクールの3つです。

 今は、セカンダリー・モダン・スクールの多くがコンプリヘンシブ・スクール(統合制中学校)に衣替えしていますが、その中での学校の序列化、ランク付けが進んでいるので、階級・階層の再生産としての機能は、しっかり受け継がれています。

 だから、一代で階級脱出をすることは至難なことなのです。その代わり、ワーキングクラスは、自分たちの階級に誇りを持っています。ビートルズもベッカムも「ワーキングクラス」に属していることを誇りにしています。

 『リトル・ダンサー』は、このイギリス階級社会の牢固な規範に挑んだ作品と言えるのではないだろうか。決して上昇志向を賛美しているのではない。個人の職業選択の自由を、旧来型の階級社会に対置している、と見ました。

 この前見た『ブラス』も炭坑の街のブラスバンドの話しでした。ここにも閉山に反対するストライキが重低音として流れていました。経営側ではたらく女性に恋をして悩む若い組合員の姿なんて、日本では、映画になりようがないですよね。それだけ、
イギリスでは、労働者文化が、労働組合の存在とともに、大きな位置を占めているってことなんでしう。

 もっとも、その労働者文化が、サッチャーの新自由主義改革によって、さらにブレアの「第三の道」(中心は教育改革)によって階級脱出が奨励された結果、かなり、弱体化させられたのは、良かったのか、悪かったのか、評価が難しいところです。

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2007年02月05日
 ■ 日本女性学会による、柳澤大臣発言に関する意見書

日本女性学会による、柳澤大臣発言に関する意見書

2007年2月2日

日本女性学会第14期幹事会および会員有志

 柳沢伯夫厚生労働大臣が2007年1月27日、松江市で開かれた集会で、女性を子どもを産む機械に例え、「一人頭で頑張ってもらうしかない」と発言をしていたことが明らかになりました。
 これは、子育て支援を司る行政の長としてまことに不適切であり、即刻辞任されるよう強く求めます。
 大臣の発言には、以下のような問題があると、私たちは考えます。

 第一に、人間をモノにたとえることは、人権感覚の欠如と言えます。

 第二に、女性を産む機械(産む道具)としてみることは、女性蔑視・女性差別の発想だと言えます。また、この観点は、優生学的見地に容易につながる危険性をもっているという意味でも問題です。

 第三に、女性(人)が子どもを産むように、国(国家権力、政治家)が求めてもよいというのは、誤った認識です。産む・産まないの決定は、個々の女性(当事者各人)の権利であるという認識(リプロダクティブ・ヘルス・ライツ理解)が欠如しています。
 リプロダクティブ・ヘルス・ライツの考え方は、カップル及び個人が子どもを産むか産まないか、産むならいつ、何人産むかなどを自分で決めることができること、そのための情報と手段を得ることができること、強制や暴力を受けることなく、生殖に関する決定を行えること、安全な妊娠と出産ができること、健康の面から中絶への依存を減らすと同時に、望まない妊娠をした女性には、信頼できる情報と思いやりのあるカウンセリングを保障し、安全な中絶を受ける権利を保障すること、などを含んでいます。

 第四に、子どもを多く産む女性(カップル)には価値がある(よいことだ)、産まない女性の価値は低いという、人の生き方に優劣をつけるのは、間違った考え方です。産みたくない人、産みたくても産めない人、不妊治療で苦しんでいる人、産み終わって今後産まない人、子どもをもっていない男性、トランスジェンダーや同性愛者など性的マイノリティの人々など、多様な人々がいます。どの生き方も、平等に尊重されるべきですが、柳澤発言は、子どもを多く産む女性(カップル)以外を、心理的に追い詰め、差別する結果をもたらします。

 第五に、少子化対策を、労働環境や社会保障の制度改善として総合的に捉えず、女性の責任の問題(女性各人の結婚の有無や出産数の問題)と捉えることは、誤った認識です。子どもを育てることは、社会全体の責任にかかわることであって、私的・個別的な家族の責任としてだけ捉えてはなりません。

 第六に、「産む(産まれる)」という「生命に関する問題」を、経済や制度維持のための問題(数の問題)に置き換えることは、生命の尊厳に対する危険な発想といえます。もちろん、出産を経済、数の問題としてとらえることが、社会政策を考える上で必要になる場合はありえます。
 しかし、社会政策はあくまで人権擁護の上のものでなくてはならず、生命の尊厳への繊細な感性を忘れて、出産を国家や経済や社会保障制度維持のための従属的なものとみなすことは、本末転倒した、人権侵害的な、かつ生命に対する傲慢な姿勢です。

 以上六点すべてに関わることですが、戦前の「産めよ、増やせよ」の政策が「国家のために兵士となり死んでいく男/それを支える女」を求め、産児調節を危険思想としたことからも、私たちは個人の権利である生殖に国家が介入することに大きな危惧の念を抱いています。

 柳澤大臣に発言にみられる考え方は、安倍首相の「子どもは国の宝」「日本の未来を背負う子ども」「家族・結婚のすばらしさ」などの言葉とも呼応するものであり、現政権の国民に対する見方を端的に表しているものと言えます。2001年の石原慎太郎「ババア」発言、2002年の森喜朗「子どもをたくさん生んだ女性は将来、国がご苦労様といって、たくさん年金をもらうのが本来の福祉のありかただ。・・・子どもを生まない女性は、好きなことをして人生を謳歌しているのだから、年をとって税金で面倒をみてもらうのはおかしい」発言も同じ視点でした。産めない女性に価値はないとしているのです。少子化対策が、国のための子どもを産ませる政策となる懸念を強く抱かざるを得ません。

 小泉政権に引き続いて、現安倍政権も、長時間労働や格差、非正規雇用差別を根本的に改善しようとせず(パート法改正案はまったくの骨抜きになっている)、障害者自立支援法や母子家庭への児童扶養手当減額、生活保護の母子加算3年後の廃止などによる、障がい者や母子家庭いじめをすすめ、格差はあっていいと強弁し、経済成長重視の新自由主義的優勝劣敗政策をとり続けています。ここを見直さずに、女性に子どもを産めと言うことこそ問題なのです。したがって、今回の発言は、厚生労働省の政策そのものの問題を端的に示していると捉えることができます。

 以上を踏まえるならば、安倍首相が、柳澤大臣を辞職させず擁護することは、少子化対策の改善への消極性を維持するということに他ならず、また世界の女性の人権運動の流れに逆行することに他なりません。以上の理由により、柳沢伯夫厚生労働大臣の速やかな辞職と、少子化対策の抜本的変更を強く求めるものです。

以上

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2007年01月26日
 ■ 貧困と格差を拡大する「御手洗ビジョン」/ゼロ成長と九条・非武装にこそ「希望」あり

 支持率低迷の中で「改憲」かかげる安倍政権

 通常国会がはじまった。選挙イヤーの国会は、否が応でも選挙戦略とリンクして推移する。安倍首相は年明け早々、7月の参議院選を「憲法」を争点として「正攻法で闘う」と言明した。自民党大会でも、今年の重点政策のトップに「憲法改正手続法案の早期成立を実現し、新憲法制定に向けての国民的論議を喚起する」を掲げた。「2010年代初頭までに憲法改正」(日本経団連「ビジョン」)という目標にむけ、本格的な「改憲」の動きが始まったのである。
 しかし「改憲」を声高にさけぶ安倍の足元は揺れている。発足時には70%を超えた内閣支持率は、11月、12月と続落し、年が変わってからも45、0%(共同、1月11日~14日)、40、7%(時事、同月、12日~13日)と最低を記録している。
 その原因は、直接的には、郵政造反組復党問題、道路特定財源、本間愛人スキャンダル、やらせタウンミーテング、そして、伊吹文部科相など相次ぐ閣僚の政治資金疑惑にあると言える。しかし、より本質的には、安倍が、小泉時代に「劇場型政治」に慣れ切った有権者にむかって、印象深い「ワンフレーズ」や「サプライズ」を提供する「資質」「技量」に欠けた政治家だということにある。有権者の多くは「政策」の中身もさることながら、小泉との対比で安倍を「物足りない」(「お手手つなぐだけではねえ~」)と感じているのである。
 そして今、求心力を失った安倍政権の内外で、政権中枢と異なる意見や行動が噴出し、政治過程に影響を与えはじめている。安倍政権が全力を上げて「制裁」を加えている国に、与党の元幹部が(表敬)訪問する事態が起きた。また「残業代不払い法案=ホワイトカラー・エグザンプション」に対する反対世論の急速な盛り上がりは、安倍をして今国会への法案提出を断念させた。
 そして、1月21日に行われた宮崎知事選では、昨年の滋賀県知事選に続き、無党派の「そのまんま東氏」が自・公推薦の候補者らに圧勝した。安倍政権へ「期待はずれ感」は、小沢・民主や他の既成野党をも飛び越えて、再び「しがらみのない」「無党派候補」への期待へと、変化する可能性が出はじめているのだ。

 「成長神話」にしがみつく御手洗ビジョンン

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 支持率低下の安倍内閣に対して、まるでその尻を叩くかのように「財界」の動きが活発化している。
 本年1月1日、(社)日本経済団体連合会(会長・御手洗冨士夫キャノン会長)は、『希望の国、日本』(御手洗ビジョン)を発表した。近未来である「2015年の日本」の姿を「希望の国」として描き、その実現にむた「優先課題」と「今後五年間に重点的に講じるべき方策」(ロードマップ、アクションプログラム)を提言したものだ。【写真は自民党大会であいさつする御手洗
 「ビジョン」が一貫して主張していることは「豊かな生活は、 成長力の強化・ 維持により実現される」ということだ。ビジョンはこの立場を「成長重視派」と呼び「ベストのシナリオ」と絶賛する。対して「所得格差の拡大、 都市と地方間での不均衡など不平等の問題を厳しく指弾する」立場は「弊害重視派」と括られて否定される。その上で「 改革を徹底し、 成長の果実をもって弊害は克服される」とされる。
 「成長戦略」「上げ潮戦略」は安倍政権の看板政策である。「改革なくして成長なし」(小泉)から「成長なくして未来なし」(安倍)にキャッチコピーも「イノベーション」されたのだ。
 しかし「ビジョン」が掲げる「成長戦略」には二つのまやかしがある。
 一つは、「実質で年平均2、2%、 名目で同3、3%の成長を実現2006年~15年)」「一人当たり国民所得は約三割増加(2005年比)」という目標は実現不可能だということだ。現状でも2%に届かない数字を、増やし、なおも維持していくことは難しい。しかも「ビジョン」が成長のカギだと力説する「科学技術を基点とするイノベーション」も、それが具体的に何なのか、示すことができないままだ。これでは「新しい成長のエンジン」に「点火」しようがない。
 二つには、「成長」(パイの増大)が自動的に「貧困・格差」の是正(パイの公平な分配)につながらないということだ。
 いま、「経済成長が貧困と格差の弊害を是正する」という言葉ほど、人々の実感から遠いものはない。大企業がバブル期を上回る史上最高の利益を謳歌(おうか)している時、労働者の賃金は減少し、生活保護受給世帯は61万世帯(96年)から105万世帯(05年)に、貯蓄ゼロ世帯は、5%(80年代後半)から22、8%(06年)に急増している。まさに「リストラ景気」「格差型景気」なのである。
 もしも、生産性の高い産業、企業、労働者を優遇することで経済が成長し、結果として社会全体が豊かになる仕組みを作るとするならば、そこには強烈な「累進税制」(所得再配分)が必要だ。しかし現実に行われていることは、所得再配分なしの富裕層、大企業優遇だ。「ビジョン」はその上にさらに、法人実効税率約40%を30%に引き下げよ、と主張する。

 「道州制」は「地方分権」と対立する

 「ビジョン」が「成長戦略」のために、イノベーションと並んで重視しているのが、「道州制導入」と「労働市場改革」だ。
 「グローバル化のさらなる進展、 人口減少と少子高齢化の中にあって、 新しい『 日本型成長モデル』 を確立していくには、 地方主導で豊かな経済圏を構築する道州制の導入と、多様な働き方を可能とし、分野横断的に労働の流動性を高める労働市場改革の推進が不可欠の前提となる」。
 全国を一〇程度の広域自治体に再編する道州制は、昨年二月、地方制度調査会が「導入が適当」とする答申を出し、これを受けて小泉、安倍も積極的に推進する立場にある。参院選で自民党は道州制を公約(マニュフェスト)にかかげだろう。こうした流れの中で「ビジョン」は、2015五年をメドに「道州制」を導入せよと主張する。しかし何故、道州制が必要なのか。
 ビジョン」は二つの方向から提起する。一つは地方分権の文脈である。権限での中央による地方自治体の支配、財政面での中央への依存の変革がうたわれる。もう一つは、グローバルな地域間競争の中で生き残りための「広域な経済圏を構築する」という文脈である。
 しかし、この二つは本来別のものである。自治体には適当な規模というものがある。その観点からすると、地方分権の徹底は道州制に行き着かない。逆に「ミニ国家」となる「道」「州」は地方分権に敵対しかねない。しかも「ビジョン」のうた「広域な経済圏」とは、多国籍企業のサイズに合わせた使い勝ってのよい自治体のことだ。地方自治体の財政を大企業の食い物にさせてはならない。

 「労働市場改革」について「ビジョン」は、労働分野の「規制を最小限」にせよという。政府による「行き過ぎた規制・介入」や「労働者保護」の制度が「円滑な労働移動の足かせとなってい」るのという認識からだ。
 今、働いても貧困から抜け出せない「ワーキングプア」が社会問題になっている。派遣・請負、不払い残業、低賃金・不安定労働によって貧困と格差が拡大している。これには1995年の日経連(当時)の指針『新時代の「日本的経営」』が大きな影響を与えている。この指針にそって、企業は正社員を派遣、請負などの非正規・不安定労働に大規模に置き換えたからだ。そして政府の「労働の規制緩和策」がそれを援護した。「ビジョン」は、それでも足りず、「さらに規制を最小限に!」と叫ぶ。

 「格差是正」と「改憲阻止」を闘おう

 日本経団連が「ビジョン」を出すのは、『活力と魅力溢れる日本をめざして』(奥田ビジョン、2003年)に続いて二回目だ。これまでみてきたことの他に、教育、公徳心の涵養、集団的自衛権、憲法改正など、政治的領域にまで公然と口出しをしているところがこれまでと違うところだ。どういう権限があってのことか、日の丸、君が代についても「教育現場のみならず、 官公庁や企業、スポーツイベントなど、社会のさまざまな場面で日常的に国旗を掲げ、 国歌を斉唱し、 これを尊重する心を確立する」などと指図してくれている。まったく余計なことだ。
 昨年五月に二代目の会長に就任したの御手洗冨士夫は「ビジョン」の中でも、昨秋出した「強いニッポン」(朝日新書)の中でも、アメリカ駐在時代に体験したレーガンのアメリカ経済再生を日本でもやるのだ、と豪語してはばからない。そして「私は改革が好きだ。ずっと改革に夢中になり、そのことばかり考えてきた」(「強いニッポン」)と語っていまる。
 一企業にすぎないキャノンの中で「改革に夢中」になっても、害は(それなりにあるにしても)比較的少ない。また、正式に政治家としてトップに立つなら、その仕事ぶりは、最終的には有権者によって審判が下される。しかし、自らが「政策集団」と位置付けている組織のトップにたち、有形無形に政治をコントロールできる立場に居ながら、その去就が有権者の意思に左右されない立場というのは、無限の独裁者になりうることを意味する。
 この強烈なレーガン主義者が、まず総力で仕掛けてくるのが「労働ビックバン」のための労働法制の改悪だ。「ホワイトカラー・エグゼンプション」は一旦の挫折をみたが、復活は必至である。そして憲法改正だ。
 日本経団連は「ビジョン」公表後の1月10日、「希望の国」実現にむけた今年の「優先政策事項」を発表した。これは「2007年の政党の政策評価の尺度となる」ものだ。その10項目にはこう書かれている。
 「新憲法の制定に向けた環境整備と戦略的な外交・安全保障政策の推進」。
 「貧困・格差(=成長戦略)」と「改憲」の二つに「正攻法」で立ち向かわなければならない。


この文章は、『グローカル』707号(07年2月1日)に掲載するために書かれたものです。

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2007年01月02日
 ■ 迷惑なお年玉=「希望の国、日本」

 明けましておめでとうございます。

 新しい年が来ました。4月に統一地方選、7月に参院選と、今年は選挙が続きますね。(ついでに、フランスの大統領選も、後期・統一地方選と同日です)。

 候補予定者のみなさん、関係者のみなさん、正月休み返上で活動中のことと思います。心から敬意を表します。

 さて、昨年、小泉から「政権」を受け継いだ安倍ですが、郵政造反組復党、道路特定財源問題、本間愛人スキャンダル、佐田行革相政治資金疑惑などで支持率急落ですね。色々な世論調査が出ていますが、ネットではすでに支持=12%、不支持=80.5%という数字まで出ています。(参照―1)

 もう、とても「美しい内閣」とは言えません。

 何故、こんな事になってしまったのでしょうか。「週刊現代」が言うように「安倍晋三内閣を倒せ! “平成の陸軍” 財務省のクーデターが始まった」のでしょうか。それとも「『小泉継承』と『脱小泉』を同時に求める」安倍政権の「基本路線をめぐる壮大な矛盾」(「毎日」―参照2)が噴出しはじめたということなのでしょうか。

 安倍政権の急激な失速の原因を分析することは、興味が尽きぬことであり、また必要なことでもありますが、いまここで言いたいのはそのことではありません。脆弱な政権をカバーするかのように、いや、むしろそれを出し抜くかように政治の前面にしゃしゃり出てきた「商売人」のことです。

 日本経団連は07年1月1日、経団連ビジョン『希望の国、日本』を発表しました。(参照―3)
 それは、今後の方向として、小泉改革が生みだした様々な「弊害」(所得格差、都市と地方の不均衡や不平等など)を是正にすることには力を注がず、ひたすら経済成長を求めて、今後10年間、さらなる「改革」を徹底する、と宣言したものです。
 しかもこの「改革」の中には、教育、公徳心の涵養、集団的自衛権、憲法改正などもふくまれています。なんとも迷惑なお年玉です。

 この「希望の国、日本」は、別の方向からみれば、経団連が、国家・経済・社会の運営のビジョンを示したというだけにとどまらず、「日本経団連を政策集団として一段と強化する(参照―3)」(御手洗冨士夫・会長)方向をも示したものとして注目すべきでしょう。つまり、日本経団連会長の「首相化」の方向です。

 実際、安倍首相の脆弱さ、リーダーシップの無さが露呈して来るのと反比例するかのように、経団連会長・御手洗冨士夫の存在感が増しています。いや存在感が増すというより、傍若無人ぶりが高じてきている、と言った方がいいでしょう。

 なにしろ、この人は「改革」とは、自分の姿に合わせて世の中を変えることだと思っているような人です。
 自分が会長を務めるキャノンで偽装請負が発覚すると「請負法制に無理がある」と「法が悪い」と居直りの発言をしました。
 また、労働者派遣法について、「三年たったら正社員にしろと硬直的にすると、たちまち日本のコストは硬直的になってしまう」と現行法が規定する直接雇用の義務化の「見直し」を要求しました。
 さらに、自分の会社から自民党への献金を再開するために、外資系企業(キャノンは外資が50%以上の外資系企業)の献金を規制している政治資金規正法を、先の臨時国会で「改悪」させてしまいました。

 御手洗は、今回の「希望の国、日本」のなかでも、また、昨秋出した「強いニッポン」(朝日新書)の中でも、アメリカ駐在時代に体験したレーガンのアメリカ経済再生を日本でもやるのだ、と豪語してはばかりません。そして「私は改革が好きだ。ずっと改革に夢中になり、そのことばかり考えてきた」(「強いニッポン」)とも語っています。

 私は、この男はヤバイ!と直感的に思います。

 一企業のトップという地位で「改革に夢中」になっても、害は(それなりにあるにしても)比較的少ないでしょう。また、正式に政治家としてトップに立つなら、その仕事ぶりは、最終的には有権者によって審判が下されます。

 しかし、自らが「政策集団」と位置付けている組織のトップにたち、有形無形に政治をコントロールできる立場にI居ながら、その去就が有権者の意思に左右されない立場というのは、無答責と言われた天皇ヒロヒトか、闇将軍と言われた田中角栄なみの独裁者たりうることを意味しているのではないでしょうか。

 そして、この強烈なレーガン主義者が、まず、総力を上げて仕掛けてくるのが「労働ビックバン」=労働法制の改訂、その目玉である8時間労働制の破壊=「ホワイトカラー・エグゼンプション」です。

 安倍はフラフラですが、陰の首相の鼻息は荒いです。

 ホワイトカラーもブルーカラーも、そしてパープルもイエローもブラックも一緒になって、この希有の悪法を葬りたいと思う新年です。

 本年もよろしくお願いします。


  (参照―1)支持率 http://www.yoronchousa.net/webapp/vote/result/?id_research=1558

(参照―2 「毎日」記事)
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/news/20061227ddm004070047000c.html
(参照―3、経団連ビジョン「希望の国、日本」
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2007/vision.html

(参照―4)「月刊・経済Trend 2007年1月号」新春対談、安倍 対 御手洗
http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/trend/200701/taidan.html


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2006年12月02日
 ■ 残業代11.6兆円が消失する?!」

 今年の流行語大賞の一つは、予想通り「イナバウアー」に決定しましたが、予想外に健闘(?)し、トップ・テン入りしたのが「格差社会」。格差問題が社会的に認知されたという意味では歓迎すべきでしょうが、逆に、「流行語」となることによって、ことの本質がはぐらかされ、言葉としては換骨奪胎されてしまったのでは、との危惧も感じます。

 格差が固定化されてしまう原因は、「労働者派遣」の合法化を皮切りとした労働の「規制緩和」、その結果としての「不安定労働」の増大にあることは言を待たないと思います。ここがターニングポイントとなって、労働者は「労働力」を売る存在から、「人間そのもの」を売る存在へと、資本によって位置づけ直されたのだと思います。

 そして「労働の規制緩和」の推進は、今や最終コーナーをまわり「8時間労働制」の破壊に向かって、まっしぐらに進んでいます。すでに成果主義の導入以降、労働者には「自由時間」はありません。寝ている時も、休日の時も、「仕事」のことを考え続けなければなりません。これは経営者の生活・文化スタイルですが、今や、多くのホワイトカラーが、同様なスタイルを「選択」させられています。そしてついに法制としても「8時間労働制」が免除される「ホワイトカラー・エグゼンプション」が…。

 興味深い記事がNBonline(日経ビジネスオンライン)に載っていますので紹介します。

 なお、労働法制の変容と格差社会を実写したものすごくいい本が、弁護士の中野麻美さんから出されました。『労働ダンピング―雇用の多様化の果てに』(岩波新書 06.10)。イチオシ、ニオシ、サンオシの本です。

続きを読む "残業代11.6兆円が消失する?!」"

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2006年04月29日
 ■ 「地裁が泣いた」

 京都で先週(2006年4月20日)に開かれたある「殺人事件」の初公判の記事(毎日)です。関西エリアにしか掲載されていないようですが、その事件のあまりに「悲しい」内容と、異例の公判風景に、かなりの反響があったようです。(ブログでもたくさんの方が取り上げています。ありがとう。)

 実は、この事件、私が住んでいる街の出来事です。私は、新聞でこの事件のことは知っていましたが、ほとんど気にとめていませんでした。事件の背景や本質的なことは、初公判の内容が報道されてからはじめて知りました。近くに居ながら恥ずかしい限りです。

 先日、事件の現場のサイクルロードに行き(自宅から自転車で5分ほど)手を合わせてきました。住宅地からサイクロードに登る道は一つだけ。被告のKさんがどんな気持で車椅子を押して登ったのかと思うと、涙がとまりませんでした。


『毎日新聞』2006/04/20より

 もういきられへん。ここでおわりやで
 そうか。いっしょやで。わしの子や

 京都・認知症母殺人初公判
  ―― 地裁が泣いた ――
 介護疲れ54歳に「情状冒陳」

 認知症の母親(86)の介護で生活苦に陥り、相談の上で殺害したとして承諾殺人などの罪に問われた京都市伏見区の無職、K被告(54)の初公判が20日、京都地裁=東尾龍一裁判官(54)=であった。

 K被告が起訴事実を認めた後、検察側がK被告が献身的に介護をしながら失職などを経て追いつめられていく過程を詳述。殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

 事件は今年2月1日朝、京都市伏見区の桂川河川敷で、車椅子の高齢女性とK被告が倒れているのを通行人が発見。女性は当時86歳だった母で死亡。K被告は首から血を流していたが、一命を取りとめた。

 検察側の冒頭陳述によると、K被告は両親と3人暮しだったが、95年に父が死亡。そのころからく母に認知症の症状が出始め、1人で介護した。母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。K被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。

 介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。力ードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」。K被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区の桂川河川敷の遊歩道で「もう生きられへん。ここで終わりやで」などと言うと、母は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。K被告が「すまんな」と謝ると、母は「こっちに来い」と呼び、K被告が額を母の額にくっつけると、母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。

 この言葉を聞いて、K被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺害し、自分も包丁で首を切って自殺を図った。

 冒頭陳述の間、K被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を振るわせ、眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。

 自宅近くの理容店経宮、松村和彦さん(44)は、「(K被告は)母親と手をつないでよく散歩し、疲れて座り込むとおぶっていた。(事件を聞いて)行政で何とかできないものかと思った」と語る。【太田裕之、石川勝義】


■フォローが必要

 津村智恵子・大阪市立大医学部看護学科
  教授(地域看護、高齢者虐待)の話

 介護心中の典型的ケース。高齢者虐待の中でも最も悲惨な結末。4月1日から全国の市町村に「地域包括支援センター」が設置されており、追い詰められる前に相談してほしい。被告人が社会復帰しても孤立すれば自殺の恐れもある。フォローとケアが必要だ。


■被告の努力示す

 弁護を担当している池上哲朗弁護士の話)

 (検察側の被告に有利ともとれる冒頭陳述などについて)非常に珍しい。それほど悲しい事件ということ。警察官に対する調書も涙なしには読めず、心に触れたのではないか。公判でも被告がいかに一生懸命頑張ってきたかを示したい。

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2006年03月31日
 ■ フランス雑感

 ■未来の先取りか、前世紀「階級闘争」の残り火か

 フランス民衆のCPE(初期雇用契約)撤回闘争は、28日にゼネストと300万人デモを実現し、ドヴィルパン内閣を追いつめています。しかし、日本のマスコミの取り上げ方は、「デモ隊が暴徒化した」とか、「来年の大統領選挙の前哨戦」など、瑣末な点に光をあてたものがほとんどです。
 恥ずかしながら私自身も、このCPEを中心にした「機会平等法」がフランス議会に提出され、高校生たちが猛然と反対運動に立ち上がった時点でも(2月初旬)、この問題がほとんど眼に入っていませんでした。だから、他人のことはとやかく批判できる立場にはありません。
 当地では、28日の大行動に続き、5大労組と学生組織が、4月4日にも同様な行動を行うようです。30日の憲法評議会の結論の行く末(26歳未満の若者だけに適用されるCPEが憲法の定める「法の下の平等原則」に反していないか否か)、シラク大統領の動向などなど、「政局」という意味でも、待ったなしの緊迫した場面が訪れようとしているようです。
 ところで、このフランス民衆の反CPEの大闘争とは、いったい、いかなる意味をもったものでしょうか。「階級闘争が最後まで闘われるのがフランスである」と語ったのはマルクスですが、確かに「徹底して闘われている」ことは、日々のニュースでも理解できます。しかし、分からないのはその先です。
 つまり、フランスの事態は、グローバリゼイションの中で、先進各国がいつかは通らねばならない未来を先取りしたものなのか、それとも、他の先進国ではほぼ「終息」しかに見える前世紀の「階級闘争」の残り火なのか、という点です。

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2005年11月23日
 ■ 新しい「境界線」について―朝日「政態拝見」(11/22)の感想

 昨日(11月22日)の「朝日新聞」のコラム「政態拝見」は面白かった。根本清樹氏の筆による『格差社会 不当かどうかの境目は』がそれである。
 世の中、いつのまにやら「景気回復」ということになったが、誰がそれを実感しているのだろうか。「私らとは別世界の話しです」。根本はタクシーの運転手の話しを、日本が確実に不平等化、格差拡大している例として紹介したあと、次ぎのような問いを投げかける。

 日本社会の不平等化、格差拡大は進んでいる。しかし、社民党がその是正を総選挙で訴えたにもかかわらず、それが「郵政民営化」にかき消されてしまったのはなぜか、と。
 確かに、先の総選挙では「構造改革」の犠牲者とも言える層の人々が「郵政民営化」を強く支持した、という世論調査の結果が出て注目された。根本の問いは、このねじれを解明することと重なる。

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2005年06月20日
 ■ 誰が「ニート」「フリーター」になるのか?
再生産される日本の階層社会

 若者バッシングの新たな言葉?

 「ニート」と言う言葉が流行っている。きっかけは一年前に玄田有史が『ニート フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬社)を出版したことによる。

 「ニート」とは、「Not in Education(学校教育) Employment(雇用) or Training(訓練)」の頭文字「NEET」を取ったもので、もともとはイギリスで低階層の若年無業者の就業支援をするための政策用語だった。

 それが日本で驚くほど急速に広く「受容」されたのは、低階層の若年無業者への理解がイギリス以上に深まっていたからでは、もちろん無い。多くは、「ニート=仕事もしないで親や社会に寄生している若者」と言うイメージの下、若者バッシングの新たな言葉とし口にしているのが現実だろう。

 では「ニート」、それに九〇年代から増加し続けている「フリーター」とは、いったい何だろうか。何故、生まれたのか。そして、誰が「ニート」「フリーター」になるのか。その意味するところを考えてみたい。

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2004年10月10日
 ■ 映画 『リストラと闘う男』

―フジ産経グループ記者・松沢弘の「ニコニコ笑顔」の解雇撤回闘争

 市民団体「ドキュメント・フェルム・ライブラリー」8月例会(22日)の作品。題して『リストラと闘う男』。タイトルからして「言いたいことはわかるけど、こういう時代だからねエ~」と、なんとなく観るのを遠慮したくなるような題名。

 でも何故、観ようとという気になったのか。

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2004年09月25日
 ■ きょうとニユオン結成15+1周年記念集会

 知人が書記長をやっているユニオンの講演会です。経済、文化、教育領域における格差が拡大している今日、とりわけ若者をとりまく労働環境が、かなりヤバイ状態になっています。これは一般的な知識ではなく、日々実感していること。

 技能や知識がまったくない者でも、汗をながすことによって、知的で、文化的で、かつ、経済的にもそこそこの生活が送れるのが、私にとっての「理想社会」です。

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