2013年11月15日
 ■ なぜ今「特定秘密保護法」なのか、を理解する二つのキーワード

 特定秘密保護法案に反対する世論と運動が、この一週間で急速に大きくなってきたように思います。私が住む京都でもいくつもの集会が準備されていますので、下に貼り付けておきます。

 その前に、この特定秘密保護法案を私がどう見ているか、を書いておきます。私は、ごく大ざっぱに言って、この法律の産みの親(まだ産まれてないけど)は日米安保体制だと思っています。そうです、今の安倍の動きは、日米軍事再編の中から導きだされてきています。そうした状況を理解するキーワードは二つ。「GSOMIA」と「JASBC」。

 一つ目の「GSOMIA」はジーソミアと読みます。「General Security of Military Information Agreement」(包括的軍事情報保護協定)の略です。日本はアメリカとの間に2007年8月に、GSOMIを結びます。日米間の協定の名称は「秘密軍事情報の保護のための秘密保持の措置に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」という長ったらしい名前です。

 ようするに米日間で軍事情報を提供し合う際、日本の軍事情報保護のレベルをアメリカ並に引き上げることを約束したものです。つまり、「日米軍事一体化」を進めるために、この対米協定の国内法版として出されてきているのが、今回の特定秘密保護法案なのです。これで軍同士だけでななく、これまで米国でやっていた日本配備の米艦船のメンテナンスを、日本の企業が請け負うことができ、経済的にも日本の軍需産業が潤うことになります。(本当にそうなるかどうか、米国の失業問題もからむからビミョー)。

 ネットで「GSOMIA」を検索すると色々なことがわかりますが、PP研のwebに山口響さんがざくっとした解説を書いていますので、参照してください。

「特定秘密保護法案になぜ反対するか」
   山口響(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=158

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 でも「日米軍事一体化のさらなる強化、となかんとか言って批判しているけど、左翼はもう何十年も前からそういう批判をしているんじゃないか」といぶかしがる方も多いと思います。

 そうなんですよね。左翼は万年「戦争危機論」で来たので「平和」が続くと力と信用を失っちゃうんです。また、「日米軍事一体化反対」を叫ぶ方も、今の日米安保の実態、つまりアメリカのどんな戦略の中に日本が位置づけかれ、どこの国との戦争を想定しているのか、いまいち理解していない人が多いんですよね。

 このあいまいな認識を、ぐっと現実に近づけるのに役立つキーワードが、二つめに示したキーワード「JASBC」です。読み方はとくにありません。「Joint AirSea Battle Concept」の略です。直訳すると「統合・空海作戦・構想」となりますが、一般的には「エアシー・バトル構想」とよばれています。

 「エアシー・バトル構想」は現在のアメリカの太平洋戦略の要になっている構想です。 簡単にいうと、内陸国家から海洋国家化への転換をすすめる中国が、西太平洋にアメリカが軍事的に進出(アクセス)できないような拒否、阻止戦略をとっている(西太平洋に第一列島線や第二列島線などの阻止線を策定)ことに対して、アメリカが、これを軍事的に打ち破る力を、西太平洋の同盟国(日本、韓国、ニュージーランド、オーストラリアなど)と一体となって形成しようという構想です。(旨く説明ができたか不安)。

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 このアメリカを中心に、中国との戦争に備えて多国間ですすめる軍事一体化が、日本国内において、集団的自衛権問題や、国家安全保障会議、そして今回の特定秘密保護法を浮上させている、と私は見ます。

 この「エアシー・バトル構想」の中で日本の自衛隊は今、アメリカの中国抑止の軍事作戦をどこまでも肩代わりしてになって行こうとしています。尖閣など島嶼の防衛の強化も、日本人の「領土」意識に訴えていますが、本質的にはアメリカの「エアシー・バトル構想」での、中国の「第一列島線」への肉薄戦です。またフィリピンへの自衛隊の派遣も中国の阻止線への軍事部隊の派遣の既成事実づくりで、アメリカンの「エアシー・バトル構想」にとって好都合というわけです。

 でも、平和運動家の中に「エアシー・バトル構想なんてはじめて聞いた」という人がいても不思議ではありません。なんせ民主党政権時代に、防衛大臣だった田中直紀氏が「エアシー・バトル構想をどう理解しているか」と小池百合子に聞かれて、しどろもどろになったことがありました。時の防衛大臣も「エアシー・バトル構想」を知らなかったのです。

 幸いなことに、この「エアシー・バトル」の概略と、それに対する民衆の対応について、これもピープルズ・プラン研究所の武藤一羊さんが、水準の高い分析をしたためています。いくつかありますが「『アメリカの太平洋時代』」とは何か─米中『複合覇権』状況の出現と非覇権の立場」「季刊ピープルズ・プラン」58号)が、まとまっています。webでも読めますので、精読をお薦めします。
  http://www.peoples-plan.org/jp/ppmagazine/pp58/pp58_muto.pdf

 また、海上自衛隊関係の論文もお薦めです。(武藤さんも参照しています)
 「エアシー・バトルの背景」(八木 直人)
 http://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/review/1-1/1-1-2.pdf

 秘密保保護法案を「戦前の闇黒政治の再来」というようなレベルで批判する人が多く、煽動の文句としては間違ってはいませんが、宣伝の中身としては「ジーソミア」(総括的軍事情報保護協定)と「エアシー・バトル」の危険性を訴え、反安保闘争の新たな地平を構想する必要があるように思います。

 とは言え、個人的には、やりたいことが山ほどあり、時間だけはない、という状況が続いており、ごまめの歯ぎしりの日々です。

★京都での集会

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<憲法を活かす会  学習会のご案内>
■日時: 11月22日(金) 午後6時30分より午後8時50分まで
■場所: ウイングス京都 会議室1
      (四条烏丸東洞院上る 四条烏丸から徒歩5分)
■参加費: 300円
■講師: 澤野義一さん(大阪経済法科大学教授)
■演題: 「憲法9条と集団的自衛権見直し論議」
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 <緊急講演会企画だれのための「秘密」なのか
スノーデン事件と秘密保護法からはじまる監視社会>
・とき 11月24日(日)午後1時(開場12時30分)
・ところ 京都弁護士会館地下大ホール
・入場無料
・講師 臺 宏士(だい ひろし)さん
 毎日新聞社会部記者。1966年埼玉県生まれ。 早稲田大学卒。
90 年毎日新聞社入社。著書 に『個人情報保護法の狙い』(緑風出版)ほか。
・主催、市民ウオッチャー京都/京都・市民オンブズパース委員会
/全国市民オンブズマン連絡会議
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<11・29秘密保護法を考える緊急学習会>
「原発問題と特定秘密保護法」
■日時:11月29日(金)午後7:30
■場所:キャンパスプラザ京都 第3会議室
■講師:小笠原伸児 弁護士(自由法曹団、「憲法9条京都の会」事務局長)
●講演:「秘密保護法で隠蔽される原発情報―脱原発・原発ゼロ運動にとっての特定秘密保護法の危険性を考える」
■資料代:500円
■主催:原発問題と特定秘密保護法を考える京都府民有志(募集中!)
連絡先:高取利喜恵(08015230117)

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2013年01月23日
 ■ 水野和夫「デフレからの脱却は無理なのです」

 そもそも「00ノミクス」という言い方が悪徳商法なのだそうだ(浜矩子さん―1/21毎日新聞)。こんどの00ノミクスの提唱者は、経済にはまったく暗いお人。「三本の矢」などと粋がっているが、中身はケインズ政策と新古典派政策のごちゃまぜ。いまだに竹中平蔵を担ぎながら、「レジーム・チェンジ」って、笑い話にもならない。
 「100年デフレ」を予見し、リフレ策の無効を論じる水野和夫氏が、アベノミクスの悪徳商法を斬る。円安バブルはあっても、デフレからの脱却はなし。「そもそも成長できなくなったという前提でどうするかを考えなければいけないのです」。 その通りだ。


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キーパーソンに聞く
デフレからの脱却は無理なのです
水野和夫・埼玉大学大学院客員教授に聞く
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日経ビジネス オンラインより (2013/01/17)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20130116/242345/?P=1


 デフレからの脱却はできない――。金融緩和、財政政策、成長戦略の「3本の矢」で脱デフレを目指す「アベノミクス」が始動しても、その思いが揺らぐことはない。政権交代で政府を離れた水野和夫・埼玉大学大学院客員教授が見る日本経済が抱える問題の本質とは何か。


■水野 和夫(みずの・かずお)氏
埼玉大学大学院客員教授。1953年生まれ。1980年早稲田大学大学院経済学修士。八千代証券に入り、その後は一貫して調査部門に所属。合併などで会社は国際証券、三菱証券、三菱UFJ証券、三菱UFJモルガン・スタンレー証券に変わった。2010年9月に退職し、民主党政権で内閣府の官房審議官(経済財政分析担当)に転じた。国家戦略室担当の内閣審議官も務めたが、政権交代で退いた。(撮影:清水盟貴)

(聞き手は渡辺康仁)

――国内外の経済の状況をどう見ていますか。

水野:まず先進国の状況からお話しします。2008年のリーマンショックに続いてユーロ圏諸国のソブリン(政府債務)問題が起こり、米欧各国は後遺症からいまだに抜け出せていません。日本がバブル崩壊後の「失われた20年」で抱えた問題を解決できないのと同じような状況に置かれています。

 日米欧でバブル経済が発生した原因ははっきりしています。それは成長ができなくなったからです。日本は戦後の高度成長期が1973~74年頃に終わり、4~5%の中期成長に入りました。その後、80年代に入って成長率はさらに落ち込み、それを覆い隠すようにバブル経済が起きました。

 成長が難しくなった米国も、1995年以降、強いドル政策でバブルを起こしました。金融技術や証券化商品がそれに乗っかる形で2007~08年にピークを迎えたのです。欧州でも、特にドイツが成長できなくなったためにユーロという大きな枠組みを作って南欧諸国を取り込みました。国別で一番ポルシェが売れていたのはギリシャだそうです。強いユーロでポルシェを買ってバブル化していったのです。

 日米欧ともに成長ができなくなったからバブルに依存し、いずれも崩壊したのです。バブル崩壊の過程でデフレも起きました。私には成長戦略でバブルの後遺症から脱却しようというのは堂々巡りのように思えます。

――歴代の政権は成長戦略を経済政策の柱としてきましたが、それは間違っていたということですか。

水野:成長戦略は失敗の運命にあると言えます。菅直人・元首相については様々な評価がありますが、首相時代の発言で一番良いと思うのは「成長戦略は十数本作ったが全部失敗している」というものです。成長戦略が解決策として正しいのであれば、十数本のうちどれかは当たっていないとおかしいのです。ことごとく外れているということは、成長では解決できない事態に先進国は直面していると考えたほうがいいのだろうと思います。

■「製造業復活」は理解できない

 先進国が成長できなくなったのには理由があります。デフレ経済のもとで、数字で成長を計る場合には名目GDP(国内総生産)を使います。名目GDPを簡単に言うと、売り上げから中間投入を引いた付加価値です。

 今起きている事態は売り上げが落ちているということではありません。売り上げが減少したのは、失われた20年の最初の10年です。あの当時は信用収縮も起きて単価がどんどん下がりました。現在は企業の売り上げが伸びる一方で、中間投入がそれと同額か場合によっては上回るテンポで増えている。売り上げが増加しても名目GDPは増えないという構図です。中間投入が増えているということは、逆に言えば資源国の売り上げが増えているということです。

 売り上げが伸びていると言いましたが、先進国の企業が思い通りに値上げができる状況にはありません。日本からの輸出でウエイトが高い電機や自動車は競争が激しく、新興国市場などで値上げすることは厳しいでしょう。先進国は工業製品を作るだけでは付加価値を増やすことは難しくなってしまいました。

――日本経済を再生させるためには、製造業の役割が重要になるのではないですか。

水野:製造業の復活と言う人がいますが、私にはなかなか理解できないですね。日本で作って海外に持っていくのは、今の仕組みからするとほとんど成り立たないと思います。家電メーカーの現状がそれを物語っています。自動車も10年後には同じ状況になる可能性があります。新興国が近代化に成功するには、雇用を自国で増やして中間層を生み出すことが必要ですから、新興国は現地生産化を求めると思います。

 国内を見ても、身の回りにはモノがあふれています。乗用車の普及率は80%を超え、カラーテレビはほぼ100%です。財よりもサービスが伸びると言われますが、サービスは在庫を持てないし、消費量は時間に比例します。1日が24時間と決まっている以上、サービスを受け入れる能力には限りがあります。先進国は財もサービスも基本的には十分満たされているのです。

 個人だけでなく、国全体の資本ストックも過剰です。既に過剰なのに、まだ新幹線や第2東名高速を作ると言っている。資本ストックの減価償却にどんどんお金を使うというのが今起きていることです。

■経済的にゼロ成長で十分

――企業が稼げなくなると、賃金や雇用にしわ寄せが行きそうです。

水野:戦後最長の景気回復期だった2002年から2008年初めに何が起きたのでしょうか。製造業の付加価値はプラスでしたが、企業利益と雇用者報酬、減価償却に分けると、減価償却は付加価値よりも増えました。1200兆円の民間ストックを維持するために過大償却になっていたのです。景気は回復しているのに企業利益と雇用者報酬を合算するとマイナスになる。利益を減らすと株主総会を乗り切れませんから、雇用者報酬が引かれます。1人当たり人件費はどんどん下がります。

 世界経済が回復すると工場の稼働率も上がるから株主配当を増やさなければなりません。雇用者を非正規化しながらトータルの人件費を下げるのが景気回復の実態です。次の景気回復が来ても、この状況は変わらないでしょう。


 繰り返しますが、あらゆるものが過剰になっているのです。本来ならば、望ましい段階に到達したはずです。国連の統計では、1人当たりのストックでは日本は米国を上回ります。さらに成長しようというのは、身の回りのストックをもっと増やそうということです。まだ資本ストックが足りない国から見ると、1000兆円もの借金を作って色々なモノをあふれさせた日本が成長しないと豊かになれないというのはどういうことかと思いますよね。

――何か答えはあるのでしょうか。

水野:2つ考えられます。もし日本が今でも貧しいとするならば、1つの解は近代システムが間違っているということです。ありとあらゆるものを増やしても皆が豊かになれないというのはおかしいですから。

 2つ目の答えは、成長の次の概念をどう提示するかです。日本は明治維新で近代システムを取り入れて、わずか140年たらずで欧米が400年くらいかけて到達した水準に既に達してしまったということです。これまで「近代システム=成長」ということでやってきましたが、必ずしも近代システムは普遍的なものではありません。変えていかないといけないのです。

 私は経済的にはゼロ成長で十分だと思います。よく経営者は「成長戦略は実行あるのみ」という言い方をしますが、近代システムを強化して売り上げが伸びるような仕組みであれば、それでもいいのでしょう。しかし、売り上げが伸びるのはあくまで海外です。現地で100の売り上げがあったら、50が中間投入で、50が付加価値。付加価値の50のうち、35が現地の雇用になって15が日本に返ってくる。先進国になった日本が1人当たりGDPで1000ドルや2000ドルの国にぶら下がって豊かになるのは無理なのです。

■資本主義は全員を豊かにしない

――アジアなど新興国の成長を取り込むことはこれからも重要だと思いますが。

水野:日本の高度成長期には原油が1バレル2ドルや3ドルで買えました。米欧のオイルメジャーが原油価格を抑えていましたから、売り上げが増えても中間投入は増えません。日本の1960年代から70年代半ばまではすごく条件が恵まれていましたが、オイルショックで壊れました。

 今の新興国は1バレル100ドルで原油を仕入れなければなりません。近代化の原則は「より速く、より遠く」ですから、エネルギーが必要です。地球上の70億人のうち、12億人が先進国の仲間入りをして、残り58億人が近代化に向けてこれからエネルギーを多消費します。しかし、原油高は続いていますから、残りの58億人全員が近代の仕組みの上で豊かになれるわけではないのです。

 アジアやアフリカの各国がドッグイヤーと言われるほど速いテンポで近代化をすると、今の想定通りに本当に中間層が生まれるのでしょうか。私はそれは難しいと考えています。資本主義は全員を豊かにする仕組みではないとだんだん分かってくるのが、これからの10年、20年なのでしょう。

 中国もこれから過剰設備の問題が顕在してきます。世界の粗鋼生産量15億トンのうち、中国が既に7億~8億トンを占めています。中国経済が90年代後半から立ち上がった過程は米欧のバブル期と重なります。米欧が失われた10年、20年に入ると、日本が過剰設備に陥った90年代と同じことが起こりかねません。たとえアフリカ経済が成長しても、5兆ドル規模の中国経済を牽引することはできません。中国の成長が難しくなれば、日本も外需に期待することはできなくなります。

――デフレからの脱却も難しくなりますね。

水野:デフレからは脱却できないでしょう。そもそも成長できなくなったという前提でどうするかを考えなければいけないのです。

 日銀の金融緩和への期待で円安が進んでいますが、2000年代初頭に量的緩和で1ドル=120円程度まで円安が進行したことがありました。経営者は120円が続くという前提で国内に工場を作りましたが、今度は70円台の円高になってしまった。経営者の失敗なのに、最近になると六重苦といって円高のせいにしていますよね。今の状況も「円安バブル」を生じさせる恐れがあると見ています。

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2012年11月15日
 ■ 野田首相の「大政奉還」

 色々ありましたがどうやら16日に「解散」らしいですね。それにしても野田首相の見事な「反転攻勢」でした。敵の要求(解散)を「受け入れ」、返す刀で敵の「弱点」(定数削減における内容不一致)を突き、解散のイニシアチブを握る。

 小生は、徳川慶喜の「大政奉還」を思い出しました。第二次長州征伐で事実上「敗北」し、さらに薩・長、岩倉連合が工作した「倒幕の密勅」の発給で幕府の継続ができなくなった慶喜が打ったバクチが「大政奉還」。これで政局は一気にポスト幕府の「新政府」のリーダーをめぐる争いに移り、慶喜はその一番手に立つことに成功します。

 野田首相の思惑もおそらく徳川慶喜のそれと違わないでしょう。来る総選挙で、民主党が過半数を取れないこと、政権から一旦は離れなければならないことは分かっている。しかし、負けを最小限に押さえ、自民党も、さらに、どの党も過半数を取れない「多党乱立」というの新しい時代の到来を見越した中で、元政権党、相対的多数党としてのイニシアチブを発揮して政権に舞い戻る。

 野田首相の思惑通りにことが運ぶかどうか分かりませんが、総選挙の後、大連立かそれに準じる形の政権が生まれてくる可能性は大きいと思います。別の見方をすれば「決める政治」をどの党も叫び、その結果「決められない政治」が更に続くというアイロニーです。

 因みに慶喜が「大政奉還」を上奏した日は、1867年の11月14日。奇しくも野田首相が党首討論で解散を宣言した同じ日です。

 慶喜の「大政奉還」戦略は、一旦成功するかに見えましたが、この後、薩長による「王政復古」の大号令というクーデター(12月9日)にしてやられます。小生は、この日が日本が誤った明治強権国家(領土拡張国家)に踏みだした第一日目だと思っています。

 さて12月16日の総選挙。大連立か、王政復古(第三極・維新派)か、それとも脱原発(よりまし)政権か。日本の行く末を(新しい首都の顔と共)に民衆の行動で決定していきましょう。

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2012年05月21日
 ■  「不当債務」の拒否から「もう一つの欧州」へ/6月「再選挙」でギリシャ民衆が向かう先

 五月六日に行われたギリシャ総選挙で「緊縮策反対」を掲げる急進左翼連合(SYRIZA)が第二党に躍進し、「緊縮策」を押し進めてきた連立与党(ギリシャ社会主義運動党、新民主主義党)を惨敗・過半数割れに追い込んだ。その後の連立協議が不成功となり、六月一七日に再選挙が行われる。急進左翼連合が「反緊縮」の勢いを加速させて第一党となるのか、それとも旧与党が「ユーロからの離脱か否か」の脅しと「財政再建と成長の両立」という怪しげな政策で巻き返すのか、ギリシャの未来とグローバル金融資本主義の生死を分かつ重大な局面を迎えている。
  
 不当債権の返済拒否

 ギリシャでは、三年前に財政赤字の粉飾が明かになって以降、債務返済のための金融支援と引き替えの「緊縮政策」が、EU・欧州中央銀行・IMFの三者(=トロイカ、代表団がアテネに常駐)によって進められてきた。公共サービスの廃止、公共料金の三〇%引き上、給与の二~三割引き下げ、貧困支援策の中止、団体交渉の廃止、付加価値税の引き上げ(一九%↓二三%)、年金カット、公有資産の売却などなど。それはギリシャの社会のあり方を一変させた。とくに若者の失業率は五割を超えた。「緊縮策」はギリシャ社会から「希望」を奪ったのだ。五月の選挙で「緊縮策」を進めた連立与党が大惨敗したのは、民衆の悲痛な叫びの結果そのものだ。
 躍進した「緊縮反対」勢力は、それとセットになっている「債務返済」自身にも切り込み、返済の凍結・削減・停止・拒否などを訴えた。これらの主張には正当性がある。
 ギリシャの財政赤字が膨張した原因は、ギリシャ人が「怠け者」だとか「公務員が多い」ということではなく、ギリシャのユーロ加盟以降、欧州単一金融市場の誕生で自由度を増したフランスやドイツの銀行マネーが、ギリシャや南欧の国債市場になだれ込んだことにある。そして、ギリシャ社会主義運動党と新民主主義党の旧二大政党は、選挙の度にこのマネーをばらまくことで政権を交互に手にしていたのだ。
 さらに驚くべきことは、ギリシャの財政に化けた独・仏の銀行マネーは、ドイツやフランスの戦闘機や潜水艦などの兵器の購入代金として、再びフランス、ドイツに環流していたことである。(海外ドキュメンタリー『ギリシャ財政破綻の処方箋――監査に立ち上がる市民たち』NHKBS1より)
 ギリシャ政府はこれまで、債務の中身について、誰が、何のために、誰から借りたお金なのか、一切を明らかにしていない。「債務は返済しなければならない」という一般的な理由だけで返済のための新たな金融支援を受けることに合意し、すべてのツケを「緊縮政策」として民衆に転嫁してきた。ここには何の正当性もない。ギリシャの民衆が六月の選挙で「NO」を突きつけたのは、まったく当然のことだったのだ。

 ユーロからの離脱をめぐって

 「緊縮策」の遂行と「債務返済」はトロイカとギリシャ政府の「合意」である。この合意をくつがえす左派政権が誕生すれば「ギリシャのユーロからの離脱は必至」となるのだろうか。六月一七日の再選挙をめぐるマスコミの論評は、「緊縮問題」から「ユーロ離脱問題」へとシフトしている。
 再選挙で第一党をうかがう急進左翼連合(SYRIZA)は、五月選挙ではユーロとの関係については言及していなかった。(二六議席獲得した共産党は「離脱」を明言)。これは選挙戦術上の「あいまいな路線」とも受け取れるが、トロイカの側にボールを投げ返す戦略、と見ることもできる。つまり、ギリシャのユーロ離脱は、トロイカの側にこそ痛手である、という見立てである。
 先に見たように、ギリシャの財政危機、その救済と称する金融支援、さらにそのバーターとしての民衆への「緊縮策」の押しつけは、ユーロマネーにとって実においしい話なのである。国債へ投機が何倍にもなって返ってくるだけでなく、更なるビジネスチャンス(金融支援)をも生む。ギリシャがトロイカ体制にとどまり債務を返済し続けるということは、このマネーの蓄積シシテムが永遠に続くということなのだ。トロイカにとって「情けは他人のためならず」だ。
 これに対して、ギリシャの側はどうか。これはギリシャの民衆が決めることだが、ユーロからの離脱で手に入れることができるのは、ギリシャの民衆にとって最も大切なもの、すなわち自己決定権だ。それは取りあえずは通貨発行権もふくめた国民国家を金融資本主義の側から取り戻すことだ。民衆はそれを武器にして社会防衛・形成へと進むだろう。
 経済的には、ユーロによって作り出された欧州の南北格差、周辺問題を「南側」「周辺」の側から超える一歩となる可能性がある。
 欧州のソブリン危機は、ギリシャが焦点化されているが、ギリシャの経済規模はEUの二%弱にすぎない。それにくらべて、同じく「緊縮策」を強いられている南欧のスペインは大国だ。このスペインがディフォルトすればユーロは暴落・崩壊し、壊滅的な金融恐慌となる。
 その時、ドロ舟のユーロ圏から「脱出」していたギリシャは、非ユーロ圏のヨーロッパ諸国と連帯して「もうひとつの欧州」を形成し、ユーロ崩壊で苦しむ欧州民衆のアジールとなることができる。
 六月再選挙の勝利をめざし、「緊縮策」と「不当債務」の拒否から「もう一つの欧州」へと向かうギリシャ民衆に連帯しよう。



『グローカル』2012年6月1日号 掲載予定

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2012年05月06日
 ■ 原発ゼロ記念日に…「一瞬」ではなく「永遠のゼロ」にむかって

■「止まった」のではなく「止めた」のだ

 久しぶりにブログを更新することにします。今日は連休最後の日であると同時に、日本列島の原発が全て止まった記念すべき「原発ゼロ」第一日だからです。祝っても祝い切れません。これは「止まった」のではなく市民が「止めた」のだ、と誰がおっしゃいましたが、その通りです。政府や電力会社は、何とか「原発ゼロ」を回避しようと大飯原発の3~4号機を「再稼働」させようと躍起になりました。しかし再稼働は阻止されました。
 大飯原発から50キロ圏にある大阪、京都、滋賀の首長が「住民の安全を守る」立場に立ち国と渡り合ったこと。経産省のごり押しの「地元説明」の茶番に、市民が敢然と抗議行動を貫いたこと。そして、その(都市部の)市民が展開した「地元」おおい町住民との「ポステング=対話活動」が、長いあいだ口をつぐんできた住民たち自ら声をあげるきっかけを作りだしたこと。このきっかけ作りには、遠く関東から原付バイクでやってきてテント活動をはじめた若者の存在も大きかったと聞きます。

■槌田劭さんの18日間のハンガーストライキ


 そして、京都では、4月18日から5月5日まで、京都駅前にある関電京都支店ビルの南むかいの交差点の一角を「占拠」して、使い捨て時代を考える会・代表の槌田劭さんが大飯原発の再稼働に反対するハンガーストライキを行いました。御年76歳。同じスペーで支援の座り込みや「さよなら原発1000万人署名」が行われ、かけつけた支援者は延べ400人を越えました。最終日の5月5日には、200人の仲間が関電前交差点に集まり、原発ゼロを祝い、槌田さんの18日間のハンストを慰労し、歌、トーク、キャンドルアクションなどを行いました。
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 ドイツから来ている立命館大学の先生が「ドイツは脱原発の先進地でしたがまだ8機の原発が動いています。でも日本は今日、市民の力で原発ゼロを実現しました。次は政策転換でゼロを実現してください」と激励されたのが印象的でした。
 途中から小雨混じりの天候となりましたが、それとは裏腹に、久しぶりに晴れ晴れとした気分なれた集まりとなりました。槌田さん、ホントにお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

■原発ルネッサンスを諦め切れない推進派

 この「原発ゼロ」を「一瞬」ではなく「永遠」のものとするには、まだまだ大きな壁があります。政府・経産省・電力会社は「電力不足キャンペーン」と「安定供給の責任」をタテに、再稼働をごり押ししてくるでしょう。田中優さんが言うように「偽装停電」という戦術には警戒を強めなければなりません。
 また、日本がダメでも世界があるさ、というグローバリズムの精神を発揮して「原発輸出」が更に推進されようとしています。一機4000億円~5000億円、一ヶ所4機で2兆円。消費税1%分のお金が動くおいしいビジネス。日本で原発をゼロにしても、日本の原子力ムラやIAEIなど世界の原発推進機関が「原発ルネサンス」をあきらめない限り、世界で原発は増え続けます。「国内ゼロ」から「世界でゼロ」を実現したいものです。
 さらに「政策転換」をめぐる場での反動も強まるでしょう。この夏、政府、経産省、環境省の三つの「エネルギー長期戦略」に関する審議会が答申を出し、政府の新方針が「決定」されます。政府においては「脱・原発依存社会」という方向は既定方針(のはず)ですが、問題は「いつまでに」にあります。へたをすると「2050年に原発ゼロ」などという現状維持そのままの「政策転換」になりかねません。

■地元の住民が公然と「原発NO!」を語れる社会に

 そして、忘れてならないのが、フクシマ事故の行方と福島の人たちの安全と民主主義。福島県内に住む知人から「この”原発ゼロ記念日” 福島県内での動きは全くありません」というメールを頂きました。「原発に関して自治体はなんら表明できないでいます。情けないばかりです。自治体、商工組合関係は地元復興の動きばかりです」とメールは続き、さらに「放射線量の高い公園でラーメンフェスタを開くなど心配派には信じられないことも行っています」と憤りが表明されます。
 そうなのです。この「日本列島原発ゼロ」の実現が、フクシマ事故の前だったらどんなによかったことでしょう。しかし現実は「ディー・アフター」なのです。原発に「YES」か「NO」かを口にできないばかりか、放射線への恐怖を口にすることすらもはばかられるような空気が、事故を経てもなお(否、それが故に)彼の地を支配しているのです。このことを忘れないでおこうと思います。
 原発ゼロ・脱原発の実現とは、福島や原発を抱える地域(の住民や作業労働者)が、公然と原発について自分の意見(「YES」であれ「NO」であれ)を言えるように変わることです。その意味で、これから「原発ゼロ」を日々積み重ねることが、原発城下町の住民にとっても、原発から解放され民主主義を取り戻す、大きなきっかけとなることでしょう。

 「原発ゼロ」を永遠にするための「壁」はぞれぞれかなり高いです。しかし、いまま現在、民意が力となって原発を「止め」続けているのですから「永遠のゼロ」も民意の力で実現できるはずです。10万年先まで影響をあたえる原発に、トドメをさすことが出来る決定的なチャンスを、いま、私たちは迎えています。

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2012年01月03日
 ■ 大阪「原発市民投票」体験記

新年明けましておめでとうございます。

本来は歓びのあいさつのはずですが、今年ほど、口にするがためらわれる年はありません。

それは、原発の事故が収束せず、放射能汚染がつづき、それを要因とする病気の発症がこれから本格することに、誰もが気付いているからではないでしょうか。

さらに、TPPや消費増税など「1%」の連中のための政治が強まっていることもあると思います。

正月休みに、切り抜いたままになっていた朝日の「プロメテウスの罠」を読み通しました。また、ネット上で評判になっていたNHKの「追跡・真相―低線量被ばく、ゆらぐ国際基準」や、福島原発事故の真相にせまった28日放映の「報道ステーション」も、動画でじっくり見ました。

http://www.dailymotion.com/video/xnbnjg_20111228-yyyyyy-yyyyyyy_news#rel-page-under-4

そして思ったことは「やはり、この国は本気で国民を守ろうとしていない!」ということでした。

私たちはよく「原発依存社会」という言葉を見聞きします。私はこの言葉に昔から違和感がありました。そして、幸か不幸か、フクシマ事故は、この言葉の本当の姿を明らかにしたと思います。それは、私たちの社会が「原発に依存」しているのではなく、電力会社、建設企業、政府官僚、御用学者などの「原発利益共同体」が、逆に私たちの社会に「依存・寄生」しているという姿です。

こうした出発点に立つと、脱原発の課題とは、自然エネルギーへの転換にとどまらず、原発や電源をめぐる「権力構造」(それは「99%」対「1%」の対立構造と重なる)を解体していくことを、重要な柱にして進めなければならないと思います。


さて標題の件。

昨日(二日)ずっと気になっていた、大阪の原発「市民投票」の応援に行ってきました。

署名数が思うように集まっていないということ、知人から「人手が足りない」とのSOSがあったこと、そして、後学のために、直接請求の運動を体験しておくのもよかろうと考えたこと、等々の理由で、我が身の非力を省みずに助っ人となりました。

参照:大阪市民投票
http://kokumintohyo.com/osaka/

当初の話では「仕事内容」は宣伝カーの運転手ということでしたが、大阪の地理にまったく不案内な私は使いものにならず、結局、都島区と生野区の2ヶ所のスーパーなどの商業施設の前で「署名収集活動」の「補助」を行うことになりました。(運転手役は、前半は泉大津市議の高橋さん、事務所までは、茨木市議の桂さんにお願いしました)

この署名、法定署名なので色々な制約があります。まず、署名を集める人が限定されていること。署名を収集できるのは、条例の「直接請求者」と「受任者」に限ります。(それ以外の人の「署名活動」は、前記2者が行う「署名収集活動」の「補助」という位置づけになります)

また、署名出来る人も「有権者」に限定されています。つまり、20歳未満と在日外国人は署名できないのです。さらに、署名には捺印が必要です。

そして、さらに、さらに面倒なことは、署名は、署名者の住む区ごとに、冊子を分けなくてはなりません。都島区の人と旭区の人が、同じ署名冊子に書くと無効なのです。

とまあ、直接請求の署名収集がしにくい仕組みになっているのですが、それにもめげすに通行人や買い物帰りの人に呼びかけると、こころよく応じてくれました。得て不得手もありますが、私で1時間で15筆から20筆ほど頂くことができました。私の体験では、署名に応じてくださるのは高齢者の方が多かったように思います。

また、大阪ならではの「ボケ」もあります。

「すみません、捺印が必要なんです…。拇印でもいいですけど」
「ボインならなんぼでもあるがな。胸のボインでいいんかいな」

さすが大阪のオバチャンです。

場所を移しての生野区での署名はちょっと困惑しました。「受任者」の人が「有権者かどうか確認してください」と指導して下ったので、それに従ってターゲットの通行人や買い物客に話しかると、5人に一人くらいの割合で次のような反応が帰ってきます。

「原発のこと投票で決めるの賛成やけど、オレ、日本人ちゃうねん」

この「市民投票条例案」が請求者の内容通りに成立すれば、在日の人でも、高校生でも、投票できます。条例はそんな内容になっています。しかし、その条例を請求する署名者に在日の人は残念ながらなれないのです。これが、今の、日本の民主主義の現状です。

それにしても、有権者の1/50以上(大阪市の場合42,000名以上)の署名というのは、ハードルが高いですね。重複や無効な署名を考えるとやはり60,000筆は必要ですが、現在28,500筆だそうです。

もう少し準備を整え、受任者を拡大してから始めたらいいのに、と思うのが率直のところですが、しかしこの運動、失敗するわけには行きませんね。議会に提出されて可決か否かの攻防に入る前に、署名数が有権者の1/50を超えられずに挫折することだけは避けなければなりません。

あとラスト一週間。近隣の人で時間の許す方は、ぜひ、応援に行ってください。事務所に連絡すれば、仕事を割り振ってくれるはずです。私も、最終日には再び行くつもりです。

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 ■ 案内:日本版『緑の党』を考える―なぜ必要?どう作る?

新年あけましておめでとうございます。

一月下旬に下記の講座を開催します。

チラシはココ

御参加、よろしくお願いします。

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

    「座標塾」京都出張講座(2012年・冬期)

      日┃ 本┃ 版┃・ 緑┃ の┃ 党┃
      ━┛ ━┛ ━┛  ━┛ ━┛ ━┛

         を┃ 考┃ え┃ る┃
         ━┛ ━┛ ━┛ ━┛


■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

  第1部 なぜ必要? どう作る?

    〈講師〉宮部 彰さん(「みどりの未来」副運営委員長)

            http://www.greens.gr.jp/


  第2部 《自由討論》私はこう考える

     脱原発/反格差/女性の立場、などから(発言歓迎)

       (終了後、交流会を予定しています)

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

  ▽日時 2012年1月29日(日)午後2時~4時

  ▽場所 喫茶うずら(黄色いビルの1F)

      京都市伏見区深草西浦町6-31
      電話 075-642-8876
      アクセス 京阪「藤森駅」下車 徒歩10分
   地図 http://mamoru.fool.jp/blog/uzura.jpg

  ▽受講料 1,000円(コーヒー付き)

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■
  【主 催】京都工人社

       京都市伏見区納所星柳17-2
       セントラルハイツ淀607 五十嵐気付
       電話・FAX 075-632-1389
       mamorukunアットマークnike.eonet.ne.jp

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2011年02月24日
 ■ 「TPPを考える国民会議」発足

 2月24日、東京の憲政記念会館で「TPPを考える国民会議」の設立総会が行われ、宇沢弘文さんが代表世話人に就任されました。就任にあたって宇沢さんは「…残されたわずかな力を振り絞って、TPPから日本を守るために頑張りたいと思います」と胸の内を明らかにされています。

 政府は26日から「開国フォーラム」(主催:国家戦略室)などというふざけたTPP推進イベントを全国9ヶ所で開催します。これに対して反対派は会場近くで「青空集会」を開催して抗議の声を上げるようです。

 また、同じ26日には、東京の明治大学で「ムラ・マチ座談会・集会」と日本経団連へのキャンドルデモが行われ、さらに、発足したばかりの「国民会議」も山梨県で「対話集会」を行うなど、2月26日は、まさにTPP「推進 vs 阻止」の「2、26決戦」の様相を呈してきています。

 菅首相は「6月にTPP参加を決定したい」としていますが、それまで菅政権がもつとは誰も思っていないでしょう。菅政権とともにTPPを葬り去るチャンス到来です。というよりも、「TPPによって菅政権を葬りさる」というカタチに持っていった方が、今後の日本にとって、いいでしょう。

 開国フォーラム
 http://www.npu.go.jp/forum/index.html

■「TPPを考える国民会議」サイトより   http://tpp.main.jp/home/ 

 代表世話人挨拶

 私はこのたび「TPPを考える国民会議」代表をお引き受けいたしました。この会議は、菅直人首相が「第三の開国」と称して積極的に推進している「環太平洋パートナーシップ」(TPP)参加が何を意味するかを明らかにし、日本の将来にどのような影響を及ぼすかについて、広く国民各層の考えをまとめて、大きな国民運動を展開することを目的とします。

 そして、現在日本のおかれている危機的状況を超克して、真の意味で豊かな、そして人間的に魅力のある国を造ろうとするものです。私自身学究者としての60年間を通じて、ひたすら追い求めてきたものでもあります。

 私といたしましては、残されたわずかな力を振り絞って、TPPから日本を守るために頑張りたいと思います。どうかよろしくご支援、ご協力をお願いいたします。

 東京大学名誉教授
 宇沢弘文

メンバー
代表世話人   宇沢 弘文(東京大学名誉教授)
副代表世話人  久野 修慈(中央大学理事長)
世話人     山田 正彦(TPPを慎重に考える会会長)
世話人     高田 明和(浜松医科大学名誉教授)
世話人     服部 信司(日本農業研究所客員研究員)
世話人     今田 美奈子(国際食卓芸術アカデミー協会会長)
世話人     金子 勝(慶応義塾大学教授)
世話人     榊原 英資(青山学院大学教授)
世話人     鈴木 宣弘(東京大学教授)
世話人     堀口 健治(早稲田大学教授)
世話人     山中 教子(株式会社サウンドTAKA代表取締役社長)

【賛同団体】
精糖工業会
生活クラブ事業連合生活協同組合連合会
パルシステム生活協同組合連合会
大地を守る会
平和フォーラム(原水爆禁止日本国民会議)
社団法人 日本歯科医師会
社団法人 日本薬剤師会
全農林労働組合
全国建設労働組合総連合会(全建総連)
社団法人 日本林業経営者協会
全国離島振興協議会     

■反TPPで対話集会開催へ=山田前農水相らが「国民会議」

 環太平洋連携協定(TPP)に日本が参加した場合の問題点を議論する「TPPを考える国民会議」が24日、発足した。代表世話人の宇沢弘文東大名誉教授と、「TPPを慎重に考える会」会長の山田正彦前農林水産相が都内で記者会見して発表した。26日の山梨県をスタートに全国各地で市民を集めた対話集会を開き、地方から国民的な議論を喚起するという。

 山田氏によると、国民会議には、慎重に考える会が団体として参加。幅広い団体・個人に参加を呼び掛け、3月下旬に正式な設立集会を開く。

(時事 2011/02/24-19:47)
 http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2011022400741

■「TPPから日本を守りたい」宇沢東大名誉教授が代表に
  TPPを考える国民会議が発足

  【日本農業協同組合新聞】

 TPPへの参加は何を意味するのか。日本の将来にどのような影響を及ぼすのか。TPPについて広く考えることを大きな国民運動にしようと2月24日、「TPPを考える国民会議」が発足した。代表は宇沢弘文東大名誉教授。

 発足記者会見には、代表を務める宇沢氏のほか、世話人として昨年10月に民主党の国会議員らが中心となって発足した「TPPを慎重に考える会」会長の山田正彦衆議院議員と、久野修慈中央大学理事長が出席。

 宇沢氏は「一国の首相が『第3の開国』と無責任な発言をするのは許せない。私は怒りに充ちている」と、時折声を荒げながら代表を引き受けた経緯について語った。

 国民会議には「TPPを慎重に考える会」も一会員として参加するほか、超党派の議員や、研究者、各団体などに参加を呼びかけている。

 2月26日には山梨県立文学館で15時30分から講演会を開くほか、3月には全国各地で対話集会を開催する予定。

 http://www.jacom.or.jp/news/2011/02/news110224-12656.php より


■「TPP反対で結束」24日に超党派国民会議発足へ
  2011.2.23 01:44 【産経新聞web】

 民主党や国民新党の国会議員による「TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)を慎重に考える会」(会長・山田正彦前農水相)を中心に、新たに有識者を交えた超党派の「TPPを考える国民会議」が発足することが22日分かった。菅政権が看板政策に掲げるTPPをめぐり、民間人や野党を巻き込んで反対運動を展開するのが目的で、国民会議がそのまま菅政権倒閣運動の中核組織に発展する可能性もある。

 「国民会議」の代表世話人には宇沢弘文東大名誉教授が就任、山田氏は世話人となる予定だ。24日に都内で設立の記者会見を行う。

 24日に発表予定の設立趣意書では、TPPについて「国民生活を脅かす改革に懸念を抱かざるを得ない。政府に対して、拙速な参加ではなく、真に国益にかなう経済連携を求めたい」と盛り込み、参加への強い反対を示している。今後は、全国各地での集会開催も計画している。

 設立にかかわる民主党議員の一人は、自民党をはじめとする野党議員にも参加を促していくとしている。「慎重に考える会」のメンバーは民主党の小沢一郎元代表を支持する議員が多い。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110223/stt11022301450000-n1.htm より

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2011年02月13日
 ■ TPPという名の「八百長政治」にNOを!

 豪雪に、火山噴火に、鳥インフルに、口蹄疫。気候的にも社会的にも、そして政治的にも、厳しい冬が続いています。

そんな中で、エジプトのムバラグ政権が民衆の直接行動によって、ついに、倒されました。アラブ世界で唯一イスライルを「承認」していたエジプトでの「民衆革命」は、アメリカの中東戦略に根本的な見直しを迫るでしょう。オバマは、内心では、ムバラグ政権の継続を願っていたでのでしょうが、先を見越してイニシアチブを取るために、ムバラグに「即時退陣」を迫ったのは、さすが(ペテン師!)でした。

 それに比べて情けないのが日本です。民衆の「即時退陣」要求に対して「もっと現実的に物事を考えるべき」と要らぬブレーキを掛けたのが前原外相。尖閣の時といい、今回といい、この男には「現実」がな~んにも見えていないんですね。

 この「現実が見えない」政治家・前原を中心にした従米・ネオリベ勢力が、学者、マスコミを総動員してを強行しようしているのがTPP(環太平洋経済連携協定)です。「TPPは第三の開国だ」「参加しないと世界の孤児になる」などの、小泉ばりのワンフレーズ政治を展開中ですが、中身の説明は一切ありません。

 しかし、TPPの作業部会には、農業分野だけではなく、医療、法務、金融、通信など24の作業部会があります。ことは「農業」だけの問題ではなく、ほとんどの国内市場を、アメリカに明け渡すことになりかねないものです。ところが、いまでもその全容を国会議員や関係省庁にも明らかにしないまま、「参加」の方向だけは「決定」してる菅政権。まさに「熟議」とは真逆な「八百長政治」です。ウソと張ったりで、反対者を「農業既得権にしがみつく守旧派」よばわりするところまで小泉流です。

 しかし「一回目は悲劇、二回目は喜劇」という諺があるように、いま、人々は、TPP議論の胡散臭さにジワジワと気づきはじめているのではないでしょうか。小泉の時代、いや、もっとさかのぼれば中曽根の「国際国家論」や小沢の「国際貢献論」いらい、日本はずっとアメリカの言いなりになって「開国」に継ぐ「開国」をしてきたではありませんか。その結果が、暗澹たる「無縁社会」「格差社会」「地方の崩壊」。「もういい加減にしてくれ!」というのが人々の偽らざる気分でしょう。

 そうした気分もあってか、昨秋来、TPP反対の動きが強まっています。JAや日本医師会は早々に「反対」「懸念」の表明をしました。地方では議会での意見書採択や首長による政府への「慎重対応」申し入れなども昨年秋から続いています。

 そして市民の側の反対の動きも始まっています。来る、2月16日(水)には参議院会館で緊急のシンポジウムがが行われます。(当日の動画です)

また、26日(土)には、同じく東京で、TPP反対の集会が多彩な人々の呼びかけで行われた後、日本経団連へのデモが予定されています。

 この日本経団連へのデモという発想は良いですね。気候変動交渉での「京都議定書殺し」の背後には日本経団連がいました。もう民主党はいいから、直接日本経団連に異議申し立てをしたい、というい思いは、多くの市民に共通しているところだと思います。

 少し脱線しますが、いまからちょうど35年前、ロッキード疑惑が浮上してきたとき、春闘の行動で丸紅と日経連に押しかけました。丸紅のシャッターを旗竿で「ガシャン」「ガシャン」と叩いても、機動隊は何もできず、ものすごく解放感を味わったことを覚えています。オイルショック以降の「重苦しい」雰囲気が、あれで、いっぺんに吹き飛びました。これを契機に民衆が反転攻勢に転じ、翌年の三里塚決戦へと登り詰めたのでした。経団連へのデモと聞いて、ひょとして、そんな情勢が再びくるのかな、なんて、思ってしまいました。

 東京近辺の人、16日は無理でも26日はぜひ参加してください。
 
 しかしTPP反対の「市民運動」として「先行」しているのは、残念ながら「右翼」です。1月29日(土)に「頑張れ日本、全国行動委員会」が、日比谷公会堂で「亡国TPP断固阻止、民主党内閣打倒!」を掲げて、大集会(シンポジウム)を開きました。そこでは保守の論客の西部邁氏や、いまや「反TPP」論客のニューヒーロー中野剛志氏(26日の集会でも基調講演します)らが、熱弁をふるいました。

 しかもその内容がどれも真っ当。「敵はアメリカの市原理主義だ!」というのです。中野氏が「人を蹴落としても自分が助かればいいという考えが気に入らない!」と訴えると、拍手喝采。人々の気分が、伊達直人現象にもみられるように「自己責任論」から「連帯/分かち合い」へと変わってきていることの表れでしょうか。

 「頑張れ日本、全国行動委員会」や「チャンネル桜」グループの実態は知りません。どこまで「市場原理主義」との対決を本気で考えているのかも。そもそも「尖閣諸島(釣魚島)」問題や、「移民排斥」での彼らの立場は、許せるものではありません。しかし、TPP反対に関する限り「別個に進んで共に撃つ」ことは可能かもしれません。

<参考>
中野剛志:TPPはトロイの木馬──関税自主権を失った日本は内側から滅びる
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2011/01/tpp_5.html


 ムバラグを倒した偉大なエジプト民衆革命について、古くからの知人がこう記していました。「私たちは、『自己決定』を国家のあり方を経由しない狭めた意味に使ってきたのではないか。国家のあり方を変える力のなかにこそ、言葉の原義『自己決定』が生きてくる」と。

 この先輩のひそみに習うと、このTPP反対の闘争やCOP17にむけて政府に「25%削減からの撤退」の撤回をせまる闘争は、まだ「国家のあり方」を変えるようなレベルのモノではありません。政策の「あり方」を変えるレベルです。

 しかしこの国では「政策」の転換が容易でないことは、政権が交代しても「政策」が変わらないことからもよくわかります。そして、TPPへの参加を「決定」してしまうと、その構造がさら固定化していくことになります。国際経済協定が国内法(憲法含む)の上位として君臨し、社会のあり方を規定してくるからです。まさにTPPは「民主主義を滅ぼす」(E・トッド)から問題なのです。

 TPPをめぐって、反対派は、いま、必ずしも劣勢とは言えません。まず、既成勢力の側が一枚岩ではありません。民主党の中にも反対勢力が存在します(鳩山派、小沢派と重なりますが)。態度を棚上げしている自民党の中にも反対派が存在します。経産省と農水省の対立もあります。

 さらに、賛成派のロジックがあまりにも低劣。「農業vs国益」や、前原の「GDPで1.5%しかない農業のために98.5%の産業が犠牲になっていいのか」という発言は、影響を受ける分野が24項にものぼることや、そもそも、日米で関税をゼロにしても、ドル安策によってアメリカへの輸出は増えない、という指摘もあり、逆に「事実を隠蔽している」との反発を呼んでいます。まるで日本相撲協会です。

 そして、先述したように、なによりも人々のトレンドが「競争に勝って生き残る」から「助け合って共に生きる」に変わってきていることです。こうした状況の中では、TPPでどの産業が得をして、どの産業が損をするのか、という損得論ではなく、中野氏がいように「人を蹴落としても自分が助かればいい」という考えは、是か、否か、を正面から問うほうが、説得力があるかも知れません。ここ20年間、ほとんどの人が「蹴落とされた」側ですから、共感を得られるはずです。

 とはいえ、「反対運動」を盛り上げ「政策転換」を実演する妙手があるわけでもありません。取りあえずは、小さな学習会をこまめに開催していきましょう。『TPP反対の大義』がいいテキストだと言われていますが、まだ、手にしていません。中野剛志氏の講演を録画した動画は、You Tube にたくさんありますから、それを一緒に視聴して、議論するのもいいと思います。

 私の近辺の動きでは、3月に、Attac京都が、京丹後の平賀緑さん(有機農業実践)を講師に招いて、学習会を予定しています。直近の動きでは、2月19日(土)に、内橋克人さんの「TPPは日本に何をもたらすか」の講演会があります(午後1時半、京都府農協会館、参考6)。近辺の人で都合のつく方はぜひ参加してみてください。

 「第三の壊国」TPPを断固阻止しよう。
 

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2011年01月18日
 ■ 1/30 「脱成長」の必要性と可能性(座標塾・京都)

みなさまへ

 寒い日が続いていますが、お元気のことと存じます。

 さて、この度、「座標塾・京都講座」を開催することになりました。今回は「座標塾」塾長の白川真澄さんと、ジュビリー関西やATTAC京都で活動されている内富一(まこと)さんをお招きし、「脱成長の必要性と可能性」というテーマでお話していただきます。

 年末年始、幼い子どもや高齢者など、社会的弱者の悲報が相次ぎました。同時に全国に広がった「タイガーマスク」現象は、貧困や格差を許さず「分かち合い」こそ大切である、という社会の総意を示して余りあります。

 時代は大きく転換しようとしています。「右肩上がり」を前提とした社会の仕組みから、「成長」を目標としない、あるいは、「成長」を必要としない社会を構想し、一歩前に出るときではないでしょうか。

 ご多忙の折りとは存じますが、是非、「座標塾・京都講座」にご参加下さいますよう心からお願い申し上げます。


■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

                 2011年・冬期

      座┃ 標┃ 塾┃・京┃ 都┃ 講┃ 座┃
      ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛

     ~「脱成長」の「必要性」と「可能性」~

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

  (1)先進国に「脱成長」せまる「気候正義」運動
       内富一(まこと)さん(ジュビリー関西)

        http://d.hatena.ne.jp/Jubilee_Kansai/

  (2)民主党政権の新成長戦略と「脱成長社会」の可能性
        白川真澄さん(『ピープル・ズプラン』編集長)

         http://www.peoples-plan.org/

    (座標塾)http://www.winterpalace.net/zahyoujuku/

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

  ▽日時 2011年1月30日(日)午後2時~5時

  ▽場所 喫茶うずら(黄色いビルの1F)

      京都市伏見区深草西浦町6-31
      電話 075-642-8876
      アクセス 京阪「藤森駅」下車 徒歩10分
   地図 http://mamoru.fool.jp/blog/uzura.jpg

  ▽受講料 1,000円(コーヒー付き)

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■
  【主 催】京都工人社

       京都市伏見区納所星柳17-2
       セントラルハイツ淀607 五十嵐気付
       電話・FAX 075-632-1389
       mamorukun@nike.eonet.ne.jp
■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

 ●座 標 塾 ・ 京 都 講 座 の よ び か け


 昨年NHKが放映した「無縁社会」は大きな衝撃を与えました。毎年3万人2千人もの人が誰にも看取られずに死亡(無縁死)している、というのです。自殺者の数も12年連続で3万人をこえました。GDPで中国に抜かれたとは言え(統計発表はまだ)、依然として世界に冠たる「経済大国・日本」での出来事です。

 民主党政権は、今、「新経済成長戦略」を唱え、原発輸出、法人税減税、環境・介護・医療などへの投資による「景気回復」を目指しています。「新経済成長戦略」によって雇用が増え、財政が安定し、社会保障が強化され、人々が幸せになる、という見立てです。

 しかし、もはや誰も「新経済成長戦略」が成功するとも、成功したとしても、それが自分の安定した生活や充足した時間につながるとは、思っていないでしょう。企業を主体にした「経済成長」をむりやり実現しようという手法こそ、「人間の不幸」の原因となり、「自殺」や「無縁死」を生みだし、さらに、「大地といのち」を破壊していることに、人々は気づきはじめています。

 では、私たちは、どのような社会にむけて、舵を切ればよいのでしょう。

 「北」の経済成長が生み出した温暖化によって、最も被害を受けている「南」の人々は「大気の脱植民地化」(コチャバンバ民衆合意)を求めて「気候正義」の運動を始めています。私たちがこれに応える道は、被害を受けている「南」の人々と「発展」を分かち合える水準にまで、「北」の経済と生活スタイルを「縮小」(脱成長)することです。

 そして、その道は、「北」の私たちが、より少なく労働し、より少なく消費し、より良く生きる社会につながるでしょう。自由時間の拡大は、労働中心の(「無縁社会」と裏表の関係にある)「社縁社会」を超えて、「連帯社会」へと私たちを誘うはずです。

 「脱成長」をキーワードに、グローバル化した競争社会に風穴をあける議論を、共に行いませんか。

2011年 正月 京都工人社

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2010年11月18日
 ■ 「尖閣ビデオ」をめぐる議論で「語られない」こと

 現役の海上保安官が「尖閣ビデオ」を動画サイトに投稿した「流出事件」。その是非をめぐって色々な意見が飛び交っている。「国民の知る権利」に「国家公務員の守秘義務違反」さらに「刑事訴訟法四七条」とその「但し書き」の解釈などなど。難しい議論になっているが、本当は、かんたんな問題なんだと思う。

 例えば、あなたが核廃絶を訴える市民デモで「公務執行妨害」で逮捕され、若干の拘留のあと「処分保留」で釈放されたとする。そこで、あなたの釈放をよく思わない警察官が、あなたがデモ行進している様子を警察官側から写したビデオ(捜査資料)を入手して、ユーチューブに投稿したとする。ビデオにはあなたが警察官と押し合いへし合いしている様子がバッチリ映っている。会社の上司や近所の人達が見たようだ…。さて…。

 果たして、こんなことは許されるのか。答えは否だ。

 「ビデオ流出」をめぐる高尚な議論の陰で忘れられていることは「被疑者の人権」だと思う。裁判所で有罪が確定するまで被疑者は「推定無罪」。今回の件でこの原則を主張する人がいないのは寂しい限りだ。中国人には人権は無いのか。

 確かに仙石官房長官も「刑事訴訟法四七条」(訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない)を理由に、ビデオの「流出」を非難し「全面公開」を拒んでいる。立場的には私と同じだ。だだし、仙石がビデオを「非公開」にして守ろうとしているのは、決して「被疑者の人権」ではない。それとは真逆の「円滑な捜査」だ。私は、被疑者の人権・プライバシーを守る立場からビデオ等の「捜査資料」の公判前(法手続上は今もそうだ)の公開は許されないと思う。

 *   *  *

 「ビデオ流出事件」でもう一つ指摘しておきたいこと。それは海上保安庁・海上保安官とは何かということだ。映画『海猿』の連続ヒットで海上保安庁・海上保安官を「人の生命を守る人(組織)」と受け取る人が増えているが、それは一面的に過ぎると思う。

 想起すべきは九年前の奄美大島沖で起きた「不審船」撃沈事件だ。この事件で海上保安庁(巡視船二〇隻)は、自衛隊(航空機数機、自衛隊対潜哨戒機P3C、イージス艦など護衛艦二隻)と連携をとりながら、領海侵犯をしたわけでもない「小型船」(一〇〇トン)を三〇時間以上も追尾し、二〇ミリ機関砲で船体射撃を繰り返して、ついに撃沈し、乗組員一五人を死亡させた。「交戦」による相手方の死亡は戦後初のこと。

 つまり海上保安庁は武装した海の警察であり軍事機関なのだ。海難救助は任務にあるが、不審船とおぼしき船舶なら機関砲を打ち込むことも辞さない「海上警備」が主たる任務なのだ。その証拠に この奄美沖「不審船」撃沈事件の「工作船」や「回収品」を、海上保安資料館横浜館で誇らしげに展示している。「海上警備」の戦果の一つなのだろう。

 この奄美大島沖事件で「不審船」に接近して弾丸が尽きるまで船体射撃を行った「勇敢」な「巡視船」がいた。名前は「みずき」。当時第五管区の所属だったが第十一管区に転属になって、今回「尖閣」沖にも出動している。中国漁船による二回目の衝突の「被害」にあった「みずき」がそれだ。

 「みずき」は「不審船」対策専門の高速艇とし作られたが、「尖閣」沖ではなぜだか漁船が衝突するまでゆっくり進み、衝突されたあと一挙に加速して漁船から離れるという不思議な行動を取っている。その様子もユーチューブの「尖閣の真実」にしっかり映っていた。


  ☆『グローカル』12月1日号に掲載予定

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2010年10月01日
 ■ 隔ての島から結びの島へ! 「無主」「両属」としての尖閣諸島(釣魚島)の構想を!

 ■尖閣問題―最大の危機は「対抗言論」の不在

 尖閣諸島沖(中国側呼称=釣魚島)で逮捕(罪名=公務執行妨害)された中国人船長を、那覇地検が「処分保留」のまま釈放したことをめぐって、民主党政府に対する轟々たる非難がわき起こっています。「検察の越権行為だ」「政府の司法への介入だ」「中国への弱腰外交だ」などなど。部分的には正しい批判もありますが(検察が外交上の判断をするのはおかしい、など)、総じて、日本政府に対して中国への「強固な態度」を求める声として集約されています。

 これは「被害者意識に基づくナショナリズム」といえるでしょう。政府によって誘発された「被害者意識に基づくナショナリズム」が、逆に政府を飲み込み、制御不能な暴力(それは必ずしも「戦争」「軍事」という姿をとらず、異端者の社会的・文化的排除という姿をとります)の連鎖を生み出していく。今の日本はそんな危険な局面にある、と思うのは杞憂でしょうか。

 もちろん、暴力的なナショナリズムをグローバル化したエコノミーの論理が抑止するという局面はあるかも知れません。検察が「処分保留の釈放」を決定した背景に、アメリカの意思と並んで、このグローバル化したエコノミーの意思があったことは想像に難くありません。

 しかし、起きている事態はやはり「政治」という固有の領域の問題です。この暴走を止めるには「政治的な対抗言論」が不可欠です。しかし残念ながら今の日本には、この「政治的な対抗言論」は存在しないに等しい状況になっています。なんと薄気味の悪いことでしょう。

 巷では今回の一連の事態について(1)中国側が一方的に理不尽な行為を行い、日本側がやられっぱなしになっている、という受け取り方になっています。また(2)尖閣諸島(釣魚島)が日本の領土であることは疑いようのない事実として報道され、受けとめられています。この延長上に(3)「尖閣諸島に領土問題は存在しない」という日本政府の立場があります。

 巷に流布しているこうした認識・受け止め方に一石を投じたい。そのために、逮捕をめぐる状況を冷静に振り返り、尖閣諸島(釣魚島)「領有」論争について自分なりに判断を下し、さらに、今後の方向として「弱腰」でも「強腰」でもない「脱国家主権の新発想」での問題解決を考えたいと思います。

 ■最初に引き金を引いたのは日本

 中国側が一方的に理不尽な行為を行い、日本側がやられっぱなしになっている、という認識は、日本の側が最初に「一線を超えた」という事実を無視するか過小評価したものです。「一線を超える」とは「船長逮捕」のことです。

 日本と中国との間には、1970年以降、尖閣諸島(釣魚島)の領有をめぐって対立が顕在化していましたが、両国とも、1978年の「日中平和友好条約」の締結に際して鄧小平が語った「尖閣論争の棚上げ」方針に従って、決定的な対立を回避してきた経緯があります。

 2004年の中国人活動家の「上陸」に対しても、逮捕後すぐに「国外」退去処分にしました。小泉政権の時代です。「靖国に参拝して何が悪い」と豪語した小泉でさえ、尖閣諸島(釣魚島)問題では「国内法」よりも「鄧小平との約束」を優先する判断を下したのです。

 ところが、今回は「鄧小平との約束」を無視して、船長を含む15名を拘束・連行し、船長に対しては起訴を前提に逮捕に踏み切ったのでした。しかも偶発的な事態に対処する現行犯逮捕ではなく(逮捕の理由が「故意の衝突で悪質だから」と言うのなら普通は現行犯逮捕でしょう)、逮捕状を執行しての逮捕という念の入れようです。

 この逮捕状の執行にあたっては、当時、国土交通相だった前原や岡田外相の強い指示があったと報道されています。拿捕から12時間以上、政府中枢で検討した上で、確信犯的に逮捕に踏み切ったのでした。最初に引き金を引いたのは日本だったのです。

 中国の怒りは、直接的には、この日本政府による「鄧小平との約束」の一方的な破棄にあります。これまでの経緯からすればその怒りは正当でしょう。

 その後、日本政府はこの逮捕を「領土問題」への対処ではなく「国内法に基づくもの」「国内法に基づいて粛々と進める」との立場を繰り返します。日本国内向けには納得できる物言いかも知れませんが、中国からすれば、他国領内での「国内法」執行を正当化する許し難い言説、と映るでしょう。

 同じ言葉でも、日本国内では、政府が領土問題にふれず事を荒立たせないように配慮している、と受けとめられても、中国側ではまったく逆に、日本側がこれまでの態度を一変させ「領土問題」で強固な態度に出ている、と受けとめられるでしょう。

 ■尖閣諸島(釣魚島)の「先占」は正当化できない

 問題の根本にあるのは尖閣諸島(釣魚島)の「領有権」「主権」をめぐる日中間の対立です。日中どちらの主張に与するかによって、今回の事態の見え方も大きく変わるでしょう。私の見方を先に言えば「尖閣諸島は日本固有の領土である」という日本政府の基本見解には大きな疑義があります。

 日本政府は1971年の3月に「尖閣諸島の領有権についての基本見解」という短いコメントを発表しています。中国、台湾による尖閣諸島(釣魚島)の領有権の主張に対抗するために急いで作られたものです。

 その中でこう述べています。「尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです」。
 
  「尖閣諸島の領有権についての基本見解」
   http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/index.html

 上記の政府の行為がなぜ「尖閣諸島は日本の領土」の証明になるかというと、国際法上、所有者のいない無主の島については、最初に占有した者の支配権が認められる「先占」の考え方が認められているからです。おどろくことに「たしかな野党」を標榜する日本共産党も、尖閣諸島(釣魚島)の領有問題については「先占」の論理の立場から、政府と同一の「基本見解」をとっています。

 これに対して中国政府の見解は、概ね次のようなものです。

(1)釣魚島は無主の島ではなく中国が明の時代から領有していた。
(2)日本は1895年1月、甲午戦争(日清戦争)に乗じた閣議決定によって釣魚島を占領した。
(3)同年4月の馬関条約(下関条約)によって釣魚島は「台湾と付属の島々」の一部として日本に割譲させられた。
(4)第二次世界大戦後、日本はポツダム宣言によって、占領していた釣魚島を中国へ返還しなければならなくなったが、米国は琉球諸島を信託統治する際、釣魚島を密かに同諸島の一部としてしまった。
(5)1971年に沖縄が日本へ「返還」され、釣魚島は今なお日本の統治下に置かれている。

 参照:「人民網日本語版」2005年2月23日、
    「評論・日本政府による釣魚島灯台『接収管理』」
 http://j.peopledaily.com.cn/2005/02/23/jp20050223_47818.html

 先述したように、日本政府の「基本見解」を唯一支えているのは「先占」の考え方です。これに対して中国側からは「釣魚島は無主の島ではない」という史料が沢山提示されています。尖閣諸島(釣魚島)が無主の島でなかったとしたら日本の「先占」は無効だからです。

 しかし、この問題はそれとして重要ですが、中国側の主張で一番重要だと思うのは、日本が「先占」の閣議決定をおこなったのが、まさに日清戦争の最中だったということです。私は「先占」の考え方自身、強者の論理で時代遅れだと思いますが、それは置いても、果たして戦争の最中での「先占」は認められるのか、という重大な疑問を持たざるを得ません。ましてや日本は、この戦争から続くアジア太平洋戦争の最終点で、ポツダム宣言を受諾して、戦争によって「割譲」「略奪」した台湾、朝鮮など広大な植民地を「放棄」することに同意しているのでから。

 ところが今になって日本政府はこの問題についてこう言い放つのです。「台湾は日清戦争後の下関条約で清から割譲(略奪)したものだから返したが、尖閣諸島は日清戦争中に先占したものだから返さない」。これでは日本はいまだに中国・アジアに対する侵略戦争を「真に反省していない」と中国側に受け取られても仕方ないでしょう。

  ■「無主」「両属」としての尖閣諸島(釣魚島)の構想を

 日本の検察が中国人船長を釈放したことをもって「中国への屈服だ」と騒ぐ人は、屈服したのは「検察」であり、政府は尖閣諸島(釣魚島)をめぐっては「屈服」も「後退」もしていない、ということを見ていません。これは別に政府の「詭弁」を擁護しようというものではありません。そうではなく、日本政府は尖閣諸島(釣魚島)については船長釈放後も十分に「強腰」であり、その「強腰外交」を変更しない限り、いくら船長の釈放で「譲歩」したように見せかけても、問題の解決には1ミリたりとも近づかない、ということを言いたいのです。

 「強腰」とは、一つには先に見た「先占」論による「領有権」の正当化です。そして、もう一つが「尖閣諸島(釣魚島)に領土問題はない」という立場です。問題はあるのにそれを見ないようにする。これは傲慢かつ愚かな態度です。こうした態度を続ければ、もしもの時は「武力解決」しかなくなるからです。政府は「尖閣諸島(釣魚島)に領土問題はない」という立場を改め、中国との話し合いによって「領土問題」を解決する方向に舵を切るべきです。

 21世紀の今日、「領土問題」の「解決」のためには「既成の領土観」に捕らわれず、物事を根本から自由に発想することが大切だと思います。そもそも、地球上の大地、海、空を国境で細かく線引きすることにどんな意味があるのでしょう。その大地、海はどこかの国家の「領土」となる前から、そこを耕し、そこで漁をする人々と共に存在してきたはずです。郷土は国家(領土)より先にあったのです。尖閣諸島(釣魚島)もまたそうした島、海であったでしょう。中国や日本の「領土」となるはるか前から、そこで自由に漁をする人のものであったはずです。

 だとするならば、ある土地が必ずどこか一つの国家に属さなければならない、という考えに固執する必要はありません。無主のまま、あるいは両属のままであり続けられる道を、特に領土紛争の地に探っていくことは可能はなずです。

 中国研究者の天児慧(早大教授)さんは「脱国家主権の新発想」の必要性を説きながら「領土領海の係争地に限定した『共同主権論』もアイデアだろう」と語ります(「朝日」9月22日)。そのために、領土問題は存在しないという政府主張を変更して、中国と対話を開始し、「当地域をめぐる諸問題を解決するための専門委員会を設置する」ことを提案しています。

 また、同じく中国研究者の加々美光行(愛知大教授)さんも、「尖閣問題は一時的に収まったとしても火種としては大きい。日本も中国も近視眼的な国益を主張するだけでなく、南極のように領土主権を凍結するような国際条約を取り決めてもいいのではないか」と語っています(「北海道新聞」9月25日)。

 尖閣諸島(釣魚島)論争の「棚上げ」を宣言した鄧小平は、問題の解決を「次の世代の智恵に託す」とも言いました。その意味するところは分かりませんが、これまでの「国家」を主体とした世界に代わって「脱国家」の世界が到来することを見通していたのかもしれません。

 天児さんの「共同主権論」といい、加々美さんの「南極方式=領土主権凍結条約」構想といい、鄧小平の期待した「智恵」に迫っていると思います。国益をかざしたパワー対決や被害者意識に基づくナショナリズムの発露に希望はありません。今こそ、尖閣諸島(釣魚島)を「隔ての島から結びの島」に変えるために、次世代としての智恵比べに力を注ぐときです。

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2010年07月21日
 ■ 新しい希望としての「脱成長社会」 /セルジュ・ラトゥーシュさんの講演を聴いて


 七月の上旬、フランスの脱成長論者であるセルジュ・ラトゥーシュさんが来日し、東京や京都で講演を行いました。氏の日本での初著になる『経済成長なき社会発展は可能か?―〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』(作品社)の出版を記念してのイベントです。私は、たまたま仕事帰りに京都の龍谷大学でラトゥーシュさんの講演を聞く機会を得ました。その内容をかいつまんで紹介し、感想を述べたいと思います。
 その前にまず、講演会の会場に着いて、私が最初に何に注目したかを話します。それはラトゥーシュさんがどんな身なりをしているのか、ということです。「脱成長」とかなんとか言いながら、上等なスーツを着こなすような知識人であれば、私からすれば、話す内容以前に×です。はたして…・
 結果は◎でした。ラトゥーシュさんは、顔に優しそうなヒゲをたくわえ質素なジャケットを羽織っていました。私は密かに「信用できそう」とホッとしました。さらに、ラトゥーシュさんは講演の「つかみ」も巧みでした。朝、竜安寺で見たという知足の手水鉢を例に出して「脱成長の考え方は、禅の『唯我知足』の考えとまったく重なる」と話し始めました。宗派は違うとは言え、仏教系の大学での講演と心得ての導入でしょう。さすがです。

 ■「絶滅の道」でも「絶望の道」でもなく

 さて、講演の内容ですが、ラトゥーシュさんは、まず、現在の危機を「生態的・文化的・社会的な危機にとどまらず、文明の危機である」と押さえました。具体的にはウッディ・アレンの言葉を引いて「絶滅の道(成長による生態系の危機)」と「絶望の道(成長社会でありながら成長できない危機)」の「交差点」が現在でにあると。そして、その「二つの道」を回避する「抜け道」こそ「脱成長の道である」と言います。
 こうした大枠を提示した後、ラトゥーシュさんは「生態系」の危機の由来を歴史的に説明し、さらに、二〇〇八年の金融危機以降顕著になった「成長の危機」のメカニズムを詳細に論じ、最後にそこからの「抜け道」である「脱成長社会」とはどのような社会なのか、について語ったのでした。
 「絶滅の道(生態系の危機)」については「成長の限界」論から「地球温暖化」までを振り返って、現在を「地球誕生以来、第6の危機」(IPCC)と強調しました。また、二〇〇八年以降顕著になった「成長の危機」については、支配者はその対策として一方で「節約」を説教しつつ、もう一方で「新成長戦略」による無駄遣いを奨励している、とその矛盾を鋭く批判しました。そして「節約」と「新成長戦略」の両方を拒否して「脱成長社会」をめざすと。

 ■「脱成長社会」一〇の指標

 では、ラトゥーシュさんにとっての「脱成長社会」とはどのような社会なのでしょう。ラトゥーシュさんが即座に語ったことは「それはマイナス成長ではない」ということでした。もちろん、そいう経過は通るのでしょうが、大事なことは(「脱成長」・仏語の「デクロワサンス」の原義にふくまれる)「とらわれからの解放」にある、とラトゥーシュさんは語ります。「経済成長がなければ社会や暮らしが成り立たない」という「常識」や「神話」から自由になることです。
 聞いていて、ここは大事な論点だと思いました。「脱成長社会」とは「成長社会」を「ゼロ成長社会」あるいは「マイナス成長社会」へと転換させるだけではありません。経済や社会や文化や科学技術など、様々な分野のパラダイムチェンジを伴うものだというのです。
 「経済成長」が放棄されるだけではなく、経済それ自身が社会の中心的位地から退き、別のものが前面に出てくる社会。ラトゥーシュさんが影響を受けた経済学者として、カール・ポランニーの名前を上げていたので、合点がいきました。
 ラトゥーシュさんは最後に「脱成長社会」の一〇の指標を示しました。これは二〇〇七年の大統領選挙の時に作ったものだそうです。グローバリズムと闘う農民=ジョゼ・ボベ候補が掲げたのかどうかは聞き損ねましたが、「脱成長社会」を分かりやすくデッサンしています。
 (1)成長目標を放棄する(2)エコ・タックス(3)社会・経済のローカライズ(4)農業を支える(福岡正信の自然農法に学ぶ)(5)労働時間の短縮(6)財と知の公正なシェア(7)エネルギー消費を現行の二五%(四分の1)に削減(8)広告・宣伝の制限(9)科学技術の方向性を変える(10)お金を公共財として取り戻す

 ■新しい希望としての「脱成長社会」

 ラトゥーシュさんの講演を聞いて、これからは「脱成長」の考え方に、追い風が吹き始めるかも知れない、と思いました。なぜならラトゥーシュさんが言う「絶望の道」(成長社会でありながら成長できない社会)は、日々、成長の無理強が原因で大量の犠牲者を生み出しているからです。「成長」は「幸せ」を呼ぶどころか、不幸の最大の原因なのです。
 この点をラトゥーシュさんが押さえていることが、「環境の有限性」の強調から「成長の限界」を語るこれまでのロジックとの大きな違いだと感じました。最近、後者の立場の人々は、炭素規制によって新しい成長が可能である、という「低炭素経済論」を展開中です。原発の増設による「低炭素経済の実現」は論外だとしても、低炭素、少エネルギーによる「経済成長」が可能であるならば、それでよいのでしょうか。
 先に紹介したラトゥーシュさんの「脱成長社会」は少なくとも一〇の指標で表わされていました。決して「炭素排出」だけを取り出して「マイナス」した社会ではありません。とくに「財と知の公正なシェア」や「社会・経済のローカライズ」という指標は、一国内やグローバルなレベルでの格差や貧困へ批判を含むと同時に、脱成長社会を形成する主体を示唆して余りあります。
 成長の犠牲者と、そこからも疎外された者たちの合作としての「脱成長革命・社会の形成」。ラトゥーシュさんの講演に新しい「希望」を感じたのは私だけではないでしょう。

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2009年12月11日
 ■ COP15に期待せず!「技術革新+排出権市場」ではCO2半減はできない!

 COP15がコペンハーゲンで開かれています。温暖化問題でがんばっている人には申し訳ないですが、私は、COP15にまったく期待していません。というのは、私は、「温暖化防止」については「懐疑論者」だからです。

 いやいや、地球温暖化を否定したり人為説を否定したりする「懐疑論者」ではありません。そもそもそういうレベルでの科学的な知見はありません。しかし素人は素人なりに日常的な感覚に基づいて気候問題をながめてみると、G8や締約国が全世界に約束している「2050年=半減」「気温上昇を2度未満に抑える」は、「コリャ無理だな」と「懐疑的」に思わざるを得ないのです。

 なぜなら、COP15に集う者の半分は、そもそも温暖化を真剣に防止しようという気持がないように見えます。アメリカや日本の半分(財界)がそうです。また、温暖化防止を真剣に考えているように思えるもう半分の人たちも、やり方がまったく間違っているように見えます。

 温暖化対策を真剣に考えている人たちの多くは「環境技術のイノベーション+排出権市場」という組合せで、温室効果ガス(主にCO2)の削減を構想しているようです(グリーン・ニューディール)。

 2050年段階、2020年段階で「必要とされるサービス需要」にこたえるエネルギーを賄いながら、なおかつ、CO2の排出を半減するそうです。ということはエネルギー効率を少なくとも二倍以上にする、ということです。現在の日本の技術イノベーションの進歩度は年1%だそうで(イギリスは3%)40年で2倍化は無理です。

 このことは技術・コスト分野の現場にいる人が一番よくわかっていることでしょう。だから、技術イノベーションを削減の中心にすえて2050年=半減、2020年=25%削減をめざす目標に対して、「乾いたタオルをさらに絞れというのか!」という企業・財界から声が出るのは根拠のあることだと言わざるをえません。

 これに排出権市場がからんでくると、さらに奇怪なことが起こります。排出権市場は技術イノベーションに「投資」することが究極の姿となります。ここでは実際に技術イノベーションが「進む」かどうかは問題ではありません。サブプライムローンと同じで「進む」と投資家が判断するかどうか(判断させるかどうか)が問題なのです。「可能性」を買ったり売ったりする世界です。実際に技術が進歩するかどうかは二の次、さらに、実際にCO2が削減されるかどうかは三の次の世界です。

 COP15に集う国家の代表者たちは、半分は削減を本気で考えていない人たち、半分は「技術と市場」の神話に取り付かれた人たち。こんなひとたちに「地球の未来」を託せるのでしょうか。

 私たちは本当に2050年=半減、気温上昇2度未満を実現するために「技術+市場(マネー)」を主体とする削減方法の迷路から抜けだし、「人+自然」を主体とした削減方法に踏み出さなければなりません。

 そこでは「気候正義」を全体の原則とします。

(1)多く排出する者により重い負担と責任を。日本では電力と鉄鋼で4割の排出ですから、半分ちかい責任と負担を負ってもらいます。南の島を救う責任は彼らにあります。

(2)「必要とされる総需要」を仕分けして抑制します。炭素税はその一つです。エネルギーの大量消費が「幸福度」と結びつく時代は終わりました。限定された中での充実した生活こそが「幸福度」を増す「好都合な真実」の時代が到来しています。

(3)市場の直接規制。企業もふくめ社会全体に「排出きっぷ」を割り当て、それを超えた者には課徴金です。暗い時代?いえいえ生産を縮小すると自由時間は増え自然や農業への入り口が増えます。生産縮小で企業が倒産することを想定して、ベーシンクインカムを導入しましょう。
 「キャップ&トレード」は国内のみ。国際市場は認めません。「炭素」をマネーゲームの対象にはさせません。

 温暖化懐疑論者にたいして、その批判者が使う論理に「予防原則」「予防措置」があります。「重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れがあるところでは、十分な科学的確実性がないことを、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を引き伸ばす理由にしてはならない」という考え方です。

 「技術+市場(マネー)」だのみの温暖化対策は、「予防原則」「予防措置」の原則に反します。いまから40年、一生懸命「技術革新」に励んだけれども、結果として間に合わなかった、ということは大いにありうるのです。その時、多くの島々は沈んでいます。日本の農業も打撃をうけているでしょう。日本の沿岸の都市の多くも甚大な被害をうけているはずです。

 そういう不確定な「予防策」=削減策に、私たちの未来を託することはできません。ここは確実に予防できる政策を選択すべきです。「技術+市場(マネー)」による温暖化防止策を放棄して、「気候正義」の原則にもとづいた上記施策を実施することです。それは経済の縮小、脱成長の道を選択することと重なります。いま、私たちが鳩山政権やCOP15に突きつける要求はそれ以外にはありません。
 COP15には期待しないけど、会場を包囲している人々と共に手を携えて未来を作り出したいと熱く思います。

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2009年11月16日
 ■  「事業仕分け」2つの問題点

 最近、テレビのニュースでよく見かける蓮舫さん。元クラリオンガールで、今は注目の必殺「事業仕分け人」。白いスーツをさっそうと着こなし、局長クラスを向こうに回し、その要求を「国民の目線」でバッサバッサと切り捨てる。今や行政刷新会議=「事業仕分け」は政治の花形。政権交代によって「政治が変わった」と国民にアピールする民主党政権の最大の目玉となった。

 確かに変わった。

 予算編成と言えば、族議員への陳情、官僚への口利き、そして官僚と財務省の役人同士の水面下での折衝と妥協。予算は普通の人には見えにくいところで決定されていた。それがどうだ。「事業仕分け」の作業は市ヶ谷の体育館で行われ、東京近辺にすむ人で、時間がある人なら誰でも傍聴することができた。(ただしスリッパは持参してほしいと、HPに書いてあった)。さらに、地方に住んでいる人にはインターネットによる中継がちゃんと用意された。

 この「開放性」はすばらしい。予算の方針は恣意的な人選による「審議会」や「諮問会議」が示し、実際の作業は財務省・主計局が闇の中で行っていたこれまでとはまったく違う政治が出現したのだ、と絶賛したいところなのだが、はたしてそうか。

 一つは、行政刷新会議の「議員」や「仕分け人」の人選がやはり恣意的ではないか、ということだ。「仕分け人」には環境問題でガンバッている人も入っているが、新自由主義=小泉構造改革を推進した人も多い。刷新会議を取り仕切る事務局長の「構想日本」の加藤秀樹さん。かつては道路公団民営化論の最左派だった人だ。最左派と言うのは、公団の民営化だけではなく、道路事業の民営化、つまり(高速道路だけではなく)道路全般の有料化を言う人だからだ。

 また、小泉政権下で「総合規制改革化会議」「道路関係四公団民営化推進委員」を歴任した川本裕子さんも「仕分け人」の一人だ。さらに、高橋進などという小泉の格差拡大路線をヨイショした輩の名前もある。大物で言えば京セラの稲盛さん。財界の新しいホープで「松下政経塾」の初代事務局長で小沢一郎の「友人」。これに呼応する形で政府から直接出向いてきているのが松下出身の平野官房長。

 と見てくると「行政刷新会議」は、新政権を新自由主義へと引き戻す装置である、と言ってみたくもなる。だから社民党や国民新党は最初から排除をしたのだと。「地方交付税削減」などという「成果」を打ち出してたところをいると、当たらずとも遠からずといったところか。

 二つ目は、やっぱり国会が「国権の最高機関」だと言うこと。「事業仕分け」で予算案の決定過程の一部を市民に傍聴させたり、インターネットで中継したりすることは、とってもよいことだ。だが、ここはまだ決定過程のホンの一部にすぎない。ここでの「判定結果」は法的な拘束力をもたず、最終査定は財務省・主計局が行い、閣議で予算案は決定される。そして予算が最終決定されるのは国会の場であり、決定するのは国会議員だ。

 その意味で、当初、行政刷新会議に多くの新人議員が入る予定だったのが、党の側の思惑(小沢幹事長の一声)で潰されたのは大変残念なことだ。予算編成過程に参加できる一級国会議員とこれを追認するだけの二級国会議員という構図は、一票の格差と同じく、結果として有権者の政治参加を狭めたり封じたりすることを意味する。
 「官」に対する「政治主導」はいいけれども、その政治の中で「主導」する者と「追従」する者を分ける発想はまったくいただけない。しかも「与党」の中での話しだ。

 行政刷新会議が「事業仕分け」という公開の場でムダを削減しようというのは結構なことだ。しかし、基準が不明確なため、そこには色々な思惑が入り込みやすい。「効率」「成果」という基準が一人歩きするのを危惧する。

 また「事業仕分け」が単に世論受けを狙っただけのショーウインドーであるならば、それこそムダだ。事前に「仕分け人」に配布された「マニュアル」は財務省が作成したものだった。結局、「事業仕分け」とは、財務省がめざす予算案にむけて世論を誘導し、同意を調達する装置だったのではないか。
 「審議会」や「諮問会議」や「行政刷新会議」ではなく、公明正大な予算・政治議論の場として「国権の最高機関である」国会をこそ活用し、オープン化すべきである。

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2009年05月22日
 ■ 豚インフルエンザ患者を「犯罪者」あつかいする「感染予防法」の転倒性

 今般の「豚インフルエンザ騒動」に接していると、その昔、同じようなことがあったなぁ、と思出します。20年ほど前のエイズパニックです。厚生省(当時)は「不特定の異性との性交渉がエイズを拡大させている」として、それを禁止する(?)「エイズ撲滅キャンペーン」を展開しました。心当たりのある彼/彼女らがパニックに陥ったのは当然でした。さらに歴史を遡ると、ハンセン病患者を不当に隔離した「らい予防法」のことも思いだされます。

 この連想ゲームはあながち根拠のないことではありません。というのは、今、国が行っている「新型インフルエンザ対策」は「新型インフルエンザ対策行動計画」(09年2月17日決定)と「新型インフルエンザ対策ガイドライン」(同)に基づいて進められていますが、その法的な根拠となっているのは「感染症予防法」(98年公布、08年改定)と「検疫法」(51年施行、08年改定)で、「感染予防法」の前身は「らい防法」と双璧であった「伝染病予防法」だからです。

 この「らい予防法」―「伝染病予防法」―「エイズ予防法」―「感染症予防法」―「検疫法」を貫く思想は、伝染病患者からいかにして一般人の健康を守り抜くか、というところにあり、決して、伝染病患者が適切な医療を受ける権利を保障するものではありません。

 「感染症予防法」は昨年改定され、ここに「新型インフルエンザ」(=鳥インフルエンザ<H5N1>が人・人に感染するものに変異したものを想定)が類として加えられました。ここでは疑いのある者に健康診断、感染者の入院義務、症状の出ない感染者の就労制限などが定められています。また「検疫法」の改定(昨年)では、感染したおそれがある者についての停留や健康監視が義務づけられ、違反した者を懲役・罰金の対象としています。この国の「新型インフルエンザ対策」とは、感染者(疑いのある者)を「犯罪者」と見なすものなのです。

 今、街中、車中、職場中、マスクであふれています。しかしこれを民衆の公衆衛生に対する無知として笑うことはできません。また「右へ習い」が好きな国民性として批判するだけではすみません。人々は法律の細かなことは知らなくとも、この国がこの病気(人)を「犯罪視」していることを直感的に感じ取っているのでしょう。だから、あらぬ嫌疑から身を守るために、とりあえずはマスクしとこか、と。

 国は今、対策の緩和に舵を切りつつあります。政府が定めた「行動計画」にとらわれずに、地方が感染の状況に応じて独自の対策を講じることを認めました。豚インフルが弱毒性であることを理由に、脱「行動計画」へと舵を切ったわけです。

 しかし脱「行動計画」を宣言したとしても問題は残ります。本物の強毒性の「新型インフルエンザ」の発生の時には、感染者(疑いのある者)の「封じ込め」「隔離」を優先する国家による人権抑圧が許されていい、ということにはならないからです。

 感染者の医療を受ける権利を何よりも保障する観点から、現行の「行動計画」「ガイドライン」そして「感染症予防法」「検疫法」を洗い直し、抜本的に改定することが求められていると思います。

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2009年01月12日
 ■ 大転換期に「新しい正義」を語りだすために

                      <09年 冬期>

   座┃ 標┃ 塾┃ 京┃ 都┃ 出┃ 張┃ 講┃ 座┃
   ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ ━┛ 

   大転換期に「新しい正義」を語りだすために
   ―貧困・温暖化・対テロ戦争をめぐる論点から

  <講師> 宮部 彰さん

      「政治グループ蒼生(グローカル)」代表
      「みどりの未来」副委員長

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

▽と き 2009年2月1日(日)午後2時~4時

▽ところ 喫茶うずら(黄色いビルの1F)
      京都市伏見区深草西浦町6丁目31
      電話 075-642-8876
      アクセス:京阪藤森駅下車徒歩10分

   地図

▽参加費 1000円(コーヒ付き)

■□━━━━━━━案━━━内━━━文━━━━━━━━□■

 ◎「座標塾」は社会を批判的につかむことを学ぶ場で、5年前に東京で開設されました。この間は、新自由主義的グローバリゼイションを批判する思想と論理を紡ぐ作業を行ってきました。

 ◎時代は一回りし、世は世界的な金融危機・同時不況です。「資本主義」の「欠陥」が誰の目にも明らかになり、それにとって替わる、より普遍的な社会、理論、思想が強く希求されはじめています。それは「新しい
  正義」への希求の再来と言えます。しかし「新しい正義」は、もはやマルクス主義でも社会主義でもないことは明かです。
   今年は「69年反乱」から40年。そして「89年東欧革命」から20年。これらの経験に、新自由主義との闘いで獲得した思想を重ね合わせて、今、どのような「新しい正義」を語ることができるのでしょう。
 
 ◎講師の宮部彰さんは、市民派・みどり派の選挙や政治勢力づくりに力を尽くして来ました。その一方で『グローカル』紙上を中心に、混迷する政治・社会・思想への鋭い批評を展開してきました。緻密かつ骨太のグランドデザイン(企画・政策)は、立場の違いを超えて高い評価を得ています。
  新しい正義=普遍性について(それが必要かどうかも含めて)宮部さんと一緒に考えてみませんか。


       ◎◎ 講師プロフィール ◎◎
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      宮部 彰(みやべ あきら) 

  1953年、山口県生まれ。九州大(工)、熊本大(医)中退。学生時代から三里塚闘争などに参加。90年代以降「市民派・みどり派の政治勢力」をつくるために様々な選挙やイベントを企画。現在「自治・連帯・エコロジー
 をめざす政治グループ蒼生」(グローカル)代表。著書に『市民派候補のための選挙必勝マニュアル』など。

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■
  【主催】京都工人社 京都市伏見区納所星柳17-2、
  セントラルハイツ淀607号
      電話・FAX 075-632-1389 mmr@mxs.mesh.ne.jp
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2008年11月20日
 ■ 社会保障国民会議の「最終報告」批判/「消費税」「年金論争」のワナを解く

  反転の方向示せず、迷走する麻生政権

 麻生政権が発足して2ヵヶ月が過ぎた。目を被うばかりの迷走が続いている。中山前文部大臣が「失言」で更迭されたかと思えば、航空自衛隊のトップの田母神前空幕長が「日本が侵略国家だったというのは濡れ衣」という「トンデモ論文」で更迭された。中でも「生活支援定額給付金」をめぐる迷走ぶりが際立っている。「全所帯」に支給するのか「所得制限」をするのかでさんざんブレた挙げ句、その判断は、結局、実務を担当する区市町村に丸投げされた。しかも、いつ支給されるのか、本当に支給されるのか、いまだ幻のままだ。
 「定額給付金」を目玉とする「新総合経済対策」(生活対策)は、新自由主義の破綻による世界大の金融危機・同時不況への対策のはずである。しかしその破綻を踏まえて、日本社会をこれからどこに導こうというのか、肝心のその点がまったく不明だ。一方に「介護報酬月2万円のアップ」や「年間3.6万円の子育て応援特別手当」、あるいは「非正規労働者の雇用安定対策の強化」など「生活者の暮らしの安心」のための項目がある。これ自身は真っ当な政策である。しかし他方に、現行の「金融証券税制(証券優遇税制)」を三年間延長して「個人投資家が投資しやすい環境整備」を押し進める、などとしている。そこには金融自由化のアメリカをモデルとして、それに追随してきた構造改革路線への反省は見られない。
 「新総合経済対策」は、新自由主義・構造改革路線の破綻の現実に直面しながらも、そこからの反転の方向を見いだせず、ただただ政権維持を優先して、各官庁の既成の方針をパッチワークしただけのものに過ぎない。

  作為的な「社会保障国民会議」の最終報告

 場当たり的な「新総合経済対策」(生活対策)の中で、ただ一つ明確に方向性を示した項目があった。「持続可能な社会保障制度」と「社会保障の機能強化」のために「消費税を含む税制抜本改革」を「2010年代半ばまでに段階的に実行する」という方向性がそれだ。麻生は記者会見で「消費税率を3年後に引き上げる」と言明した。これに歩調を合わせるかのように「社会保障国民会議」(座長・吉川洋東大教授)が「社会保障充実のために消費税最大18%」という内容の最終報告を発表した。
 「公的な社会保障の強化」はいまや人々の最大のニーズである。医療保険、年金、公的介護制度など、人々に安心を与えるべき社会保障制度が、逆に、人々の最大の不安の対象になってしまっている現状。これを打破して社会保障の「機能を強化」することに反対する人はいない。だが「社会保障国民会議」の最終報告は「公的な社会保障の強化」を望む人々を、誤った方向に誘導しようという意図に貫かれている。
 最終報告は年金・少子化・医療・介護のそれぞれの「機能強化」の課題(メニュー)と財源を消費税に換算して提示して見せた。団塊の世代が75歳以上となる2025年に必要な追加税負担額は、(1)基礎年金を現行の保険方式で賄った場合、消費税率=11%(2015年は8.3%~8.5%)、(2)全額税方式に転換した場合、消費税率=18%(2015年は11%~16%)と試算した。基礎年金部分を全額税方式にすると必要な消費税は二倍近くに跳ね上がる、というわけだ。
 ここには見過ごすことの出来ない二つの作為がある。一つは財源を消費税換算で示すことで人々をして「増加する社会保障の財源は消費税アップ以外に無い」という誤った判断に誘導すること。もう一つは人々の中にある消費税率アップに対する反発を利用して基礎年金財源の「全額税方式」を葬りさること。
 このトラップを見抜き、冷静な立場から社会保障をめぐる議論を発展させて行かなければならない。

  「増税=消費税率アップ」のマヤカシ

 社会保障の「機能強化」のために増税が必要だと言う「国民会議」の立場に異論はない。日本は社会保障にお金を掛けない「低福祉」の「小さな政府」であり続けてきた。こうした社会を変革するためには「社会保障」にお金が必要だ。そのために「軍事費を削って福祉にまわす」「ムダな支出を削減する」ことは大切だ。しかしそれでも足りない場合はどうするか。やっぱり「増税」すべきだろう。増税して社会保障や福祉にまわす。社会保障をめぐる議論ではこの「増税」というオプションをタブー視してはならない。この点で「国民会議」の立場に賛成する。
 だがしかし、「増税分はすべて消費税率アップで賄う」と言う「国民会議」の考えには賛成できない。これはマヤカシの議論だ。なぜなら、増税可能な租税は消費税以外にもあるからだ。所得税や法人税がそれだ。それを語らずに消費税の他に社会保障の財源がないかのように言うのは、マヤカシなのだ。
 最近は消費税を指して「広く公平な負担を求めるもの」などと賛美する意見が多い(例えば「朝日新聞」)。だから消費税が社会保障の財源に相応しい、と言うわけだ。そうではない。消費税は高所得者より低所得者により重い負担を強いる逆進性の強いものだ。だから、人々の「生活保保障」の要であるべき社会保障の財源にはまったく相応しくないものだ。この消費税の逆進性という「欠陥」から目をそらして「希望社会」(朝日)は実現できないだろう。
 社会保障のための増税は所得税を中心にして行うべきだ。累進制を強化し負担能力に応じて負担する(いままで負担していなかった人も可能な限り払う)。社会保障の役割の一つは所得の再分配であるから、累進性を強化した所得税を財源にするのは理にかなっている。さらに企業増税も不可欠だ。企業優措置を廃止し、法人税を引き上げなければならない。

  連帯型社会に相応しい「保険方式」

 基礎年金部分の財源を「保険料」で賄うのか「税」で賄うのかをめぐる四大紙も関わった「年金論争」は、「最終報告」では両論併記という形をとったが、事実上「全額税方式」を排し「現行方式(税と保険料の混在)」を継続するという内容になった。
 基礎年金部分を「全額税方式」にするメリットは、国民年金の未納問題がなくなり、無年金者・低年金者に基礎的年金が保障されることである。これは、憲法25条の「生活権」を具体化する制度である。
 反面、税方式の場合、税負担が保険料方式とくらべ大幅に増えるという批判がある。これは大事な批判であるが本質的な問題ではない。もっとも鋭い批判は、自分の蓄えで暮らしていける富裕層にも給付するのは大事な税金のバラマキだ(駒野康平)というものだ。これは「負担と給付の公平性が損なわれる」という従来から行われてきた批判の現代版かもしれない。しかしこの「負担と給付の公平」という年金、あるいは社会保険全般に対する考え方こそ、今、最も真剣に検討すべきテーマではないか。
 現行の保険料方式は「自らが払った保険料に応じて年金を受け取り、老後の糧とする」というもので、その根底にあるのは「自助の精神」だ。社会保険は「社会連帯」の原理に基づくものと言われているが、給付や医療のサービスを本当に必要としている人であっても、保険料を支払っていない人(自助の精神が欠落した人!)にはそのサービスは与えられない。健康保険の無い3万人の子どもがその被害者だ。「社会連帯」原理は容易に「排除」原理へと反転するのだ。誰をも「排除」しない普遍的な社会保障・福祉のためには「税方式」こそ相応しい。
 基礎年金財源の「全額税方式」を提言している勢力の思惑はそれぞれ違う。日本経団連や「日経」は企業の保険料負担免れと報酬比例部分の「民間保険」化が狙いだろう。麻生や自民党の「年金制度を抜本的に考える会」の立場も同様だろう。こうした勢力の存在を前提としつつ、真の連帯型社会をめざす立場からの「全額税法式」を含む新しい社会保障ビジョン・福祉ガバナンスを描き出さなければならない。

  市場の失敗教訓に、北欧型社会めざせ

 麻生は就任早々の国会で「日本にふさわしい福祉の姿」を問われ「中福祉・中負担」と答えた。その中身は定かではないが「高福祉・高負担」の北欧型社会を意識しての答えであろう。麻生にとっての「中福祉・中負担」とは一義的には「北欧型社会とは違う社会」という内容だ。
 このスタンスは、日本の社会、民衆の意識とかなりズレている。格差社会、貧困問題が大きくなるにしたがって、日本の民衆・マスコミの目が北欧社会にむき始めているからだ。世界大の金融危機と同時不況はその傾向をいっそう促進させるであろう。しかし北欧型社会に近づくと言うことは、これまでのような雇用と社会保障のあり方をそのままにして、負担の水準だけ高めるということではないはずだ。
 日本の社会では、なによりも雇用=市場の中での自助努力が奨励されてきた。社会保障や福祉の役割は、市場の中で自立的に生きることができない者(子ども、障害者、患者、高齢者など)を例外的、事後的にフォローするという位置にあった。高度な福祉社会とは、給付の水準が高いということではなく、この労働と社会保障がフラットな関係にある社会のことだ。それは制度であるとともに空気の問題だろう。市場の失敗による世界金融危機、同時不況の中で、われわれが踏み出すべき一歩はそこにあると思う。
 

 『グローカル』2008/12/01号 掲載予定原稿

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2008年10月20日
 ■ 円山野音で「反戦・反貧困」集会

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 10月19日、秋晴れの下、円山野外音楽堂で開かれた「このままでええの?!日本と世界―反戦・反貧困・反差別共同行動in京都」という集まりに参加しました。昨年も10月21日の「国際反戦デー」に同主旨の集まりが開催されましたが、私は残念ながら所用で行けませんでした。
 今年は年初から、強く誘われて、春先には「拡大実行委員会」にも一度顔を出させていただきました。実行委員会参加者の多くは、いわゆる団塊世代。そう、「10、21国際反戦デー」と聞くとビビッと来る世代です。その世代が、昨今の不穏な動静に「このままでええのか!」と危機感をつのらせて始めたのがこの円山集会でした。

  一般論としてはその動機は貴重なことです。しかし、実行委員会への参加者の中には運動の中で意見の違う者に「暴力」を振るい、そのことをいまだ反省も謝罪も出来ていない人たちがいます。残念なことです。

 さて、その集会、昨年よりは参加者は少なかったようですが、それでも主催者発表で850名。二年目にしては上出来です。遠く、東京からの参加者もありました。
 集会のメインは評論家の佐高信さんの講演。おおよそ次ぎのような内容でした。

  1年に2人の首相が辞めたが、喜んでいるのは役人(厄人!)だけ。麻生は小泉路線からの転換を言っているが、財務と金融を再び結合させ、財務省官僚の言いなりという意味では小泉と同じ。国民のことを考えていない官僚の支配を一度ひっくり返さなければならない。

 竹中・小泉路線は国民の購買力の向上より、会社の儲けを優先させた。『新自由主義』という批判は誉めすぎで、ルールなき野蛮な競争をあおる『旧自由主義』だ。小泉はクリーンなタカ派だったが、麻生もタカ派だ。旧田中派のダーティーではあってもハト派の政治家のほうがましだ。

 共同行動の中での足並みの乱れはよくあること。その人は別の素晴らしい音楽に合わせていると考えよう。野党の中にも改憲勢力が存在する。甘いだけのあんこより、中に塩が入っていた方がいい。そういう勢力を強めよう。


 「クリーンなタカよりダーティーなハト」は、佐高さんの十八番です。私はこうした政治的リアリズムを評価します。しかし、今は、「タカ(改憲派)」対「ハト(護憲派)」が政治のメインテーマではないでしょう。「新自由主義」を続けるのか、それとも「北欧型福祉国家」の方向に転換するのか、金融危機の広がり、世界同時不況の中で、この対決点が重要になってきていると思います。
 佐高さんの話しが自分の中でいまいちストンと落ちなかったのは、その点での違いに要因がありそうです。(小泉や竹中や田原などの「右」の人であれ、城山三郎や内橋克人などの「左」の人であれ、名の通った人と自分を並べてみせる「自慢話」にも正直閉口しましたが…)

 集会では、在日ミュージシャンの趙博(チョウ・バク)さん、フォークシンガーの豊田勇造さんのライブが行われました。趙博(チョウ・バク)さんが美空ひばりの「一本のえんぴつ」を歌いはじめた時はズキッときました。豊田勇造さんは来年還暦だとか。はじめて豊田さんの唄を聴いたのはもう35年前になります。相変わらず野太いいい声でした。

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 集会は、連帯アピールとして、山内徳信・参議院議員、在日無年金障害者訴訟団、障害者インターナショナル、ユニオンネット京都、ウトロ町内会、辺野古支援などの仲間から、あいさつが行われました。短時間でしたが、内容の濃い、連帯あいさつでした。
 集会の最後は、「インターナショナル」の合唱。このヘンが、この集会らしいところ。ちょうど近くに10代のころから尊敬している先輩がおられたので、肩を組ませていただき、一緒に 「あぁ~インターナショナルわれらがもの~」と歌いました。

 集会の後、行楽客で賑わう四条河原町をデモ行進し、それぞれの思いを訴えました。

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2008年09月21日
 ■ 我が窮状

NHK総合  SONGS 沢田研二part1 
2008年9月17日(水)午後11:00~11:30 放送より


「我が窮状」  作詞:沢田 研二,作曲:大野 克夫 

麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが 

忌まわしい時代に 遡るのは 賢明じゃない

英霊の涙に変えて授かった宝だ

この窮状 救うために 声なき声よ集え

我が窮状 守りきれたら 残す未来輝くよ

麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ

老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ

諦めは取り返せない 過ちを招くだけ

この窮状 救いたいよ 声に集め歌おう

我が窮状 守れないなら 真の平和ありえない

この窮状 救えるのは静かに通る言葉

我が窮状 守りきりたい 許し合い 信じよう

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2008年09月05日
 ■ 「昨日」と「一昨日」の対立?/自民党総裁選に思う

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 政治は照れ屋です。対立軸は誰もがわかるような「昨日」と「明日」の対立としては表れません。時には、はにかみながら「昨日」と「一昨日」の対立として表われます。しかしそうであっても、やはり、根底には「昨日」と「明日」の対立が厳然として存在します。

 福田首相の辞任表明には色々な要因があるでしょうが、国会運営の手詰まりよりも、経済政策の手詰まりが大きかったのではなかったかと思います。

 「安心実現のための総合経済対策」。様々な合力が重なって出来上がったこの「補正予算」を、いったいどう説明したらいいのか。福田にとって「不安」だらけの「経済対策」となってしまったことでしょう。

 小泉構造改革という「昨日」とはキッパリと手を切りたかった。しかし、手を切ってから、いったい、どこに向かったらいいのか?

 まごまごしていたら、サブプライム危機と原料高騰という二大波が押し寄せてきた。「いざなぎ越え」も吹き飛び、「景気対策」を期待する声が久しぶりに聞こえてきた。チマタでは蟹工船が読まれマルクス復活の気運もあるという。永田町ではさすがにマルクスは(まだ)読まれないが、竹中ヘーゾウによって過去に追いやられた(はずの)ケインジニアンのリチャード・クーを信望する人が「国民の人気者」だとか。かと言えば、ナンミョウを唱える人が、最近やたらと自己主張をする。

  ああ、面倒くさい。みんなまとめて「総合経済対策」にしちゃえ。
  でも、わたし、説明できません。
  あそう君、リチャード・クーさんのレクチャー受けたんだから、
  次ぎ、お願いしますよ。

 こうして「麻生を軸にした」インチキ「総裁選挙」がはじまりました。マスコミは対立の構図を「上げ潮派」VS「財政再建派」+「財政出動派」と描きます。

 まさに「昨日」VS「一昨日」の対決です。

 しかし、これを茶番劇と笑うことは禁物です。今、注目すべきことは、もう決着済みのものとされてきた「大きな政府」VS「小さな政府」という対立軸が、急激に前面化してきていることです。しかも人々の間で「大きな政府」への期待が高まっています。それもかつての「大きな政府」ではなく、「官僚」と「族議員」と「業界」の支配を許さない、「大きな政府 2.0」が民意だということです。

 自民党総裁選から解散・総選挙で、各候補、各党はこの民意を基点にしたどのような「明日」を描くことができるでしょうか。対立軸は(たとえ古い言葉で語られようとも)、「昨日」VS「明日」をはらんだものとならざるをえないものなのです。

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2008年03月05日
 ■ 門川大作さんは、大きな声でしゃべる人だった

 

この原稿は「京都・市民・オンブズパーソン委員会」の会報『おんぶっと』30号用に書いたものです。

 京都市の新市長に門川大作さんが就きました。選挙戦はまれにみる激戦で、次点とは951票差の辛勝でした。しかし激戦の割には投票率は低調(37・82%)で、過去4番目の低さでした。

 私は今回の選挙で特定の候補者を応援することはしませんでした。しかし、一つ興味を持ったことがあります。それは、本命と言われた門川大作さんの人物像です。名前はよく聞きますが、私は見たことも会ったこともありません。「高卒」で京都市教育委員会事務局に入り、ほぼ40年で政令市の「市長候補」にまで登り詰めたその「力の源泉」とは何かに、興味がわきました。

 そこで門川さん関係のウエブ・サイトを色々と調べてみました。まず、目についたのは造語の多さ。「共汗」「便きょう会」「京都力」などなど。中小企業の成り上がり経営者はこういう造語や標語を好みます。システムによる人の管理ではなく、直接に「心」を管理したい欲求の表れでしょう。

 次ぎに門川さんの経歴。高校時代にベトナム反戦運動にのめり込んだとありました。しかし、教育委員会ではそれを「反面教師」にしてやってきた、と続きます。元左翼の労務屋というのは珍しくありません。門川さんもその類だとすると、かなりイデオロギッシュな人物ではないか、と勝手に想像しました。

 しかし、ウエブサイトだけの印象では心もとありません。門川さんを直接知る市民運動の知人のいく人かに門川像を聞きました。共通しているのは「役人そのもの」というイメージです。出世のためには何でもやる人、どうにでもなる人。つまり「弱きをくじき、強きに媚びる」という像です。なるほど。

 段々と自分なりに「門川大作像」が描けてきました。でもひょっとしたら間違っているかもしれません。ここは、直接、自分の目と耳で確かめてみることが大切です。

 そこで選挙期間も半ばを過ぎた頃、門川大作さんの政談演説会に出掛けてみました。凍えるような寒い夕方に、伏見区の某神社の境内であった集まりです。出掛ける前は、てっきり自民党関係者のお年寄りが集っている演説会だろうと想像していましたが、ハズレました。応援弁士も参加者も偏りがありました。そこは伏見区の民主党系、連合系の演説会だったのです。「相乗り」選挙の内側を見た思いでした。

 市会議員、連合副会長などの応援弁士の演説が続きますが、なかなか候補者本人が到着しません。最後の弁士である若い衆議院議員の演説の終わり間際に、ようやく門川さんが駆け込んできました。すぐに弁士交代。そして第一声。大きな声で「いやー、厳しい戦いです」。知名度がない、盤石な基盤がない、若さでは負けている、と陣営の楽観論を絞めたうえで、やる気と行動力では負けない、と自分の特徴を訴えます。

 期待はしていませんでしたが、政策の話しはまったくありませんでした。ただ、ただ、声の大きい人、との印象だけは強烈に残りました。しかし、このことを知っただけでも収穫でした。私の人生データには「声の大きな人は、権力欲が強い」と刻印されているからです。

 新市長がこれから何を語るのか、その内容もさることながら、どの場面で大声をだすのか。これから4年間、この点にも注意していきたいと思います。

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2008年02月16日
 ■ 矢祭町の「議員日当制」に希望を見る

 「合併しない宣言」で勇名をはせた福島県矢祭町の議会が昨年末、議員報酬を「日当制」に変更することを決めた。現在、月額二一万円の報酬(期末手当込み年額三四〇万円)を、議会などの公務の度に日額三万円を支給するというものだ。公務は議会出席など三〇日程だから年間九〇万円ほどの報酬だという。
 この報道に対して市民派もふくめて現職の議員は総じて反発しているようだ。日当制では議員に必要な「専門性」を担保できないというのがその主な理由だ。一方、一般市民の多くは賛成だ。生活感覚から遊離した「プロの政治屋」はいらないとの思いからだ。いったいどちらが重要な事柄だろうか。

  *  *  *  

 私は後者の方向性が今後の地方自治にとって大切だと思う。つまり北欧型の地方議会の方向だ。普通のサラリーマンが仕事を終えた後、議員として夜間議会に出て行く。北欧では当たり前のこの光景を日本でも見たいと思う。もちろん「民度」が違うというという面はある。しかしより重要なことは民主主義のタイプが違うことだ。
 日本の自治体は「二元権力」と言われる。大統領としての「首長」と「議会」の二元権力だ。しかしこれは建前に過ぎない。実態は断然、執行部優位の一元権力だ。一例を上げると最高決定機関である議会の招集権は議会の長にはない。議会は首長が招集する。議案の提案も執行機関が行う。だから、この上からの一元権力に議員が個人で対抗しようとするとかなり高度な「専門性」が必要になるのだ。
 こうした実態それ自身を変革の対象とすべきか否か。問題はここにあると思う。
 そこで参考になるのが北欧の地方議会だ。北欧も含め欧州の多くの地方自治体は「議員内閣制」を採っている。ここには市長はいない。議会によって選出された議長が「市長」でもある。そして議長(市長)が執行機関(十数人の内閣)を作り行政を動かす。つまり議会が議長(市長)を通じて執行機関をコントロールするのだ。議会の役割は重要である。議会は社会を正確に映し出す鏡であるべきで、多様な市民が「参加」しているのが良しとされる。だから高校三年生が市会議員ということも有りだ。

  *  *  *  

 矢祭町の議会が「日当制」に込めた思いはこの北欧の議会に重なると思う。「日当制」の導入を決めた「矢祭町議会決意宣言『町民とともに立たん』」は、その狙いをこう宣言する。「これから議員になろうとする人も、欲の固まりのような金の亡者は消え、真摯に町を思う若い人や女性も進出しやすくなるなど、有権者の選択肢が拡大するに違いない」。
 「日当制」がストレートに「若い人や女性」の議会への「進出」を保障するかどうかは議論の余地がある。「夜間議会」や「議会保育」などの改革がさらに必要だろう。しかし、矢祭町がすすめる「役場と議会と住民の三位一体」(前出の宣言)となった町作りは、機能不全に陥った二元権力型の「地方自治」に代わる、新しいタイプの「地方自治」としてこの国の希望だ。それを下からの一元権力型の「住民自治(コミューン)」と呼ぶのはまだ早いとしても。

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2008年01月01日
 ■ 年初に考える―再浮上必至の「大連立」問題

 新しい年が明けた。今年の政治動向を考えるにあたって、最初に書いておきたいことがある。昨年の11月のはじめに急浮上して世間を騒がせた「大連立」問題についてである。事態が明るみになって以降、この「大連立」問題について様々な場で賛成・反対の意見が表明された。しかし私は大連立への賛・否を表明できなかった。正直言って「大連立」という事態は想定外であり、評価の枠組み自身を持ち合わせていなかったからだ。

 幸い、一時の興奮の後、「大連立」騒動は沈静化した。しかし、事の性格上「大連立」問題が本格化するの今年行われるであろう総選挙の後である。日本の戦後政治において「大連立」は成立したことがない。多くの人々にとって「政権交代」は体験済みだが「大連立」は未体験だ。その歴史上初めての事態がひょっとしたら今年招来するかも知れない。その時、どのような基準で、どのように評価するか。年頭にあたり、「大連立」評価のフレームワークを考えてみたい。

 ◆メディアがらみで「大連立」構想が推移

 2007年秋の「大連立」騒動はおおよそ次ぎのような経緯であった。

 7月19日 参院選で自民党が大敗。開票前に安倍が「続投宣言」。
 8月16日 『読売新聞』社説「大連立を」掲載。
 9月12日 安倍が「局面を転換する」ために「辞任表明」。
 9月23日 自民総裁選で福田政権誕生が誕生。
 10月30日 福田・小沢党首会談。
 11月2日 福田・小沢党首会談。福田「大連立」打診―小沢「検討」。
 11月2日 民主役員会「大連立拒否」
 11月4日 小沢辞意表明「連立拒否は自分への不信任」
 11月7日 小沢辞意撤回記者会見
 12月22日 「読売」渡辺「大連立は来年再浮上する」

 この騒動は当初、民主党のイメージダウンにつながるかに見えた。民主党の役員会で連立案を拒否され、それを「不信任」と受け取った小沢が「プッツン辞任」し、以後「留意工作」、「辞意撤回」とゴタゴタが続いたからだ。しかし、その後の展開は、防衛利権問題のバクハツもあり、福田内閣と自民党の支持率が低下し、民主党の支持率が向上するという事態になっている。また、この「連立騒動」の仲介を「読売新聞」の渡辺恒雄主筆が行ったことで、報道・メディアと政治の関係が問われ、読売グループと他の報道・メディアとの「論戦」も活発に続けられている。

 私は「大連立」の話しが浮上してきた時、次ぎのような視点で行方を注視していた。それは、「大連立」によってできる政権は現在の自公政権よりも "ましな" 政権になるのか、それとも "より凶悪" な政権になるのか、という視点だ。その時の私の読みは、どう考えても今より悪い政権になることはない、というものだった。なぜなら「自・公」で政権を担うよりも「自・民・(公)」で連立を組む方が、政権内の「不協和音」はより大きくなるはずだからである。そして、政権内部における「不協和音」の増大は、自立的な運動や自立的な政党を形成しようとする側にとっては、 "よりましな" 状況といえるからだ。

 ところが、世論は違った。(注)また、自立的な運動や自立的な政党を志向している人々も、この大連立政権については「反対」が多数派であったように見えた。そこには「大連立」に対する偏った固定観念があるように思う。ひとことで言えば「大連立=大政翼賛会」イメージである。

(注)「大連立」に対する世論(「朝日」11/5)
  ・自民党からの連立提案
    「評価する」36% 「評価しない」48%
     (自公支持層「評価する」50%以上)
     (民・共・社「評価する」10~20%)
  ・民主党の連立拒否
    「評価する」53% 「評価しない」29%
     (民主支持層「評価する」78%)


  ◆「大連立」と「政権交代」は対立するか

 「大連立」は一般的には次ぎの二つの性格をもつ。
(1)国政の危機回、挙国一致的政策の実行のための「大連立」
(2)次期選挙にむけて有利な条件をつくるための「大連立」

 (1)は「読売」渡辺や中曽根など大連立の「張本人」や「仲介者」の立場である。勿論、自民党もそうだと言えるだろう。対して(2)は小沢の位置づけである。

 渡辺が執筆したと言われている07年8月16日の読売新聞「社説」は言う。

 「(衆参逆転によって)…… 国政は長期にわたり混迷が続くことになりかねない。こうしたいわば国政の危機的状況を回避するには、参院の主導権を握る野党第1党の民主党にも『政権責任』を分担してもらうしかないのではないか。つまり『大連立』政権である。自民党は、党利を超えて、民主党に政権参加を呼びかけてみてはどうか」。

 「当面するテロ特措法の期限延長問題も、国会駆け引きを超えた政権内部の協議となれば、互いの主張の調整・妥協もしやすくなるのではないか。……大連立により第2党の存在感が薄れることになるか、政権担当能力への信頼感が厚くなるかは、その政党の努力次第だということである。……秋の臨時国会が自民、民主両党の建前論がぶつかり合うだけの状況になる前に、両党は早急に大連立の可能性を探ってみてはどうか」

 ここでの特徴は、参院での与野党逆転を「国政の危機」と観る異様な政治観である。この政治観から「危機」を「回避」するために「野党第1党の民主党にも『政権責任』を分担してもらう…『大連立』」が構想されている。

 対して小沢の「大連立」構想の中身はどうか。小沢は「大連立」を選択しようとした理由に「参院選で公約した政策の実現」と「政権担当能力を示す」ことを上げた。(民主党両院議員懇談会での発言、07/11/7)。二つとも次ぎの総選挙で民主党が勝利するために必要なものだと言う。
 「大連立」の中で民主党の政策を自民党につきつける。自民党が呑めば、それは民主党の得点にする。反対に自民党が拒否すれば「閣内不一致」を理由に閣外に去り解散・総選挙に持ち込める。その時はある種の国民投票的な選挙になるので、政策によって自民党を包囲できる。これが小沢の「大連立」に賭けた思いだった(に違いない)。

 私は、小沢のような政治理論は在りうると思っている。小沢にとって「大連立」は「政権交代」への裏切りどころか、それを実現するための近道=「一石三鳥」(07年12月28日、衛星放送「BS11」の番組収録での発言)なのだ。この点は、小沢嫌いの私もふくめ、世間はきちんと認識した方がいい。

 しかし、国民の多数派はおろか、民主党の役員会でも小沢の立場は理解されず、支持されることはなかった。それは、小沢が決して「口べたで東北気質」であったからではない。ひとえに「大連立」をもっぱら渡辺流の「危機回避策=自民党延命策」として理解した上で「賛成」したり「反対」する、政党もふくめた市民全体の政治的な熟練度にこそ要因があったと言わざるを得ない。

 ◆「政権交代」の必要性と限界

 民主党は2008年1月の党大会に提出する運動方針の中で、「大連立」騒動への反省を表明し「政権交代」にむけて次期総選挙を全力で取り組むことをうたっている。しかし、次ぎに「大連立」問題が浮上するのはその総選挙の後である。そして、その総選挙は「三善の策」論(「最善」=民主党による単独過半数、「次善」=野党で過半数、「三善」=民主党が第一党=自民との「大連立」あり)を掲げる党首・小沢の下で闘われる。戦後初の「大連立」が成立する可能性は大きいと言うべきだろう。

 では「大連立」に我々はどのように対応すべきか。昨秋「大連立」問題が浮上したとき、広義の左派・自立派は二つの傾向を示したように見える。一つは「大連立」を「政権交代」への裏切りとして批判する立場。もう一つは「大連立」を自民党と民主党の「同質性」の証明だとして、第三極の必要性を強調する立場である。前者は自覚的である否かにかかわらず「民主党」応援団に組み込まれ、後者は間違ってはいないけれど自分達のスタンスの確認にとどまっている。両方とも、自立派・左派のスタンスを生かしながら、積極的に「政権の流動化」にコミットし、社会全体を政治的に活性化させて行くプロセスが示せていない。この点が自立派・左派がこえなくてはならない課題だと思う。

 私の立場はすでに示唆しておいたように、「大連立」が政治の流動化、自由な政治空間を市民社会につくり出す限りにおいて、それを歓迎する、というものである。その限りで小沢の「大連立」イメージに重なる。しかし「政権交代」であれ「大連立」であれ、権力を「打ち出の小槌」のように思い込んでる小沢の権力論とは相いれないものがある。小沢は「大連立」の狙いを聞かれてこう答えている。

 「首相は連立ならば特措法さえ譲ってかまわない、憲法解釈さえ180度転換しても構わないと、そこまで言い切った。農業政策、年金、子育て、高速道路無料化など、我々の目玉政策も呑むかもしれない。画期的なものが民主党の主張で実現できれば、選挙で絶対有利だ。だが、みんなどうせ実現できないと思っていて民主党議員ですらそんな気がある。それは権力を知らないからだ。僕は権力をとれば簡単にできることを知っている」(07/11/16「朝日新聞」)。

 「権力をとれば簡単にできることを知っている」。「革命家」小沢は、別のところでもこの発言を繰り返して、民主党議員のお坊ちゃまぶりを嘆いている。勿論、権力の行使によって初めて可能になる変革の領域があることは確かである。そういう政治と無縁のところで我々の変革があるわけではない。

 しかし「政権交代」は「政策変更」のために必要であるだけはではない。かつて小沢は「政権交代」を時間によって「権力」を区切る「分権」と位置付けたことがある(『日本改造計画』)。そこには政財官の癒着の解体がこめられていた。そのひそみに倣えば「政権交代」は「分権革命」=権力システム解体の一里塚に過ぎない。解体の後に登場すべきは「市場主権」ではなく「地方主権」と「自立的な市民のネットワークで」ある。

 我々は、「地方」と「市民社会」への「分権革命」をすすめるためにこそ、「政権の流動化」をいっそう促進させなければならないのではなかろうか。

【08/01/20 加筆修正】


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2007年09月24日
 ■ 福田新政権の発足を前に/「リベラル」な手法による「改革推進」に警戒心を

 ◇構造改革は継承

 自民党の新総裁に福田康夫氏が選出された。福田政権はなぜ生まれ、どこに向かうのか。三つの軸から考えたい。

 一つは「構造改革路線」をめぐる「政策転換」という軸である。7月の参院選の安倍の大敗の最大の要因は「構造改革」にあったことは確かである。都市と地方の格差や労働をめぐる格差である。それらを「構造改革」の「影」にすぎないと過小評価し放置した安倍政権に対して、有権者が「NO!」を突きつけたのである。
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 時期はずれの辞任になったとは言え、福田であれ麻生であれ、安倍に替わる新総理(首相)は誰であっても、「構造改革」からの「政策転換」の姿勢を示す必要があった。
 しかし総裁選では福田も麻生も「構造改革」の継承とその影の部分の是正を一般的に語るだけで、明確な「転換策」は示していない。そればかりか、福田は財政再建と公共事業の削減を訴えて、構造改革=新自由主義政策の継続の方に力点を置いている。
 確かに個々の政策において規定方針の凍結などを示している分野もある。また、些細な微調整を「大転換」であるごとく示すこともあるかも知れない。しかし福田新政権が新自由主義からの「政策転換」に舵を切るかどうかは、いまだ未知数というべきだろう。

 ◇リベラル掲げ、対話を推進

 二つめは、安倍流の「保守主義」を継続するのか、それとも「リベラル」な理念の政治への転換を進めるのか、という軸である。ここでの結論は明瞭である。福田は「リベラル派」として意識的に自分を売り込む方向を示している。それは改憲問題(3年後の改憲発議は棚上げ)、対北朝鮮政策(相手からの対話の機会を生かす)、靖国参拝問題(国立追悼施設)などに示されている。
 靖国問題で国立追悼施設の建設を支持する立場にたつ福田は、ナショナリズム、国家、公共性の3つのうち、3番目の公共性をより上位におく考え方に立つ。その公共性は堅固であるよりも伸縮自在の軟体として、国民という枠をも超えるものとして構想されている。
 こうした福田のスタンスに対して、保守派のオピニオンである『産経新聞』は、総裁選報道において、福田を「リベラル」と規定して敬遠する立場を取ってきた。私は、『産経』とは逆の立場から、外国人の地方参政権や、男女別姓などをに踏み込む可能性のある福田「リベラル」政権により警戒心を持たなければならないと思う。

 ◇「劇場型政治」の終焉のあとに

 三つめは「劇場型政治」の継続か「対話・安定型政治」への転換かという軸である。これは小泉改革を引き継いだはずの安倍が、何故「劇場型政治」で力を発揮できなかったのかという問いとも重なる。結果論であるが、この一年、安倍は二重の読み違いをしていたのではないか。一つは自分を「劇場型政治」を演じることができる名優だという思い込み。二つ目は観客は小泉以降も依然として「劇場型政治」を望んでいるはずだ、という読み違い。二つ目の読み違いは実は私もしていたのだが、はほとんどのマスコミや批評家も誤ったのではないか。
 安倍辞任の報につづく総裁選報道の第一弾は、ほとんどが「麻生を軸に」だった。しかし翌日には「福田に雪崩うつ」に急変する。この裏には確かに派閥政治が動いていた。しかし世論調査でも福田支持が一貫して麻生を上回り続けた背景には、「劇場型政治」への無意識の忌避感が作用していたのではないか。代わって「生活を第一」にした「対話・協調・安定型政治」への欲求が高まっていると読めないか。
 いや、福田支持が高いのもマスコミの誘導の結果に過ぎず、政治へのマスコミ支配は強まっている、というい反論はありうる。一面あたっているだろう。にも関わらず「9、11選挙」のような一人の政治家のパフォーマンスに国中が一喜一憂するという現象は、今後、当分の間は起こり得ないだろう。ポピュリズムという熱病から、有権者はゆっくりではあれ、回復しつつあるのだ。

 ◇「政治とカネ」ではサドンデス

 発足する福田新政権は、そう名乗るか否かに関わらず「リベラル」を政権の売りにする内閣となろう。「自立と共生」「希望と安心」のコピーがそれを物語っている。そして過度なパフォーマンス(=劇場型政治)を慎み、「ゆるキャラ」「脱力系」を演じて「安定感」「親しみ安さ」を演出するだろう。そして安倍、麻生に比して「弱点視」されている拉致問題では、六ヶ国協議に積極的にコミットして思わぬサプライズがあるかもしれない。
 しかし、新自由主義=構造改革路線を基本的に踏襲する政権であるかぎり、いかに脱力系を演じようと、福田新政権は「改革」というマッチョな役割から自由になれない。それは改革に伴う「痛み」から自由になれないということだ。リベラルな手法は「政局的」には逆転参議院で民主党に主導権を渡さないために不可欠な手法であろう。しかし「社会の痛み」に対して、「リベラル」はいったいどれだけの統合力を持つのか、これは未知数である。さらに「政治とカネ」の面では新政権は「サドンデス」である。一人でも不祥事が出たらその時点で自公政権は消滅する。

 安倍の祖父岸信介は1960年、安保改定をめぐる大激動期を独特のキャラで乗り切った。そして、「政治の季節」の後に登場した池田政権は「所得倍層」を掲げ、「経済・くらし」重視に転じ、長期政権を実現した。岸の孫の後に首相の座にすわる福田は、果たして池田のように「経済・くらし」重視路線で長期政権を築くことができるだろうか。それとも、来春とも言われる総選挙で華と散り、自公による最後の政権になるのだろうか。

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2007年07月29日
 ■ 参院選―結果が出る前に言っておきたいこと

 ■7月29日、午後1時45分。
 今日は参院選の投票日である。朝、散髪屋に行った返りに近くの小学校に寄り投票を済ませてきた。学校の門を入るとそこは自転車や徒歩や車での来場者でごった返していた。マスコミも報じているように、なるほど有権者は高い関心を示しているようだった。
 結果が出る前に、今度の選挙について、二つのことを書いておきたい。

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 第一は、おおかたの勝敗予想は与党の惨敗、民主党の一人勝ちであるが、果たしてその場合、安倍は続投するのだろうか、ということである。これは何も安倍の責任問題への関心から言っているのではない。小泉が築いた「利益誘導型政治」へのアンチとしての「劇場型政治」「大統領型首相」が定着するのかどうかは、今後の政治のあり方にとって大事だと思うからだ。
 小泉があれほどの「改革力」を発揮できたのは、自らがよってたつ基盤を自民党内におかず、直接の国民からの高い支持においたからだ。小泉が発した「ワンフレース」は「改革」で「痛み」を強制される層をも自らの支持層へと動員することに成功した。その意味で小泉政権は中曽根政権と並ぶ戦後最強の保守政権だった。
 ところが、今回の選挙で安倍が国民から完全に見放されることになっても、「次ぎのリーダーが不在」などという自民党内の事情で安倍が続投するようなことになれば、それは、小泉が敷いた「劇場型政治」「大統領型首相」路線からの大きな後退となるだろう。与党惨敗にも関わらず安倍が続投するか否かは、安倍個人の責任問題を超えて、今後の政治の質そのものを規定する大きな出来事だと思う。

 二つめは、「大勝」のお墨付きをマスコミ各社からもらった民主党、とりわけそのトップの小沢一郎をどう評価するかである。「生活第一」を掲げる小沢は、選挙期間中、一人区を中心に遊説して廻った。「勝ち組」と「負け組」、「都市」と「地方」、「大企業」と「中小零細企業」、「先端産業」と「農林漁業」、そして「官」と「(国)民」。マニュフェストは、ほぼ「負け組」「地方」「中小零細」「農林漁業」「国民」に焦点をあてて書かれている。
 ここ10年、「改革」と称する「経済・労働の規制緩和」がごり押しされ、日本は未曾有の「格差社会」になった。政治から見放されたと感じる膨大な層が生み出された。今回、民主党は「政治から見放された」「弱者」の側に立つことを明確に打ち出している。年金について「基礎(最低保障)部分の財源はすべて税とし、高額所得者に対する給付の一部ないし全部を制限します」マニフェストで書いている。これには少し驚いた。民主党・小沢は、自民党から切り捨てられたかつての自民党支持層や地域に着目し、それを奪取する戦略を立てたのである。その象徴が地方の一人区であった。
 マスコミの予想通り、今回の選挙で民主党が大勝するとすれば、それは「格差社会」に対する有権者の明確な審判が下されたことを意味する。このことの重要性はしっかりと押さえておきたい。
 しかし、である。民主党および小沢一郎は、本当に「弱者」の側にたつ政治を行うことができるであろうか。民主党にとっての「民」とは「民間企業」のことであった。小沢こそ「官」から「民」への規制緩和策の旗振り人だった。それに反対する人々を「守旧派」のレッテルを貼って攻撃する先鋒だった。小沢の『日本改造計画』は小泉の「構造改革」を先取りしたものだった。だから、民主党は、小泉の「構造改革」を正面から批判するのではなく、その「不徹底」を批判したのではなかったか。それが今回は政策をガラリと変えた。
 小沢にとって大切なことは、「弱者の政治」でも「生活第一」でもなく「政権交替」である。すべてそこから逆算して戦略を立てているはずだ。だから参院選ではまず「生活第一」を掲げる。しかし政権交代の本番である次期衆院選では、それだけでは勝てないことは分かり切っている。大都会の票と大企業からの支持調達は不可欠だ。
 その場合、今回、票獲得のために政策を変えたように、大都会と大企業むけの政策にガラリと変えることはありうるだろう。それは、今回構築した支持基盤と矛盾した政策になる。だが小沢は「人は政策がどうこうより勝つ側、リーダーシップのある側に付いてくる」と思っているはずだ。そのために小沢に必要なのは「小選挙区に強い小沢」の神話である。そこを今回クリアすると小沢にとっての「政権交代」が見えてくるはずだ。それが私たち「弱者」にとって、歓迎すべきものかどうかは、また別の話しであるが。

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2007年07月22日
 ■ 坂喜美さんの訃報に接して/無私の精神で三里塚闘争に尽くした人生

[AML 14947] 上坂喜美氏の訃報です

三里塚闘争に長年かかわってきた関西の上坂喜美さんの訃報をお伝えします。

上坂喜美(うえさかきよし)さん

 07年7月17日0時45分 肺ガンにて没。83歳
 関西三里塚闘争に連帯する会代表、関西共同行動運営委員など、若い頃より労働運動、 市民運動など関西の民衆運動の中心的な担い手、推進役として活躍。特に三里塚闘争で は、三里塚闘争に連帯する会(全国)代表、関西三里塚闘争に連帯する会代表として活 躍した。近年は体調をこわし自宅で療養していた。本人の希望で、通夜は家族だけで行い、葬儀は行わないことになった。遺体は近畿大学に献体。
 関西三里塚連帯する会などで、偲ぶ会を待つことが話し合われている。

以上 高橋千代司

 七月十七日、三里塚闘争に連帯する会、代表の上坂喜美(きよし)さんが肺癌で亡くなられました。八三歳。この世に生を受けて以来、人民の闘争のために捧げつくした生涯でした。

 私が最初に出会ったのは、一九七四年の戸村参院選の頃だったと思います。しかしあまり記憶にありません。上坂さんは大闘争の指揮官。こちらは二十歳になったばかりの若造。遠い存在でした。後になって「上坂さんは自分の財産をなげうって選挙資金を作った」と誰からともなく聞かされ「偉大な大先輩がいるものだ」と敬意を覚えたものです。

 上坂さんと言えば、なんと言っても一九七七年からの三里塚決戦(開港阻止決戦)です。人が行動する時、そこには必ず(前田俊彦さんと並んで)上坂さんがいました。上坂さんは無類のアジテーターでした。だた新左翼が得意とする危機アジリではありません。
 「ナリタ空港を廃港に出来るかどうか、それが問題なのではない。ナリタはすでに廃港になっておる。問題は、それを、政府に、認めさせることができるどうか。そこに人民の力を集中させることが必要なのだ」
 このフレーズを、現地集会で、関西の前段集会で、何回聞いたことでしょう。

 一番、最近お会いしたのは4年前の夏でした。京都で柳川英夫さんを招いて小さな集まりをもった時です。「痴呆」が少し出ているというので、京都駅から会場まで迷わずに来られるか、心配で迎えに行ったものでした。それを察知されたのか、上坂さんは会うなり「余計な心配をして…」と不機嫌そうだったのが印象に残っています。申し訳ありませんでした。

 上坂さんほど、無私の精神で人民の運動に尽くした人はいません。何の見返りもないのに、各地の住民運動と三里塚を結びつけるために奮闘していました。元々は共産主義の人なのに、住民闘争にこそ希望があると確信していたのでしょう。その根底には、農業や環境問題など、エコロジー運動への深い理解があったのでしょう。

 体力の衰えで、自宅から出ることが少なくなってから、どのような生活をされていたのか。一度、おじゃまして、昔話に花を咲かせたいものだと思っていました。しかし、日常のことにかまけ、それをなさなかった自分の薄情さに気が滅入ります。
 こんな不肖の後輩ですが、天国から今後も見守り続けて下さい。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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2007年04月10日
 ■ 東京都民は「アホ」なのか―石原3選に思う

 東京都知事選で石原慎太郎氏が三選しました。事前の世論調査で予想されていたこととは言え、あの白い歯をニュッと剥き出しにした石原氏の笑顔がテレビに大きくアップされると、なんとも言えない気分になりました。カミさんも「東京都民はホンマにアホや!」と怒っていました。

 さて、東京都民は、ほんまに、「アホ」なのでしょうか。

 そうではない、という分析があります。オールタナティブ・メーリングリストに投稿された「まっぺん」さんの「希望が見えてきた。」がそれです。

 そのさわりだけ、紹介します。

 ●反転攻勢への兆しが見えた

 石原陣営は得票数の差を挙げて「圧勝」と評していますが、そうでもありません。我々は自信を持ちましょう。4年前の時に比して我々の力は拡大しました。
 4年前を思い出してください。対抗馬として最も有力視されたのは民主・社民・生活者ネットによって擁立された樋口恵子さんでした。その時にも樋口さんを応援する市民の勝手連が立ち上がりました。
 一方、共産党は独自に若林候補を擁立しました。ですから今回の選挙における上位三者はほぼ「同じ勢力」として比較が可能です。

 前回と今回の得票結果を比較してみましょう。

前回 石原 308万
    樋口 81万
    若林 36万  (投票率45パーセント)

今回 石原 281万
    浅野 169万
    吉田 63万  (投票率54パーセント)

 投票率は約9パーセント上昇し100万人近く増えているにもかかわらず石原は27万票も票を減らしたのです。
 「石原以外」へ流れた127万票は誰に投票されたのでしょうか?そのほとんどは我々の候補と共産党候補に集中し得票を倍増させました。その127万票のうち、実に115万票もが浅野候補と吉田候補に投じられたのです。
 これは驚くべき事実です。「都民の良識」が復活してきている、と言ってもいいのではないでしょうか。福祉など都民の生活に関わる問題、君が代などの思想的強制に関わる問題においてもっとも鋭く対決した二つの勢力が、前回に比して二倍の勢力となったのです。
 我々は「今回は敗北」しましたが、明日の勝利を確信できる地平へと一歩あゆみを進めることができたのです。

全文は、http://list.jca.apc.org/public/aml/2007-April/012778.html

 こういう「大局的」な見方はとても大切だと思います。
 たしかに「希望」はありそうです。

 にもかかわらず、こうした事態の中でも、280万人を超える都民がなお石原を支持した、という事実はやはり重いと思います。

 投票日の前日、気の置けない仲間と「石原3選濃厚の情況をどうみるか」について議論しました。出された一つの意見は「東京は<勝ち組>の街になっているのではないか」ということでした。地域間の格差が拡大する中で、東京と愛知は<勝ち組>だというのです。

 さらに次ぎのような意見も。階層間格差という点から見ても、東京には分厚い「新ミドル」層が形成されており、石原支持層は、こうした物的な根拠のある人たちによって構成されているのではないか。

 この「新ミドル層」は、下層であるがゆえに「強いリーダーシップ」を求める「ネジレ層」とは違います。また、かつての「新中間層」とも違います。「新中間層」は勤労を尊びそれ自身勤労層の一部でしたが、「新ミドル層」は勤労(層)を蔑視します。

 仲間と行った床屋談義が、どこまで実態に迫っているのか分かりません。しかし「石原の強さ」の背景に何があるのか、単に都民がアホなだけなのか。それとも物的・経済的な根拠があるのか。もう少し深めたいテーマです。

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2007年03月27日
 ■ 西山国賠判決/沖縄密約、存否判断せず

 密約があったことは、米国の外交文書公開で明らかになっている。交渉時の事務方の吉野文六元外務省アメリカ局長も認めている。未だに密約を認めていないのは日本政府だけ。予想されたとは言え、ヒデェー判決。この判決をマスコミがどう報道するかも注目。報道にとっての西山事件(=権力へのこびへつらい)は、さらに、いっそう、ひどくなっている。

訴訟の詳しい経過は、藤森克美法律事務所
★西山太吉国賠訴訟
http://plaza.across.or.jp/~fujimori/nt01.html

沖縄密約、存否判断せず、西山元記者が全面敗訴
2007年03月27日 15:45 【共同通信】

 沖縄返還時の日米密約をめぐる1972年の外務省機密漏えい事件で、国家公務員法違反の有罪が確定した元毎日新聞記者西山太吉さん(75)=北九州市=が、違法な起訴や誤った判決で名誉を傷つけられたとして、国に謝罪と3300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は27日、密約の存否を判断せず、請求を棄却した。

 加藤謙一裁判長は国の主張を全面的に認め「仮に起訴などが不法行為だったとしても、賠償請求権は除斥期間(権利の法廷存続期間、20年)の経過で消滅している。その後の国務大臣らによる『密約はない』との発言は行政活動に関するもので個人の社会的評価を低下させていない」と判断した。起訴や判決の当否にも言及しなかった。

 西山さんは2000-02年に密約を裏付ける米公文書が見つかったことなどから提訴した。



西山氏の訴え棄却 沖縄返還密約訴訟
<琉球新報>

 沖縄返還交渉をめぐる「密約」の取材で国家公務員法違反(秘密漏えいの教唆(きょうさ))の罪に問われた元毎日新聞記者の西山太吉氏(75)が、米公文書で密約が裏付けられた後も日本政府の否定発言などで名誉が侵害され続けているとして、国に謝罪と慰謝料を求めた訴訟の判決が27日午後、東京地裁であった。加藤謙一裁判長は「除斥(時効)期間の経過によって請求権が消滅した」として、西山氏の請求を棄却し、西山氏側が主張の力点を置いた密約の有無の判断もしなかった。西山氏は控訴する。
 判決について西山氏は「除斥期間であるとして、個人に対する名誉棄損も触れなかった。想像していた通りの判決だった」とコメント。代理人の藤森克美弁護士は「密約についても何も言っていない。一番逃げやすいところを押さえて書いた最低の判決だ」と批判した。
 同訴訟は2000年と02年に密約を裏付ける米公文書の発見を契機に05年4月提訴。9回の弁論で西山氏側は密約の立証に力点を置き、06年2月には返還交渉にかかわった元外務省幹部の密約を認める新証言が報道され、裁判所の判断が密約の事実認定に踏み込むか注目されていた。
 国側は裁判で密約の存在を認否せず、「密約が仮にあっても原告の有罪無罪を左右しなかった」「仮に違法行為があっても除斥(時効)期間の適用で賠償責任はない」として棄却を求めていた。
 西山氏側は国会承認を経なかった密約は違憲行為で、違法秘密であるから国家公務員法の保護の対象に当たらないと指摘。その上で、男女スキャンダルに仕立てた西山氏の訴追で政府は密約への追及をかわし、検察側の偽証により刑事裁判で誤った判決を下させたことは違法であり、不当と訴えていた。
 訴訟は沖縄返還の真相と密約という「国家犯罪」を追及し、知る権利の在り方も問い掛けた。
(3/27 16:02)


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2007年03月16日
 ■ 都知事選/浅野氏に「一言マニフェスト」

 東京都知事選が始まります。東京と言う「地方」のことですが、首都だけあって、結果の影響は絶大です。私としては、浅野史郎氏を推したい。浅野氏のHPで市民からの「一言マニュフェスト」を募集していたので、下記の文章を送りました。(締め切りの後だったので、採用も掲載もされなかったが)

 因みに、浅野氏のHPはココ 

 マニフェストや出馬表明が読めます。


 東京都の権限を「東京市」へ!

 21世紀は地方分権、地方主権の時代だ。地方分権とは、国の権限を地方に移譲する団体自治強化の面と、住民による自治体コントロールを強化する二つの面を含む。東京都は前者に関しては充分な権限を保持している。問題は後者だ。

 道府県―市町村という二階建てによる地方自治が一般化している中で、東京23区の住民だけが都の直下におかれている。東京都は巨大すぎて住民のコントロールが効きにくい。そこで、東京都の権限を「東京市」に移譲する。今は知られていないが、その昔(1888年から1943年)東京市があった。

 今のシステムのままなら、誰が都知事になっても「都の暴走」はとめられない。決定権を住民のすぐ側にもっていくこと。この「都内分権」に踏み出すことによって首都・東京は「地方分権」の手本となる。

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2005年09月15日
 ■ 小選挙区では「民営化反対」が民意(多数票)

 総選挙が終わりました。結果は、巨大な2/3与党の出現。これをもって、「国民は、郵政民営化に賛成の民意を示した」と小泉首相は言います。

 だが、ちょっとまって欲しい。下の数字は、今回の選挙で小選挙区で得た政党別の得票率を「国民投票」風に分析したものです。分析と言っても、足し算しただけなのですが…。

○賛成  自 + 公     =49.2% (議席数 227)
○反対  民+共+社+国+日+他 =50.8%(議席数  73)
      (数字は「朝日」9/13朝刊から) 

 結果は、 賛成「49.2%」、反対「50.8%」です。

 もし、今回の小選挙区での投票が「郵政民営化法案」や「小泉改革」への賛否を問う正式な「国民投票」であったのなら、結果は「否決」ということになります。 だだし、比例区では違う結果になります。しかし、それも、「51.5%」対「48.5%」の僅かな差です。

 小泉首相は、「今回の総選挙で示された『郵政民営化は必要だ』という国民の皆さんの声によって、ようやく改革の各論に踏み込んで、この郵政民営化を実現することができるようになりました」(小泉メルマガ、第202号)と言いますが、小選挙区、比例区の各党別の得票率が表していることは、民意は「郵政民営化」「小泉改革」をめぐって二分したまま、というのが正確なところでしょう。

 あれほどマスコミを上げてのウソ八百を並べた「民営化推進」の大キャンペーン、刺客騒動の「小泉劇場」の演出の中でも、冷静に判断した上で投票を行った有権者が半数にも上ったという事実こそ、私たちが、今回の選挙の中から財産として救い上げるべき事柄ではないでしょうか。

 そして、民意を忠実に政治に反映させるために、小選挙区制度の即刻の廃止と「国民投票制度」の新設という「改革」こそ、必要なのではないでしょうか。

 「改革」を止めるな!!

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2005年02月16日
 ■ ご協力ありがとうございました

「アジア太平洋みどりの京都会議2005」へのご支援・ご協力ありがとうございました

2005年2月15日
アジア太平洋みどりの京都会議2005
実行委員長 渡辺 さと子
         松谷 清

〒700-0971
岡山市野田5丁目8-11
かつらぎ野田ビル2F
Tel:086-242-5244 Fax:086-244-7724


 2月11日に開幕いたしました「アジア太平洋みどりの京都会議2005」は、13日、無事にその3日間の日程を終えることができました。アジア太平洋地域23カ国およびオブザーバーとしてそれ以外の地域の4カ国から、計100名の海外参加者を迎え、国内からは約300名の参加を得ました。

 若い人たちのトークセッションやライブ・コンサートなどのプレ・イベントで幕を開けたこの会議は、まず、1日目の連携シンポジウム「自然エネルギー2005:ボンから京都、そして中国へ」に約300人が参加。昨年、ボンで開催された自然エネルギーシンポジウムのフォローアップ会議として、中味の濃い議論が繰り広げられました。

 2日目には、3つのメインのセッションのほか、たくさんのワークショップが開催され、予想を超える参加者でどの会場も大盛況でした。セッションのあとは、イングランド・ウェールズ緑の党の呼びかけに応えての世界同日アクション、「京都議定書発効アピールウォーク」にも多くの人たちが参加し、カラフルなアピールを繰り広げました。

 さらに、最終日の総会では、規約等を議決し、23カ国から27のグループが参加を表明してアジア太平洋グリーンズ・ネットワークが正式に発足しました。同時に、2日目の議論を踏まえ、地球温暖化や平和・安全保障、マイノリティの人権問題などに関する9つの決議を採択し、今後、この地域で連携しながら共通の課題に取り組んでいくことを確認しました。

 国際会議開催の経験など全くない私たちが右往左往しながらも、何とか手づくりでこの会議を開催することができましたのも、皆さまのあたたかいご支援とご協力をいただいたおかげと心から感謝しております。

 たくさんの若いボランティアの協力を得て、取り組むことができたことも私たちの大きな誇りです。皆さま、本当にありがとうございました。

 今回の会議でのたくさんの出会いに勇気を得て、これからも、「持続可能な社会、非暴力、社会的公正さ、草の根の民主主義」・・・という理念を共有するアジア太平洋地域の仲間たちとつながりあいながら、もう一つの未来をつくる「みどりの政治」をつくり上げていきたいと思っております。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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2004年09月25日
 ■ 「アジア太平洋みどりの京都会議2005 実行委員会」発足

「アジア太平洋みどりの京都会議2005 実行委員会」発足

 9月18日、京都おいて「アジア太平洋みどりの京都会議2005 実行委員会」が正式に発足しました。これは、アジア太平洋地域で「緑の党」や「緑の政治運動」をになっている人々が、来年の2月に京都にあつまり、アジア太平洋レベルのネットワークを結成しようというもの。世界レベルのネットワークは、すでに2001年に発足しており、欧州でも連盟は機能しているそうです。

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