2014年01月02日
 ■ 映画『永遠のゼロ』から受け取ったメッセージは、 『反報国』 『反特攻』 『反靖国』

 昨年末、ある忘年会で映画「永遠の0」のことが話題になりました。
商店街のチラシ持参で1000円で観てきたという女性が「もう号泣した」というのです。

「岡田准一君が特攻するシーンで顔がアップになって、その瞬間映画が終わる。終わったあと涙が出て、顔がクシャクシャなってしもた」

「安倍なんかに見せてやりたい!」

 私は、映画「永遠の0」が自衛隊内で上映されている、との記事を朝雲新聞のWebで見ていたので、批判のために一度見ておく必要があり、とは思っていましたが、それ以上の知識は、まったくありませんでした。

 でも、最近、何事にも感動しなくなっているので、この映画を観て、ぜひ、感動してみたい、と思いました。

 そこで、翌日、カミさんをその映画に誘ったところ、大目玉を食ってしまいました。

 カミさんが言うには、原作者の百田尚樹氏は、安倍ちゃんの「家来」で靖国参拝を進言したり擁護したり、中国・韓国からの批判を「内政干渉」と反論したり、そのおかげでNHKの運営委員の候補にもなっている、とのことでした。年末には対談集も出しているのだとか。

 カミさんは、そのことを靖国参拝当日の「朝日」の夕刊で知り、原作に感動し、百田氏が手がけた「探偵ナイトスクープ」のファンということもあり、「裏切られた!」とカンカンでした。私は仕事が繁忙期で新聞もろくに読んでいなかったので、急いでページをめくり、百田氏の「右翼的」な言動を確認した次第です。

 では、映画「永遠の0」も右翼的で靖国的な映画なのか。

 観たあと涙で顔をクシャクシャにしたという女性。一方、安倍の家来の映画なんかどんな内容であれ見たくない、というカミさん。ウーン、ここは自分の目と感性で評価するしかありません。

 ということで、元旦の早朝から「一人」で映画館に行ってきました。

 結論的に言うと、原作者の百田氏や映画制作者の意図はどうであれ、この映画は安倍ちゃん流の「愛国心」称揚、「靖国」賛美のイデオロギーとは一線を画する内容だ、と感じました。

・「国」への愛よりも「妻子」への愛
・「死」の賛美よりも「生」の賛美
・「精神論」より「実理論」
・「特攻=散華」ではなく「特攻=無駄死」
・「死んだら靖国で会おう」ではなく「死んでも妻子のもとに帰る」

 私は、途中から、特攻を拒否する「天才」戦闘機乗りの主人公・宮部久蔵(岡田准一)と、元読売巨人軍のエース桑田真澄氏(最近は体罰批判論者とし有名)が重なりました。

 技量は一流、しかし根性論に与せず、時流に流されず、安易に仲間と群れない。そして、一流であるために日々鍛錬を怠らない。

 それでも最後の最後に主人公は、特攻を志(死)願します。しかしそれは決して「国」のためではありません。では誰のためか?

  (これを書くとネタバレなので書きません)

 この最後のところが安倍ちゃんが気に入ったところなんでしょう。つまり他人を「助ける」ために「身代わり」となって「死」を引き受ける。

  (あっ、半分以上ネタバレ)

 昨夏、横浜の緑区で他人を助けようとして踏切で亡くなった村田奈津恵さんを、安倍ちゃんが「勇気をたたえる」として書状を贈りましたが、あのロジックです。

 しかし、安倍ちゃんが自分のオデオロギーに忠実であろうとするなら、この作品で利用できるのはこの点だけのはず。それ以外はすべて反報国、反特攻、反靖国の内容だと、私は見ました。

 もっとも、映画は一つの作品ですから、観る側が自由に解釈できる余地はあります。だから、これを特攻賛美の映画と評価する人があっても、それはそれで結構だと思います。ただし、そう思う人は、その根拠をこの映画の中に示さなければなりません。

 それにしても「永遠の0」が発するメッセージと、百田氏の最近の言動が大きく食い違うのは何故でしょう。

 戦争批判者が作家として名声を博して「転向」したのか。それとも「永遠の0」は戦争反対勢力をガバっと靖国の側に引き連れていくための「罠」(カミさんの評価)なのか。

ウーン、わからん!

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2011年01月23日
 ■ 映画『小屋丸』―ポスト経済成長の生き方ヒント

 今日(23日)「京都みなみ会館」で上映されている映画『小屋丸』を観てきました。

 「小屋丸」とは新潟の豪雪地帯にある集落の名前で、ここの四季と村人の暮らしを二年間にわたって16ミリフィルム(モノクロ)に収めたドキュメントです。監督はフランスを代表する(と紹介されている)現代美術作家ジャン=ミッシェル=アルベローラさん、という人です。

 宣伝のコピーにこうあります。

「なつかしいユートピアがここにある」
「パリの街と新潟の里山が映画でつながる」

 「なつかしいユートピア」などと聞くと、山里や棚田に憧れている都会人むけの「ロハスな芸術映画か」と懸念してしまいますが、そうではありませんでした。

 作り手(監督やナレーター)は明らかに、米国に加工品を売る替わりに農産物を輸入して日本の農業を破壊してきた戦後の工業化・近代化路線への批判を意識しています。

 そして、サブプライム・リーマンショック以降、それすら立ち行かなくなった今、めざすべき方向は、「土着」をこえて自覚的に土に着く「着土」(祖田修・福井県立大学学長=ナレーターの一人)であるとして、小屋丸の生活を描いているのです。だからこの映画は、ポスト金融資本主義、ポストグローバル経済の映画と言っても過言ではないでしょう。

 実は小屋丸は、私が生まれ育った村のとなりの村です。距離はそうありませんが山を一つ超えなければなりません。映画の中でも村人が「昔は買い物のため一日がかりで池之畑と小荒戸を通って町に行った」と、私の村の名前(小荒戸)を上げていました。ここから中学校に通ってきていた同級生たちは冬の間だけ「寄宿舎」生活をしたほどです。

 映画が描く現代の小屋丸が「ユートピア」というのではありません。しかし、村人たちがカメラの前で坦々と語る、昔の自給自足、雪と共存しながらのコメ作りの話は(それは私の子ども時代の記憶そのものですが)、過去の価値のないものではなく、来るべきポスト経済成長の時代の生き方のヒントとして描かれています。

 故郷がこんな風に評価されて映画になり、商業会館で見られるようになったのは嬉しいことです。一方、その故郷を棄ててニューレフトの運動に飛び込んだという「原罪」を背負って生きてきた自分としては、複雑な思いもあります。

 映画の後半の方で、この映画のコーデネェーターであり、ナレーターでもある北川フラム氏が、現代の日本の社会危機の根本に「農業という血液、循環器を壊したことがある」と批判した後に、「それを取り戻す機会が一回だけあった」と続け、「それは三里塚です」と語った時、小屋丸と小荒戸(私の村)と三里塚が、自分の人生の中で一瞬で重なり、涙をおさえることができませんでした。

みなさんも、機会があれば、ぜひご覧になってください。

(東京近辺での上映は、昨秋一通り終わっているようです)


映画「小屋丸―冬と春」
http://www.echigo-tsumari.jp/artevent/koyamaru.html

○京都みなみ会館
1月22日(土)~1月28日(金) am10:20~
1月29日(土)~2月4日(金) am10:00~/pm18:15~(1日2回上映)

京都みなみ会館HP:http://kyoto-minamikaikan.jp
(当日のみ/一般1500円、専門・大学生1300円、中・高・シニア1000円)

○大阪・第七藝術劇場
1月15日(土)~21日(金) pm18:30~
1月22日(土)~28日(金) am10:30~

大阪・第七藝術劇場HP:http://www.nanagei.com
(当日のみ/一般1500円、専門・大学生1300円、中・高・シニア1000円)



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2008年04月06日
 ■ 「勇気なき者」の革命こそ― 『実録・連合赤軍』を観て

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 今日は、良いお天気でした。まさにお花見びより。こんないい天気でしたが、観たいと思っていた若松孝二監督の「実録・連合赤軍」を観に行きました。映画としてはよく出来ています。3時間10分という長さを感じさせない充実した内容でした。

 「実録」ですから内容的にはほとんど新味無しです。手記や、裁判や、元活動家の証言などで、すでに世に知られている内容です。だから映画化するにあたっての勝負どころは、役者さんがどれだけ演じられているか、監督としてのメッセージが妥当か、に絞られます。

 前者に関しては、言うことなしです。坂井真紀や佐野史郎などの「有名どころ」もいい演技をしていますが、森役、永田役をはじめ若い役者さんが凄惨な修羅場を迫力満点で演じています。これが長さを感じさせない要因だろうと思います。

 しかし、監督のメッセージ(つまり「連合赤軍の総括」)はかなり薄っぺらいです。厳しく言えば、若松孝二監督は、依然として36年前のあの時代をさまよったままのようです。

 問題場面は、映画の後半のクライマックスにあります。「独裁者」の森や永田のCC(中央委員会)委員長と副委員長が逮捕され、残った兵士たち(5名)が警察に追われて「あさま山荘」に立て籠もり、銃撃戦を展開する場面での加藤少年の言葉です。

 板東や坂口は、自らの手で殺してしまった同志への「落とし前」として、権力との銃撃戦を闘い抜こうと「決意表明」をします。これに対して16歳の加藤少年は「いい加減なことを言うな、僕たちに勇気がなかったから止められなかったのだ。坂口さん、あなたにも勇気がなかった。板東さん、あなたも勇気がなかった。みんな勇気がなかったんだ」と号泣するのです。

 そして、観客はこの加藤少年の言葉に救われます。3時間に渡って延々と凄惨な同志殺しを見せつけられてきた観客は、この言葉に出会い、暗闇の中に光りをみた思いがしてグッときます。事実、この加藤の言葉の場面で、私の右となりの女性のハンケチがさっと動きました。

 しかし 「勇気がなかった」という言葉は、当事者の言葉としては重いけれど、同志殺しを止めることができなかった「総括」(この映画の主題)としては、あまりにも浅いと思わざるを得ません。

 森や永田は「銃による殲滅戦」を絶対化し、それを担う「革命兵士」になるための「共産主義化」を求めて「総括」を要求しました。そして、これらの言葉のウラには「勇気を見せろ」「やる気をみせろ」という精神主義がこびり付いていました。

 ですから、これらの総括要求には「勇気」だけでは対抗できない構造があったのです。勇気よりも、森や永田が発する「言葉」と対抗しうる別の「言葉」こそが必要だったのです。

 それは一言で言えば、「勇気なき者を主体とした革命」という構想を言葉化することでしょう。勇気ある特別の人たちが、特別な空間に閉じこもって行う革命ではなく、勇気なき普通の人が、日常的な空間の中で行いうる革命です。

 実はそうした「革命」は、すでにその時代にも始まっていました。というより「国家」に対して「党」や「軍」が対峙するという近代革命モデルをこえる「解放としての革命」は、あの時代に登場していたのでした。

 ウーマンリブの運動やべ平連をはじめとした市民運動、そしてなによりも全共闘運動がそれです。永田洋子に誘われて革命左派の山岳ベースを訪れたリブ運動のリーダー田中美津は、その時、ミニスカートを履いて行ったといいます。「女性性」をそぎ落とすことが「共産主義化」だと思っている永田ら革命左派への、田中美津らしい「異議申し立て」だったのです。

 最後に、若松監督に脱帽したこと。

 それは「あさま山荘」銃撃戦のシーンで、当時のニュース・フィルムを一切使っていなかったことです。私も含め多くの人にとって「あさま山荘」事件の「記憶」は、放送史上初の長時間実況ニュースの映像です。機動隊の盾の内側からの映像です。それを一切使わず、自前で「あさま山荘」銃撃戦の映像を迫力満点で作りあげたのは、まさに「反権力」の若松孝二の真骨頂というところでしょう。

 ★★★★☆(80点)

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2007年05月13日
 ■ 「俺は君のために…」のメッセージの希薄さ

「俺は、君のためにこそ死ににいく」
2007年日本映画・東映配給・2時間19分
2007年5月12日公開(全国東映系ロードショー)
監督:新城卓/製作総指揮・脚本:石原慎太郎
主演:徳重聡 / 窪塚洋介 / 筒井道隆 / 岸惠子

 今日(13日)、『俺は、君のためにこそ死にに行く』を観ました。他にもやらなければならないことが沢山あったのですが、昨日から全国上映がはじまったので、なんだか落ち着かなくて、朝一番で観ることにしました。

 総論的に言えば、良くできた映画、なんだと思います。岸恵子の熱演が光りますが、他の役者さんの「死」と「愛」と「別れ」もそれぞれ好演です。特に、中越典子がよかった。
 それに映画の最後を盛り上げる第71振武隊の特攻シーン。迫力満点。このシーンに一番お金を掛けたそうですが納得です。特攻機が米軍艦に突入して衝突する場面では、画面がガクンッと揺れ、座っている椅子から思わずズリ落ちそうになりました。そのくらいの迫力です。

 でも、この映画は成功しているか、と問われれば、失敗だった、と言わざるを得ません。泣けるシーンはふんだんにあるのに、ストンとくるものがないのです。その原因は「メッセージの希薄さ」にあると思います。

 とは言っても、メッセージが無いわけではなりません。特攻作戦の理不尽さは、情緒的にではなく歴史的・論理的にもしっかりと描かれています。軍令部が、日本の敗戦を見越した上で、「国体護持」と「五分五分の講和」のために特攻作戦に踏み切る。しかし、そんな事情などつゆ知らない「若鷹」たちは、日本の勝利を信じて命をなげうっていく…。この落差がこの映画の「切なさ」のベースです。石原の言う「苛酷な時代」です。この映画を「反戦映画」と評価する人たちは、ここに、当時の指導者への批判を見出し、二度と再び戦争を行ってはいけない、というメッセージを受け取るのでしょう。

 しかしです。それでも若鷹たちは、死への飛翔を行うのです。鳥濱トメさんに最後の想い出話しを残し、恋人や家族への想いを絶って、迷い、苦しみながらも…飛ぶのです。映画の中で、指導者が無能に描かれれば描かれるほど、この特攻隊員達の行動は、純粋で、美しいものに思えてしまいます。石原が言う「美しい日本人」です。
 ここで流れる「海ゆかば」。劇中の歌としてではなく、BGとして流されます。そして隊長の最後の言葉「靖国神社で会おう」。決して国の戦争に対してではないけれど、ここには、若者達が引き受けた戦争への賛歌があります。そして極めつけは映画の最後の最後にトメが放つ言葉。敗戦から15年後に幻影のようにトメの前に現れた特攻隊員達に向かって、トメは言います。「ありがとう」。この一言で、ここまで厚みのあった映画が、一瞬にして薄っぺらな特攻賛美の映画に変質してしまいました。

 「二度と再び戦争を行ってはいけない」という思い。同時に「戦死者への感謝(ありがとう)の気持」。この二つは、戦後社会が示した先の大戦に対する平均な態度だと思います。しかし本来、両者は矛盾するものです。本当に戦争への反省があるならば、日本国家は戦死者に「謝罪」しなければなりません。「感謝」などおこがましいのです。ましてや「顕彰」などゆるされません。「国民」もまた「感謝」ではなく静かに「悼む」という態度がふさわしい。
 
 タカ派の石原慎太郎が制作総指揮、脚本を担当し、空襲を体験している女優の岸恵子が主演したことで話題になったこの映画も、それが発する戦争に対するメッセージは、矛盾した戦後の平均的な世論の枠から一歩も出ていないと言わざるを得ません。これが、この映画に私が「メッセージの希薄さ」を感じた正体のようです。
 石原派はもちろん反戦派の動員をも狙った(?)この映画は、両方に「物足りなさ」を感じさせるかもしれません。興業の行方が気にかかります。

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2007年04月25日
 ■ <観る前の映評>号泣しても、忘れてはならないこと/ 『俺は、君のためにこそ死にに行く』(新城卓監督)

 のっけから問題です。以下の言葉は映画やテレビドラマのタイトルを縮めて表現したものです。それぞれ正式なタイトル名を答えなさい。

(1)フユソナ
(2)キミヨム
(3)アイルケ
(4)オレキミ

orekimi.JPG 正解はこのエントリーの最後に書いてあります。今日、取り上げたいのは(4)の「オレキミ」についてです。『俺は、君のためにこそ死ににいく』。5月12日に公開される東映映画です。4月8日に東京都知事に三選したばかりの石原慎太郎が制作総指揮、脚本を担当し、話題となっています。

 本作は“特攻の母”として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊員たちの熱く哀しい青春や愛といった真実のエピソードを連ねて描いた戦争群像劇である。製作総指揮は現東京都知事であり作家の石原慎太郎。トメさんと長年親交を深めてきた石原氏は、隊員たちの心のヒダに入り込み彼らの想いを汲み続けた彼女自身の口から若者たちの真実の姿を聞かされ、8年前に本作を企画し、自ら脚本を執筆した。

公式サイトの「イントロダクション」より。

 18億円の制作費をかけて「無惨にも美しい青春」や「彼らを心で抱きしめた女性」を描いたというのだから、これはもう、涙なしには観れないでしょう。
 わたしは、岸恵子さんが演じる鳥濱トメさんが、攻隊員たちの手紙を検閲を受けずに出し、それを咎める憲兵にむかって「国のために死んでいく者に、なぜ、検閲が必要か!」と食ってかかるあたりで、ウルウルでしょう。
 泣いたからと言って恥じる必要もないと思います。これは特攻をネタにしたエンターテイメント=ビジネス。向こうは、泣かしてナンボの世界。「生」と「死」それに「母もの」が加わるわけですから、泣かない方がおかしいのです。大いに泣きましょう。
 その上で、私は、どんなに泣いても、次ぎの2点だけは忘れないようにしたいと思います。

 1つは、特攻隊員が飛び立つ瞬間は、実は、かなり悲惨だったということ。

 『「特攻」と日本人』(講談社現代新書)の著書がある昭和史研究家の保阪正康氏は、同じく『特攻とは何か』(文春新書)を著した森史郎氏との対談で次ぎのように語っています。
 

 僕は自分の本には書かなかったんだけれども、沖縄戦の最後の頃、失禁したり、腰が抜けて立てなくなったりする特攻隊員がいたりした。茫然自失しているのを抱え込んで乗せ、そして飛ばしていった、と学徒の整備兵が言うんですね。で、彼らはその乗せた罪というのをやっぱり今でも背負って生きている、と何人かから直接聞いている。

http://www.bunshun.co.jp/pickup/tokkou/tokkou02.htm より

 失禁は「生きたい」という思いの表れであり、生き物として正常な反応だと思います。ちっともカッコワルイことではありません。私もその場になれば、たぶん、失禁し、腰を抜かすと思います。こうした特攻隊員が(おそらく)多数いたことを忘れないようにしたいと思います。

 2つには、「特攻」は「計画を策定」し「命令」を下した者がいてはじめて現実化したということ。

 公式サイトの「イントロダクション」では、「特別攻撃隊の編成により、本来なら未来を担うべき若者たちの尊い命が数多く失われていった」と述べています。そして「封印されていた特攻隊員達の衝撃の真実が、今、明かされる」と。
 しかし、いったい誰が、9564名にものぼる「本来なら未来を担うべき若者」の「尊い命」を奪う作戦の責任者なのか、その「真実」は「明かされ」ているのでしょうか。
 公式サイトの「ストーリー」を読むと、特攻は大西滝治郎がはじめたことになっています。しかし戦後一般に流布された「大西=特攻の創始者」説が誤りであることは、さまざまな証言、検証によって明らかにされています。大西が最初の神風特攻隊を組織する一年以上前に「特攻作戦」は軍令部で「策定」されていたからです。

 特攻計画策定時の軍令部の幹部官僚は次ぎの者たちです。総長=及川古史郎大将、次長=伊藤整一中将、第一部長(作戦担当)=中沢拓少将、第二部長(装備担当)=黒島亀人大佐。

 映画が若い特攻隊員を「美しい日本人」として描けば描くほど、この無意味な作戦(「統率の外道」!)を策定し、命令を下した軍令部の無能なこの官僚たちの責任は曖昧になります。

 私は、映画を観て、若い純粋な若者たちの死に涙したあと、彼らに「命令」を下した幹部が、戦後のうのうと生き延びた(戦艦大和と共に沈んだ伊藤と、終戦の翌日に自死した大西を除いて)ことを、チョコッとだけ思いだそうと思います。


答え

(1)フユソナ―>「冬のソナタ」
(2)キミヨム―>「君に読む物語」
(3)アイルケ―>「愛の流刑地」
(4)オレキミ―>「俺は、君のためにこそ死にに行く」

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2007年03月22日
 ■ 【映評】『博士の愛した数式』/私の記憶は30分

 ビデオをみたあと、博士の愛したその数式を思い出そうとしたが、まったく思いだせない。数学は昔から苦手。数式に対する私の記憶は30分。でも内容は楽しめた。

 素数の話しとか、友愛数の話しとか、面白かった。けど、なぜ、それほどまでに絶賛される映画なのか、ちょっと分からなかった、というのが正直なところ。

 深津絵里は大好き。ちょっと抑え目のいい演技だったと思う。
でも、驚いたのは、浅丘ルリ子。

 「わたしは、みだらな女です」

 この一言で、この映画をずっと奥行きのあるものにしたと思う。やっぱり、大女優だ。この人。

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 ■ 【映評】リトル・ダンサー/階級社会の牢固な規範に挑む

 泣けました。

 イギリスの炭坑の街が舞台。炭住に家族とすむビリー少年がバレエ目覚め、紆余曲折を経て、ロイヤル・バレイ学校に入学し、最後はロンドンの名劇場で主客を演じる話し。

 最初はバレエに反対していた父親が、ビリーのバレエ学校受験費用を捻出するために、スト破りをする場面。ピケ隊の側には長男のトニーが…。その前を父親がバスに乗って門の中へ。それを追ってトニーも中へ。

 「われわれ(炭坑夫)に未来はあるか?
  あの子には未来があるんだ!」(父)

 「お金は、スト破りしなくても作れる
   そのために仲間がいる」(トニー)

 正義はトニーにも父親にもあり…。
 あぁこの無情…。
 ウルウルでした。

 イギリス社会は日本では想像もできないような「階級社会」です。労働者階級(ワーキングクラス)の出身の子供は、ほとんど労働者になります。その上のミドルクラスの子供もほとんどミドルクラスになります。最上級のアッパークラス(貴族)もそうです。

 ついこの前(1988年)までは、義務教育のプライマリー・スクールの最終学年段階(11歳)で進路が分かれました。エリート養成のグラマー・スクール、技術系のテクニカル・スクール、就職組みのセカンダリー・モダン・スクールの3つです。

 今は、セカンダリー・モダン・スクールの多くがコンプリヘンシブ・スクール(統合制中学校)に衣替えしていますが、その中での学校の序列化、ランク付けが進んでいるので、階級・階層の再生産としての機能は、しっかり受け継がれています。

 だから、一代で階級脱出をすることは至難なことなのです。その代わり、ワーキングクラスは、自分たちの階級に誇りを持っています。ビートルズもベッカムも「ワーキングクラス」に属していることを誇りにしています。

 『リトル・ダンサー』は、このイギリス階級社会の牢固な規範に挑んだ作品と言えるのではないだろうか。決して上昇志向を賛美しているのではない。個人の職業選択の自由を、旧来型の階級社会に対置している、と見ました。

 この前見た『ブラス』も炭坑の街のブラスバンドの話しでした。ここにも閉山に反対するストライキが重低音として流れていました。経営側ではたらく女性に恋をして悩む若い組合員の姿なんて、日本では、映画になりようがないですよね。それだけ、
イギリスでは、労働者文化が、労働組合の存在とともに、大きな位置を占めているってことなんでしう。

 もっとも、その労働者文化が、サッチャーの新自由主義改革によって、さらにブレアの「第三の道」(中心は教育改革)によって階級脱出が奨励された結果、かなり、弱体化させられたのは、良かったのか、悪かったのか、評価が難しいところです。

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2007年01月02日
 ■ 映評「スタンドアップ」(主演=シャーリーズ・セロン)

standup.jpg

2005年 アメリカ 124分 監督=ニキ・カーロ

職場のセクハラ
一人で立ち上がる偉大さを描く、
困難さの描写も説得的

 元旦の朝は毎年手持ちぶさたである。テレビが映し出す「ニューイヤー駅伝」の中継をチラチラ眺めながら、分厚い新聞にザッと目を通し後は、やることがない。こういうことを見越して、今年はDVDを何枚か借りておいた。その一枚が『スタンド・アップ』。
 事前に作品を知っていたわけではない。たまたまレンタルショップで手し、パッケージの説明に興味をもった。鉱山/初のセクシャルハラスメント裁判/実話に基づく/そんな言葉に引かれた。昨年見た「フラガール」「三池」が、同じヤマ(鉱山)を舞台としたものだったことも遠縁だ。アメリカ映画がヤマの「労働問題」をどのように描いているのか期待した。

 舞台はアメリカ北部の鉱山の町。暴力を振るう夫から逃れ、二人の子供を連れて実家に帰ったジョージー(シャーリーズ・セロン)に、両親、特に父親は冷たい。ジョージーが若くしてシングルマザーとなり、二人の子供の父親がそれぞれ違うからだ。ジョージーは、自分で働いて子供を養うことを決意し、鉱山会社で働くことを決めるが、それも、同じ鉱山で働く父には気に入らない。

 ジョージーが足を踏み入れた「男の職場」は、労働のきつさ以上に、性的嫌がらせが日常的に行われる耐え難い場であった。新入りのジョージーに、これでもかこれでもかと、嫌がらせが繰り返される。盗難、排泄物による落書き、強姦未遂などなど。背景には、女性に仕事を奪われることへの男の恐怖心がある、と映画では説明される。

 ジョージーは屋外の簡易トイレに閉じこめられ、横転させられ、クソまみれになる屈辱を契機に、会社を訴えることを決意する。しかし、同僚の女たちを誘うが逆に、反発されてしまう。労働組合にも相談するが、ここでも男性労働者から「嫌がらせはない」とつっぱねられてしまう。それでも知人の弁護士が、「集団訴訟」にできるなら勝利の可能性がある、と代理人を引き受けてくれる。しかし出発は「一人原告」だ。

 物語は、この裁判を舞台に、会社の代理人との駆け引き、ジョージーの側に立つべきか会社の側に立ち証言するか、で悩む女性労働者の葛藤、そして最後の段階での父親の翻身と…深い人間描写がつづく。
 アメリカで最初にセクシャルハラスメントを訴えた裁判で勝利した話しに基づいているだけに、派手さはないが、労働をめぐる人間関係の描き方はリアルでシリアスだ。

 映画をみて驚いたことは、鉱山という職場での、性的嫌がらせの圧倒的なエゲツナサだ。剥き出しの性暴力がまかり通っている。鉱山会社がはじめて女性を雇用しはじめたのが1975年だそうだから現代史の話しである。女工哀史の時代ではないのだ。しかも、裁判が終わったのが1988年だというから、つい昨日のこと。にもかかわらず、こんなエゲツナイことが、今でもアメリカ社会では行われているらしい、ということには本当に驚いてしまった。

 先にも書いたように、映画では、その原因を「女性に仕事を奪われることへの男の恐怖心」と指摘されていた。これは一面的すぎると思う。私はアメリカ社会のもつ、ある種の病理ではないかと思う。セックスと銃と宗教にかんするアメリカ社会がもつ基準はホントに異様だ。などと書くと日本社会を免罪してしまうようで嫌なのだが、要するに女を「商売女」と「そうでない女」に二分して平気な社会の中で、この極端を行っているのがアメリカで、日本をふくむ他の社会も、程度の差はあれ同じ文化を共有していると思う。

 鉱山で働く男性労働者の女性労働者を見る目は、まさに「商売女」を見る目である。決して自分のパートナーや娘を見る時の目ではない。この二つの違いは、映画の中で、ジョージーの父が仲間を説得する演説の中で指摘されており、ハッとさせられた。

 裁判の結果はジョージーと、最後は集団訴訟の原告に加わった複数の女性の主張がみとめられ、職場も改善されたもようだ。それはそれで前進だと思う。しかし、会社もそこで働く男たちも、鉱山ではたらく女性を「商売女」の枠組から外しただけで、依然として「商売女」と「それ以外の女」という二分法は、堅持したままのような気がしてならないのだが、どうだろう。

 もう一つ印象的なことは、この映画は作りとしてはハッピーエンドになっているにもかかわらず、見終わったあと、決してハッピーな気分にならないことだ。この映画は人が闘いに立ち上がることのすばらしさを描いている一方、逆に、闘いに立ち上がることの困難さも、これでもか、これでもかと描いている。これについて、監督のニキ・カーロは「真実をより真実を!」を撮る時のモットーとしたと語っている。

 題材がアメリカでの初セクシャルハラスメント裁判ということで、初ということは、圧倒的な苛酷な現実の中でも、沈黙を選択する人の方が多かったということである。それは、訴訟社会と言われるアメリカにおいても、そして、不安定雇用労働者が拡大し、ワーキングプアの存在が問題となっている現在の日本においても、自分の責任だからと沈黙する者の方が多数ということだろう。それが「真実」なのである。

 だからこそ、この映画は不当な扱いの中で、「飯のタネを失うことの恐怖」と「立ち上がって発言すること」との間で、揺れ動き、葛藤するすべての「小さき者」へのエールとなっているのである。

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2006年10月01日
 ■ 【映評】フラガール

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■監督/李相日 ■撮影監督/山本英夫
■企画・制作・配給/シネカン 

石炭から石油の時代
ヤマの娘たちの "それぞれ" の「決断」
優しく、等しく描く

 観てよかった。毎月1日の「ファーストデー」の恩恵で、千円で入場できたが、この内容なら1万円出しても惜しくないと本気で思った。
 昭和40年(1965年)、福島県いわき市の炭坑町。「戦後」が遠くなり高度経済成長が加速する時代。石油に押され石炭の町に黄昏がやってくる。このピンチを切り抜けるために石炭会社が考え出したのが、石炭を掘る時に出る温泉をつかってレジャー施設を作るというもの。名付けて「常磐ハワイアンセンター」。
 名前でもわかるように、センターの売りはフラダンス。さっそくダンサー募集され、多くのヤマの娘たちが説明会に集まる。しかし最期まで残ったのは4人だけ。 早苗(徳永えり)と紀美子(蒼井優)、それに子持ちの会社の庶務係の初子(池津祥子)と小百合(山崎静代~南海キャンディーズ・しずちゃん)。他は、映写されるフラダンスをはじめて観て、「ケツ振れねえ」「ヘソ丸見えでねえか」と、逃げ出してしまう。
 
 この4人にダンスを仕込むために、ハワイアンセンターの吉本部長(岸部一徳)が東京から連れてきたのが、平山まどか先生(松雪泰子)。元SKD(松竹歌劇団)のトップダンサーで、「太陽くらいの大きなスポットライトを浴びて踊った」経験の持ち主。でも、鼻から、田舎の素人娘に本気でダンスを教える気はない。目的は最初からお金。
 しかし、娘たちは、炭坑の町の中で「裏切り者」呼ばわりされ、解雇された父の腹いせのためにボコボコにされながら、それぞれが人生を賭けてプロのダンサーへの道をめざす。この姿に接し、先生も次第に本気になっていく。そして、一波乱も二波乱も経ながら、映画は、ラストのオープニングの日の舞台へと登り詰めるのである。

 ひとことで言うと「きびしい」映画である。舞台ダンサーという華やかさの裏にあるプロのダンサーの「きびしさ」もある。しかし、その前に、そこまでの課程で、それぞれが引き受けねばならなかった人生の中の「決断」。その「きびしさ」を正面から描くことによって、この映画はどの世代の鑑賞にも堪えうるオトナの映画となっている。
 例えば、ダンサーの道を選び、母・千代(富司純子-ふじ・すみこ)とケンカをして家を出る美紀子の「決断」。あるいは、逆にダンサーの夢をすて、解雇された父、妹弟と共に夕張市の炭坑に引っ越す早苗の「決断」。さらに、公演直前に父の落盤事故を知り、それでもなお、泣きながら「オラに、踊らしてくんれ」と訴える小百合。そして、ハワイアンセンターに反対の立場ながら、オープン直前、寒さでひん死のヤシの木を救うために、「反対派」の家庭をストーブを貸して欲しいと、お願いして廻る千代。「あの娘らの夢を、こんなことで、つぶしたくねえ」と。
 このそれぞれの「決断」のシーンが、この映画の泣き所なのである。観客はこのヤマの女たちの「決断」に共感し、引き込まれ、励まされ、泣くのである。

 ●人生には降りられない舞台がある―
 ●彼女たちは、まちのために、家族のため、
 ●そして自分の人生のためにステージに立つ。

   (キャチ・コピーより)

 富士純子―松雪泰子―蒼井優。蒼井をふくめ、世代を代表する三人の大女優の共演は見応えがある。反対派が多い炭住の中をたった一人でリアカーを引いてストーブを集めはじめる母・千代。その背中には、唐獅子牡丹こそ無かったが、その迫力は往年のオフジさんを超えていた。ダンスシーンの多かった松雪。素人4人組みを相手にダンスを教える場面で、松雪がサーッと、又割りをやって見せたところは、女優としての「決断」が充分に伝わってきた。すでに「オ、ホ、ホ、ホ、ホー」のお嬢様ではない。
 そして、ラストを盛り上げた蒼井のダンスシーン。これには、もう、何もいうことはない。蒼井のバックを固めた「ガールズ」の踊りにも…。ヤマの娘・美紀子も、そして、女優・蒼井も、この舞台で立派に「プロ」として一本立ちしたのである。

 石炭から石油へ。時代は確かにそう動いた。あの時代、石炭に見切りをつけ「次ぎ」に賭けた者が賢者で、石炭やヤマにこだわり続けた者は愚か者だったのだろうか。その答えを、この映画はさり気なく描いている。
 「ハワイアンセンター」がオープンする日。ヤマに残る決意をしている美紀子の兄(豊川悦司)は、妹の初舞台に思いを馳せながら、坑道を下るトロッコ列車に笑顔で飛び乗る。このトヨエツの笑顔を、カメラは下からスローで撮る。映画は、ヤマで働き続けることを選んだ者たちにも、敬意の念を示すことを忘れていない。それも一つの「決断」だからである。

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2006年08月13日
 ■ 「恋するトマト」エガッタヨ~。

tomato.jpg 私がこの映画を知ったのはNHKラジオでした。大地康雄さんがゲストに出演していて「10年間あたため続け、ついに完成しました」と興奮ぎみに語っていたのを聴いたのです。
 それまで大地さんについては「演技のうまい脇役」ぐらいにしか思ってませんでし。しかし、この映画をみれば、大地さんが「脇役」どころか、企画・脚本・制作総指揮・主演の一人4役をこなすスーパーアーテストであることがわかります。

 その大地さんが、日本の農業に心底危機感をもって作った映画がこれ。映画の構想を練り上げるのと、日本農場の実態を知るために、日本の各地の農村を訪ねたらしいです。

 舞台は、茨城県・霞ヶ浦近くの農村。大地さん扮する野田正雄は、両親と三人で農業を続けている。しかし独身。農家に「嫁」は来ない。映画では、農協主催の交流ダンス会で知り合った女性(富田靖子)から、いったん、結婚の承諾を得るが、結局、破談。フィリピンパブで知り合った女性(レビー・モレノ)とは、結婚準備のためにフィリピンにまで出掛るが、家族ぐるみの詐欺で、持参金すべてを盗られてしまう。そして現地に残って…。

 農業問題は、私にとっても、色々な意味で人生を決めたテーマです。

 正雄が「なんでおれを農家の長男なんかに生んだんだッ」と怒鳴るシーン。他人ごとではありません。子供のころ(中学生)、私も同じ思いで生きてきました。

 農業問題を単純に「嫁不足問題」に絞り込む描き方に、異論があるかも知れません。しかし、あえて単純化することによって、農業問題を考えるハードルを低くする、大地さんの狙い成功したと思います。

 私の田舎にも、フィリピンから「花嫁さん」が来ています。役場と業者(ブローカー)が一緒になって、マッチングを進めた時期があるようです。もちろん、批判する人はいるでしょう。批判が正しい面をもっていることも認めます。しかし、私は、単純に結論を出すことができません。私の中に、農業をすてたことへの「罪悪感」がずっとあります。

 それにしても、クリスティヌ役のアリス・ディクソン、よかったぁ。彼女の清楚さによって、この映画の後半はずっと締まりましたね。稲刈りをする田んぼで、偶然、正雄と再会する場面。稲刈りを手伝う正雄が、彼女との再会と稲の力で、自然と笑顔を取り戻していくシーンは、まさに「大切なものは土と水と太陽。そして、あなた。」(映画のキャッチコピー)。日本の農業がフィリピンの農業に触れることでよみがえる。
 
 大地さんの稲刈りの演技は合格です。稲刈りは刈るより束ねて縛るのが難しい。そのシーンがワンカット映っていました。大地さんは上手にイネの束を一回転させて縛っていました。「猛特訓した」とラジオで語っていましたが、出来はバチリでした。

 ただ、映画の最後は、まだ、ハッピーエンドにはして欲しくなかった。クリスティヌの別れの涙はそのまま。正雄も日本に帰国して一人で農業をやり続ける。そして、農業という舞台で再び偶然、再会する…というような展開はどうか。でも、それじゃ、二時間じゃ、終わらないか。

 ほんとに、エガッタヨ~。



■『恋するトマト クマインカナバー』
 ・大地康雄 企画・脚本・制作総指揮・主演
 ・南部英夫 監督

投稿時間 : 09:25 個別ページ表示 | トラックバック (0)

2006年08月09日
 ■ 『蟻の兵隊』(監督:池谷薫)を観て

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 8月6日、ヒロシマ被爆61年目のこの日、大阪の十三で、知人と3人で連れだってドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』をみました。マスコミでも報じられているので(例えば「朝日」8日からの夕刊など)ご存じの方も多いと思います。

 8月15日の「敗戦」後もなお、中国山西省に「残留」し4年間にわたって戦争(国共内戦)を続けた日本軍が存在したというアッと驚く内容です。

 映画は、残留兵の一人である奥村和一(わいち)さん(82歳)が、日本兵残留の裏にある真相を知ろうと、仲間と共に国を相手に起こした裁判や、中国に残された日本軍と国民党の「密約文書」を探し出す過程を、カメラで追っています。

 奥村さんが私と同じ新潟の出身であること、年齢が東京大空襲を体験した親父と同じであることなから、かなり感情移入して観てしまいました。

 それにしても、こんなことがあったなんて。この映画に出会うまでまったく知りませんでした。いったい何故、日本軍は「残留」したのか。それは、国が裁判で主張するように「個人の意思」で残留したのか。

 真相はそうではありません。北支派遣第一軍の澄田司令官が「戦犯」訴追を逃れるために、自分の部下を国民党軍に売り渡したのです。映画は、奥村さんと共に中国への旅の中でその真相に迫ります。しかし、裁判では最高裁まで争って、残念ながら、原告の訴えは却下されます。「個人の意思」で残留した、と認定されてしまいます。

 奥村さんの山西への旅は、初年兵として「肝試し」に中国人を刺殺した罪と向き合わざるを得ない旅でもあります。「被害者であるだけでなく、加害者でもある」。くり返し言われてきたことですが、その言葉のもつ深さが、奥村さんの柔和な顔の中にある、静かな怒りと悲しみを通じて、観る者に伝わってきます。

 映画の後、3人で喫茶店で感想をのべあいました。

 東チモールの独立支援を経験した知人は、「戦後、インドネシアの独立を支援した日本兵の存在にも、ひょっとして軍の関与があったかも」。昨日、息子が20歳になったという女性は、「憲法9条を変えて日本を戦争する国にするというなら、貧乏人の子供も、女も、障害者も、政治家の子供も皇族も、みな平等に徴兵される制度にすべきだ」。

 軍人恩給はそもそも兵士への「補償」ではなく「褒美」であること、支給額が旧軍の階級に基づいている点などで、大いに問題であることなどを話し合いました。

 『蟻の兵隊』は、今、東京と名古屋と大阪で一般公開されています。自主上映も各地で進んでいるようです。

 機会を見つけてぜひ、ぜひ、ご覧になってください。

 また、岩波ジュニア新書で『私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵』(740円)も6月の末に出されました。映画では分からない、奥村さんの生い立ちや、裁判で問題になった点などが、対談型式で詳しく書かれています。こちらもおすすめです。


●『蟻の兵隊』公式ページ

●『私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵』

●中国山西残留の 日本兵問題 皇紀2660年(平成12年)
   主宰者は右の言論人のようですが、資料としては、なかなかです。

●ブログ・彎曲していく日常
 澄田軍司令官について
 第一軍の最高責任者。閻錫山との密約を結び、戦犯を逃れために、 自兵を売り、共産党軍が近づいてきたら「敵前逃亡」した人物。その息子は名前は澄田智といい、日銀の第25代総裁に同名の人物がいるという。

投稿時間 : 22:48 個別ページ表示 | トラックバック (0)

2005年02月08日
 ■ 映画 パッチギ!

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■「経済制裁論」と「ヨン様ブーム」に対する井筒監督のパッチギ(頭突き)!

□監督 井筒和幸
□キャスト 塩屋瞬、高岡蒼佑、沢尻エリカ、楊原京子、オダギリジョー、光石研、笹野高史、余貴美子、前田吟ほか

 映画が終わりに近づきスクリーンにその気配が漂いはじめた時、私は、思わず「えっ、もう終わり!」と叫んでしまった(もちろん心の中だが)。

 1968年という時代。そこに流れる二つの川。

 日本人が暮らす場所と在日朝鮮人の居住区を隔てる京都の鴨川。そして、朝鮮半島を南北に分断するように流れるイムジン河。その二つの川を、日本人の男子高校生と朝鮮高校(中高級学校)の女生徒がふとした出会いから共に渡りはじめる物語である。

 両校の番長グループが繰り広げる半端じゃないケンカ。過剰なほどの青春の噴出。そして純粋であるがゆえの挫折。映画のクライマックスで、その挫折の悲しみを抱きしめるように、主人公の「コウスケ」が切々と歌う「イムジン河」が心に浸みた。

 難しい問題を、愛あり、涙あり、笑いありの娯楽映画に仕上げているのは、さすがである。しかしそこには、今の時代風潮に対する異議申し立てがあるように思う。

 一つは、この映画に出てくる「朝鮮」が「韓国」ではなく「朝鮮民主主義人民共和国」だということ。映画にはキム・イルソンの肖像画も描かれる。それが掲げられた教室で学ぶ女子高生にコウスケが恋いをするわけである。また、「一人は万人のために、万人は一人のために」というスローガンもスクリーンに大きく登場する。

 拉致事件いらい、北朝鮮への異様なバッシングが続いており、昨今は「経済制裁論」も喧伝されている。そんな中で、娯楽映画とは言え、キム・イルソンの肖像画を登場させるのは勇気のいることではなかったか。(安倍晋三からの「圧力」はなかったのか?)。井筒監督らしい「反骨さ」である。

 もう一つは葬式の場面での言葉。日本の「チンピラ」とのケンカで生命を落とした朝鮮高校生の葬儀に出席したコウスケに、老いた在日一世が浴びせせる。

 「生駒トンネルは誰が掘ったか知ってるか!」「国会議事堂の大理石は誰が積んだか知ってるか!」。

 井筒監督が得意とする「説教」だ。これを余計な演出と思う人は、監督の次ぎの言葉を聞いて欲しい。

 「昨日まで朝鮮人を差別していた人たちが、今日はヨン様に夢中になっている。そんなのどう考えたっておかしいですよ。人間というのは学んで、自分の頭で考えて、前進してなんぼのもんでしょう?だからとりあえずソナチアンも、歴史も何にも知らん若い子らも、とりあえず『パッチギ!』を観てよと。そこで考えたり学んだりしてもらえるということに映画を作る意味があると僕は思っていますからね。」
  http://movies.yahoo.co.jp/interview/200501/interview_20050121001.htmlより

 「ヨン様ブーム(韓流ブーム)」によって、朝鮮と日本のあるべき姿は、かえって見えずらくなったかも知れない。それを、きちっとした歴史を踏まえた上で、人に対する人の関わりの問題として、当たり前に描き切ったところに「パッチギ!」の意義がある。日本の若い役者さんたちに拍手!

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2004年10月10日
 ■ 映画 『にがい涙の大地から』

●これを観れば、サッカー・アジアカップで「日の丸」が焼かれた理由がわかる! 
●これを観れば、小泉構造改革「株式会社による病院経営」の行き着く先がわかる!

 数年前、日本各地で旧陸軍が遺棄した毒ガスが発見されて問題になったことがある。私のすむ伏見区でも、龍谷大学の構内に埋められているとウワサになり、正式に調査が為されたことがあった。幸いにも結果はシロであった。

 日本国内もそうであるが、中国で旧日本陸軍が遺棄した毒ガスによる被害は、もっと深刻である。戦後だけでも2000人を越える人が犠牲になったという。2003年には、ハルピンで毒ガスによる事故で死者がでている。

 この映画は、日本政府を相手に訴訟に踏み切った、その被害者たちのドキュメントである。

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 ■ 映画 『リストラと闘う男』

―フジ産経グループ記者・松沢弘の「ニコニコ笑顔」の解雇撤回闘争

 市民団体「ドキュメント・フェルム・ライブラリー」8月例会(22日)の作品。題して『リストラと闘う男』。タイトルからして「言いたいことはわかるけど、こういう時代だからねエ~」と、なんとなく観るのを遠慮したくなるような題名。

 でも何故、観ようとという気になったのか。

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