2007年07月22日
 ■ 新潟・中越沖地震

 随分長い間、ブログを更新していませんでした。このブログは一般に公開していますが、私的な備忘録のようなものです。ですから、基本的には私の都合を優先させて綴らせていただいています。
 更新が滞っのは二つの理由からです。一つは、6月~7月の期間に転職を余儀なくされたことです。不況業種の末端に位置するような仕事についていましたが、失職しました。幸いにも新しい仕事が見つかり、早速、新しい職場に通っています。
 更新が滞ったもう一つの理由は、ブログのシステムが不具合を起こしたからです。このブログはご存じのように、「ロリポップ」という レンタルサーバーにMT(Movable Type)というブログシステムを設置しています。
 なぜMT(Movable Type)を使っているかと言うと、プロバイダー等が提供するタイプ(無料、有料のものが沢山あります)には、データのバックアップ・移動などに不安を感じるからです。MT(Movable Type)であれば、仮にサーバーを変えても、データをそのまま移動できます。その点が気に入っていたのです。
 ところがです。6月23日ごろ、ロリポップのサーバーに不具合が生じ、ハードデスクの修復の際に、MT(Movable Type)のプログラムの一部が損傷したようなのです。そのことに3日ほど前に気付きました。最近スパムコメントやスパムトラバがこなかったのはそのせいだったのです。
 以上、二つの理由によって、しばらくブログの更新ができませんでした。



 さて、ブログ再開の最初のエントリーでは、なんといっても7月16日の新潟・中越沖地震にふれないわけにはいけません。実は、私の実家は、柏崎から南に直線で20kmほどのところにあります。16日の午前11時30分ごろ、テレビのニュースではじめて地震の発生を知り、すぐに実家に電話しました。しかし「この電話は繋がりにくくなっております」のアナウンスが流れるばかりでした。
 ニュースによれば実家のある場所は「震度6弱」とのことだったので、連絡がとれないというのは不安を募らせました(後に「震度5弱に訂正)。災害伝言ダイヤルを利用して連絡を試みました。
 結局、直接、連絡が取れたのは、午後4時すぎでした。電話に出た弟が興奮気味に、「横揺れは3年前の中越地震以上だった。家は潰れていないから安心しろ」と早口に語りました。元気な様子にホッとしました。
 それにしても、どうしてこう同じところに地震が起こるのでしょう。柏崎・刈羽原発のあるところは本当にきれいな砂浜でした。子供のころ海水浴に行きました。京都に住むようになってからも、柏崎原発の反対集会に参加したことがあります。
 それが今回は「想定外の揺れ」だったそうで、ほぼ、使いものにならない状態になっています。だからいったじゃないの~って言いたくなります。(現地の様子は元新潟市議のナカヤマ・ヒトシさんのブログを参照してください)。被災住民からすれば、地震の被害と放射能の被害のおそれもあるわけですから、大変のストレスだと思います。
 柏崎市に住む友人も、かなりの被害をうけながら、生命に別状はないとのことでした。支援物資の要請があったので、チンして食べるご飯を宅急便でおくりました。
 現地からのニュースでうれしかったことは、柏崎に隣接する十日町市(=私の実家のあるとこ)の温泉施設や宿泊施設が、被災者やボランティアに対してお風呂を無料で開放したということです。私が帰省したおり必ず寄る芝峠温泉・雲海には、一日に760名を超える被災者が訪れたとのことでした。
 新潟県の人たちが力を合わせて、度重なる困難を乗りこえようとしている姿をみると、ジーンときます。

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2004年11月03日
 ■ 中越地震の被災地、十日町市の同級生を訪ねて

 ■いてもたってもいられない気持で

 10月30日(土)~31日(日)、新潟の実家に帰ってきました。親父や弟家族の元気な顔をみるのと、地震で被災した十日町市の同級生の安否を確認するためです。

 私の実家がある松代町(まつだいまち)は、十日町市の西隣りに位置します(参照1)。今回の地震で震度5を観測しましたが、幸いなことに、一部に道路の亀裂や崖崩れがあったものの、大きな被害はまぬがれました。23日の地震の直後から半日間ほど、実家と電話連絡が困難になり、心配しましたが、24日(日)の午後には、家業を継いでいる弟の元気な声を聴くことができました。正直なところ、自分の実家が大丈夫だと知り、力が抜けました。

(参照1)地図

 しかし、地震の被害がだんだん詳しく報道されるようになり、長岡市、小千谷市とならんで十日町市にもかなりの被害が出ていることが報道されはじめると、心を穏やかにして過ごすことができなくなりました。十日町市は高校の学区が一緒だったこともあり、同級生がたくさん住んでいるところです。全市に避難勧告が出されているので、同窓会名簿の住所と市のHPが提供している避難所の住所を照らし合わせて、誰が何処にいるのか確認していると、胸が苦しくなりました。
 
 そしてもう一つ、「合併」問題の行方も気になりました。私の出身地の松代町は、十日町市と隣接する他の3町村とともに、来年の4月1日に「新十日町市」として新しいスタートを切ることになっています。私は「合併」には反対してきましたが、こうなっては、好むと好まざるとに関わらず、私の生まれた町も、同じ「十日町市」の一員として、今の危機に立ちむかって行って欲しいと思いました。

 地震から一日すぎ、二日すぎ、刻々と報道される被害の状況を眼にし耳にしていると、だんだん仕事が手に着かなくなりました。いてもたってもいられない気持とは、こういうことをいうのでしょうか。人間は危機の中で自分のアイデンティティー(○○民族だとか、▽▽人だとか)に目覚めるらしいのですが、私も、今回ほど自分を「新潟県人」だと強く感じたことはありません。イラクが空爆されている時、日本に留学していたイラク人学生が、どんな気持で祖国を見つめていたか、わかったような気がしました。

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