2007年07月29日
 ■ 参院選―結果が出る前に言っておきたいこと

 ■7月29日、午後1時45分。
 今日は参院選の投票日である。朝、散髪屋に行った返りに近くの小学校に寄り投票を済ませてきた。学校の門を入るとそこは自転車や徒歩や車での来場者でごった返していた。マスコミも報じているように、なるほど有権者は高い関心を示しているようだった。
 結果が出る前に、今度の選挙について、二つのことを書いておきたい。

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 第一は、おおかたの勝敗予想は与党の惨敗、民主党の一人勝ちであるが、果たしてその場合、安倍は続投するのだろうか、ということである。これは何も安倍の責任問題への関心から言っているのではない。小泉が築いた「利益誘導型政治」へのアンチとしての「劇場型政治」「大統領型首相」が定着するのかどうかは、今後の政治のあり方にとって大事だと思うからだ。
 小泉があれほどの「改革力」を発揮できたのは、自らがよってたつ基盤を自民党内におかず、直接の国民からの高い支持においたからだ。小泉が発した「ワンフレース」は「改革」で「痛み」を強制される層をも自らの支持層へと動員することに成功した。その意味で小泉政権は中曽根政権と並ぶ戦後最強の保守政権だった。
 ところが、今回の選挙で安倍が国民から完全に見放されることになっても、「次ぎのリーダーが不在」などという自民党内の事情で安倍が続投するようなことになれば、それは、小泉が敷いた「劇場型政治」「大統領型首相」路線からの大きな後退となるだろう。与党惨敗にも関わらず安倍が続投するか否かは、安倍個人の責任問題を超えて、今後の政治の質そのものを規定する大きな出来事だと思う。

 二つめは、「大勝」のお墨付きをマスコミ各社からもらった民主党、とりわけそのトップの小沢一郎をどう評価するかである。「生活第一」を掲げる小沢は、選挙期間中、一人区を中心に遊説して廻った。「勝ち組」と「負け組」、「都市」と「地方」、「大企業」と「中小零細企業」、「先端産業」と「農林漁業」、そして「官」と「(国)民」。マニュフェストは、ほぼ「負け組」「地方」「中小零細」「農林漁業」「国民」に焦点をあてて書かれている。
 ここ10年、「改革」と称する「経済・労働の規制緩和」がごり押しされ、日本は未曾有の「格差社会」になった。政治から見放されたと感じる膨大な層が生み出された。今回、民主党は「政治から見放された」「弱者」の側に立つことを明確に打ち出している。年金について「基礎(最低保障)部分の財源はすべて税とし、高額所得者に対する給付の一部ないし全部を制限します」マニフェストで書いている。これには少し驚いた。民主党・小沢は、自民党から切り捨てられたかつての自民党支持層や地域に着目し、それを奪取する戦略を立てたのである。その象徴が地方の一人区であった。
 マスコミの予想通り、今回の選挙で民主党が大勝するとすれば、それは「格差社会」に対する有権者の明確な審判が下されたことを意味する。このことの重要性はしっかりと押さえておきたい。
 しかし、である。民主党および小沢一郎は、本当に「弱者」の側にたつ政治を行うことができるであろうか。民主党にとっての「民」とは「民間企業」のことであった。小沢こそ「官」から「民」への規制緩和策の旗振り人だった。それに反対する人々を「守旧派」のレッテルを貼って攻撃する先鋒だった。小沢の『日本改造計画』は小泉の「構造改革」を先取りしたものだった。だから、民主党は、小泉の「構造改革」を正面から批判するのではなく、その「不徹底」を批判したのではなかったか。それが今回は政策をガラリと変えた。
 小沢にとって大切なことは、「弱者の政治」でも「生活第一」でもなく「政権交替」である。すべてそこから逆算して戦略を立てているはずだ。だから参院選ではまず「生活第一」を掲げる。しかし政権交代の本番である次期衆院選では、それだけでは勝てないことは分かり切っている。大都会の票と大企業からの支持調達は不可欠だ。
 その場合、今回、票獲得のために政策を変えたように、大都会と大企業むけの政策にガラリと変えることはありうるだろう。それは、今回構築した支持基盤と矛盾した政策になる。だが小沢は「人は政策がどうこうより勝つ側、リーダーシップのある側に付いてくる」と思っているはずだ。そのために小沢に必要なのは「小選挙区に強い小沢」の神話である。そこを今回クリアすると小沢にとっての「政権交代」が見えてくるはずだ。それが私たち「弱者」にとって、歓迎すべきものかどうかは、また別の話しであるが。

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2007年07月22日
 ■ 坂喜美さんの訃報に接して/無私の精神で三里塚闘争に尽くした人生

[AML 14947] 上坂喜美氏の訃報です

三里塚闘争に長年かかわってきた関西の上坂喜美さんの訃報をお伝えします。

上坂喜美(うえさかきよし)さん

 07年7月17日0時45分 肺ガンにて没。83歳
 関西三里塚闘争に連帯する会代表、関西共同行動運営委員など、若い頃より労働運動、 市民運動など関西の民衆運動の中心的な担い手、推進役として活躍。特に三里塚闘争で は、三里塚闘争に連帯する会(全国)代表、関西三里塚闘争に連帯する会代表として活 躍した。近年は体調をこわし自宅で療養していた。本人の希望で、通夜は家族だけで行い、葬儀は行わないことになった。遺体は近畿大学に献体。
 関西三里塚連帯する会などで、偲ぶ会を待つことが話し合われている。

以上 高橋千代司

 七月十七日、三里塚闘争に連帯する会、代表の上坂喜美(きよし)さんが肺癌で亡くなられました。八三歳。この世に生を受けて以来、人民の闘争のために捧げつくした生涯でした。

 私が最初に出会ったのは、一九七四年の戸村参院選の頃だったと思います。しかしあまり記憶にありません。上坂さんは大闘争の指揮官。こちらは二十歳になったばかりの若造。遠い存在でした。後になって「上坂さんは自分の財産をなげうって選挙資金を作った」と誰からともなく聞かされ「偉大な大先輩がいるものだ」と敬意を覚えたものです。

 上坂さんと言えば、なんと言っても一九七七年からの三里塚決戦(開港阻止決戦)です。人が行動する時、そこには必ず(前田俊彦さんと並んで)上坂さんがいました。上坂さんは無類のアジテーターでした。だた新左翼が得意とする危機アジリではありません。
 「ナリタ空港を廃港に出来るかどうか、それが問題なのではない。ナリタはすでに廃港になっておる。問題は、それを、政府に、認めさせることができるどうか。そこに人民の力を集中させることが必要なのだ」
 このフレーズを、現地集会で、関西の前段集会で、何回聞いたことでしょう。

 一番、最近お会いしたのは4年前の夏でした。京都で柳川英夫さんを招いて小さな集まりをもった時です。「痴呆」が少し出ているというので、京都駅から会場まで迷わずに来られるか、心配で迎えに行ったものでした。それを察知されたのか、上坂さんは会うなり「余計な心配をして…」と不機嫌そうだったのが印象に残っています。申し訳ありませんでした。

 上坂さんほど、無私の精神で人民の運動に尽くした人はいません。何の見返りもないのに、各地の住民運動と三里塚を結びつけるために奮闘していました。元々は共産主義の人なのに、住民闘争にこそ希望があると確信していたのでしょう。その根底には、農業や環境問題など、エコロジー運動への深い理解があったのでしょう。

 体力の衰えで、自宅から出ることが少なくなってから、どのような生活をされていたのか。一度、おじゃまして、昔話に花を咲かせたいものだと思っていました。しかし、日常のことにかまけ、それをなさなかった自分の薄情さに気が滅入ります。
 こんな不肖の後輩ですが、天国から今後も見守り続けて下さい。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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2007年05月22日
 ■ 教育三法改悪を許さない/イギリスの失敗に学ばぬ安倍「教育再生」

 『グローカル』6月1日号に掲載予定の文章です。



 ■文科相の「権限強化」は分権時代に逆行

 安倍晋三が最重要法案と位置付ける教育関連三法の改悪案が衆議院で強行可決された。「学校教育法」「地方教育行政法」「教員免許法および教育公務員特例法」の三つの改悪案だ。この改悪法案を参議院で廃案に追い込まなければならない。

 「学校教育法」の改悪案は、新たに義務教育の「目標」として「規範意識」「公共の精神」「わが国と郷土を愛する態度」などを設定した。昨年十二月の教育基本法「改悪」の具体化である。法案が成立すれば次ぎのステップとして習指導要領の改訂がなされ、愛国心教育は現実に教室に持ち込まれることになる。

 また、校長、教頭の他に副校長、主幹教諭、指導教諭などを設け、教職員の管理強化を図ろうとしている。教職員は学校運営にたずさわる者と教育する者に分けられる。改悪案は、文科省―教育委員会―校長―副校長―主幹―指導教諭―一般教員という縦系列のトップダウン方式での教育統制を目論でいる。

 「地方教育行政法」の改悪案は、文部科学大臣が地方教育委員会に対して「是正の要求」や「是正の指示」ができるようにする規定をあらたに明記している。「法令違反や怠りによって」「生徒等の教育を受ける権利が明白に侵害されている場合」などと一見もっともらしく書いてあるが、狙いは別にある。

 文科省が国会に提出した資料では「教育委員会が…、国旗・国歌を指導しないなど著しく不適切な対応をとっている場合には、文部科学大臣が具体的な措置の内容を示し、『是正の要求』ができる」とある。伊吹文科相も、衆院教育再生特別委員会でこの点を認めた(五月七日)。

 また、四月に行われた「全国いっせい学力テスト」に愛知県犬山市の教育委員会は「競争で学力向上を図ろうとしているテストは、犬山市の教育理念に合わない」と参加しなかったが、文科省とは異なる教育理念の下で独自の「教育改革」を進める地方教育委員会に対して「是正」「指示」が出されるおそれは大である。

 文部省の地方委への「強い権限」(措置要求)は、地方分権一括推進法の制定(〇〇年)で廃止されたものだ。その復活案は、中教審でも強い反対論が出された。今回の権限の復権・強化は明らかに分権の時代に逆行している。

 「教員免許法および教育公務員特例法」の改悪案は、教員免許を一〇年毎の更新制とすることによって「不適格教員を教壇から確実に排除」し、同時に、教員の「資質と能力をリニューアル」するため、とされる。
 しかし、ここには重大な問題のすり替えがある。本来「不適格教員」の処遇や「研修」などは人事、管理の問題である。それをこの法案は「教員免許」という資格の問題にすり替えている。前者には既にいくつもの処分制度(懲戒制度、分限制度、配置転換制度など)や研修制度がある。処分に際して、その恣意性、正当性をめぐって数百人の教員が係争中でもある。

 仮に「不適格教員の排除」と「資質のリニューアル」が必要だとしても、一〇年毎の「更新」では間に合わないことは明かだ。更新制の導入は教員の身分を不安定に追いやり、教員に「イエスマン」であることを求める。これでは公教育から志ある教員が流出し学校現場は疲弊するばかりだ。安倍の人気取りだけの「教員免許更新制度」は天下の大愚策である。

 ■イギリスの失敗に学ばぬ安倍「教育改革」

 安倍政権が拙速に成立を狙う教育三法の改悪案は、文科省による地教委、学校、職員への支配・統制を強めるものあるが、安倍「教育再生」の全体象はこれにプラスして、「学校選択制」「学校評価」「教育バウチャー制度」などで学校相互を競争させ、それによって「学力向上」をはかる、というところにある。四月には「全国いっせい学力テスト」が実施された。
 その安倍が自らの「教育改革」のモデルとしているのが「壮大な教育改革」(『美しい国へ』)と絶賛してやまないイギリスのサッチャー「教育改革」である。

 サッチャーの「教育改革」の中心的柱は「全国共通カリキュラム」の制定、「全国一斉学力テスト」の実施と成績表(リーグ・テーブル)の公表であった。加えて、学校査察機関の設置と親への学校選権の付与である。(「教育法」一九八八年)。サッチャーの狙いは、全公立学校を「共通の土俵」で競わせることで「学力向上」をはかり、その力で「イギリス病」を克服して、経済力を立て直すという戦略であった。しかし、ブレア政権も継承したこの「改革」はほ失敗した。

 自らイギリスに滞在して、子供と共に「教育改革」を体験したジャーナリストの阿部菜穂子は「教育改革」の「副作用」を次ぎのよう報告している。
 ①学校が「勝ち組」と「負け組」に別れて「教育の階層化」が生まれた。②点数至上主義がはびこり、テスト教科以外の教科(音楽、美術など)が軽んじられるようになった。③テストの問題を生徒に事前に教える不正事件は〇五年には六〇〇件にものぼった。④学校査察(一週間)で「失敗校」の認定を受けた結果、二四六校が廃校に追い込まれた。⑤成績不良者の学校追放でニートが増えた。⑥一番肝心の「学力向上」に疑問の声が多い。(『イギリス教育改革の教訓』岩波ブクレット

 ■「市場原理と教育はなじまない」

 サッチャーとブレアが進めた「教育改革」の「副作用」を直視したイギリスの連合王国各地域では「全国一斉学力テスト」の見直しが進んでいる。また、イングランドでも、政府の指導を無視した教育を行い、「リーグ・テーブル」のトップを取った学校も現れている。その学校の校長は、現行の教育制度についてキッパリとこう批判する。

 「(今の教育制度)はナショナルテストで学校を不必要に競争させ、結果を公表して学校を序列化するシステムである」

 そして、理想の教育についてこう語った。

 「(今の教育制度は)確実に敗者をつくる不公正な教育体制」「教育は敗者を作っては行けない。すべての子供に学びと教育の機会を与えてやるのが教育です。市場原理の適用は教育になじまないし、間違っている」
(阿部・前出)

 イギリスの「教育改革」の「副作用」の現状は、日本の教育の現状に似ている。しかしそれは不思議なことではない。なぜなら、サッチャーの「教育改革」のモデルは「受験地獄」「受験戦争」といわれ戦後の日本の学校教育だったからだ。その日本のトップの安倍晋三が、今度は失敗したイギリスの「教育改革」を日本で真似るのだという。本気だとすれば学習能力はゼロだ。

 今、イギリスも日本も、教育問題といわず社会の様々な領域で共通の問題を抱えている。労働党ブレアの十年は、サッチャー改革の「副作用」である「格差」を教育に力を入れることで克服しようとしたものだった。教育によって「階級の一員」としてではなく「個人」として市場に適応できる「能力」を獲得することを奨励した。ブレアは、ワーキングクラス出身者や移民たちの「機会の平等」のために闘ったと言える。

 しかし「学校教育」の比重を上げ、能力獲得の「機会」を「平等」にすることで、人々は本当に幸せになるのだろうか。日本もイギリスも、今日の社会問題のほどんどは、能力主義文化の過剰によって社会が窒息状態にあるところから生まれている。いま必要な「改革」は、能力主義支配=メリトクラシーを相対化する方向のはずだ。教育に市場原理、競争原理を持ち込むことはこれに逆行するのだ。

 政治学者の山口二郎はブレアの一〇年を総括してこう語っている。
 「機会の平等がメリトクラシーや成果主義と結びつく時、普通の人々にとってはむしろ競争から脱落するリスクが拡大する」「メリトクラシーの文化を共有するものだけの機会均等から、より多様な生き方を許容する社会にできるかどうかが、今後の労働党政治の課題である」(『ブレア時代のイギリス』岩波新書)。
 イギリスの失敗に学び、安倍「教育再生」に対抗する私たちの課題でもある。

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2007年01月26日
 ■ 貧困と格差を拡大する「御手洗ビジョン」/ゼロ成長と九条・非武装にこそ「希望」あり

 支持率低迷の中で「改憲」かかげる安倍政権

 通常国会がはじまった。選挙イヤーの国会は、否が応でも選挙戦略とリンクして推移する。安倍首相は年明け早々、7月の参議院選を「憲法」を争点として「正攻法で闘う」と言明した。自民党大会でも、今年の重点政策のトップに「憲法改正手続法案の早期成立を実現し、新憲法制定に向けての国民的論議を喚起する」を掲げた。「2010年代初頭までに憲法改正」(日本経団連「ビジョン」)という目標にむけ、本格的な「改憲」の動きが始まったのである。
 しかし「改憲」を声高にさけぶ安倍の足元は揺れている。発足時には70%を超えた内閣支持率は、11月、12月と続落し、年が変わってからも45、0%(共同、1月11日~14日)、40、7%(時事、同月、12日~13日)と最低を記録している。
 その原因は、直接的には、郵政造反組復党問題、道路特定財源、本間愛人スキャンダル、やらせタウンミーテング、そして、伊吹文部科相など相次ぐ閣僚の政治資金疑惑にあると言える。しかし、より本質的には、安倍が、小泉時代に「劇場型政治」に慣れ切った有権者にむかって、印象深い「ワンフレーズ」や「サプライズ」を提供する「資質」「技量」に欠けた政治家だということにある。有権者の多くは「政策」の中身もさることながら、小泉との対比で安倍を「物足りない」(「お手手つなぐだけではねえ~」)と感じているのである。
 そして今、求心力を失った安倍政権の内外で、政権中枢と異なる意見や行動が噴出し、政治過程に影響を与えはじめている。安倍政権が全力を上げて「制裁」を加えている国に、与党の元幹部が(表敬)訪問する事態が起きた。また「残業代不払い法案=ホワイトカラー・エグザンプション」に対する反対世論の急速な盛り上がりは、安倍をして今国会への法案提出を断念させた。
 そして、1月21日に行われた宮崎知事選では、昨年の滋賀県知事選に続き、無党派の「そのまんま東氏」が自・公推薦の候補者らに圧勝した。安倍政権へ「期待はずれ感」は、小沢・民主や他の既成野党をも飛び越えて、再び「しがらみのない」「無党派候補」への期待へと、変化する可能性が出はじめているのだ。

 「成長神話」にしがみつく御手洗ビジョンン

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 支持率低下の安倍内閣に対して、まるでその尻を叩くかのように「財界」の動きが活発化している。
 本年1月1日、(社)日本経済団体連合会(会長・御手洗冨士夫キャノン会長)は、『希望の国、日本』(御手洗ビジョン)を発表した。近未来である「2015年の日本」の姿を「希望の国」として描き、その実現にむた「優先課題」と「今後五年間に重点的に講じるべき方策」(ロードマップ、アクションプログラム)を提言したものだ。【写真は自民党大会であいさつする御手洗
 「ビジョン」が一貫して主張していることは「豊かな生活は、 成長力の強化・ 維持により実現される」ということだ。ビジョンはこの立場を「成長重視派」と呼び「ベストのシナリオ」と絶賛する。対して「所得格差の拡大、 都市と地方間での不均衡など不平等の問題を厳しく指弾する」立場は「弊害重視派」と括られて否定される。その上で「 改革を徹底し、 成長の果実をもって弊害は克服される」とされる。
 「成長戦略」「上げ潮戦略」は安倍政権の看板政策である。「改革なくして成長なし」(小泉)から「成長なくして未来なし」(安倍)にキャッチコピーも「イノベーション」されたのだ。
 しかし「ビジョン」が掲げる「成長戦略」には二つのまやかしがある。
 一つは、「実質で年平均2、2%、 名目で同3、3%の成長を実現2006年~15年)」「一人当たり国民所得は約三割増加(2005年比)」という目標は実現不可能だということだ。現状でも2%に届かない数字を、増やし、なおも維持していくことは難しい。しかも「ビジョン」が成長のカギだと力説する「科学技術を基点とするイノベーション」も、それが具体的に何なのか、示すことができないままだ。これでは「新しい成長のエンジン」に「点火」しようがない。
 二つには、「成長」(パイの増大)が自動的に「貧困・格差」の是正(パイの公平な分配)につながらないということだ。
 いま、「経済成長が貧困と格差の弊害を是正する」という言葉ほど、人々の実感から遠いものはない。大企業がバブル期を上回る史上最高の利益を謳歌(おうか)している時、労働者の賃金は減少し、生活保護受給世帯は61万世帯(96年)から105万世帯(05年)に、貯蓄ゼロ世帯は、5%(80年代後半)から22、8%(06年)に急増している。まさに「リストラ景気」「格差型景気」なのである。
 もしも、生産性の高い産業、企業、労働者を優遇することで経済が成長し、結果として社会全体が豊かになる仕組みを作るとするならば、そこには強烈な「累進税制」(所得再配分)が必要だ。しかし現実に行われていることは、所得再配分なしの富裕層、大企業優遇だ。「ビジョン」はその上にさらに、法人実効税率約40%を30%に引き下げよ、と主張する。

 「道州制」は「地方分権」と対立する

 「ビジョン」が「成長戦略」のために、イノベーションと並んで重視しているのが、「道州制導入」と「労働市場改革」だ。
 「グローバル化のさらなる進展、 人口減少と少子高齢化の中にあって、 新しい『 日本型成長モデル』 を確立していくには、 地方主導で豊かな経済圏を構築する道州制の導入と、多様な働き方を可能とし、分野横断的に労働の流動性を高める労働市場改革の推進が不可欠の前提となる」。
 全国を一〇程度の広域自治体に再編する道州制は、昨年二月、地方制度調査会が「導入が適当」とする答申を出し、これを受けて小泉、安倍も積極的に推進する立場にある。参院選で自民党は道州制を公約(マニュフェスト)にかかげだろう。こうした流れの中で「ビジョン」は、2015五年をメドに「道州制」を導入せよと主張する。しかし何故、道州制が必要なのか。
 ビジョン」は二つの方向から提起する。一つは地方分権の文脈である。権限での中央による地方自治体の支配、財政面での中央への依存の変革がうたわれる。もう一つは、グローバルな地域間競争の中で生き残りための「広域な経済圏を構築する」という文脈である。
 しかし、この二つは本来別のものである。自治体には適当な規模というものがある。その観点からすると、地方分権の徹底は道州制に行き着かない。逆に「ミニ国家」となる「道」「州」は地方分権に敵対しかねない。しかも「ビジョン」のうた「広域な経済圏」とは、多国籍企業のサイズに合わせた使い勝ってのよい自治体のことだ。地方自治体の財政を大企業の食い物にさせてはならない。

 「労働市場改革」について「ビジョン」は、労働分野の「規制を最小限」にせよという。政府による「行き過ぎた規制・介入」や「労働者保護」の制度が「円滑な労働移動の足かせとなってい」るのという認識からだ。
 今、働いても貧困から抜け出せない「ワーキングプア」が社会問題になっている。派遣・請負、不払い残業、低賃金・不安定労働によって貧困と格差が拡大している。これには1995年の日経連(当時)の指針『新時代の「日本的経営」』が大きな影響を与えている。この指針にそって、企業は正社員を派遣、請負などの非正規・不安定労働に大規模に置き換えたからだ。そして政府の「労働の規制緩和策」がそれを援護した。「ビジョン」は、それでも足りず、「さらに規制を最小限に!」と叫ぶ。

 「格差是正」と「改憲阻止」を闘おう

 日本経団連が「ビジョン」を出すのは、『活力と魅力溢れる日本をめざして』(奥田ビジョン、2003年)に続いて二回目だ。これまでみてきたことの他に、教育、公徳心の涵養、集団的自衛権、憲法改正など、政治的領域にまで公然と口出しをしているところがこれまでと違うところだ。どういう権限があってのことか、日の丸、君が代についても「教育現場のみならず、 官公庁や企業、スポーツイベントなど、社会のさまざまな場面で日常的に国旗を掲げ、 国歌を斉唱し、 これを尊重する心を確立する」などと指図してくれている。まったく余計なことだ。
 昨年五月に二代目の会長に就任したの御手洗冨士夫は「ビジョン」の中でも、昨秋出した「強いニッポン」(朝日新書)の中でも、アメリカ駐在時代に体験したレーガンのアメリカ経済再生を日本でもやるのだ、と豪語してはばからない。そして「私は改革が好きだ。ずっと改革に夢中になり、そのことばかり考えてきた」(「強いニッポン」)と語っていまる。
 一企業にすぎないキャノンの中で「改革に夢中」になっても、害は(それなりにあるにしても)比較的少ない。また、正式に政治家としてトップに立つなら、その仕事ぶりは、最終的には有権者によって審判が下される。しかし、自らが「政策集団」と位置付けている組織のトップにたち、有形無形に政治をコントロールできる立場に居ながら、その去就が有権者の意思に左右されない立場というのは、無限の独裁者になりうることを意味する。
 この強烈なレーガン主義者が、まず総力で仕掛けてくるのが「労働ビックバン」のための労働法制の改悪だ。「ホワイトカラー・エグゼンプション」は一旦の挫折をみたが、復活は必至である。そして憲法改正だ。
 日本経団連は「ビジョン」公表後の1月10日、「希望の国」実現にむけた今年の「優先政策事項」を発表した。これは「2007年の政党の政策評価の尺度となる」ものだ。その10項目にはこう書かれている。
 「新憲法の制定に向けた環境整備と戦略的な外交・安全保障政策の推進」。
 「貧困・格差(=成長戦略)」と「改憲」の二つに「正攻法」で立ち向かわなければならない。


この文章は、『グローカル』707号(07年2月1日)に掲載するために書かれたものです。

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2006年02月19日
 ■ 紀子の「第3子ご懐妊」を口実とした天皇制をめぐる言論統制は許されない!

 まさに絶妙のタイミングだった。二月七日にスクープされた秋篠宮妃・紀子の「第3子ご懐妊」のことである。この「慶事」は「皇室典範改正」をめざす政府の側にとっても、これに反対する保守派内の「男系維持派」にとっても、別の意味で「慶事」であった。
 政府にとっては、徐々に勢いを増してきた保守派内部の皇室典範改正反対派や慎重派を相手にした困難な国会運営を「回避」し、問題を「先送り」する口実を手にできた。小泉は、NHK速報直後の国会では「今国会に法案を提出し成立を目指す」と従来通りの答弁を繰り返したが、翌日には「政争の具にしないように」とトーンダウン、十日には「よく勉強して冷静に慎重に議論する」と、事実上の今国会への法案提出断念を表明した。今後、自民党では内閣部会において「男系維持」もふくめた「勉強会」を続けて行くという。
 逆に、保守派内の「男系維持派」にとっては「男系男子による皇位継承者の不在」と政府が言う「皇室典範改正」の必要性の前提が変わる可能性が出てきたことで、その勢いは更に増す。事実、「男系維持派」は三月七日に、女系天皇に反対する「1万人集会」を武道館で開催する予定だという。その中心人物の平沼赳夫・元経済産業相は、超党派の保守系議員を集めた憲法改正や教育基本法改正の勉強会「真の保守を考える会」を発足させ、その存在感をアピールしている。

  *  *  *

 それにしてもである。「第3子ご懐妊」スクープ以降の世論の「豹変」ぶりには目を覆うものがある。政治家である小泉の「豹変」は、これまで「女性天皇」という大衆受けする「フレーズ」に酔っていただけのことなので、別に驚くに値しない。
 問題はメディアである。例えば『朝日新聞』。同紙は「ご懐妊」報道二日後の九日に「待つのも選択肢だ」と題する社説を掲げた。要するに「出産が無事にすむまで、改正案の国会提出を待て」という内容だ。しかし同紙は「皇室典範に関する有識者会議」の報告を「妥当である」と支持してきたはずだ。そしてその報告書には、「今後、皇室に男子がご誕生になることも含め、様々な状況を考慮した」と記されており、男子誕生の可能性は「想定内」だったはず。その報告書を支持してきた『朝日』が紀子の妊娠で「待て」に豹変したのである。
 さらにこの日の社説は、こんなことも主張した。
「皇位継承という天皇制の基本にかかわる問題で、国民の意見がはげしく対立するのは望ましいことではない」。
 『朝日』は、皇室典範改正に反対する立場をくり返し表明している三笠宮寛仁氏に対して、わざわざ社説で「発言を控えよ」と言論統制をおこなったばかりである。天皇・皇族には「政治的発言」が認められていないから、という理由からだ。そして今度は「国民」にむかって「皇位継承という天皇制の基本にかかわる問題で」「激しく対立する意見は」控えよ!である。何様か。
 『朝日』のような悪意はないにしろ、これまで皇室典範改正を支持し、「女性天皇」を持ち上げてきた多くのメディアが、「第3子ご懐妊」を契機に、「慶事を静かに見守るべき」という姿勢に転じた。まるで天皇ヒロヒトのXデーを前後した「自粛モード」が甦ったかのようだ。

  *  *  *

 紀子の「第3子ご懐妊」によって、天皇制をめぐる議論に枠がはめられ「慶事を静かに見守る」ことが強制されるようなことがあってはならない。天皇制をめぐる議論は、なにも天皇制の維持を前提にした「皇位継承ルール」問題だけではないからだ。いや、この「皇位継承ルール」の議論にしても、本来、紀子の第3子が「男か、女か」を固唾を呑んで見守るしか脳がない問題ではない。
 有識者会議が「女性・女系天皇」を認める結論を出したのは、目先のことからではなく「中長期的な制度の在り方として…最善のものであると判断した」(最終報告)からであって、「中長期的」に見てすぐれたシステムだと合意されれば、紀子の第3子の性別にかかわりなく、早い段階で(愛子の段階で)採用した方が良い、という理屈もなりたつからだ。
 また、天皇・皇族の人権をめぐる議論も重要な問題だ。そもそも有識者会議が設置された契機の一つには、皇太子徳仁の「人格否定発言」があったはずだ。その背景には、生身の人間が象徴という国家シシテムを担う苛酷な現実、矛盾があった。護憲派の憲法学者ですら(例えば、奥平康弘氏)「飛び地」論で、天皇・皇族の「人権」問題には目をつむってきたが、それはもはや許されないだろう。
 皇室典範第一条(男系男子による皇位の継承)と憲法第二十四条(男女平等)の矛盾、憲法第二条(皇位の世襲と継承)と第十四条(法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典)の矛盾など、戦後長らく放置されてきたこうした問題に、正面から切り込む議論が必要である。
 さらに「君主制」か「共和制」かという政体問題もある。「男系維持派」が持ち出した「側室復活論」「愛子と旧皇族男子婚姻論(政略結婚論)」「Y染色体論」などのトンデモ理論は、逆に、そうまでして天皇制を維持する必要があるのか、という素朴な疑問を生んでいる。
 これまで天皇制を支持する側も、逆に反対する側も、天皇制と日本国家を強くイコールで結すび付けて考えてきた。とりわけ反対派は「反天皇制」を「反日本国家」と等値する逆の「国体論」に無意識のうちに捕らわれてきたため、「共和制」という別の選択肢を政治的に提起することが出来ずに来た。この呪縛から解放されて、共和制の日本国家について、ヒソヒソ声ではなく、アッケラカンと語る時がきたのだ。
 以上の問題は、秋に生まれてくる紀子の第3子が「男か、女か」にかかわりなく、議論を深め、発展させられるべき問題だ。「慶事を静かに見守る」という口実で、天皇制をめぐる議論を自粛したり言論が封殺されてはならないのだ。

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2006年02月06日
 ■ 「女系派」にも「男系派」にも展望なし/ 象徴天皇制の空洞化は不可避

  ■女系天皇めぐり保守派内の「対立」が激化

 皇位継承資格者を女性・女系にも拡大する皇室典範の改正をめぐって、保守派内部で「対立」が激化している。
 政府は、昨年十一月の「皇室典範に関する有識者会議」の最終報告に基づき、(1)皇位継承資格者を女子や女系皇族に拡大する、(2)継承順位は男女を問わず長子優先とする、(3)皇族女子は婚姻しても皇室にとどまる、などを内容とする皇室典範の改正を、三月にも国会に上程する方針だ。

 だがここ来て保守内部で女系天皇に反対する「男系派」や「慎重議論」を要求する声が勢いが増してきている。衆参合わせて一七〇人を超える国会議員が「拙速な改定に反対する」署名に名前を連ね、政府内部からも「慎重論」が噴出しはじめた。

 これに対して小泉首相は「皇位の安定的な継承のために早くやった方がいい」と国会上程の立場を崩していない。はたして、郵政国会なみの「ガチンコ対決」になるのか、それとも、政府案をベースに「男系派」の主張を取り入れた「修正」の方向でまとまるのか、いまのことろ予想はできない。
 しかし、「女系派」対「男系派」の「対立」と言っても天皇制を維持する立場での違いはない。さらに「伝統」を守る立場でも違いはない。ではこの「対立」の根本には一体何があるのだろうか。

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2005年06月20日
 ■ 誰が「ニート」「フリーター」になるのか?
再生産される日本の階層社会

 若者バッシングの新たな言葉?

 「ニート」と言う言葉が流行っている。きっかけは一年前に玄田有史が『ニート フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬社)を出版したことによる。

 「ニート」とは、「Not in Education(学校教育) Employment(雇用) or Training(訓練)」の頭文字「NEET」を取ったもので、もともとはイギリスで低階層の若年無業者の就業支援をするための政策用語だった。

 それが日本で驚くほど急速に広く「受容」されたのは、低階層の若年無業者への理解がイギリス以上に深まっていたからでは、もちろん無い。多くは、「ニート=仕事もしないで親や社会に寄生している若者」と言うイメージの下、若者バッシングの新たな言葉とし口にしているのが現実だろう。

 では「ニート」、それに九〇年代から増加し続けている「フリーター」とは、いったい何だろうか。何故、生まれたのか。そして、誰が「ニート」「フリーター」になるのか。その意味するところを考えてみたい。

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2005年04月04日
 ■ 3.21 憲法改正の「国民投票法」めぐり公開討論

 先月21日、東京で表題にある討論会があり、参加してきました。17~18年ぶりに新宿の街の空気を吸いました。高校時代に夏・冬・春休みのほとんどを東京でバイトをし、休日には新宿の紀ノ国屋で本を捜したものです。だから新宿は私にとって「青春の街」です。切ない思い出もありますし(^^;)。
 でも、久しぶりに訪れたら迷ってしまい、すんでのところで開会に間に合わないところでした。街も、時代も、人の記憶も、変わってしまうってことですね。
 以下は、その新宿で行われた討論会の報告というか感想です。




●真っ当なルールを求める声が与党案を圧倒

●改憲国民投票法めぐり公開討論会


 三月二十一日、「公開討論会/PANEL DISCUSSION、改憲の是非を問う国民投票 どんなルールで行うべきか」に参加した。会場の半分以上を女性が占めるなか、中山太郎・衆議院憲法調査会会長ほか、与野党の憲法問題責任者がズラリと顔をそろえて憲法改正のための「国民投票法」の中身について活発な議論を展開した。
 主催は「真っ当な国民投票のルールをつくる会」。コーディネーターはジャーナリストの今井一さんが務めた。

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 「国民投票法」賛成派の揃い踏みか? 
 
 最初に「国民投票法」を制定することの意義について意見を交わした。しかしこのテーマではパネラーの間で際だった意見の違いはなかった。
 本来ならこの入り口部分で「ルールの中身に関わらず改憲のための国民投票法には反対」という主張を共産党が展開し、それをめぐって議論が沸騰するはずであった。しかし共産党の二比聡平・参議院議員(北九州出身)が前日の福岡西方沖地震で欠席を余儀なくされ、意見を聞くことができなかった。
 代わりに今井一さんが会場からの意見を募ったが「国民投票法それ自身に反対」と主張をする参加者はいなかった。これは意外だった。
 一方、保守政治家は「国民が主権者」(中山太郎)、「憲法制定権は国民にある」(保岡興治・自民憲法調査会会長)との立場から「国民投票法」制定の意義を強調していたのは印象的だった。
 この問題では社民党の立場が注目されたが、パネラーの阿部知子・政策審議会会長は「国民主権を強化する内容であればOK」との立場だった。

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2005年02月08日
 ■ 映画 パッチギ!

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■「経済制裁論」と「ヨン様ブーム」に対する井筒監督のパッチギ(頭突き)!

□監督 井筒和幸
□キャスト 塩屋瞬、高岡蒼佑、沢尻エリカ、楊原京子、オダギリジョー、光石研、笹野高史、余貴美子、前田吟ほか

 映画が終わりに近づきスクリーンにその気配が漂いはじめた時、私は、思わず「えっ、もう終わり!」と叫んでしまった(もちろん心の中だが)。

 1968年という時代。そこに流れる二つの川。

 日本人が暮らす場所と在日朝鮮人の居住区を隔てる京都の鴨川。そして、朝鮮半島を南北に分断するように流れるイムジン河。その二つの川を、日本人の男子高校生と朝鮮高校(中高級学校)の女生徒がふとした出会いから共に渡りはじめる物語である。

 両校の番長グループが繰り広げる半端じゃないケンカ。過剰なほどの青春の噴出。そして純粋であるがゆえの挫折。映画のクライマックスで、その挫折の悲しみを抱きしめるように、主人公の「コウスケ」が切々と歌う「イムジン河」が心に浸みた。

 難しい問題を、愛あり、涙あり、笑いありの娯楽映画に仕上げているのは、さすがである。しかしそこには、今の時代風潮に対する異議申し立てがあるように思う。

 一つは、この映画に出てくる「朝鮮」が「韓国」ではなく「朝鮮民主主義人民共和国」だということ。映画にはキム・イルソンの肖像画も描かれる。それが掲げられた教室で学ぶ女子高生にコウスケが恋いをするわけである。また、「一人は万人のために、万人は一人のために」というスローガンもスクリーンに大きく登場する。

 拉致事件いらい、北朝鮮への異様なバッシングが続いており、昨今は「経済制裁論」も喧伝されている。そんな中で、娯楽映画とは言え、キム・イルソンの肖像画を登場させるのは勇気のいることではなかったか。(安倍晋三からの「圧力」はなかったのか?)。井筒監督らしい「反骨さ」である。

 もう一つは葬式の場面での言葉。日本の「チンピラ」とのケンカで生命を落とした朝鮮高校生の葬儀に出席したコウスケに、老いた在日一世が浴びせせる。

 「生駒トンネルは誰が掘ったか知ってるか!」「国会議事堂の大理石は誰が積んだか知ってるか!」。

 井筒監督が得意とする「説教」だ。これを余計な演出と思う人は、監督の次ぎの言葉を聞いて欲しい。

 「昨日まで朝鮮人を差別していた人たちが、今日はヨン様に夢中になっている。そんなのどう考えたっておかしいですよ。人間というのは学んで、自分の頭で考えて、前進してなんぼのもんでしょう?だからとりあえずソナチアンも、歴史も何にも知らん若い子らも、とりあえず『パッチギ!』を観てよと。そこで考えたり学んだりしてもらえるということに映画を作る意味があると僕は思っていますからね。」
  http://movies.yahoo.co.jp/interview/200501/interview_20050121001.htmlより

 「ヨン様ブーム(韓流ブーム)」によって、朝鮮と日本のあるべき姿は、かえって見えずらくなったかも知れない。それを、きちっとした歴史を踏まえた上で、人に対する人の関わりの問題として、当たり前に描き切ったところに「パッチギ!」の意義がある。日本の若い役者さんたちに拍手!

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2005年01月26日
 ■ 書評 『雅子の「反乱」―大衆天皇制の<政治学>』

複数の視点で天皇制の今を検証
「天皇・皇族に人権を!」が私のオルタナティブ



 本屋でこの本を目にするまでその存在を知らなかったが、私は昔から捜していた本にやっと出会ったような思いでこの本を購入して、一気に読んだ。編者の桜井大子さんや「女性と天皇制研究会」の人々の天皇制に対する考え方と、私のそれが、どこで、どう違っているのか、知りたかったからだ。
 というのは、それまでにこんな経過があった。
 本書が中心テーマとするのは、昨年の皇太子の「雅子のキャリアや人格を否定する動きがあった」発言だ。私はそれを聞いた時、大変感動した。そして「外国訪問の自由」という問題をきっかけに「天皇、皇族の人権問題」と「象徴天皇制」との矛盾が公然と議論される時が来たのだと思い、そんな発言を幾つかの場で行い、反天皇制運動の「専門家」の発言に注目した。
 ほどなくメーリングリストで一つの声明が廻ってきた。本書にも収録されている「声明 女天研はこう考える 『人格否定』しているのは皇太子、あなたです」がそれだ。
 「…皇太子発言は、女に子供を産ませることで維持される『世襲制』に支えられている自らの立場を棚に上げた、厚顔無恥な発言です」と皇太子発言をバッサリと斬って捨て、かえす刀で「(皇太子発言が)ポジティブな発言として容認されていくことに、私たち女天研は強く反対します」とマスコミや大衆意識が批判されていた。
 私は、ウーンと唸ってしまった。「ちょっと違うんじゃないか」と感じつつも、それを自分の言葉でうまく表現できなかった。その後、女天研は天皇の「(日の丸、君が代は)強制でないことのほうが望ましい」発言に対しても批判の声明を発表し、私は、それにも違和感をもったが、やっぱり、うまく言葉にできなかった。しばらくもやもやした気分が続いた。なんとかしたいと思っていた時、ぐうぜん本屋でこの本を目にした。即、購入して一気に読んだのは、前に書いた通りだ。

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