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2006年03月13日

3月10日/東京大空襲から61年

 3月10日は東京大空襲の日です。今年、私は、特別な思いでこの日を迎えました。というのは、正月に帰省した時に、82歳になる父から、20歳の時に東京大空襲に遭ったと、はじめて聞かされたからです。

 当時父は、新潟から東京に丁稚奉公に出ており、荒川区で「ゼロ戦」の部品を作る工場で働いていたそうです。そこで3月10日を迎えたのです。1945年、終戦の年のことです。

 その日、B29はいつもより低空で銀色の腹を見せて、何度も何度も頭の上を通過していったそうです。そして焼夷弾のアラシ。

 父が、どのようにして大炎火の中を生き延びたのか、定かではありません。近くの小学校に避難して助かったようです。
 逃げる途中、高架があり、そこに沢山の人が逃げ込もむのを見たそうです。翌日、そこに行ってみたら、中に沢山の人間が折り重なって死んでいました。

 他にも言葉にならぬ地獄を見たようです。荒川には、水面が見えない位の死体が浮かんでいたこと。「感覚がマヒして、ちっともおっかいとは思わなかった」。

 川だけではありません。「翌日、あたりを、自転車であたりを見てまわりった時、木の燃えっクズが車輪にひっかかって前に進めないと思って、調べてみたら死体だった」。

 岩波新書の『東京大空襲』(早乙女勝元著)に、木の燃えくずのようになった死体の写真が掲載されています。母親と子どもの死体です。父は、あまたのそうした死骸を目撃し、その中をさまよい、その中で生き延びたのでした。

 10万人もの死者がでた「東京大空襲」ですから、あの場に居て、生き延びられたのが不思議なほどです。あそこで二十歳になったばかりの父が焼け死んでいたら、今の私は無いのです。そう思うと「オヤジよ、生きていてくれてありがとう」と心から思いました。

 父の「戦争体験」は、それだけではありませんでした。東京で被災したすぐ後、4月に招集され、長野の人たちと混成部隊を結成して大分に送られます。そこで「本土決戦」に備え、九州で米軍を迎え撃つため、高射砲をすえつける塹壕掘りをやっていたそうです。しかし、九州へ送られる時、父は日本の負けが近いと感じています。それは、海岸にあるべき高射砲が、すべて赤く焼け落ちている様が、列車から見えたからです。

 案の定、日本は8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下で「降伏」します。父たちは開放され、郷里に引き上げます。その引き上げの途中、父は、被爆から一ケ月もたたない広島の街を観ています。「おっかなくて汽車から降りられない」くらい不気味な街、全てが焼けて、な~んにもない街だったそうです。

 東京大空襲とヒロシマ。普通の庶民が一瞬で24万人も犠牲になった二つの大惨事。この渦中に20歳の父はいたのです。そのことを、なぜ、60年間、黙して来たのか。

 数日まえの新聞に、「東京空襲犠牲者遺族会」が、3月10日の大空襲をはじめとする都内各地の空襲被害に関し、国に謝罪と損害賠償を求める訴訟の準備を進めているという記事が載りました。今年の終戦記念日のころに正式に提訴したい、とのことのようです。

 「心ならずも戦争で命を落とされた方々に、心から哀悼の誠をささげる」。小泉首相が、靖国神社参拝の理由を説明する言葉です。しかし、戦争で生命を落とした人は、靖国神社に祀られている戦闘による死者だけではありません。ヒロシマ、ナガサキをはじめ、全国各地に空襲によって「難死」した犠牲者がいるのです。

 政府は、軍人・軍属には、軍人恩給と年金を(「顕彰」の意味を込めて)一年間に約一兆円も支給しています。しかし、空襲による犠牲者にはビタ一文も出していません。「戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない」という理由からです。

 空襲犠牲者にとって、「戦時」は、今も続いているのです。

投稿者 mamoru : 2006年03月13日 21:54

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