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2006年10月01日

『不安型ナショナリズムの時代―日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由』

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 「嫌韓」「嫌中」の若者の背後にあるもの

 小泉首相が靖国神社を参拝した八月十五日、二十五万人もの人々が靖国に足を運んだが、そこには多くの若者の姿があったという。彼らの一部がそれを「靖国参拝オフ」と呼ぶことから分かるように、彼らの多くはオンライン(インターネット)を住処としている。
 インターネットの世界では、中国や韓国を批判する「嫌韓」「嫌中」のサイト、ブログ、掲示板の類が急増している。それをソースにした『マンガ嫌韓流』は一巻、二巻あわせてが六七万部が売れた(出版社の公称部数)。他方、日本のネットの動きに呼応するかのように韓国、中国でも若者の「反日」ナショナリズムが電網世界を走り抜けている。こうした東アジア・日韓中三国における若者を担い手とした「ナショナリズム」の噴出、相剋をどのようにみるべきか。

 屈託なく「ニッポン大好き」と言明する若者たちを「ぷちナショナリズム」という言葉で表現したのは香山ミカだった。そこには「まだ右傾化と呼ぶには及ばない」という思が込められていた。香山とちがって本書の著者は「それをひとまず右傾化とよぶことに異義はない」と言う。
 「ひとまず」という条件を付けるのは次ぎのような理由からだ。「嫌韓」「嫌中」の若者の主張は「先の戦争に対する反省」と「アジアへの贖罪意識」という「日本のマルクス主義および左翼というものが長年かけ金にしてきた」立場を「逆向き」にしという点において「右傾化」といえる。しかしそれは「政治的な立ち位置として評価されるようなものとは言えない」。なぜなら「その背後には実は別の問題を隠しもっているのではないか、という疑念」があるからだ。
 この「別の問題」を日・韓・中の三国共通の問題とし浮かびあがらせて大胆にスケッチすること。これが本書の企てである。

 社会流動化が生み出す「不安型ナショナリズム」

 日・韓・中の若者に生じている「ナショナリズム」を規定しているのは「社会流動化」という現象だ。日本に即して言えば、九〇年を前後して高度経済成長が終焉し、代わってグローバリゼイションという新しい荒波が社会全体を襲っている。そこで生じている現象が「社会流動化」である。そこでは、会社が社員の幸せを保障するという会社主義神話が崩壊し、人々は「個人」として市場に投げ出されている。頼れるのは自分だけと言う「不安」の世界だ。この「不安」の世界を生きる民衆の「不満を代弁して」本書は次ぎのように言う。
 「かつて政府や財界は、国民は経済や政治など大上段のことをかんがえなくてもいい、エリートが国を豊かにすると約束してくれた。自分たちはそれを信じて、日常生活を頑張ってきた。それがいつの間にか勝手に向こうが方向転換をし、改革とか自己責任と言われても困る」
 本書は、続けてこう言う。「その約束が裏切られたという、民衆の側の情念が、いわば失われた民主主義の亡霊として今の日本には渦巻いている。その情念は現在の国内問題での『敵探し』にむかっている」。
 この民衆の「敵探し」の一つが「嫌韓」「嫌中」現象なのである。
 本書はこの段階でのナショナリズムを「不安型ナショナリズム」と呼び、高度成長下で「国家の発展や国民の統一感の達成のために要請されるナショナリズム(=「高度成長型ナショナリズム」)と区別する。なぜ区別が必要なのか。
 一つの理由は「社会流動化」によって生じている「『経済的なリアリティー』とナショナリズムの解離」という現象を理解する新しい認識の枠組みを手に入れるためである。先ほどの続きで言えば、はたして「韓」「中」は、「不安」な世界を生きる日本の民衆にとって(ヨーロッパの労働者にとって移民労働者がそうであるように)「敵」として「リアリティー」があるのか、ということだ。
 そしてもう一つの理由は、日本の若者が「右傾化」して見えるのは、「社会流動化」の「不安感」をぶつける適切な言葉を発見できていないために、その代償として、一昔前の国民の統一感達のための「高度成長型ナショナリズム」の言葉を使っているからだ、という点を明らかにするためである。この立場から本書は、若者の「右傾化」「ナショナリズム化」というのは「疑似問題」であり、したがって、「さきの大戦」をめぐる議論や、高度成長時代の思考の残滓である「左右対立」の枠組みの中に若者を位置付けることには意味がない、と断じる。この部分の主張がこの書の生命線であろう。

 「反日感情」より危険な日本のナショナリズム

 「不安型ナショナリズム」と「高度成長型ナショナリズム」の区別という新しい問題構成の提示。この分析視角をそのまま韓国、中国にまでひろげて見せてくれるところが、本書のもうひとつの生命線だろう。
 高度成長の順番が日本・六〇年代、韓国・八〇年代、中国・〇〇年代と二〇年刻みであったことから「社会流動化」も段階的に進むだろうと見がちであるが、本書はその誤りを見事に正してくれる。むしろ「社会流動化」の順番は逆なのだ。
 中国は日本や韓国が時間をかけて進めた「中間層」形成と「社会流動化」を(共産党内での路線転換を伴いながら)「上からの改革」として同時に進めている。韓国は民主化勢力が批判の標的とした開発独裁体制(財閥と政府の癒着)の解体を「IMF改革」という「露骨な外圧」によって実現した。そして日本は韓国から数年おくれて「小泉改革」が始まり、いま、本格的な「社会流動化」の時代を迎えている。
 しかし面白いことに、この順番の逆転が影響してか、三国とも「社会流動化」と同時に疑似問題的にナショナリズムが噴出してはいるが、「中国にしろ、韓国にしろ、やはり真の問題が国内にあることが広く認識されている」という。この指摘は注目すべきである。「これに対して、日本の『嫌韓、嫌中』」ムードというものは、国内問題をまったくのブラックボックスに入れるものであ」り、「こうした形でのナショナリズムの噴出は、韓国、中国の反日感情よりも、よほど危険だ」と本書は警告する。
 ではこの危険を回避するために為すべきことは何か。ここでも、「先の大戦」を正しく反省するように導く議論は、「総体として無意味な議論を拡大させていくだけだろう」。変わって論ずるべきことは「総中間層化の夢の終わり方」であり、「ベクトルを国内問題に向けなおす」議論だ。「それが、日本国内の格差拡大や、東アジア内の関係について論じる論者たちの責務である」。

 「戦争責任」「歴史問題」をめぐる議論は無意味か

 さて、ここからは本書に対する意見をのべたい。
 一つ目は、現在、噴出している「戦争責任」や「アジアへの反省」をめぐる議論は、すべて「社会流動化」が生み出す「国内問題」を「ブラックボックス」にいれるために仕掛けられたものなのか、という疑問だ。
 本書の立場は「社会流動化」によって生じる「国内問題」と「先の大戦」や「歴史問題」の評価はまったく関係がない、それを関連づけようとするのは古い左翼の発想だ、ということだ。しかしこれは間違いと言わざるを得ない。この二つの問題は「冷戦の崩壊」という一つの時代に始まりを持つ二つ問題群だ。九〇年前後に生起した冷戦崩壊によって世界的に「戦争責任」の問題が噴出してきたのは、米ソを中心とする東西対立の中でつくられた国家(ナショナル)のアイデンティテー(西側の一員論)が崩れ、あらためて国家の正統性とアイデンティテーの構築が迫られたことによる。さらに、冷戦体制の中で抑圧されてきた第二次世界大戦の被害者民衆の加害国への補償要求が台頭したからではないのか。「社会流動化」と「戦争責任問題」は、ポスト冷戦、ポスト高度成長、ポスト戦後(五五年体制)の「新しい問題」なのだ。
 「戦争責任」「歴史問題」が「国内問題」のスリカエを意図して提起されることがあるかも知れない。そのことへの警戒は必要だ。しかし「ベクトルを国内問題に向けなお」しても、戦争責任問題は、それとして残るだろう。むしろ必要なことは、本書が、「嫌韓、嫌中」モードの若者に対して「中国などの他国」への「敵探し」をやめて不満を「日本の開発主義の主導層」にむけよ!と呼びかけたように、戦争責任問題においても、「中国などの他国」への「敵探し」をやめて、矛先を三一〇万人の日本人を無意味な死に追いやった「自己保身と無責任」の軍事、政治エリートにむけよ!とよびかけるべきだろう。「侵略者」「戦犯容疑者」の孫が、祖父を肯定する政治姿勢を明らかにしながら首相の座に就くような時代なら、なおさらだ。

 国家に抗するナショナリズム

 二つ目は、「ナショナリズム」に対する本書の立ち位置に関することだ。本書はくり返し「ナショナリズムだから悪い」という立場は取らない、と表明している。しかし、それは「ナショナリズム」が「国内問題」を避けるために「疑似問題」として語られるシーンに限定しての対応なのか、それとも「ナショナリズム」全般に対しての態度なのか。本書の最期の章に「下降移動する怨恨を、内実の無いシンボリズムで埋め合わせるのはナショナリズムの本質であり」と書かれている。ここから推察するとナショナリズム一般に関しては否定的なのだと思う。しかし、それでいいのだろうか。
 戦後思想とその一般化としての「平和と民主主義」を、米国仕込みのものではなく、民衆が「総力戦」の体験を通じて獲得した「新たなナショナリズム」の発露として活写したのは小熊英二だった。その書『<民主>と愛国>』は「国家に抗するナショナリズム」としての戦後思想の隆盛と衰退を描いたものと言える。小熊はナショナリズムをまるごと肯定したり否定したりすることには意味はないと言う。しかし、民衆が「ナショナリズムの言葉を使って国家とは別のつながりを示そうとする時「その言葉の使い方は間違っている」という権利は誰にもない、という。
 これをもっと積極的に表現すれば「ナショナリズム」を国家から奪還する、ということではないか。靖国神社での戦死者の追悼をめぐる攻防は、まさにその闘いだ。かつて、戦死者の側に立つということは、戦争否定の側に立つということであった。しかし、それがいつの間にか逆転して、今は、「国のために命を捧げた者がいたから、今の平和がある」と戦争肯定に使われている。
 戦死者を国家から奪還しなければならない。戦死者の側に立って「戦争責任者」を撃たなければならない。そのための新たな文脈をつくり出す作業は、「嫌韓」「嫌中」モードの若者とも、大いに共闘可能だと思う。


『グローカル』702号(06/10/01)に掲載

投稿者 mamoru : 2006年10月01日 15:06

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