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2007年07月29日
 ■ 参院選―結果が出る前に言っておきたいこと

 ■7月29日、午後1時45分。
 今日は参院選の投票日である。朝、散髪屋に行った返りに近くの小学校に寄り投票を済ませてきた。学校の門を入るとそこは自転車や徒歩や車での来場者でごった返していた。マスコミも報じているように、なるほど有権者は高い関心を示しているようだった。
 結果が出る前に、今度の選挙について、二つのことを書いておきたい。

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 第一は、おおかたの勝敗予想は与党の惨敗、民主党の一人勝ちであるが、果たしてその場合、安倍は続投するのだろうか、ということである。これは何も安倍の責任問題への関心から言っているのではない。小泉が築いた「利益誘導型政治」へのアンチとしての「劇場型政治」「大統領型首相」が定着するのかどうかは、今後の政治のあり方にとって大事だと思うからだ。
 小泉があれほどの「改革力」を発揮できたのは、自らがよってたつ基盤を自民党内におかず、直接の国民からの高い支持においたからだ。小泉が発した「ワンフレース」は「改革」で「痛み」を強制される層をも自らの支持層へと動員することに成功した。その意味で小泉政権は中曽根政権と並ぶ戦後最強の保守政権だった。
 ところが、今回の選挙で安倍が国民から完全に見放されることになっても、「次ぎのリーダーが不在」などという自民党内の事情で安倍が続投するようなことになれば、それは、小泉が敷いた「劇場型政治」「大統領型首相」路線からの大きな後退となるだろう。与党惨敗にも関わらず安倍が続投するか否かは、安倍個人の責任問題を超えて、今後の政治の質そのものを規定する大きな出来事だと思う。

 二つめは、「大勝」のお墨付きをマスコミ各社からもらった民主党、とりわけそのトップの小沢一郎をどう評価するかである。「生活第一」を掲げる小沢は、選挙期間中、一人区を中心に遊説して廻った。「勝ち組」と「負け組」、「都市」と「地方」、「大企業」と「中小零細企業」、「先端産業」と「農林漁業」、そして「官」と「(国)民」。マニュフェストは、ほぼ「負け組」「地方」「中小零細」「農林漁業」「国民」に焦点をあてて書かれている。
 ここ10年、「改革」と称する「経済・労働の規制緩和」がごり押しされ、日本は未曾有の「格差社会」になった。政治から見放されたと感じる膨大な層が生み出された。今回、民主党は「政治から見放された」「弱者」の側に立つことを明確に打ち出している。年金について「基礎(最低保障)部分の財源はすべて税とし、高額所得者に対する給付の一部ないし全部を制限します」マニフェストで書いている。これには少し驚いた。民主党・小沢は、自民党から切り捨てられたかつての自民党支持層や地域に着目し、それを奪取する戦略を立てたのである。その象徴が地方の一人区であった。
 マスコミの予想通り、今回の選挙で民主党が大勝するとすれば、それは「格差社会」に対する有権者の明確な審判が下されたことを意味する。このことの重要性はしっかりと押さえておきたい。
 しかし、である。民主党および小沢一郎は、本当に「弱者」の側にたつ政治を行うことができるであろうか。民主党にとっての「民」とは「民間企業」のことであった。小沢こそ「官」から「民」への規制緩和策の旗振り人だった。それに反対する人々を「守旧派」のレッテルを貼って攻撃する先鋒だった。小沢の『日本改造計画』は小泉の「構造改革」を先取りしたものだった。だから、民主党は、小泉の「構造改革」を正面から批判するのではなく、その「不徹底」を批判したのではなかったか。それが今回は政策をガラリと変えた。
 小沢にとって大切なことは、「弱者の政治」でも「生活第一」でもなく「政権交替」である。すべてそこから逆算して戦略を立てているはずだ。だから参院選ではまず「生活第一」を掲げる。しかし政権交代の本番である次期衆院選では、それだけでは勝てないことは分かり切っている。大都会の票と大企業からの支持調達は不可欠だ。
 その場合、今回、票獲得のために政策を変えたように、大都会と大企業むけの政策にガラリと変えることはありうるだろう。それは、今回構築した支持基盤と矛盾した政策になる。だが小沢は「人は政策がどうこうより勝つ側、リーダーシップのある側に付いてくる」と思っているはずだ。そのために小沢に必要なのは「小選挙区に強い小沢」の神話である。そこを今回クリアすると小沢にとっての「政権交代」が見えてくるはずだ。それが私たち「弱者」にとって、歓迎すべきものかどうかは、また別の話しであるが。

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2007年07月22日
 ■ 坂喜美さんの訃報に接して/無私の精神で三里塚闘争に尽くした人生

[AML 14947] 上坂喜美氏の訃報です

三里塚闘争に長年かかわってきた関西の上坂喜美さんの訃報をお伝えします。

上坂喜美(うえさかきよし)さん

 07年7月17日0時45分 肺ガンにて没。83歳
 関西三里塚闘争に連帯する会代表、関西共同行動運営委員など、若い頃より労働運動、 市民運動など関西の民衆運動の中心的な担い手、推進役として活躍。特に三里塚闘争で は、三里塚闘争に連帯する会(全国)代表、関西三里塚闘争に連帯する会代表として活 躍した。近年は体調をこわし自宅で療養していた。本人の希望で、通夜は家族だけで行い、葬儀は行わないことになった。遺体は近畿大学に献体。
 関西三里塚連帯する会などで、偲ぶ会を待つことが話し合われている。

以上 高橋千代司

 七月十七日、三里塚闘争に連帯する会、代表の上坂喜美(きよし)さんが肺癌で亡くなられました。八三歳。この世に生を受けて以来、人民の闘争のために捧げつくした生涯でした。

 私が最初に出会ったのは、一九七四年の戸村参院選の頃だったと思います。しかしあまり記憶にありません。上坂さんは大闘争の指揮官。こちらは二十歳になったばかりの若造。遠い存在でした。後になって「上坂さんは自分の財産をなげうって選挙資金を作った」と誰からともなく聞かされ「偉大な大先輩がいるものだ」と敬意を覚えたものです。

 上坂さんと言えば、なんと言っても一九七七年からの三里塚決戦(開港阻止決戦)です。人が行動する時、そこには必ず(前田俊彦さんと並んで)上坂さんがいました。上坂さんは無類のアジテーターでした。だた新左翼が得意とする危機アジリではありません。
 「ナリタ空港を廃港に出来るかどうか、それが問題なのではない。ナリタはすでに廃港になっておる。問題は、それを、政府に、認めさせることができるどうか。そこに人民の力を集中させることが必要なのだ」
 このフレーズを、現地集会で、関西の前段集会で、何回聞いたことでしょう。

 一番、最近お会いしたのは4年前の夏でした。京都で柳川英夫さんを招いて小さな集まりをもった時です。「痴呆」が少し出ているというので、京都駅から会場まで迷わずに来られるか、心配で迎えに行ったものでした。それを察知されたのか、上坂さんは会うなり「余計な心配をして…」と不機嫌そうだったのが印象に残っています。申し訳ありませんでした。

 上坂さんほど、無私の精神で人民の運動に尽くした人はいません。何の見返りもないのに、各地の住民運動と三里塚を結びつけるために奮闘していました。元々は共産主義の人なのに、住民闘争にこそ希望があると確信していたのでしょう。その根底には、農業や環境問題など、エコロジー運動への深い理解があったのでしょう。

 体力の衰えで、自宅から出ることが少なくなってから、どのような生活をされていたのか。一度、おじゃまして、昔話に花を咲かせたいものだと思っていました。しかし、日常のことにかまけ、それをなさなかった自分の薄情さに気が滅入ります。
 こんな不肖の後輩ですが、天国から今後も見守り続けて下さい。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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 ■ 新潟・中越沖地震

 随分長い間、ブログを更新していませんでした。このブログは一般に公開していますが、私的な備忘録のようなものです。ですから、基本的には私の都合を優先させて綴らせていただいています。
 更新が滞っのは二つの理由からです。一つは、6月~7月の期間に転職を余儀なくされたことです。不況業種の末端に位置するような仕事についていましたが、失職しました。幸いにも新しい仕事が見つかり、早速、新しい職場に通っています。
 更新が滞ったもう一つの理由は、ブログのシステムが不具合を起こしたからです。このブログはご存じのように、「ロリポップ」という レンタルサーバーにMT(Movable Type)というブログシステムを設置しています。
 なぜMT(Movable Type)を使っているかと言うと、プロバイダー等が提供するタイプ(無料、有料のものが沢山あります)には、データのバックアップ・移動などに不安を感じるからです。MT(Movable Type)であれば、仮にサーバーを変えても、データをそのまま移動できます。その点が気に入っていたのです。
 ところがです。6月23日ごろ、ロリポップのサーバーに不具合が生じ、ハードデスクの修復の際に、MT(Movable Type)のプログラムの一部が損傷したようなのです。そのことに3日ほど前に気付きました。最近スパムコメントやスパムトラバがこなかったのはそのせいだったのです。
 以上、二つの理由によって、しばらくブログの更新ができませんでした。



 さて、ブログ再開の最初のエントリーでは、なんといっても7月16日の新潟・中越沖地震にふれないわけにはいけません。実は、私の実家は、柏崎から南に直線で20kmほどのところにあります。16日の午前11時30分ごろ、テレビのニュースではじめて地震の発生を知り、すぐに実家に電話しました。しかし「この電話は繋がりにくくなっております」のアナウンスが流れるばかりでした。
 ニュースによれば実家のある場所は「震度6弱」とのことだったので、連絡がとれないというのは不安を募らせました(後に「震度5弱に訂正)。災害伝言ダイヤルを利用して連絡を試みました。
 結局、直接、連絡が取れたのは、午後4時すぎでした。電話に出た弟が興奮気味に、「横揺れは3年前の中越地震以上だった。家は潰れていないから安心しろ」と早口に語りました。元気な様子にホッとしました。
 それにしても、どうしてこう同じところに地震が起こるのでしょう。柏崎・刈羽原発のあるところは本当にきれいな砂浜でした。子供のころ海水浴に行きました。京都に住むようになってからも、柏崎原発の反対集会に参加したことがあります。
 それが今回は「想定外の揺れ」だったそうで、ほぼ、使いものにならない状態になっています。だからいったじゃないの~って言いたくなります。(現地の様子は元新潟市議のナカヤマ・ヒトシさんのブログを参照してください)。被災住民からすれば、地震の被害と放射能の被害のおそれもあるわけですから、大変のストレスだと思います。
 柏崎市に住む友人も、かなりの被害をうけながら、生命に別状はないとのことでした。支援物資の要請があったので、チンして食べるご飯を宅急便でおくりました。
 現地からのニュースでうれしかったことは、柏崎に隣接する十日町市(=私の実家のあるとこ)の温泉施設や宿泊施設が、被災者やボランティアに対してお風呂を無料で開放したということです。私が帰省したおり必ず寄る芝峠温泉・雲海には、一日に760名を超える被災者が訪れたとのことでした。
 新潟県の人たちが力を合わせて、度重なる困難を乗りこえようとしている姿をみると、ジーンときます。

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