2011年06月21日
 ■ 「原賠支援機構法案」に反対! 東電に身を切らせ、地域独占体制を解体しよう !

■「国民負担」で東電救済

 「原子力損害賠償支援機構法」という法案が国会に上程されている。「東京電力」とか「福島原発事故」などの文言は条文のどこにもないが、苛酷な原発事故を引き起こし、巨額の損害賠償を迫られている東京電力を資金的に支援しようという法律だ。
 法律の内容は単純である。柱となるのは法案の名称でもある「原子力損害賠償支援機構」という組織(法人)を作ることだ。この「機構」に原発を持つ電力会が「相互扶助」の立場から一定の負担金を出し、政府は国債を交付し、この「機構」を経由して事故で損害賠償を迫られる電力会社に資金提供するというものだ。
img_a0d355231946b58404bbc9d1548450ac99118.jpg 注意すべきは、電力会社の負担金は電気料金に転嫁され、国債も税金から返済されるので、いずれの支援資金も最終的には「国民負担」となることだ。また、この法律は今回の福島事故に適用するために作られるが、今回だけではなく「将来にわたって原子力損害賠償の支払等に対応」とうたっており、原発政策の継続がしっかりと宣言されていることにも目を向けておきたい。
 東電の賠償問題と今後の経営形態をどうするかを巡っては様々な意見が出されてきた。それは大きく二つのスキームに分けられる。
 一つは、東電自身が債務超過になることを認めているので、一般の民間企業と同様に破綻ないしはそれに準ずる手続きをとって、公的な機関の管理下におく。その上で資産の売却などで債務(賠償)を返済し、再建・再生の手続きに入る。もう一つは、債務超過を避けるために外部から資金を注入し(条件にリストラなどを要請)、東電を現状のまま存続させる。
 国会に上程されている法案はもちろん後者の「存続スキーム」だ。ではなぜ政府は「破たん回避」のスキームを選択したのか。「東電が破たんすると迅速な賠償と電力の安定的な供給ができなくなる」というのがその理由だ。はたして、それは本当だろうか。

 ■十四兆円の総資産と三兆円の「原発埋蔵金」

 まずこの法案が作られる前提となっている「賠償金は東電一社で対応できる額をこえる」という東電の主張を検証しよう。政府はこの東電の主張を鵜呑みにして支援法作りに走ったのだが、二つのことを誤った。一つは東電のグループ会社、子会社もふくめた全資産の調査を行わなかったこと。もう一つは株主や金融機関に負担を求めなかったこと。
 現在公開されている東電の総資産は約十四兆八〇〇〇億円。その内、株主資本が二兆五〇〇〇億円、発電所・送電設備などが七兆六〇〇〇億円となっている。これに東電本体以外のグループ会社や子会社の資産も加えれば資産は膨大だ。
 これらを踏まえた上で東電を「破たん」させ資産を売却すれば「東電一社で対応できる」。「どこまで一社で賠償できるか」ではなく、膨らむ賠償額にあわせて必要な資産をすべて売却すれば資金は捻出できる。また、破たん企業の株主、銀行、社債所有者の債権の棄損は、市場原理の中では健全なルールだ。株主や銀行に支払う金があっても原発事故被害者に支払う賠償金が無い、などというモラルハザードが許されるはずがない。
 東電は、すでに六〇〇〇億円の資産売却と五〇〇〇億円の経費削減計画を発表しているが、これは「存続」を前提とした話だ。政府に設置された「東電に関する経営・財務調査委員会(委員長・下河辺和彦弁護士)」は、今後の課題として「年金減額」や「資材調達コスト減」を上げているが、これも「存続」を前提としており、資産売却の本丸である七兆六〇〇〇億円の発電所・送電設備の売却については「慎重に議論する方針」(「日経」六月十七日)とならざるを得ない。
 東電やグループ企業の資産の売却でも賠償資金が不足する場合は「原発埋蔵金」を取り崩せばよい。「原発埋蔵金」とは、公益財団法人「原子力環境整備促進・資金管理センター」が、使用済み核燃料の再処理に備えて積み立てているお金のことだ。この積立金充当の提唱者である飯田哲也氏によれば、「再処理当資金(積立金)」は本年三月末現在、約二兆四〇〇〇億円。これに「最終処分積立金」約八〇〇〇億円を加えれば三兆円をこえる。それでも足りない場合は「原子力関連の独立行政法人や公益法人を徹底精査し、補助金を全面的に引き上げるとともに、積立金等がある場合、それを充当する」(飯田、四月五日)。
 繰り返すが、東電の賠償原資は東電自らが身を切って捻出するのが原則であり、それは可能である。そうした「破たんスキーム」のオプションをすべて実行してもなおも賠償原資が不足するならば、市民は喜んで増税でも電気料金の値上げでも引き受けるであろう。東電を「破たん」させると賠償ができなくなるというのはウソで、東電を「破たん」させなければ賠償はできないのだ。

 ■地域独占に替わる新しい「電力ネットワーク」

 政府は東電の「破たん」を回避して存続させるスキームを正当化するために「電力の安定的な供給」を上げる。まるで東電や現在の一〇電力会社の「地域独占」がなければ「電力の安定供給はできない」かのような主張だ。しかし、フクシマを境にこの「神話」も崩れようとしている。
 例えば「古賀プラン」。経産省きっての「改革派」といわれ、今は閑職においやられている古賀茂明氏(大臣官房付)は、政府の東電存続スキームをいち早く批判して勇名をはせたが、「電力の安定供給を維持することと東電を守ることは違う」と主張する。そして、東電の公的な管理―東電の分割―発送電分離―電力自由化―電力産業の再生という「古賀プラン」を提起している(『日本中枢の崩壊』講談社)。
 また、前出の飯田哲也氏も、政府スキームを「地域独占体制の維持」と批判し、東京電力の分割(賠償責任のある「持ち株会社(東京電力)」と電力供給を行う「電力供給会社」に分割)―電力供給会社の一時国有化―電力供給会社の発電所部門売却―全国一体管理の「送電管理機構(会社)」という独自スキームを提案している(五月十三日、プレスリリース)。
 今、各電力会社は、夏場の電力の需給を口実にした「節電要請」を需要家に行っているが、かつては効いた「節電恫喝」も、例えば大阪府の橋下知事に「一つの会社しか選べない電力の地域独占体制に問題がある」と逆襲され、これに反撃できない始末だ。
 発電と供給をめぐる在り方は、日本の歴史においても多様であった。数百もの電燈会社や電気会社が競合・合併を繰り返していた創成期(一八八〇年代~)、五大電力の時代(一九二〇年代~)、日本発電株式会社と九配電会社という戦時下の電力国家管理の時代(一九四〇年代~)、そして日本発電解体=九電力体制の時代(一九五〇年代~)と変わってきた。
 今年、還暦をむかえた一〇電力会社による地域独占体制は、原発などの巨大発電施設と遠距離送電をセットにした高度経済成長に固有の在り方だった。成長の時代が終わったいま、原発とともに、一〇電力による地域独占体制も過去のものとしなければならない。
 新しい時代を拓くキーワードは「発送(配)電分離」と「電力自由化」だという。原発から再生可能エネルギーへのシフトに「発送(配)電分離」と「電力自由化」は大きな役割をは果たすだろう。それは同時に、電力ネットワークの在り方も変革せずにはおかない。「集権的一方向型ネットワーク」から「分散的双方向型ネットワーク」への張り替えである。
 しかし、その転換の道はバラ色の道ではない。新しいネットワークは「電力」だけではなく「削減・節電」をも商品化して売り買いするビジネスの場となる。粉飾決算で破たんした新自由主義の旗手エンロンが叫んでいたのも「電力自由化」であった。「電力自由化」を「新しい公共」としての電力ネットワークの創造に結びつけるのか、それとも、発電コストをめぐる下方にむけた新たな競争の場とするのか。原発と一〇電力体制の揺らぎのむこうに、新しい課題もまた見えてきている。


この文章は『グローカル』2012/07/01号掲載用に書いたものです。

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2011年02月06日
 ■ 琵琶湖一周ミニ旅行


 2月6日(日)。3月のような暖かいこの日、琵琶湖一周のミニ旅行を行ってきました。前々からやってみたかったこの「目的の無い」旅。イヤ目的はハッキリしていました。それは湖北の雪景色を車窓からノンビリと眺めることです。
 
 
 参考までに経路は以下の通り。

 京阪淀駅―京阪東福寺=JR東福寺―(奈良線)―京都駅―(湖西線)―近江塩津―(北陸本線)―米原―(東海道本線)―大津駅下車/大津駅乗車―京都駅―(奈良線)―JR東福寺=京阪東福寺―京阪淀駅(帰着)。

 断っておきますが、これは「キセル」ではありません。JRの規則によると大阪近郊の区間は、同じ駅を通過したり、経路を戻ったりしなければ、大回りした場合でも最短区間の電車賃でOK、ということになっているそうです。

 この「ルール」を遵守して、今回はJR東福寺からJR大津駅までの切符(230円)を買って乗車し、時計回りで琵琶湖を一周して、いったん大津駅で下車して、あらためて大津駅から東福寺駅までの切符(230円)を買って帰ってきたのでした。
 ですからJRの運賃は往復で460円。(これが琵琶湖一周にかかった純粋な電車賃)。京阪は520円。総計で980円ということになります。朝10時過ぎに淀駅を出発して帰ってきたのが午後3時過ぎ。5時間たっぷり電車に乗って、この値段は、お得です(^^;)

 面白かったのは、近江塩津駅での乗り換え。ここで敦賀行き快速から姫路行き快速に乗り換えるのですが、敦賀駅で電車を降りたほとんどの人が、ホームの反対側に止まっている姫路行き快速に乗り込むではありませんか。「琵琶湖大回り」が密かなブームとは聞いていたのですが、これほどとは。多くの人がホームで、携帯やデジカメで雪景色を撮ってはしゃいでいました。私も、何年ぶりかに目にする銀世界をたっぷりと目に収めました。

 この方法で、いったい、どのくらい遠くまで行って帰ってこれるのか。青春18切符と並ぶ楽しみが一つ増えました。だだし、欠点は、駅の外に出れないことです。

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2010年01月01日
 ■ 2010 年頭のあいさつ

新年明けましておめでとうございます。

新しい年があけると同時に、近所のお寺(妙教寺)に鐘を突きに行ってきました。最近はこれが年中行事です。

除夜の鐘は本当に108ツ突いているのか? 前から疑問に思っていましたが、今年も寺の跡継ぎ(娘の同級生)が、片手にカウンターを持って、ちゃんと、数えていました。私が帰る時、「まだ19」。「先が長いですわ」と苦笑いしていました。

鐘は二つ突きましたが、108ツの煩悩を「除去」するのはむずかしい。しかし、環境負荷が極限を超えた今、108ツの欲望を自分の力でコントロールしようという考え方は、貴重と思います。
 
さて、昨年は「起こり得ない」と思っていた二つの出来事が起こりました。一つは言わずと知れた「政権交代」。もう一つは私の故郷・新潟県の代表チーム(日本文理高校)が甲子園の決勝に進出したことです。

とくに「野球後進県」と言われ続けた新潟県の高校生が、決勝の大舞台で「9回・奇跡の大反撃」を演じたことには、胸を熱くさせられました。実況中継は見ることができませんでしたが、その夜、明け方までYou Tube でくり返し見続けました。

民主党政権がどのような社会を目指すのか、今だ不明です。にわか「応援団」に転じたり、「限界」を指摘するだけのスタンスをこえて、社会運動の側から「新しい社会ビジョン」を示す時だと感じています。

長引く不況ですが、これを「脱成長社会」へのトバ口にしたいものです。

本年もよろしくお願いいたします。

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2009年12月27日
 ■ さようなら まる!

  19年間一緒にくらしてきたネコのまるが、2009年12月19日に逝きました。前日からの急激な冷え込みが、小さな命に残された最期のエネ ルギーを奪い去ったようです。旅立つ間際の一ヶ月間、必死に生き続けようとしたあなたの姿を、私たちは決して忘れません。ありがとうまる。そしてさようなら。

 貴重なインターネットリソースを無駄に使いたくはないのですが、まるが生きた証を刻印したくて You-Tubeにアップしました。また、いまは社会人となった娘が、中学3年の時に書いたまるについての文章を、本人の了承を得て紹介することにしました。


 

1990年の12月、ペットショップで生後5ケ月のまるちゃんを買った。今、思うとまるちゃんをお金で買ったことに対して申し訳ない気がするけど、まるちゃんを飼って本当に良かった。
 二匹の仔猫が入ったカゴが、お客さんに一番よく見える場所に置いてあった。どうやらこの二匹は売れ残ったらしい。だって、ペットショップの仔猫にしては少しばかり成長していた。二匹のうちの一匹はとても元気よく、カゴの間から入ってくるお客さんの指に精一杯じゃれついていた。それはそれは愛嬌があって、お客さんの人気ものだった。
 それにくらべもう一匹の方は、まるまったまま全然動かない。寝ているのかな。顔をのぞこうとしても、その猫はまっ黒黒でどこが顔なのかわからない。そしてよく見れば寝ている所は、なんと猫用の砂トイレ。汚い。

 まるっきり正反対の二匹だった。誰もが愛嬌のいい猫を欲しがるだろうな。でも、わたしは、そのまっ黒黒の方を買った。どうしてかというと愛嬌のいいほうの猫を買うつもりで母が値札を指して「その猫だかせて下さい」と言ったら、お店の人がトイレからひょいとまっ黒黒の猫を持ち上げ、母にあずけた。母が指したのはまっ黒黒の猫の方だった。間違えたのだ。でも、抱いてみるとこれがかわいくてかわいくてたまらない。そこで、すぐにこのまっ黒黒の猫の方を買うことになったのだ。

 名前はすぐに決まった。母が「『まる』にしたら?」と言った。わたしは大賛成だ。ペルシャというふかふかの毛の長い猫で "まるちゃん" という感じがした。そのころ丁度テレビで「ちびまるこちゃん」が流行っていて、これはまるちゃんしかない、と思ったのだ。なんと言っても呼びやすかった。 家族みんな、その時々によって色々な呼び方をする。「まる」「まるちゃん」「おまるちゃん」「まるさん」「まるにゃん」「まるすけ」…。でも一番多いのは「まるちゃん」と「まるさん」かな。

 ペルシャ猫という上品な性格からか、まるちゃんはとても「お嬢さん」と言った感じである。まず、鳴き方がとてもかわいらしい。あまったるい声を出して大きい黄色い目をじっとこちらに向けて、「にゃあん、にゃあん」と鳴く。食べ物をねだる時なんかは、しっぽをピンと立てて体をくねらせて足にまとわりついてくる。これは本当にかわいらしい。この誘惑にまけてついついカツオブシをあげてしまう。仔猫のころからずっとこのあまったるい声は変わっておらず、いまでも「にゃあん、にゃあん」言っている。もう猫にしたらかなりのおばさんなのに。
 そして食事はおいしくない缶詰とカリカリだと絶対食べないし、お皿に入れて時間が経ったものも絶対食べない。どうしても食べない時は、わたしがお皿から手でつまんでまるちゃんの口に運んでやるのだ。なんとわがままで上品な食べ方だろう。
 こんな「お嬢さん」ぶりを発揮しているまるちゃんにでも、やっぱり猫の本能というのがあり、狩をする。姿勢を低くしてお尻と後ろ足をモゾモソさせ、目をまんまるくしたら狙いを定めて、バッと飛びつく。この姿は何度見ても美しい。狭い空間で飼われ、誰も狩りを教えてないのに、ちゃんと猫の本能というのがあるんだなといつも思う。
 夏なんかは、ベランダにとまっているセミを何匹もとってくる。そのたびにわたしがセミを逃がしてやるのだ。時には、部屋にバラバラになったトンボの死骸がある。どうやらまるちゃんは、捕まえたトンボを食べたらしい。これにはびっくりした。

 まるちゃんは、二回大きな手術をしたことがある。一回目の手術はまるちゃんの人生の中で一番の大事件だった。
 父が家の前にワゴン車を停めていた。ワゴン車の上は荷物が載せられるようになっていて、猫ならじゅうぶん一匹乗れた。そのころのまるちゃんは一番遊びたい盛りだったので家の窓からそこに飛び乗っては、母が家の中に連れ戻すということが朝から繰り返されていた。父がワゴン車で出かける時、まるちゃんは知らないうちにまた車の上に乗っていて、父はそれに気付かないで、そのまま車で出かけてしまった。ここからの話しは父しか知らない。
 父が京都駅近くの大通りの信号で止まってふと運転席から横を見ると黒い猫が一匹車道にいた。「あれ、あの猫タクシーに轢かれるわ。かわいそうやな」とボンヤリ眺めていたが、突然「あっ、あれは、まるとちゃうか!」と思い、車から降りて、自動車が行き交う道路でうずくまるその猫を抱えて車に入れた。その猫はやっぱり、まるちゃんだった。
 父がもし、そこの信号で車を止めなかったら…、もし横を見なかったら…、もしまるちゃんを落っことしたまま発車していたら…、まるちゃんは、いまは、この世にいなかっただろう。たとえ生きていたとしても、もう一生会えなかっただろうな。

 そのあと父は、仕事が終わるまでまるちゃんを三条のおじいちゃんのところに預けに行った。その日は夏休みで、小学生の兄とわたしは、おじいちゃんの家に預けられていた。まるちゃんは初めての場所なのに騒ぐこともなく、まるまったままじっとしていた。様子がおかしいと思い、まるちゃんのからだを調べたらケガをしていた。車から落ちた時、何かで切ったらしい。外からは見えにくい左後ろ足の内側がぱっくり開いていた。肉はもちろん骨まで見えていた。本当はすっごく痛いはずなのにまるちゃんはじっとガマンしていた。(後で知ったけど猫は辛抱強い動物らしい)。
 それからすぐに病院に行き、まるちゃんは初めての手術をして、一週間ほど入院した。命に別状はなかったが、このケガのせいでまるちゃんの左後ろ足は、ほんの少しだけだけど伸びにくくなった。まるちゃんは自分があんなめにあったことを今でもちゃんと覚えているのかな。

 二回目の手術は避妊のための手術だった。まるちゃんは室内猫だから他の猫との接触はなく、発情期になっても相手のオスがいない。たとえオスがいて仔猫が生まれたとしても、その仔猫を育てるのはむずかしい。人間のわがままかも知れないが、避妊手術をした。
 仕方がないとわかっていても、ずっといままで続いてきた血のつながりをまるちゃんの代で絶ち切ること、メスのまるちゃんは一生、恋も子育ても知らずに死んでゆくんだと思うと、まるちゃんにとってはやはり残酷なことだった。
 手術を終えて病院から帰ってきたまるちゃんは、胴体を包帯でグルグルまきにされて(これがまた可愛くもあったが)、麻酔のせいでフラフラしていた。まるちゃん、手術ごくろうさまでした。

 今現在、わたしは15歳でまるちゃんは8歳だ。つまりわたしの人生の半分以上がまるちゃんと共にある。共働きの両親の代わりに、いつも家でまるちゃんはわたしを待っていてくれた。一人で泣いている時、いつもまるちゃんは「泣かんといて」と言わんばかりに、わたしの所に来てくれた。さびしい時、悲しい時、いつもまるちゃんがそばにいてくれた。まるちゃんとの出会いがあったからこそ、今のわたしがあるのだと自分では思う。おおげさかも知れないけど、わたしにとってのまるちゃんの存在は、それぐらい大きいものだ。
 わたしの最愛なるまるちゃん、ゆっくりゆっくり歳をとって、うんと長生きしてね。そして、いつまでもわたしのそばで「にゃあん、にゃあん」と鳴いていてね。
 いままでありがとう。そしてこれからもよろしく。

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2009年06月07日
 ■ 外国人排斥を許さない6・13緊急行動 への 参加・賛同のお願い

 6月13日に「在日特権を許さない市民の会(在特会)」のデモが京都で予定されています。

外国人参政権断固反対!京都デモ
http://www.zaitokukai.com/modules/news/article.php?storyid=232

それに対し以下のような緊急行動が行なわれます。
主催者は「数と多様性で在特会を圧倒したい」と語っています。ぜひぜひ参加して下さい!


外国人排斥を許さない6・13緊急行動への参加・賛同の呼びかけ
 Join a 6.13 Emergency Action-----No to Foreigner Ostracism and ZaiTokuKai

★6月13日にデモを企画しています★
 音楽あり踊りありシュプレヒコールありのデモです。
 在特会の主張に違和感を持つ方は、その気持ちを表現するために是非!是非!ご参加下さい。一人でも多くの方の参加が本当に必要です!
 当日の参加が無理な方は、匿名でも構いませんので賛同をお願いいたします!

 (↓当日のスケジュール、賛同の送り先は下の方にあります↓)

 2009年4月11日埼玉県蕨市で、不法滞在を理由として両親が強制送還され、日本政府により家族と別れて暮らすことを強いられた中学生のカルデロン・ノリコさんの自宅・学校に押しかけるという卑劣なデモがありました。その内容は外国人を犯罪者と断定し、日本から追い出せという主張でした。主催したのは「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などです。

 今回その在特会などが、京都市で外国人参政権に反対するデモをしようとしています。私たちは今回の彼らの行動が、京都にとどまるものではなく、また外国人参政権を巡る問題だけにとどまるものでもなく、日本に新しく現れた排外主義的な動きであると捉えています。今はまだ彼らの動きは大きくないものに見えますが、不況下においてファシズムや外国人差別が肥大化した歴史を思い起こすとき、今回の動きを見過ごすことは出来ません。そこで私たちは今回彼らがデモをしようとしている6月13日に抗議の意味を込めて、「外国人排斥許さない6・13緊急行動」としてデモを企画しました。

 このような外国人排斥の風潮を許さないのだという強い意志を全国的に示すことが今必要とされているのではないでしょうか。時間が限られた中で恐縮ですが、本行動への皆様の参加と賛同を広く呼びかけます。

★Join a 6.13 Emergency Action-----No to Foreigner Ostracism and ZaiTokuKai

On April 11th, 2009, there was a demonstration which insists the foreign people as criminals and tries to ostracize foreign people from Japan. As a part of the demonstration, participants called at a house and a school of Miss. Noriko Calderon who was compelled to live alone because her parents had been extradite as illegal immigrant by Japanese Government.
This demonstration was organized by ZaiTokuKai. This group is now planning a new demonstration in Kyoto against enfranchisement of foreign people.
We consider this movement is not only Kyoto province, or enfranchisement of foreign people, but an action of newly risen exclusivism in Japan. This movement has not been sophisticate, but we can not overlook their activities as we remember growing Fascism and Exclusivism during depression.
Now, we planned an anti-action against ZaiTokuKai as “6.13 Emergency Action-----No to Foreigner Ostracism and ZaiTokuKai.” Although, there is not enough time till this action, we call on for your participate and adhesion.

★外国人排斥を許さない6・13緊急行動★
◆日時 6月13日(土)
 11:00 京都・三条河川敷集合→11:30 デモ出発→12:30 デモ解散(三条河川敷)→解散後ビラ配り
 11:00  We meet at River area of Sanjo, Kyoto→11:30 Demo. Start→12:30 Demo. finish→We hand the leaflets on a street.
◆主催:外国人排斥を許さない6・13緊急行動実行委員会
◆連絡先:613action@gmail.com

■注意事項
・在特会はネット上への動画のアップを戦術的に行っていますので、当日私たちの行動に対する撮影が予想されます。不当な撮影には抗議していきますので、その際は実行委員に声をかけるようにして下さい。それでも撮影を完全に防ぐことは難しいので、顔を写されたくない方は各自で工夫をお願いいたします。
・当日の撮影は、基本的に実行委員会のみに限らせていただきます。撮影を希望される方は事前に613action@gmail.comまで連絡を下さい。

 We regulate shooting of demonstration. But ZaiTokuKai may take photos of you without permission. Please be aware to protect your own privacy.
If any of participants would like to take photos of the demo., please contact to the committee (613action@gmail.com) beforehand.

==メールフォーム(下記をコピー&ペーストして613action@gmail.comまでお願いします)==

●外国人排斥を許さない6・13緊急行動に賛同します。
I sympathize with the “6.13 Emergency Action.”

○賛同団体・個人名(肩書きがあれば) Name(individual or group)

○公表します・公表しません Can we publish the name? (Yes or No)

○一言メッセージなどあればお願いします Post your message, if you have.


 ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新聞、障害者、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、それでもなお行動にでることはなかった。そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
(マルティン・ニーメラー・ナチスに抵抗したルター派牧師)

■6月3日18時時点での賛同は個人・団体合わせて128名です(敬称略)。
【個人】青柳行信(NGO人権・正義と平和連帯フォーラム・福岡代表)、浅井美里、在野真麻(Wheelchair's EYE)、RS(東京都)、五十嵐守、石原みき子、稲葉奈々子(茨城大学准教授)、イダヒロユキ、伊藤公雄(京都大学教授)、ぅきき、宇野善幸(大学院生)、梅尾直人、遠藤礼子、大須賀護(仏教者)、大月英雄、岡晃子、小野俊彦(fuf)、各務勝博(京都プレイバックシアター)、垣渕幸子、角崎洋平、叶信治(東九条のぞみの園副施設長)、河添誠(首都圏青年ユニオン書記長)、川端諭、木谷公士郎(司法書士)、木下直子、金友子、草加耕助(京都市民・『旗旗』サイト管理人)、熊沢誠(研究会「職場の人権」代表)、黒瀬隼人(自由労働者連合評議会議長)、黒目(有象無象)、高敬一(KMJ事務局長、NPO法人サンボラム理事長)、上瀧浩子(弁護士)、近藤昇(寿日雇労働者組合)、酒井隆史(大阪府立大学准教授)、崎山政毅(立命館大学教員)、櫻田和也(indymedia japan)、佐藤恵(カトリック正義と平和協議会)、さぶろう(東京)、澤田春彦(自由労働者連合)、塩見静子、嶋田頼一、首藤九尾子、白崎朝子、鈴木耕太郎、高橋淳(生活書院)、高橋慎一(ユニオンぼちぼち)、竹林隆、田中渥子、田中玲、立岩真也(立命館大学教授)、張ヨンテ、鶴見俊輔(哲学者)、冨田成美、中倉智徳、中村和雄、仲村実(管理職ユニオン・関西副委員長)、西浦隆男、西岡裕芳、野々村耀、ハギハラカズヤ、橋口昌治、橋野高明、原田光雄(聖公会司祭)、濱西栄司(京都大学大学院)、樋口直人(徳島大学准教授)、平田正造(ヨシノ支援プロジェクト代表)、平田義(愛隣館研修センター)、藤井かえ子(神戸YWCA)、藤谷祐太、舟木浩、細川孝、堀田義太郎、堀内慶子、堀江有里(日本基督教団・牧師)、前川純一、松本朗、南守、三牧建一、村上麻衣、村木美都子(NPO法人東九条まちづくりサポートセンター事務局長)、村田豪、盛岡晋吾、役重善洋(パレスチナの平和を考える会)、山口智之、山本純、山本崇記(関西非正規等労働組合)、由良哲生(寿日雇労働者組合)、吉田幸恵、吉田信吾、ヨシノユギ(大阪医科大GID医療過誤裁判原告)、渡邊太、渡辺学、匿名(14名)

【団体(22)】アイヌ・沖縄を考える会、アジェンダ・プロジェクト、ATTAC関西、ATTAC京都、うさちゃん騎士団SC、釜ヶ崎医療連絡会議、釜ヶ崎パトロールの会、関西単一労働組合、関西非正規等労働組合(ユニオンぼちぼち)、関西フィリピン人権情報アクションセンター、旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都、京都精華大学社会科学研究会、憲法を生かす会・京都、社会運動研究会、高齢者特別就労組合準備会、「心の教育」は、いらない!市民会議、寿日雇労働者組合、失業と野宿を考える実行委員会、すべての外国人労働者とその家族の人権を守る関西ネットワーク(RINK)、反戦と生活のための表現解放行動、PeaceMedia、ペンギンの会(自立障害者グループ)

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2009年05月22日
 ■ 「新型インフルエンザ対策 及び 報道に関する 緊急アピール」 九州薬害HIV訴訟原告団/九州薬害HIV訴訟弁護団(2009年5月21日)

 4月末にメキシコでの豚インフルエンザ発生が報じられて以来、厚生労働省及び自治体はインフルエンザ対策に奔走し、マス・メディアは連日のようにこのニュースを大々的に取り上げています。5月9日には、日本における最初の感染者が確認され、18日には兵庫、大阪の2府県で計2664校の休校が決定されたと報じられています。

 私たちは、このような行政やマス・メディアの対応をみるにつけ、1980年代後半のエイズ・パニックを思い起こさざるを得ません。
 感染の恐怖を煽ることを感染症対策の柱とした行政と、それに無批判に乗ったマスコミの過剰報道により、感染者たちは、職場や学校から排除され、医療からさえも拒まれました。

 1989年にはエイズ予防法が成立し、圧倒的多数の感染者は、感染の事実を誰にも告げることができず、社会からの孤立を強いられました。この状況は、いまもなお続いています。この時期に社会を席巻したHIV感染者に対する差別・偏見は、いまもなお日本社会に根深く残っているのです。

 同様のことは、ハンセン病問題にも言えるはずです。

 1996年に成立した感染症予防法が、その前文で、「我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。/このような感染症をめぐる状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている」と謳っているのは、このような過去の感染症対策に対する反省があったはずです。

 ところが、今回の新型インフルエンザに対する行政、マスコミの対応には、そのような過去の感染症対策に対する反省が全く活かされていません。

 感染者は、何よりもまず「治療を必要としている患者」として扱われるべきであり、「社会防衛の対象となる感染源」として扱われるべきではありません。感染源としての扱いは、感染者が医療にアクセスすることを妨げ、結果的には感染者の潜伏に繋がります。感染者の人権に配慮しない感染症対策は、感染症予防策としても拙劣です。

 私たちは、行政担当者及びマス・メディアの方々に、過去の感染症対策の反省と、新型インフルエンザの感染力・毒力の正確な評価に基づいた冷静な対応を強く求めるものです。

 九州薬害HIV訴訟原告団 / 九州薬害HIV訴訟弁護団
 連絡先: ちくし法律事務所 092-925-4119

古賀克茂法律事務所ブログより

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2009年05月17日
 ■ 豚インフルよりも恐いもの

 豚インフレエンザ騒動が続いています。ついに渡航歴なき高校生が感染し、感染者が拡大中です。しかし、豚インフルエンザそれ自身の怖さよりも、それが引き金となって表出しはじめた政治・社会の「歪み」の方がもっと恐いように思います。

 そもそも「水際作戦」で防ぐと言う政府の方針がおかしかった。人・物・カネがグローバル化している今日、それが無理なのは分かっていました。しかし、人工衛星の「落下」を迎撃ミサイルで「破壊」できると信じている政治家には、それが理解できなかったようです。膨大なお金を投入して「水際作戦」を展開しましたが、あえなく「敗北」しました。その昔、B29の空襲に対して、竹槍で対抗しようとしたのと同程度の政治が、今も続いているようです。

 そして、感染者へのイジメも深刻です。寝屋川の高校には、「なぜ、旅行先でマスク着用をしなかったのか」という電話やFAXが殺到したそうです。橋下知事まで便乗して、当該の教師を批判しました。しかし、マスクで感染を防げるのでしょうか。WHOは「確証はない」と公式にコメントしています。むしろマスクで防げると信じる人が、他の手段をおろそかにすることによって感染が拡大することを警告しています。

 ところが政府はマスク着用を奨励しています。マスクの品薄を見越して、ネット上では「即納」を宣伝する広告が活況を呈しています。ひょっとして、この政府の対応って、「エコポイント」と同じで「経済危機対策」なのでしょうか。

 イジメをしているのは政府も同じです。帰国した高校生は7日間もホテルに「拉致」されました。米国では「隔離」ではなく自宅待機が奨励されています。「むやみに病院に行くな」とまで、NY市長は市民に訴えています。日本では国民に「冷静な対応」を訴えている政府自身が「冷静な対応」をせず、恐怖心をあおっています。その結果、感染者へのイジメ、諸イベントの中止、自粛などを呼び起こしています。(甲子園のジェット風船も自粛だそうで、これで、タイガースの借金もさらに増えることでしょう)。

 今わかっている豚インフレエンザの特性は次のようなものです。

 ・弱毒性である。
 ・濃厚接触で感染する。
 ・死亡率0.03%
 ・タミフル等が効く。

 ところが政府の対応は、強毒性のインフルエンザ(H5N1)を想定したマニュアルにそっています。これがそもそもの誤りです。なぜこうなったのか、裏には、厚労省の役人の思惑(豚インフルを名目にした危機管理の実験をやりたい)がありそうですが、本当のところはわかりません。政府もそろそろ軌道修正するようです。今時の騒動は夏の到来とともに引くでしょう。

 一般のインフルエンザが猛威を振るう秋・冬以降が次の山場となるでしょう。このまま歪んだ政治と社会が続く限り「犠牲者」の拡大は必至です。

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2008年01月06日
 ■ 妙教寺と三つの戦(いくさ)

 ◆戊辰戦争-いまも柱に残る弾痕

 私が住む京都・伏見は、日本を二分した内戦が勃発した土地です。明治維新に軍事的決着をつけた戊辰戦争は1868年1月2日(いまからちょうど140年前)、ここ鳥羽、伏見からはじまりました。

PC020022.jpg その戦跡は今も地区のいたるところにあります。中でも有名なものが、私の住まいのすぐ近くにある「妙教寺」というお寺の境内にある柱の弾痕です。西軍と東軍が宇治川堤・伏見街道と桂川沿いの鳥羽街道に分かれて激しく撃ち合い、その弾の一発が本堂の壁を突きやぶって飛び込み、内陣の柱を貫通し裏庭にまで転がったといいます。その柱が今でも残っているのです。

 また、戦没兵を偲ぶ「東軍戦死者慰霊碑」もあります。私のすむマンションの横、自治会館前、東軍が進軍した鳥羽街道沿(愛宕茶屋跡)、伏見街道沿いの京都競馬場駐車場入り口など、地区内をちょっと歩くと目にすることができます。勝者(西軍)の戦没者は靖国神社で「英霊」あつかいされていますが、敗者(東軍)のそれは地域の民によってこうしていまでも弔われているのです。でもなぜ、この地に東軍兵の碑はあるのに西軍兵の碑がないのか、本当の理由を私は知りません。

 ◆秀吉を天下人にした「天王山の戦い」

 この地にはもう一つ、歴史を画した大きな戦(いくさ)の跡があります。秀吉と光秀が激突した「天王山」の戦いです。「天王山の戦い」というと、天王山がある山崎が主戦場だったようなニュアンスがありますが、それは秀吉側にとっての話しであり、光秀側は淀城があるこの地を拠点にして戦いました。そして、この中世淀城の掘の脇にあったお寺こそ「妙教寺」なのです。詳しい史料はないようですが、両軍あわせて6600人もの戦死者を出した大戦(おおいくさ)ですから、妙教寺の周りががどんな様子だったか、想像はつくと思います。

 ◆アジア太平洋戦争と妙教寺

 「妙教寺」と「戦(いくさ)」の「縁」は実は、これだけではないのです。というよりも、ここからが今回のエントリーのハイライトです。それは、ここの元住職さんとアジア太平洋戦争にかかわる話しです。わたしの拙い文章より昨年8月に「産経新聞」に掲載された文章の方がずっと感動的ですので、それを全文紹介します。

伝えゆく戦争
破戒の悔いを季刊紙に
京都・妙教寺の「洛南の鐘」

 約60年間にわたって平和を願う季刊紙を発行し続け、戦争体験を語り継いでいる僧侶がいる。京都市伏見区の妙教寺前住職、松井東祥さん(93)。太平洋戦争で九死に一生を得て生還したものの、僧侶でありながら人を殺したジレンマは今も消えることはない―。

 松井さんが赤紙を受け取ったのは、昭和18年。住職になって数年後のことだった。兵役検査では最低の「丙種合格」だったため、当分戦場に行くことはないだろうとタカをくくっていた直後に招集され、中国・太原へ出征した。

 現地では一日中演習に明け暮れた。上官の理不尽な仕打ちにたえうる
うち、「牛や馬のように何も考えられない奴隷になった」という。約1年後、松井さんを含む7~8人が突然上官から呼び出された。「今日は実際の訓練だ」。目の前のナツメの木には中国人の男性が縛り付けられ、1人ずつ銃剣で突き刺すよう命令された。

 「突け」。松井さんの番が来た。「こいつは人間じゃない。でくの坊だ」。そう無理に思い込んで、男性の左胸めがけて突き刺した。上官の命令は絶対で、人を殺すという行為を深く考える余裕はなかった。

P1060093.jpg 昭和21年に帰還したが、喜びもつかの間、僧侶である自分が人を殺したという事実が次第に心に重くのしかるようになった。仏教であらゆる生き物を殺すことを戒める「不殺生戒」。この戒めを僧侶である自分が破ってしまった―。「戦争は人を殺すことだという当たり前のことに、ようやく思い至ったのです」「真の平和は武力によって得られるものではない」「畜生の心は弱きをおどし、強きにおそる」―。松井さんは23年から、そんな巻頭のことばを毎回掲載した季刊紙「洛南の鐘」を執筆、檀家むけに配りはじめた。同時に、説法で自らの戦争体験を包みかくさず話した。

 今年3月。高齢の松井さんに代わって、長男の遠妙さん(58)が仕事を辞め住職を引き継いだ。同時に「洛南の鐘」の執筆もバトンタッチ。「いつの時代も変わらないのが戦争の悲惨さ。父親が命をかけた活動を、私の代で終わらせるわけにはいかない」

 終戦から62年目の今夏、「洛南の鐘」の244号を発行した。平和を願う”灯”もまた親から子へと引き継がれた。

「産経新聞」(07年8月13日)


 ◆戦没学徒・木村久夫の碑

 私は、妙教寺にある弾跡柱の話しは知っていましたが、元住職の戦争体験とそれに基づく活動についてはまったく知りませんでした。昨秋、東軍碑でも見せてもらおうとぷらりと立ち寄った際、たまたま寺前の掲示板にある新聞の切り抜きを読んで、はじめて知ったのでした。そして境内に入って、さらにもう一つの戦争の歴史と向き合わされることになります。それが戦没学徒・木村久夫の歌碑と、それをしのぶ碑です。

 音もなく我より去りしものなれど、書きてしのびにぬ明日という字を 木村久夫

 この碑の横に、元住職の筆によるものと思われる、木村久夫を偲ぶ碑もありました。

木村久夫君は、京都大学に在学中学徒兵に徴集され、終戦後シンガポールにて逃げ去った上官の責任を負わされ、無法にも絞首刑となって若き命を断たれた。昭和二十一年五月二十三日、二十八歳。この歌は刑執行確定後の作である。木村君の遺書全文は「きけわだつみのこえ」に収録されている。 乞必読。

 木村久夫の歌碑は、檀家である木村家によって10年ほど前に建立されたそうです。この巡り合わせにも驚きます。私は、「乞必読」に促されて「きけわだつみのこえ」をひもといてみました。田辺元の『哲学通論』の余白に書かれた遺書。木村久夫が戦争法に照らしても、無実であることは間違いないように思います。それでも彼は遺書でこう書いています。

 私は死刑を宣告された。…略……我ながら一遍の小説をみるような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いてきた。大きな歴史の転換の下には、私のような陰の犠牲がいかにおおくあったかを過去の歴史に照らして知る時、まったく無意味にみえる私の死も、世界歴史の命ずるところと感知するのである。

 日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難とのまっただ中で負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのはまったく当然なのである。今私は世界人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世界人類の怒りがすこしでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を残すことなのである

岩波文庫 新版「きけわだつみのこえ」P444~445)

 月並みですが胸を締め付けられます。戦争の責任をとらなかった上官。無実でありながら「将来の日本に幸福の種を残す」と絞首台の露と散った学徒兵。この関係が、あれから63年を経た今も、なんら変わっていないことを考えると、木村久夫に申し訳ない気持でいっぱいです。

 最後に木村が処刑の前夜に作り、処刑の半時間前に書き終えた歌を紹介して終わります。
 

☆おののきも悲しみもなし絞首台 母の笑顔をいだきていかむ

☆風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし

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2008年01月01日
 ■ 新年あけましておめでとうございます

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 昨年は参院選で自民党が大敗するなど、変化の兆しが出てきた年でした。貧困や格差が「自己責任」で語られる風潮から、社会や時代状況に原因を求める文脈が力を持ちつつあります。「生きさせろ」(雨宮処凛)や「希望は戦争」(赤木智弘)など、30代ノンエリート言論人の「自己責任論」への正面戦に大いに共感します。

 私は「ベーシック・インカム」(基本所得:すべての住民に無条件で基本的な生活が出来るお金を支給する)という制度改革に希望を見い出しています。「経済成長―完全雇用―福祉実現」という20世紀のモデルは、もはや、地球の温暖化防止とも、人々の自由さとも相いれません。

 「ほどほどに働き、ほどほどに消費する」。

 個人も地球もその方向に、少しでも舵を切れる年にしたいものです。 本年もよろしくお願いします。

※写真は宇治川土手からの「初日の出」(08/01/01/ 7:20)

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2006年04月29日
 ■ 「地裁が泣いた」

 京都で先週(2006年4月20日)に開かれたある「殺人事件」の初公判の記事(毎日)です。関西エリアにしか掲載されていないようですが、その事件のあまりに「悲しい」内容と、異例の公判風景に、かなりの反響があったようです。(ブログでもたくさんの方が取り上げています。ありがとう。)

 実は、この事件、私が住んでいる街の出来事です。私は、新聞でこの事件のことは知っていましたが、ほとんど気にとめていませんでした。事件の背景や本質的なことは、初公判の内容が報道されてからはじめて知りました。近くに居ながら恥ずかしい限りです。

 先日、事件の現場のサイクルロードに行き(自宅から自転車で5分ほど)手を合わせてきました。住宅地からサイクロードに登る道は一つだけ。被告のKさんがどんな気持で車椅子を押して登ったのかと思うと、涙がとまりませんでした。


『毎日新聞』2006/04/20より

 もういきられへん。ここでおわりやで
 そうか。いっしょやで。わしの子や

 京都・認知症母殺人初公判
  ―― 地裁が泣いた ――
 介護疲れ54歳に「情状冒陳」

 認知症の母親(86)の介護で生活苦に陥り、相談の上で殺害したとして承諾殺人などの罪に問われた京都市伏見区の無職、K被告(54)の初公判が20日、京都地裁=東尾龍一裁判官(54)=であった。

 K被告が起訴事実を認めた後、検察側がK被告が献身的に介護をしながら失職などを経て追いつめられていく過程を詳述。殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

 事件は今年2月1日朝、京都市伏見区の桂川河川敷で、車椅子の高齢女性とK被告が倒れているのを通行人が発見。女性は当時86歳だった母で死亡。K被告は首から血を流していたが、一命を取りとめた。

 検察側の冒頭陳述によると、K被告は両親と3人暮しだったが、95年に父が死亡。そのころからく母に認知症の症状が出始め、1人で介護した。母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。K被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。

 介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。力ードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」。K被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区の桂川河川敷の遊歩道で「もう生きられへん。ここで終わりやで」などと言うと、母は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。K被告が「すまんな」と謝ると、母は「こっちに来い」と呼び、K被告が額を母の額にくっつけると、母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。

 この言葉を聞いて、K被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺害し、自分も包丁で首を切って自殺を図った。

 冒頭陳述の間、K被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を振るわせ、眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。

 自宅近くの理容店経宮、松村和彦さん(44)は、「(K被告は)母親と手をつないでよく散歩し、疲れて座り込むとおぶっていた。(事件を聞いて)行政で何とかできないものかと思った」と語る。【太田裕之、石川勝義】


■フォローが必要

 津村智恵子・大阪市立大医学部看護学科
  教授(地域看護、高齢者虐待)の話

 介護心中の典型的ケース。高齢者虐待の中でも最も悲惨な結末。4月1日から全国の市町村に「地域包括支援センター」が設置されており、追い詰められる前に相談してほしい。被告人が社会復帰しても孤立すれば自殺の恐れもある。フォローとケアが必要だ。


■被告の努力示す

 弁護を担当している池上哲朗弁護士の話)

 (検察側の被告に有利ともとれる冒頭陳述などについて)非常に珍しい。それほど悲しい事件ということ。警察官に対する調書も涙なしには読めず、心に触れたのではないか。公判でも被告がいかに一生懸命頑張ってきたかを示したい。

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2005年11月23日
 ■ 飯沼二郎さん偲ぶ会で「ウィシャル・オーバーカム」

 京都べ平連の代表者だった飯沼二郎さんが、九月二十四日に亡くなりました。十一月五日には、飯沼さんと市民活動を共にした人達が「飯沼二郎先生を偲ぶ会」を開きました。
 飯沼二郎さんは、私が十九歳のとき、京都に出てきて初めて参加した市民運動(「南ベトナムの政治犯を釈放する運動・京都」)の代表でした。
 高校生の頃、新潟の田舎町で「ヤングべ平連」のビラを貼ったりしていたので「小田実」や「飯沼二郎」や「吉岡忍」は憧れの人でした。初めて参加したその例会で、向かいに座った少しくたびれたズボンを履いたおじさんが「飯沼二郎」だと知りビックリしたことを今でも覚えています。以降、色々な場面で飯沼さんとご一緒させていただきました。
 三里塚闘争では、近代農法、基本法農政を批判する視点として「小農複合経営」という考えを教えていだだきました。恥ずかしながらそれまで、飯沼さんが農業学の高名な学者さんであることを知りませんでした。
 また、八〇年の光州蜂起の時は「金大中氏を殺すな!」の座り込みの先頭に立たれました。その運動で出会った私の職場の同僚の林敏秋さんが、三里塚裁判で有罪判決を受け、柳本製作所を解雇された時、「解雇撤回」のために会社と掛け合ってくださったのが飯沼さんです。労働運動にも一役買っていたのです。
 「偲ぶ会」には、実に多彩な人たちが集まりました。六〇年代から七〇年代の「ベトナムに平和を!市民定例デモ」の参加者たち。八〇年代の「原爆の図展」実行委員会メンバー。「君が代訴訟」の元原告人。それに、姜在彦さんら在日朝鮮人・韓国人。さらに農業関係者の方々。そして東京からは元べ平連・事務局長の吉川勇一さんらも参加されました。
 その顔ぶれを見ると、飯沼二郎さんが、多分野で、深く、広い繋がりを作っておられたことが、よくわかります。「人脈を作る」などという政治的な打算とは無縁な人だったからこそ、これだけ多くの人々と繋がれたのだろうと思います。
 私が飯沼さんに出した最後の手紙は、管制塔カンパのお願いでした。正直言ってあまり期待していませんでしたが、色々なカンパ依頼に律儀に少額づつ応えてくださる方なので、金額より、お元気な様子を知ることができるかと、ちょっぴり楽しみにしていました。しかし、返事は来ませんでした。新聞で訃報を知ったのはそれから間もなくのことです。
 「偲ぶ会」の最後は、一四〇名の参加者による「ウィシャル・オーバーカム」の大合唱でした。弱者・少数者の解放のために歩み続けた飯沼さんを送るにふさわしい歌です。心よりご冥福をお祈りいたします

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2005年09月15日
 ■ 小選挙区では「民営化反対」が民意(多数票)

 総選挙が終わりました。結果は、巨大な2/3与党の出現。これをもって、「国民は、郵政民営化に賛成の民意を示した」と小泉首相は言います。

 だが、ちょっとまって欲しい。下の数字は、今回の選挙で小選挙区で得た政党別の得票率を「国民投票」風に分析したものです。分析と言っても、足し算しただけなのですが…。

○賛成  自 + 公     =49.2% (議席数 227)
○反対  民+共+社+国+日+他 =50.8%(議席数  73)
      (数字は「朝日」9/13朝刊から) 

 結果は、 賛成「49.2%」、反対「50.8%」です。

 もし、今回の小選挙区での投票が「郵政民営化法案」や「小泉改革」への賛否を問う正式な「国民投票」であったのなら、結果は「否決」ということになります。 だだし、比例区では違う結果になります。しかし、それも、「51.5%」対「48.5%」の僅かな差です。

 小泉首相は、「今回の総選挙で示された『郵政民営化は必要だ』という国民の皆さんの声によって、ようやく改革の各論に踏み込んで、この郵政民営化を実現することができるようになりました」(小泉メルマガ、第202号)と言いますが、小選挙区、比例区の各党別の得票率が表していることは、民意は「郵政民営化」「小泉改革」をめぐって二分したまま、というのが正確なところでしょう。

 あれほどマスコミを上げてのウソ八百を並べた「民営化推進」の大キャンペーン、刺客騒動の「小泉劇場」の演出の中でも、冷静に判断した上で投票を行った有権者が半数にも上ったという事実こそ、私たちが、今回の選挙の中から財産として救い上げるべき事柄ではないでしょうか。

 そして、民意を忠実に政治に反映させるために、小選挙区制度の即刻の廃止と「国民投票制度」の新設という「改革」こそ、必要なのではないでしょうか。

 「改革」を止めるな!!

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2005年02月18日
 ■ 寝屋川・教師殺傷事件に思う

 2月14日、大阪の寝屋川市立中央小学校で、17歳の卒業生が教職員3名を殺傷するという痛ましい事件が起こりました。中央小学校は、私の知り合いで「無所属/市民派」の市会議員をしておられるYさんの事務所のすぐ近くです。さぞ大変だろうと思い、2月15日に次ぎのようエールを送らせて頂いた。


Yさん
 思わぬ大事件が勃発してしまいましたね。寝屋川市立中央小学校は、Yさんの事務所のすぐ近くで、市役所からも、ほんの200メートルほどのところではないでしょうか。

 こんどの事件で、お亡くなりになった鴨崎満明さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

 私は、こういう事件の度に、殺人などの「犯罪」は、決して一人でなせるものではない、と考えてしまいます。すでに容疑者とされる「少年」は、小学校時代の「いじめ」で担任に恨みをいだいていた、という報道がなされています(警察は供述を否定)。

 少年を「殺人」にまで駆り立てるものとは何なんでしょう。そこを凝視し、そのベクトルを解明し溶解させることが、こうした痛ましい事件をくり返さないための本質的な問題だと思うのです。

 ところが、いま、日本のあちこちで、そして、夕方のニースでは寝屋川市でも、「不審者」から「子供」を「守る」と称する「パトロール」運動が始まっているようです。昨年の奈良でもそうでした。

 「不審者」vs「子供」、「不審者」vs「健全者」という単純な二分法が、社会や学校をどれほど息苦しくさせ、それらへの恨みを増幅させていることか。私たちは、少し立ち止まって考えてみる必要があると思います。

 事件の起きた地域では、ショッキングな事件であるがゆえに、異質な者から社会を防衛したいという意識が高まるのは致し方ないことだと思いますが、「不審者」や「病者」を排除していく方向が、決してと住民にとって「安全」で「安心」な社会ではないという点を、ぜひ、当該市の議員として、訴えていってほしいと思っています。

 二年前の宇治小学校事件の時は、学校と保護者の懇談会の席で、精神病者の行動を事前に把握しておくべきだ、などという意見が噴出しました。同席していた市会議員も、その意見に追従しています。

 私は、自分の学校体験から、どうしても、少年が抱いていたであろう底なしの「絶望感」について思ってしまいます。そして、たった一人でもいいから、少年とこの「絶望感」を共有してくれる人がいたのなら、少年は「凶行」に走らなくてすんだのに、と無念でなりません。

 その意味で、この事件の全責任は、我々大人にあります。

 市民や子供の安全を「守る」立場にある市会議員としては、私のように単純に考え、振る舞うことは難しいとは思いますが、この不幸な事件を契機にして「安全」についての考えが、当該の地域で深まっていくことを、それをYさんがリードして下さることを、切に願っております。



Yさんのホームページ(イニシアルで表記する意味がないネ)
「日記」に事件のことがコメントされています。

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