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2007年03月31日
 ■ 階層の「再生産」としての格差と貧困をこえて―ベーシック・インカムを考えよう

 この論文は、『現代の理論』VOL11(07年春号)に掲載されたものです。


 ■朝日「ロストジェネレーション」の錯誤

 『朝日新聞』が本年(二〇〇七年)一月、「ロストジェレーション―二五~三五歳」という連載ものの新年企画を組んだ。「今、二五歳から三五歳にあたる約二千万人は、日本がもっとも豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。『第二の敗戦』と呼ばれたバブル崩壊を少年期に迎え、『失われた一〇年』に大人になった若者たち。『ロストジェネレーション』。米国で第一次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に従って、彼らをこう呼びたい。時代の波頭に立ち、新しい生き方を求めて、さまよえる世代。日本社会は、彼らとともに生きていく」(『朝日新聞』二〇〇七年元旦一面、「時代の谷間 私らしく ロストジェネレーション」より)。
 十一回の連載では実に多様な二五~三五歳が紙面に登場した。一八歳で就職してから八年間で三〇をこえる「日本を代表する企業」の関連工場を転々とした派遣労働者(二六歳)、海の向こうに「私の居場所」を捜す日本語教師(二九歳・女性)、地方議員を「仕事」として選ぶ候補予定者(二六歳)、官僚レールを「途中下車」して自分の力で「波を起こす」ために転職した元官僚(三一歳)、そして、経済の地盤沈下で「フリーターにすらなれ」ず、生活保護でくらす夕張市出身者(二五歳)などなど。 連載を補完する別紙面での「特集」にも力がこもる。「四人に一人が非正社員」「世帯の所得 働き方で五倍の差」(一日)「彼らの現場の体験記」(三日)「格差 漂う若者 仕事 不安抱え」(五日)「消費 つかみどころなくヒットでず」(六日)「彼ら 海のむこうにも、フランス、イギリス、韓国」(七日)。
 一読してこの新年企画の根っこのところに、格差問題に対する問題意識があることは明かだ。しかし、それをストレートに取り上げずに「世代」の問題として提起したところにこの企画の「らしさ」があったと言える。しかし、ここに大きな錯誤があるように思う。一つは、この世代の「格差」の原因を不況による「就職氷河期」に求めるのはあまりに表面的過ぎるということだ。紙面は語る。「ロストジェネレーションは、企業が新卒採用を一斉に控えた『就職氷河期』に、社会人となった」。だが、その「就職氷河期」は、企業がグローバル化の中で生き残りとして選択した雇用の柔軟化戦略の一つの現れだったのではないか。だから景気が回復した後も非正社員は増え続けているのだ。
 もう一つは、正社員と非正社員・無業者に大きく別れているこの世代の若者=二〇〇〇万人を「ロストジェネレーション」という言葉で一括りにするのはやはり妥当ではないということだ。特集の中に記者による「ワンコールワーカー」の体験記があった。「記者の立場を明かさずに」携帯電話で派遣会社に登録し、電話で指示をうけて現場に行き、タマネギの芯剥きや基盤にジャックを差し込む「単純作業」を「体験」したレポートだ。三三歳の「同世代」の記者が書いている。実質の時給が最低賃金を下回る中での作業のキツさは、タマネギの臭いと共に伝ってきた。しかし一番肝心の「ワンコールワーカー」の不安感は伝わってこない。どんな優秀な記者でも、存在そのものから来る不安感は「体験」しようがないからだ。
 この連載企画の最終回に登場したフリーターをテーマにした劇を上演する「劇団主宰者」は、書かれた「記事」の背景に次ぎのことがあったと報告している。取材に来た朝日新聞の記者が黒塗りのハイヤーを使って来たこと。ブランドのバッグをさげていたこと。乗降時に白い手袋をした運転手がドアを開け閉めしたこと。
 一方に、今日の仕事はあっても明日の仕事が保障されない「ワンコールワーカー」。他方に、黒塗りのハイヤーに乗って「同世代」を取材してまわる朝日新聞の記者。「ロストジェネレーション」という世代をひと括りにする論じ方で見えなくなるのはこの「分岐」だ。問題はこう立て直されねばならない。同じ「就職氷河期」をくぐりぬけながら、誰が「ワンコールワーカー」になり、誰が「朝日記者」になるのか、と。

 ■「分岐」は出身階層と密接に結びつく

 二五歳から三四歳の非正社員は三三四万人、雇用者の四人に一人の割合になる。これに「無業者(ニートなど)」を加えて「フリーター・無業者層」と呼ぼう。ではこの「フリーター・無業者層」になるのはどのような若者なのか。いささ古い資料になるが、この問題に最初に光をあてた耳塚寛明らの調査から次ぎのことが浮かび上がる。首都圏のフリーター一〇〇〇人の調査(二〇〇〇年)による。
 第一に、「フリーター・無業者」として社会に出てくるのは高卒者に多いことである。「パート、アルバイトあるいは無業者」になった者の割合は「大卒者で(中略)は、二三・八%、これに対して高卒者では五四・〇%におよぶ」。第二に、同じ高卒者の中でも「相対的に低い社会階層の出身者に多いのである」。「父親の学歴と子供の正社員率をくらべると、父親が大卒や高卒の場合、正社員率は四~六割だが、父親の学歴が中卒の場合は、正社員率は二割を切る」。第三に、高卒者で「無業者」となるのも低階層出身者である。「父親の職業が専門・技術職、管理職などのホワイトカラー家庭で、無業者となった者は一四%、これに対して、いわゆるブルーカラー家庭出身者のそれは三一%だった」。
 こうした高卒者の情況から、高校中退者や中卒者が、高卒者よりさらに不利な立場に置かれていることは容易に想像できる。「(フリーターや)無業者として卒業していく生徒たちの出現率は、社会階層と密接に結びついている」のである。(以上『世界』二〇〇三・二 耳塚「誰がフリーターになるのか」より)
 これに加えて、無業者の出身世帯の「四割弱が年収三〇〇万円未満」(「若年無業者に関する調査(中間報告)」〇五年)という指摘も忘れてはならない。若年無業者は経済的に貧しい家庭に生まれているのだ。
 今、こうした若年の「フリーター・無業者層」の低賃金による貧困問題がクローズアップされている。その割合や実態は十分には分かっていないが、岩田正美らが「消費生活に関するパネル調査」(九三年~〇二年、若年女性個人を継続調査)のデータをもとにして行った貧困ダイナミクス分析は重要である。それによる学歴と貧困の関係は明瞭だ。
 中卒者で「固定貧困層」か「一時貧困層」になる割合は六八%。対して大卒者の「固定貧困層」は五・三%に過ぎない。中卒者の場合、夫と離死別して子供を抱えた場合は固定貧困層に陥りやすい。逆に高学歴でかつ正社員で、夫がいて子供ゼロの場合はまったく貧困とは無縁だ。(以上『思想』二〇〇六年三月号、岩田「バスに鍵はかかってしまったか?」)
 貧困は、誰もが陥る可能性のある問題ではない。しかし特定の階層出身者にとっては常に隣りにある問題なのだ。ここに今も昔も変わらぬ貧困をめぐる不条理がある。

■ 「新興中間層」と「集団就職層」

 本年一月一七日、歌手の井沢八郎が亡くなった。井沢が歌う「あゝ上野駅」は中学校を卒業して集団就職する若者の心情を歌って大ヒットした。「くじけちゃならない人生が、あの日ここから始まった」。二〇〇三年には上野駅に歌碑が建立され名所となっているという。井沢が歌った集団就職者を中心に、高度成長期に、約二五〇〇万人が農村から都市に大移動した。中には大学生という「身分」を手に入れての「幸せな」移動もあっただろうが、その人数は少なかったと思われる。多くは農村の過剰人口問題といわれた次三男であり女子でり、中卒者だった。都市と農村という異なる文化を背景にした人々が、大都市圏で同居し始めたこと。この歴史始まって以来の出来事が日本社会に与えたインパクトは相当なものだったはずだ。
 埼玉県で高校教師をしていた小川洋(よう)は、『なぜ公立高校はダメになったのか―教育崩壊の真実』(亜紀書房、二〇〇〇年)で、七〇年代後半に「郊外」に新設された公立高校を舞台にして頻発した「校内暴力」「対教師暴力」などの「荒れ」の背後に、教育、しつけ、学校、学歴関心などに対してまったく対照的に異なった考えをする「二つの社会階層」が存在していることを発見し、活写している。一つは、都市出身、高大卒者、大手企業就職者によって構成される「新興中間層」である。高度成長とともに一定の学歴と社会的な地位、一定以上の住宅を得たこの層の人たちは、親の地位を子どもにも獲得させようと「教育ママ」となる。もう一つは、農村出身の中高卒者で、個人商店、零細企業、町工場などに就職した「集団就職層」である。その多くは高度成長で企業が都市出身者、自宅通勤者を優先的に吸い上げることで人手不足におちいった零細な産業、職種に配置された配置された。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で堀北真希が演じた「六子」がそうだったように「住み込み奉公」などに代表される前近代的な労使関係の中で働いた。
 この「集団就職層」の中に後に「連続殺人犯」となる永山則夫がいた。井沢の「あゝ上野駅」がヒットした翌年(一九六五年)、青森からの集団就職列車で上野駅に降り立った永山は、東京渋谷の「西村フルーツ・パーラー」で住み込みのボーイとして働く。しかし「掃除当番」をさぼったことを叱られて「プイ」と辞めてしまう。以後、転職をくり返し、米軍基地で奪った銃で四人を殺害する。一九六八年のことである。時代を席巻していた「学生反乱」とは無縁な場所からの永山なりの精一杯の「貧困」に対する「異議申し立て」だった。「永山が抱いていた強い疎外感は、義務教育終了と同時に追われるように都会にむかった集団就職者たちに多かれすくなかれ共通したものだっただろう」と小川は書く。
 それでも、高度成長による消費社会の出現は、集団就職者たちの「強い疎外感」を「中流意識」に置き換えさせるのに成功する。郊外にまで広がった都市で共存する「二つの階層」は、所得水準の違いはあっても、同じ電化製品をもち、同じスーパーで買い物をするなど、生活様式ではほとんど変わらないところまで「接近」する。

 ■学校教育を通じた階層の「再生産」

 しかし、である。子どもの教育についての考え方において、異なった二つの社会階層は、その溝を埋めることは、ついになかったのである。「新興中間層」のそれについては先にみた。では「集団就職層」の教育に対する考えはどうか。多くが中卒である「集団就職層」の親は、自分の子どもだけは高校まで進学させようと考え、そうした。しかし大学まで進めようと考える者は少数派であった。子どもの教育に割く時間的・経済的余裕が無かったこともあるが、そもそも「かれらの出身地の農村では、子どもに学歴を与えて子どもの将来に期待するという親子関係は、一般的ではなかった」(小川)のである。教育に対する都市と農村の考え方の違いである。高校生の中で集団就職層の子供たちが急増した七〇年代後半、大都市圏で大学進学率が低下を見たのはこのためである。
 親の学歴や階層と子どもの「学力」が密接に連関していることは、教育社会学の中ではずっと語られてきた。子どもの勉学にむかう「意欲」そのものに階層の違いが現れると。同時に、学校で行われる教育内容それ自身が特定の階層と親和的であることも明かとなっている。近代社会は、階層への振り分けを学校の成績によって行う。学校の成績は「学校への順応度合」と相関し、学校への順応能力は育った家庭の「文化水準」と相関する。だからどのような家庭に生まれるか、学校に順応できるか否かが、その人の「階層」配置にとって決定的な要因となる。経済が知識化すればするほど「文化資本」(P・ブルデュー)の相続という問題はますます重要になってくるのだ。

 さてもう一度「集団就職層」の子供たちのその後を追ってみよう。七〇年代後半に「郊外」の新設高校で「校内暴力」を引き起こした彼ら/彼女らは、初期の(五〇年代中頃)「集団就職層」の第一子世代であった。やがて八〇年代後半になるとピーク期の「集団就職層」の子供たちが高校生となる。しかしその時はすでに「校内暴力」は終息していた。文化摩擦を背景にした暴力は、時間とともに解消するからである。代わって問題化するのが「不登校」そして「高校中退」である。文化摩擦を背景にした緊張は学校に向かわず、学校から距離をとる姿勢に変わったのだ。
 そして九〇年代が来る。ピーク時の「集団就職層」の子供たちが大衆教育化された大学を卒業する時期を迎え、ピークに続く世代の「集団就職層」の子供たちが大量に高校から社会に出ようとしたその時、バブル崩壊による「就職氷河期」が始まったのである。
 私たちは、これまで「フリーター・無業者層」が「経済的に苦しい家庭」や「相対的に低い階層」の出身者に多いことを見てきた。そして、そうした「家庭」や「階層」をさぐる作業として「集団就職層」の存在を見てきた。しかしその二つがイコールであるかどうか、断言できるものはない。しかしその一部が重っているであろうことは、小川が考察した時間軸に沿って、視線をそのまま九〇年代から二〇〇〇年代まで延長させてみれば明かだろう。「格差・貧困」問題とは、団塊世代における「新興中間層」と「集団就職層」という二つの階層が、学校教育と労働の規制緩和というアクターを通じて、その子供たちの世代において「再生産」されている問題なのではないか。とすれば「格差・貧困」問題は「あの日ここからはじまった」のである。

 ■「横並び階層社会」とベーシックインカム

 ここまで「格差」の背後にある「階層の再生産」という問題を見てきた。「宿命論」との批判を承知でこの二つを結びつけて考えたのは、「脱・格差社会」を構想する上で「階層」問題への対応が不可欠だと思うからだ。
 出身階層によって就ける職業が規定されることは「機会不平等」ということだ。かつて佐藤俊樹は、九〇年代の日本は「下層」出身者が「上層」に移動できるチャンス(機会)が減り「努力してもしかたない社会」になりつつあると指摘し(『不平等社会日本―さよなら総中流』中公新書、二〇〇〇年)、現在の「格差論争」に引き継がれる「中流崩壊論争」の一方の雄の役をになった。佐藤が依拠したデータは一九九五年のSSM調査であり、抽出した世代も「ロストジェレーション」の親、つまり団塊世代までであるから、その子供の世代では「閉じられ」度合いはさらに大きくなっているはずだ。
 そこで佐藤は「機会平等社会」に対して「上層」への「移動」が比較的容易である「開かれた社会」を対置した。では佐藤が描いた「開かれた社会」は私たちにとって「脱・格差社会」モデルたり得るだろうか。すぐ思い浮かのは「機会の平等だけでは結果の平等は保障されない」という批判だ。さらに「機会の平等だけではいずれ機会の平等すら実現できなくなる」という問題も指摘できる。
 だが今、私が言いたいことはそのことではない。個人の「選択の自由」という原理を認める限り、階層間移動の「自由」を保障する「開かれた社会」は無条件に保障されるべきだ。しかし実際には「自由」や「機会」は一方向のみが重視され奨励されている。「上層」への「移動」という一方向だ。それは私に言わせれば、まだ「閉じられた」社会だ。そうではなく職業選択(=「階層」選択)に際して、たとえ「下層」を選択しても「上層」と比べて不利にならない社会こそ「開かれた社会」なのだと思う。そこには「上層」による「下層」の支配はない(支配を許さない「下層」の力がある)。したがって(複数の)社会階層が「上・下」の関係ではなく並存している。私はこの社会を「横並びの階層社会」と呼びたい。その視点から言えば、「自己責任論」などの経営層の思想、価値観に無防備にさらされている日本の労働者より、「やつらの世界」とは区別された「われらの世界」を持つイギリスのワーキングクラスの方がずっと幸せに思える。
 どのような職業、労働形態を選択しても「不利にならない」ようにするためには、労働が公正に評価されることが必要だ。最賃の大幅な引き上げ、同一価値労働同一賃金の実現などは焦眉の課題だ。だが、私には、こうした労働に対する公正な評価が下される社会になったとしても、格差と貧困を脱した社会とは言えないように思う。なぜなら、労働それ自身がそこから排除されている者からみれば「特権的」であり、さらに労働の評価をめぐっても否応なく格付けが忍び込んでくるからだ。さらに労働者の能力差という問題もある。だから労働に対応させて所得を保障するシステムでは、格差・貧困は克服することはできないと思うのだ。
 そこで新たな社会保障の制度として主張されているのが「ベーシックインカム(略してBI)」である。その内容は「すべての人が、生活を営むために必要なお金を無条件で保障されること」。いたってシンプルな構想だが、その核心は「無条件性」だ。(BIの詳しい内容については、本誌、〇五年秋号で、原澤謹吾が紹介したトニー・フェッツパトリックの『自由と保障―ベーシックインカム論争』〇五年・勁草書房、小沢修司『福祉社会と社会保障改革―ベーシックインカム構想の新地平』〇二年・高管出版、を参照されたい)
 この「無条件性」とは何か。先ほどから議論してきた「開かれた社会」の話しに関わらせて言うとこうだ。「開かれた社会」とは「努力した者が報われる社会」のことだ。そのためには「多少の格差はあってもよい」。安倍晋三も佐藤俊樹もその認識では同じだ。これに対してBIが構想する社会はこうだ。「努力しない者も報われる社会」。つまり働いているか否か、その経験があるか否かに関わらず、一律に基本的な所得を保障するというものだ。いったいどちらが「すぐれた社会」だろうか。私は「努力しない者も報われる社会」のほうがすぐれた社会だと思う。
 しかし、逆に「働かざる者食うべからず」という考えは、今の日本では多数派だろう。そこには働いて経済的に自立している自分への誇りと、働いていない者、怠けている者、努力していない者への蔑視が同居している。この「働かざる者食うべからず」という意見に対して説得力ある反論ができるかどうか。BIの今後の帰趨を決する問題だ。
 トニー・フェッツ・パトリックは『自由と保障』の中でこの問題を取り上げている(第四章)。「遊んでばかりいるサーファーにお金は出すな」というBI批判に対して、深みのある議論で説得している。簡単に言えば、富は遊んでいる人にも分かち与えるだけすでに存在している、というのだ。富は自然からの贈り物であり、蓄積された労働の結果であり、現在の労働が着け加えたものは少ない。働いている人もそうでない人も、自然からの贈り物に「ただ乗り」している、というのだ。
 ポスト産業化の中で労働が二極化し、それに伴う雇用の二極化が「不可避」であり「宿命」であるかのように語られている。また、生産性の高い産業や企業が、生産性の低い産業や企業や労働者を「養っている」かのような言説も跋扈している。いずれも「貧困」や「格差社会」を肯定する言説として作用している。しかし、そうではないのだ。産業のイノベーションを推進する研究・開発の労働も、日雇い派遣の労働も自然からの贈り物に「ただ乗り」しているという点で「同一価値労働」なのだ。脱産業主義で平等主義のベーシックインカムを「貧困」と「格差」を超える社会構想の中心に据えなければならないと思う。

 *本稿は二〇〇〇五年の拙稿「再生産される階層社会日本―誰がニート、フリーターになるのか?」(『グローカル』六八〇号掲載)と記述が重なる部分があることをお断りしておきます)
 
五十嵐守(いがらし・まもる)
一九五四年、新潟県生まれ。活動家。トラック運転手。好きなTV番組「田舎に泊まろう」(テレビ東京系)。京都市伏見区在住。ブログ http://mamoru.fool.jp/blog/

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2007年03月27日
 ■ 西山国賠判決/沖縄密約、存否判断せず

 密約があったことは、米国の外交文書公開で明らかになっている。交渉時の事務方の吉野文六元外務省アメリカ局長も認めている。未だに密約を認めていないのは日本政府だけ。予想されたとは言え、ヒデェー判決。この判決をマスコミがどう報道するかも注目。報道にとっての西山事件(=権力へのこびへつらい)は、さらに、いっそう、ひどくなっている。

訴訟の詳しい経過は、藤森克美法律事務所
★西山太吉国賠訴訟
http://plaza.across.or.jp/~fujimori/nt01.html

沖縄密約、存否判断せず、西山元記者が全面敗訴
2007年03月27日 15:45 【共同通信】

 沖縄返還時の日米密約をめぐる1972年の外務省機密漏えい事件で、国家公務員法違反の有罪が確定した元毎日新聞記者西山太吉さん(75)=北九州市=が、違法な起訴や誤った判決で名誉を傷つけられたとして、国に謝罪と3300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は27日、密約の存否を判断せず、請求を棄却した。

 加藤謙一裁判長は国の主張を全面的に認め「仮に起訴などが不法行為だったとしても、賠償請求権は除斥期間(権利の法廷存続期間、20年)の経過で消滅している。その後の国務大臣らによる『密約はない』との発言は行政活動に関するもので個人の社会的評価を低下させていない」と判断した。起訴や判決の当否にも言及しなかった。

 西山さんは2000-02年に密約を裏付ける米公文書が見つかったことなどから提訴した。



西山氏の訴え棄却 沖縄返還密約訴訟
<琉球新報>

 沖縄返還交渉をめぐる「密約」の取材で国家公務員法違反(秘密漏えいの教唆(きょうさ))の罪に問われた元毎日新聞記者の西山太吉氏(75)が、米公文書で密約が裏付けられた後も日本政府の否定発言などで名誉が侵害され続けているとして、国に謝罪と慰謝料を求めた訴訟の判決が27日午後、東京地裁であった。加藤謙一裁判長は「除斥(時効)期間の経過によって請求権が消滅した」として、西山氏の請求を棄却し、西山氏側が主張の力点を置いた密約の有無の判断もしなかった。西山氏は控訴する。
 判決について西山氏は「除斥期間であるとして、個人に対する名誉棄損も触れなかった。想像していた通りの判決だった」とコメント。代理人の藤森克美弁護士は「密約についても何も言っていない。一番逃げやすいところを押さえて書いた最低の判決だ」と批判した。
 同訴訟は2000年と02年に密約を裏付ける米公文書の発見を契機に05年4月提訴。9回の弁論で西山氏側は密約の立証に力点を置き、06年2月には返還交渉にかかわった元外務省幹部の密約を認める新証言が報道され、裁判所の判断が密約の事実認定に踏み込むか注目されていた。
 国側は裁判で密約の存在を認否せず、「密約が仮にあっても原告の有罪無罪を左右しなかった」「仮に違法行為があっても除斥(時効)期間の適用で賠償責任はない」として棄却を求めていた。
 西山氏側は国会承認を経なかった密約は違憲行為で、違法秘密であるから国家公務員法の保護の対象に当たらないと指摘。その上で、男女スキャンダルに仕立てた西山氏の訴追で政府は密約への追及をかわし、検察側の偽証により刑事裁判で誤った判決を下させたことは違法であり、不当と訴えていた。
 訴訟は沖縄返還の真相と密約という「国家犯罪」を追及し、知る権利の在り方も問い掛けた。
(3/27 16:02)


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2007年03月26日
 ■ 競争vs学び合い 「全国いっせい学力テスト」に反対する!

 来る4月24日、「全国いっせい学力テスト」(正式には「全国学力・学習状況調査」)が行われようとしています。教育基本法改悪に続き、今国会では教育三法案の改悪が目論まれていますが、学力テストは、公立小・中学校を主要なターゲットにして、学校をランク付け、格差を拡大し、序列化を一層強化するもので、三法改悪の中身を先取りするものです。

 しかし、残念ながら、昨年秋の教育基本法改悪に反対した運動の盛り上がりに比べると、「学力テスト」への批判の声が小さいのが現状です。すでに、都道府県、その下の自治体レベルで「学力テスト」が広範に行われていること、「学力低下」キャンペーンで保護者が不安に陥っていること、などがその原因でしょう。教育の国家統制、その下での市場原理の導入(学校選択制、学校評価、教育バウチャー制度)が、これを突破口にして行われようとしているにもかかわらず、です。

 こうした中、愛知県犬山市教育委員会が、全国の自治体でただ一つ学力テストに参加しないことを、正式決定しました。これで、建前は「自主参加」と言いながら、公立校の100%参加を実現しようとしてきた文科省の目論は見事に崩れました。(毎日新聞記事参照

 私はまったく知りませんでしたが、この犬山市教育委員会は、前から独自の教育理念をかかげて「教育改革」を進めてきており、今回の学力テストに関しては、「競争で学力向上を図ろうとしているテストは、犬山市の教育理念に合わない」「子供の学力評価は全国一律テストではできない」と不参加を決めました。そして、犬山市教委の立場を広く知ってもらうため『全国学力テスト、参加しません』という本を緊急出版しました。

 また、これまで犬山市教委の活動を高く評価してきた教育学者をはじめ、教育格差への警鐘をならしてきた人々が、今週の土曜日に緊急シンポジウムを東京で開きます。

<緊急シンポジウム>
「このままでいいのか 全国学力テスト」

主催:全国学力テスト緊急シンポジウム実行委員会
後援:明石書店

 4月24日、小6・中3のすべての児童生徒を対象にした全国学力テスト(文科省/全国学力・学習状況調査)の実施が目前に迫っています。予備調査の結果が公表されたにもかかわらず、いったいどんなテスト・調査が行われるのか、保護者や教職員の方々にも十分な情報が届いているとはいえません。

 そこで、急きょ、情報交換・議論・問題提起の場としてシンポジウムを開きたいと思います。保護者や教職員・市民のみなさん、教育行政にたずさわる方々、学生・研究者など、さまざまな立場の方々のご参加をお待ちいたしております。

日時:2007年3月31日(土)9:50-12:30[開場:9:30]
場所:日本教育会館 7階 中会議室
     〒101-0003 東京都千代田区一ツ橋2-6-2
     TEL 03-3230-2831
     【アクセス】http://www.jec.or.jp/koutuu/
参加費:500円

呼びかけ人:
  大塚英志(まんが原作者、神戸芸術工科大学)
  小山内美江子(脚本家)
  苅谷剛彦(東京大学)
  斎藤貴男(ジャーナリスト)
  佐藤学(東京大学)
  汐見稔幸(東京大学)
  田中孝彦(都留文科大学)
  中嶋哲彦(名古屋大学)
  藤田英典(国際基督教大学)
  三上昭彦(明治大学)50音順

シンポジスト:苅谷剛彦
         中嶋哲彦
         藤田英典・松下佳代(京都大学)

進行:田中孝彦

【お申し込み】
参加申し込み用紙にご記入のうえファクス、または、Eメールにて(件名に「シンポジウム申し込み」と明記のうえ)お申し込みください。特にご返信はいたしませんので、当日会場にお越しください。(当日参加も可)

【お問い合せ】
明石書店内 シンポジウム係
TEL 03-5818-1177/FAX 03-5818-1179
Eメール: miwa@akashi.co.jp

<参加申し込み用紙>
http://www.akashi.co.jp/osirase/yousi.doc


 これまで、教育基本法に反対する論理は主に「愛国心」教育批判でしたが、安倍の掲げる「学校選択制」「学校評価」「教育バウチャー制度」は、市場原理によって学校を運営し、学校自身を「勝ち組み」と「負け組み」に分けて、予算で差別していこうというものです。まさに新自由主義に沿い、格差是正に逆行するものです。

 安倍は、イギリスのサッチャーが行った「教育改革」(中心はナショナル・カリキュラムの制定とナショナルテストの実施、および、学校査察制度)を真似ているようですが、しかし、サッチャー自身が手本にしたのが「受験戦争」とまで呼ばれた戦後日本の極度に競争主義的な教育でした。

 そのサッチャー改革も、ブレアによる継承をふくめても、ほぼ、破綻したといってよく(テストによる競争激化―>成績不良者の学校追放―>ニートの増大―>学校平等化の声の高まり)、その破綻の後追いをしようとしているのが、安倍「教育改革」と言っていいでしょう。

 このあたりの倒錯した実状に関しては4月に出版予定の岩波ブックレット『イギリス「教育改革」の教訓―「教育の市場化」は子どものためにならない』(阿部菜穂子)に詳しいはずです。

 格差を拡大する「全国いっせい学力テスト」に反対しましょう。


■資料――さらにくわしく知る為に

「モノ申す」姿勢浸透…愛知・犬山市
http://osaka.yomiuri.co.jp/local/lo51209c.htm

検証 地方分権化時代の教育改革  教育改革を評価する
―― 犬山市教育委員会の挑戦 ――
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0093850.html

犬山市の教育
http://www.inuyama-aic.ed.jp/i-manabi.h.p/index.htm

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2007年03月22日
 ■ 【映評】『博士の愛した数式』/私の記憶は30分

 ビデオをみたあと、博士の愛したその数式を思い出そうとしたが、まったく思いだせない。数学は昔から苦手。数式に対する私の記憶は30分。でも内容は楽しめた。

 素数の話しとか、友愛数の話しとか、面白かった。けど、なぜ、それほどまでに絶賛される映画なのか、ちょっと分からなかった、というのが正直なところ。

 深津絵里は大好き。ちょっと抑え目のいい演技だったと思う。
でも、驚いたのは、浅丘ルリ子。

 「わたしは、みだらな女です」

 この一言で、この映画をずっと奥行きのあるものにしたと思う。やっぱり、大女優だ。この人。

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 ■ 【映評】リトル・ダンサー/階級社会の牢固な規範に挑む

 泣けました。

 イギリスの炭坑の街が舞台。炭住に家族とすむビリー少年がバレエ目覚め、紆余曲折を経て、ロイヤル・バレイ学校に入学し、最後はロンドンの名劇場で主客を演じる話し。

 最初はバレエに反対していた父親が、ビリーのバレエ学校受験費用を捻出するために、スト破りをする場面。ピケ隊の側には長男のトニーが…。その前を父親がバスに乗って門の中へ。それを追ってトニーも中へ。

 「われわれ(炭坑夫)に未来はあるか?
  あの子には未来があるんだ!」(父)

 「お金は、スト破りしなくても作れる
   そのために仲間がいる」(トニー)

 正義はトニーにも父親にもあり…。
 あぁこの無情…。
 ウルウルでした。

 イギリス社会は日本では想像もできないような「階級社会」です。労働者階級(ワーキングクラス)の出身の子供は、ほとんど労働者になります。その上のミドルクラスの子供もほとんどミドルクラスになります。最上級のアッパークラス(貴族)もそうです。

 ついこの前(1988年)までは、義務教育のプライマリー・スクールの最終学年段階(11歳)で進路が分かれました。エリート養成のグラマー・スクール、技術系のテクニカル・スクール、就職組みのセカンダリー・モダン・スクールの3つです。

 今は、セカンダリー・モダン・スクールの多くがコンプリヘンシブ・スクール(統合制中学校)に衣替えしていますが、その中での学校の序列化、ランク付けが進んでいるので、階級・階層の再生産としての機能は、しっかり受け継がれています。

 だから、一代で階級脱出をすることは至難なことなのです。その代わり、ワーキングクラスは、自分たちの階級に誇りを持っています。ビートルズもベッカムも「ワーキングクラス」に属していることを誇りにしています。

 『リトル・ダンサー』は、このイギリス階級社会の牢固な規範に挑んだ作品と言えるのではないだろうか。決して上昇志向を賛美しているのではない。個人の職業選択の自由を、旧来型の階級社会に対置している、と見ました。

 この前見た『ブラス』も炭坑の街のブラスバンドの話しでした。ここにも閉山に反対するストライキが重低音として流れていました。経営側ではたらく女性に恋をして悩む若い組合員の姿なんて、日本では、映画になりようがないですよね。それだけ、
イギリスでは、労働者文化が、労働組合の存在とともに、大きな位置を占めているってことなんでしう。

 もっとも、その労働者文化が、サッチャーの新自由主義改革によって、さらにブレアの「第三の道」(中心は教育改革)によって階級脱出が奨励された結果、かなり、弱体化させられたのは、良かったのか、悪かったのか、評価が難しいところです。

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2007年03月16日
 ■ 都知事選/浅野氏に「一言マニフェスト」

 東京都知事選が始まります。東京と言う「地方」のことですが、首都だけあって、結果の影響は絶大です。私としては、浅野史郎氏を推したい。浅野氏のHPで市民からの「一言マニュフェスト」を募集していたので、下記の文章を送りました。(締め切りの後だったので、採用も掲載もされなかったが)

 因みに、浅野氏のHPはココ 

 マニフェストや出馬表明が読めます。


 東京都の権限を「東京市」へ!

 21世紀は地方分権、地方主権の時代だ。地方分権とは、国の権限を地方に移譲する団体自治強化の面と、住民による自治体コントロールを強化する二つの面を含む。東京都は前者に関しては充分な権限を保持している。問題は後者だ。

 道府県―市町村という二階建てによる地方自治が一般化している中で、東京23区の住民だけが都の直下におかれている。東京都は巨大すぎて住民のコントロールが効きにくい。そこで、東京都の権限を「東京市」に移譲する。今は知られていないが、その昔(1888年から1943年)東京市があった。

 今のシステムのままなら、誰が都知事になっても「都の暴走」はとめられない。決定権を住民のすぐ側にもっていくこと。この「都内分権」に踏み出すことによって首都・東京は「地方分権」の手本となる。

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2007年03月14日
 ■ 青春18きっぷで「高松うどんツアー」

  この前の土曜日(3月10日)、四国の高松にうどんツアーに行ってきました。
 「青春18きっぷ」を使い、50歳をすぎた男2人に女2人の旅です。この四人、夫婦でもなく、恋人でもなく、世間的には「ちょっと不思議」な関係です。元々は市民運動仲間だったのですが、今は映画仲間と言うのが一番正確なことろです。(今後は、単なる「遊び仲間」になりそうなのだが…)

 さて、うどんツアーの続き。

 土曜日の朝の山陽本線が、あんなに混むとは知りませんでした。「青春18きっぷ」で普通列車を乗り継ぐんだから、ノンビリ出来るんだろうと期待していたら、見事に裏切られました。大混雑。結局、大阪から岡山まで座ることができませんでした。廻りの様子をうかがうと「青春18きっぷ」組が多い、多い。やっぱりこの季節、子供から年寄りまで、みんな「青春(18)」するんですね。

 「行き先は高松」だたそれだけを決めて出発したので、着いてからうんど屋を捜しながら、あっちをウロウロ、こっちをウロウロ。高松ではうどんは三タイプのお店でたべるべし、と言われています。セルフの店、ふつうの店、製麺所の店の三タイプ。よーし三タイプ制覇するぞ意気込んでいましたが、セルフとふつうの店しか入れませんでした。

 それにしても高松のうどんは本当に安かったです。素うどん100円。きつねが180円。釜あげが350円。二つのお店で食べて、500円程でした。安いばかりでなく、おいしい。なにしろ腰があります。うどんを食べながら、4人で各地のうどん評も。「名古屋の味噌煮込みうどんは、なんで生のまま食べるの?」なんて。

 お腹がふくれたので市内見物。玉藻公園(高松城跡)へ。この城は海の近くにあるので、掘りには海水が引かれていました。だから、普通お城の掘りには鯉が泳いでいますが、ここにはタイが。それにフグも。これにはビックリしました。

 公園の隣にある香川県歴史会館(?)にも寄りました。けど、ここまでくると疲れが出て、ソファーに座ると、ついウトウトと。「団塊世代」を含むツアーですから、歳には勝てませんでした。

 朝、6時半に家を出て、帰宅が夜の11時。帰りは列車の事故で、1時間半も出発が遅れるハプニングがありましたが、これもいい想い出でした。新幹線を使っての往復だったら、1時間半おくれたらイライラしたでしょうが、なにせ、そこは「青春18きっぷ」。そういうことは想定内。わいわいと話す時間がながくなっただけの話しでした。

 今度の土・日は、カミさんが、道後温泉に行きます。夫婦で、時間を置いて、別々に、四国に出掛けるわけです。なんちゅうう夫婦なんでしょう。

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