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2007年03月31日

 ■ 階層の「再生産」としての格差と貧困をこえて―ベーシック・インカムを考えよう

 この論文は、『現代の理論』VOL11(07年春号)に掲載されたものです。


 ■朝日「ロストジェネレーション」の錯誤

 『朝日新聞』が本年(二〇〇七年)一月、「ロストジェレーション―二五~三五歳」という連載ものの新年企画を組んだ。「今、二五歳から三五歳にあたる約二千万人は、日本がもっとも豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。『第二の敗戦』と呼ばれたバブル崩壊を少年期に迎え、『失われた一〇年』に大人になった若者たち。『ロストジェネレーション』。米国で第一次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に従って、彼らをこう呼びたい。時代の波頭に立ち、新しい生き方を求めて、さまよえる世代。日本社会は、彼らとともに生きていく」(『朝日新聞』二〇〇七年元旦一面、「時代の谷間 私らしく ロストジェネレーション」より)。
 十一回の連載では実に多様な二五~三五歳が紙面に登場した。一八歳で就職してから八年間で三〇をこえる「日本を代表する企業」の関連工場を転々とした派遣労働者(二六歳)、海の向こうに「私の居場所」を捜す日本語教師(二九歳・女性)、地方議員を「仕事」として選ぶ候補予定者(二六歳)、官僚レールを「途中下車」して自分の力で「波を起こす」ために転職した元官僚(三一歳)、そして、経済の地盤沈下で「フリーターにすらなれ」ず、生活保護でくらす夕張市出身者(二五歳)などなど。 連載を補完する別紙面での「特集」にも力がこもる。「四人に一人が非正社員」「世帯の所得 働き方で五倍の差」(一日)「彼らの現場の体験記」(三日)「格差 漂う若者 仕事 不安抱え」(五日)「消費 つかみどころなくヒットでず」(六日)「彼ら 海のむこうにも、フランス、イギリス、韓国」(七日)。
 一読してこの新年企画の根っこのところに、格差問題に対する問題意識があることは明かだ。しかし、それをストレートに取り上げずに「世代」の問題として提起したところにこの企画の「らしさ」があったと言える。しかし、ここに大きな錯誤があるように思う。一つは、この世代の「格差」の原因を不況による「就職氷河期」に求めるのはあまりに表面的過ぎるということだ。紙面は語る。「ロストジェネレーションは、企業が新卒採用を一斉に控えた『就職氷河期』に、社会人となった」。だが、その「就職氷河期」は、企業がグローバル化の中で生き残りとして選択した雇用の柔軟化戦略の一つの現れだったのではないか。だから景気が回復した後も非正社員は増え続けているのだ。
 もう一つは、正社員と非正社員・無業者に大きく別れているこの世代の若者=二〇〇〇万人を「ロストジェネレーション」という言葉で一括りにするのはやはり妥当ではないということだ。特集の中に記者による「ワンコールワーカー」の体験記があった。「記者の立場を明かさずに」携帯電話で派遣会社に登録し、電話で指示をうけて現場に行き、タマネギの芯剥きや基盤にジャックを差し込む「単純作業」を「体験」したレポートだ。三三歳の「同世代」の記者が書いている。実質の時給が最低賃金を下回る中での作業のキツさは、タマネギの臭いと共に伝ってきた。しかし一番肝心の「ワンコールワーカー」の不安感は伝わってこない。どんな優秀な記者でも、存在そのものから来る不安感は「体験」しようがないからだ。
 この連載企画の最終回に登場したフリーターをテーマにした劇を上演する「劇団主宰者」は、書かれた「記事」の背景に次ぎのことがあったと報告している。取材に来た朝日新聞の記者が黒塗りのハイヤーを使って来たこと。ブランドのバッグをさげていたこと。乗降時に白い手袋をした運転手がドアを開け閉めしたこと。
 一方に、今日の仕事はあっても明日の仕事が保障されない「ワンコールワーカー」。他方に、黒塗りのハイヤーに乗って「同世代」を取材してまわる朝日新聞の記者。「ロストジェネレーション」という世代をひと括りにする論じ方で見えなくなるのはこの「分岐」だ。問題はこう立て直されねばならない。同じ「就職氷河期」をくぐりぬけながら、誰が「ワンコールワーカー」になり、誰が「朝日記者」になるのか、と。

 ■「分岐」は出身階層と密接に結びつく

 二五歳から三四歳の非正社員は三三四万人、雇用者の四人に一人の割合になる。これに「無業者(ニートなど)」を加えて「フリーター・無業者層」と呼ぼう。ではこの「フリーター・無業者層」になるのはどのような若者なのか。いささ古い資料になるが、この問題に最初に光をあてた耳塚寛明らの調査から次ぎのことが浮かび上がる。首都圏のフリーター一〇〇〇人の調査(二〇〇〇年)による。
 第一に、「フリーター・無業者」として社会に出てくるのは高卒者に多いことである。「パート、アルバイトあるいは無業者」になった者の割合は「大卒者で(中略)は、二三・八%、これに対して高卒者では五四・〇%におよぶ」。第二に、同じ高卒者の中でも「相対的に低い社会階層の出身者に多いのである」。「父親の学歴と子供の正社員率をくらべると、父親が大卒や高卒の場合、正社員率は四~六割だが、父親の学歴が中卒の場合は、正社員率は二割を切る」。第三に、高卒者で「無業者」となるのも低階層出身者である。「父親の職業が専門・技術職、管理職などのホワイトカラー家庭で、無業者となった者は一四%、これに対して、いわゆるブルーカラー家庭出身者のそれは三一%だった」。
 こうした高卒者の情況から、高校中退者や中卒者が、高卒者よりさらに不利な立場に置かれていることは容易に想像できる。「(フリーターや)無業者として卒業していく生徒たちの出現率は、社会階層と密接に結びついている」のである。(以上『世界』二〇〇三・二 耳塚「誰がフリーターになるのか」より)
 これに加えて、無業者の出身世帯の「四割弱が年収三〇〇万円未満」(「若年無業者に関する調査(中間報告)」〇五年)という指摘も忘れてはならない。若年無業者は経済的に貧しい家庭に生まれているのだ。
 今、こうした若年の「フリーター・無業者層」の低賃金による貧困問題がクローズアップされている。その割合や実態は十分には分かっていないが、岩田正美らが「消費生活に関するパネル調査」(九三年~〇二年、若年女性個人を継続調査)のデータをもとにして行った貧困ダイナミクス分析は重要である。それによる学歴と貧困の関係は明瞭だ。
 中卒者で「固定貧困層」か「一時貧困層」になる割合は六八%。対して大卒者の「固定貧困層」は五・三%に過ぎない。中卒者の場合、夫と離死別して子供を抱えた場合は固定貧困層に陥りやすい。逆に高学歴でかつ正社員で、夫がいて子供ゼロの場合はまったく貧困とは無縁だ。(以上『思想』二〇〇六年三月号、岩田「バスに鍵はかかってしまったか?」)
 貧困は、誰もが陥る可能性のある問題ではない。しかし特定の階層出身者にとっては常に隣りにある問題なのだ。ここに今も昔も変わらぬ貧困をめぐる不条理がある。

■ 「新興中間層」と「集団就職層」

 本年一月一七日、歌手の井沢八郎が亡くなった。井沢が歌う「あゝ上野駅」は中学校を卒業して集団就職する若者の心情を歌って大ヒットした。「くじけちゃならない人生が、あの日ここから始まった」。二〇〇三年には上野駅に歌碑が建立され名所となっているという。井沢が歌った集団就職者を中心に、高度成長期に、約二五〇〇万人が農村から都市に大移動した。中には大学生という「身分」を手に入れての「幸せな」移動もあっただろうが、その人数は少なかったと思われる。多くは農村の過剰人口問題といわれた次三男であり女子でり、中卒者だった。都市と農村という異なる文化を背景にした人々が、大都市圏で同居し始めたこと。この歴史始まって以来の出来事が日本社会に与えたインパクトは相当なものだったはずだ。
 埼玉県で高校教師をしていた小川洋(よう)は、『なぜ公立高校はダメになったのか―教育崩壊の真実』(亜紀書房、二〇〇〇年)で、七〇年代後半に「郊外」に新設された公立高校を舞台にして頻発した「校内暴力」「対教師暴力」などの「荒れ」の背後に、教育、しつけ、学校、学歴関心などに対してまったく対照的に異なった考えをする「二つの社会階層」が存在していることを発見し、活写している。一つは、都市出身、高大卒者、大手企業就職者によって構成される「新興中間層」である。高度成長とともに一定の学歴と社会的な地位、一定以上の住宅を得たこの層の人たちは、親の地位を子どもにも獲得させようと「教育ママ」となる。もう一つは、農村出身の中高卒者で、個人商店、零細企業、町工場などに就職した「集団就職層」である。その多くは高度成長で企業が都市出身者、自宅通勤者を優先的に吸い上げることで人手不足におちいった零細な産業、職種に配置された配置された。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で堀北真希が演じた「六子」がそうだったように「住み込み奉公」などに代表される前近代的な労使関係の中で働いた。
 この「集団就職層」の中に後に「連続殺人犯」となる永山則夫がいた。井沢の「あゝ上野駅」がヒットした翌年(一九六五年)、青森からの集団就職列車で上野駅に降り立った永山は、東京渋谷の「西村フルーツ・パーラー」で住み込みのボーイとして働く。しかし「掃除当番」をさぼったことを叱られて「プイ」と辞めてしまう。以後、転職をくり返し、米軍基地で奪った銃で四人を殺害する。一九六八年のことである。時代を席巻していた「学生反乱」とは無縁な場所からの永山なりの精一杯の「貧困」に対する「異議申し立て」だった。「永山が抱いていた強い疎外感は、義務教育終了と同時に追われるように都会にむかった集団就職者たちに多かれすくなかれ共通したものだっただろう」と小川は書く。
 それでも、高度成長による消費社会の出現は、集団就職者たちの「強い疎外感」を「中流意識」に置き換えさせるのに成功する。郊外にまで広がった都市で共存する「二つの階層」は、所得水準の違いはあっても、同じ電化製品をもち、同じスーパーで買い物をするなど、生活様式ではほとんど変わらないところまで「接近」する。

 ■学校教育を通じた階層の「再生産」

 しかし、である。子どもの教育についての考え方において、異なった二つの社会階層は、その溝を埋めることは、ついになかったのである。「新興中間層」のそれについては先にみた。では「集団就職層」の教育に対する考えはどうか。多くが中卒である「集団就職層」の親は、自分の子どもだけは高校まで進学させようと考え、そうした。しかし大学まで進めようと考える者は少数派であった。子どもの教育に割く時間的・経済的余裕が無かったこともあるが、そもそも「かれらの出身地の農村では、子どもに学歴を与えて子どもの将来に期待するという親子関係は、一般的ではなかった」(小川)のである。教育に対する都市と農村の考え方の違いである。高校生の中で集団就職層の子供たちが急増した七〇年代後半、大都市圏で大学進学率が低下を見たのはこのためである。
 親の学歴や階層と子どもの「学力」が密接に連関していることは、教育社会学の中ではずっと語られてきた。子どもの勉学にむかう「意欲」そのものに階層の違いが現れると。同時に、学校で行われる教育内容それ自身が特定の階層と親和的であることも明かとなっている。近代社会は、階層への振り分けを学校の成績によって行う。学校の成績は「学校への順応度合」と相関し、学校への順応能力は育った家庭の「文化水準」と相関する。だからどのような家庭に生まれるか、学校に順応できるか否かが、その人の「階層」配置にとって決定的な要因となる。経済が知識化すればするほど「文化資本」(P・ブルデュー)の相続という問題はますます重要になってくるのだ。

 さてもう一度「集団就職層」の子供たちのその後を追ってみよう。七〇年代後半に「郊外」の新設高校で「校内暴力」を引き起こした彼ら/彼女らは、初期の(五〇年代中頃)「集団就職層」の第一子世代であった。やがて八〇年代後半になるとピーク期の「集団就職層」の子供たちが高校生となる。しかしその時はすでに「校内暴力」は終息していた。文化摩擦を背景にした暴力は、時間とともに解消するからである。代わって問題化するのが「不登校」そして「高校中退」である。文化摩擦を背景にした緊張は学校に向かわず、学校から距離をとる姿勢に変わったのだ。
 そして九〇年代が来る。ピーク時の「集団就職層」の子供たちが大衆教育化された大学を卒業する時期を迎え、ピークに続く世代の「集団就職層」の子供たちが大量に高校から社会に出ようとしたその時、バブル崩壊による「就職氷河期」が始まったのである。
 私たちは、これまで「フリーター・無業者層」が「経済的に苦しい家庭」や「相対的に低い階層」の出身者に多いことを見てきた。そして、そうした「家庭」や「階層」をさぐる作業として「集団就職層」の存在を見てきた。しかしその二つがイコールであるかどうか、断言できるものはない。しかしその一部が重っているであろうことは、小川が考察した時間軸に沿って、視線をそのまま九〇年代から二〇〇〇年代まで延長させてみれば明かだろう。「格差・貧困」問題とは、団塊世代における「新興中間層」と「集団就職層」という二つの階層が、学校教育と労働の規制緩和というアクターを通じて、その子供たちの世代において「再生産」されている問題なのではないか。とすれば「格差・貧困」問題は「あの日ここからはじまった」のである。

 ■「横並び階層社会」とベーシックインカム

 ここまで「格差」の背後にある「階層の再生産」という問題を見てきた。「宿命論」との批判を承知でこの二つを結びつけて考えたのは、「脱・格差社会」を構想する上で「階層」問題への対応が不可欠だと思うからだ。
 出身階層によって就ける職業が規定されることは「機会不平等」ということだ。かつて佐藤俊樹は、九〇年代の日本は「下層」出身者が「上層」に移動できるチャンス(機会)が減り「努力してもしかたない社会」になりつつあると指摘し(『不平等社会日本―さよなら総中流』中公新書、二〇〇〇年)、現在の「格差論争」に引き継がれる「中流崩壊論争」の一方の雄の役をになった。佐藤が依拠したデータは一九九五年のSSM調査であり、抽出した世代も「ロストジェレーション」の親、つまり団塊世代までであるから、その子供の世代では「閉じられ」度合いはさらに大きくなっているはずだ。
 そこで佐藤は「機会平等社会」に対して「上層」への「移動」が比較的容易である「開かれた社会」を対置した。では佐藤が描いた「開かれた社会」は私たちにとって「脱・格差社会」モデルたり得るだろうか。すぐ思い浮かのは「機会の平等だけでは結果の平等は保障されない」という批判だ。さらに「機会の平等だけではいずれ機会の平等すら実現できなくなる」という問題も指摘できる。
 だが今、私が言いたいことはそのことではない。個人の「選択の自由」という原理を認める限り、階層間移動の「自由」を保障する「開かれた社会」は無条件に保障されるべきだ。しかし実際には「自由」や「機会」は一方向のみが重視され奨励されている。「上層」への「移動」という一方向だ。それは私に言わせれば、まだ「閉じられた」社会だ。そうではなく職業選択(=「階層」選択)に際して、たとえ「下層」を選択しても「上層」と比べて不利にならない社会こそ「開かれた社会」なのだと思う。そこには「上層」による「下層」の支配はない(支配を許さない「下層」の力がある)。したがって(複数の)社会階層が「上・下」の関係ではなく並存している。私はこの社会を「横並びの階層社会」と呼びたい。その視点から言えば、「自己責任論」などの経営層の思想、価値観に無防備にさらされている日本の労働者より、「やつらの世界」とは区別された「われらの世界」を持つイギリスのワーキングクラスの方がずっと幸せに思える。
 どのような職業、労働形態を選択しても「不利にならない」ようにするためには、労働が公正に評価されることが必要だ。最賃の大幅な引き上げ、同一価値労働同一賃金の実現などは焦眉の課題だ。だが、私には、こうした労働に対する公正な評価が下される社会になったとしても、格差と貧困を脱した社会とは言えないように思う。なぜなら、労働それ自身がそこから排除されている者からみれば「特権的」であり、さらに労働の評価をめぐっても否応なく格付けが忍び込んでくるからだ。さらに労働者の能力差という問題もある。だから労働に対応させて所得を保障するシステムでは、格差・貧困は克服することはできないと思うのだ。
 そこで新たな社会保障の制度として主張されているのが「ベーシックインカム(略してBI)」である。その内容は「すべての人が、生活を営むために必要なお金を無条件で保障されること」。いたってシンプルな構想だが、その核心は「無条件性」だ。(BIの詳しい内容については、本誌、〇五年秋号で、原澤謹吾が紹介したトニー・フェッツパトリックの『自由と保障―ベーシックインカム論争』〇五年・勁草書房、小沢修司『福祉社会と社会保障改革―ベーシックインカム構想の新地平』〇二年・高管出版、を参照されたい)
 この「無条件性」とは何か。先ほどから議論してきた「開かれた社会」の話しに関わらせて言うとこうだ。「開かれた社会」とは「努力した者が報われる社会」のことだ。そのためには「多少の格差はあってもよい」。安倍晋三も佐藤俊樹もその認識では同じだ。これに対してBIが構想する社会はこうだ。「努力しない者も報われる社会」。つまり働いているか否か、その経験があるか否かに関わらず、一律に基本的な所得を保障するというものだ。いったいどちらが「すぐれた社会」だろうか。私は「努力しない者も報われる社会」のほうがすぐれた社会だと思う。
 しかし、逆に「働かざる者食うべからず」という考えは、今の日本では多数派だろう。そこには働いて経済的に自立している自分への誇りと、働いていない者、怠けている者、努力していない者への蔑視が同居している。この「働かざる者食うべからず」という意見に対して説得力ある反論ができるかどうか。BIの今後の帰趨を決する問題だ。
 トニー・フェッツ・パトリックは『自由と保障』の中でこの問題を取り上げている(第四章)。「遊んでばかりいるサーファーにお金は出すな」というBI批判に対して、深みのある議論で説得している。簡単に言えば、富は遊んでいる人にも分かち与えるだけすでに存在している、というのだ。富は自然からの贈り物であり、蓄積された労働の結果であり、現在の労働が着け加えたものは少ない。働いている人もそうでない人も、自然からの贈り物に「ただ乗り」している、というのだ。
 ポスト産業化の中で労働が二極化し、それに伴う雇用の二極化が「不可避」であり「宿命」であるかのように語られている。また、生産性の高い産業や企業が、生産性の低い産業や企業や労働者を「養っている」かのような言説も跋扈している。いずれも「貧困」や「格差社会」を肯定する言説として作用している。しかし、そうではないのだ。産業のイノベーションを推進する研究・開発の労働も、日雇い派遣の労働も自然からの贈り物に「ただ乗り」しているという点で「同一価値労働」なのだ。脱産業主義で平等主義のベーシックインカムを「貧困」と「格差」を超える社会構想の中心に据えなければならないと思う。

 *本稿は二〇〇〇五年の拙稿「再生産される階層社会日本―誰がニート、フリーターになるのか?」(『グローカル』六八〇号掲載)と記述が重なる部分があることをお断りしておきます)
 
五十嵐守(いがらし・まもる)
一九五四年、新潟県生まれ。活動家。トラック運転手。好きなTV番組「田舎に泊まろう」(テレビ東京系)。京都市伏見区在住。ブログ http://mamoru.fool.jp/blog/

投稿者 mamoru : 2007年03月31日 21:30

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