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2007年07月22日

 ■ 坂喜美さんの訃報に接して/無私の精神で三里塚闘争に尽くした人生
[AML 14947] 上坂喜美氏の訃報です

三里塚闘争に長年かかわってきた関西の上坂喜美さんの訃報をお伝えします。

上坂喜美(うえさかきよし)さん

 07年7月17日0時45分 肺ガンにて没。83歳
 関西三里塚闘争に連帯する会代表、関西共同行動運営委員など、若い頃より労働運動、 市民運動など関西の民衆運動の中心的な担い手、推進役として活躍。特に三里塚闘争で は、三里塚闘争に連帯する会(全国)代表、関西三里塚闘争に連帯する会代表として活 躍した。近年は体調をこわし自宅で療養していた。本人の希望で、通夜は家族だけで行い、葬儀は行わないことになった。遺体は近畿大学に献体。
 関西三里塚連帯する会などで、偲ぶ会を待つことが話し合われている。

以上 高橋千代司

 七月十七日、三里塚闘争に連帯する会、代表の上坂喜美(きよし)さんが肺癌で亡くなられました。八三歳。この世に生を受けて以来、人民の闘争のために捧げつくした生涯でした。

 私が最初に出会ったのは、一九七四年の戸村参院選の頃だったと思います。しかしあまり記憶にありません。上坂さんは大闘争の指揮官。こちらは二十歳になったばかりの若造。遠い存在でした。後になって「上坂さんは自分の財産をなげうって選挙資金を作った」と誰からともなく聞かされ「偉大な大先輩がいるものだ」と敬意を覚えたものです。

 上坂さんと言えば、なんと言っても一九七七年からの三里塚決戦(開港阻止決戦)です。人が行動する時、そこには必ず(前田俊彦さんと並んで)上坂さんがいました。上坂さんは無類のアジテーターでした。だた新左翼が得意とする危機アジリではありません。
 「ナリタ空港を廃港に出来るかどうか、それが問題なのではない。ナリタはすでに廃港になっておる。問題は、それを、政府に、認めさせることができるどうか。そこに人民の力を集中させることが必要なのだ」
 このフレーズを、現地集会で、関西の前段集会で、何回聞いたことでしょう。

 一番、最近お会いしたのは4年前の夏でした。京都で柳川英夫さんを招いて小さな集まりをもった時です。「痴呆」が少し出ているというので、京都駅から会場まで迷わずに来られるか、心配で迎えに行ったものでした。それを察知されたのか、上坂さんは会うなり「余計な心配をして…」と不機嫌そうだったのが印象に残っています。申し訳ありませんでした。

 上坂さんほど、無私の精神で人民の運動に尽くした人はいません。何の見返りもないのに、各地の住民運動と三里塚を結びつけるために奮闘していました。元々は共産主義の人なのに、住民闘争にこそ希望があると確信していたのでしょう。その根底には、農業や環境問題など、エコロジー運動への深い理解があったのでしょう。

 体力の衰えで、自宅から出ることが少なくなってから、どのような生活をされていたのか。一度、おじゃまして、昔話に花を咲かせたいものだと思っていました。しかし、日常のことにかまけ、それをなさなかった自分の薄情さに気が滅入ります。
 こんな不肖の後輩ですが、天国から今後も見守り続けて下さい。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

投稿者 mamoru : 2007年07月22日 22:24

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