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2006年11月12日

 ■ <書評>『女たち(リブ)の共同体(コレクティブ)―70年代ウーマンリブを再読する』(西村光子著/社会評論社/1700円)

 ■豊かな筆致で「リブ」を追体験

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 読む前にちょっとした先入観があった。「リブ」と「フェミニズム」に関する本?「フェミニズム」はもちろん「リブ」にも一知半解の自分には、きっと読むに骨が折れるに違いない。しかしその先入観は読み始めてすぐ吹っ飛んだ。面白いのだ。「リブ」や「フェミニズム」に特別の関心や知識がない者でも読めるのだ。いや「読ませる」ように書かれている、と言った方がいいだろう。それは著者がこの本を誰にむけて書いているのかに関わる。

 「…ほんの30年前に、全身全霊をかけて共同性の構築に関わった女たちがいたんだよと、現代の女たちや若者たちに伝えたい…」。

 伝えるための工夫がある。ドキュメントという方法を取り入れたのがそれだ。「リブ」たちが著した本、ビラ、宣言のたぐいが、ふんだんに提供される。足りない部分は著者が、当時の活動家に直接インダヴューする。そして、何より「たつのこ共同保育所」という著者が直接関わった共同体(コレクティブ)の体験が率直に語られる。
 これらを手際よくならべて、「リブ」をリアルタイムで経験していない者にも、まるでその渦中にいたかのように錯覚させてくれる著者の筆力には感嘆させられた。

 ■「リブ」と「連合赤軍」

 女たち(リブ)の「コレクティブ」を歴史的に考察した中で、個人的に一番興味をそそられたのは、「リブ」と「連合赤軍事件」の関連を考察したところだ。「連合赤軍事件」は、当時高校生だった私にも衝撃だった。私は、リンチ殺人が明るみに出て世間が騒然としてしているあの年の3月、春休みを利用して上京し、東京の千駄ヶ谷区民会館で開かれた「14名の兵士を追悼する集会」(主催「赤色救援会」=もっぷる社)に参加した。

 今にして思えば、それは自分の「生き様」を定めた決定的瞬間だったと思う。

 そして、当時すでに「リブ」のリーダーであった田中美津。彼女も「連合赤軍事件」に衝撃をうけ「連合赤軍は自分の中にもある」と宣言する。新左翼運動が東大安田砦の攻防で落日を迎えていた時、「軍事の高次化」(赤軍派)とは対極にある「日常性の革命化」(リブ)という行き方を選択した「ハズ」であるにも関わらず、である。この宣言を契機にして「リブ」の運動は事実上終わるのであるから重要だ。

 田中の言う「連合赤軍は自分の中にもある」とはどういうことか。著者はこの言葉を手がかりに「リブ」の「コレクティブ」と、連合赤軍の山岳ベースという「コレクティブ」の、本来対極にあるはずの二つの「コレクティブ」が、どこで重なり、どこでズレているのかの考察に向かう。田中自身が永田洋子の誘いで山岳ベースを訪ねていたという事実の紹介も含め(これも私にとって衝撃だった)、この謎解きに有無を言わさずに読者を引きずり込んでしまう著者の筆力は圧巻だ。

 結局、連合赤軍は内部崩壊し、「リブ」と全国各地に生まれた「コレクティブ」も一部を残して流れ解散に行き着く。連合赤軍の崩壊の原因は「共同体」の閉鎖性にあった。これには誰も異論はないだろう。ではリブの「コレクティブ」の結末はどこに原因があったのか。この時、著者は一般に流布されている「共同体」や「集団生活」その原理自身に原因を求める立場(本書では加納実記代や上野千鶴子がそうだとされる)を拒否する。

 そして一つの結論を導き出す。共同体の中に個人の居場所がなかったこと。著者の表現をそのまま引けば「前近代」への逆戻りである。しかしリブが「先進的だった」のは、そのことに気付いた時、さっさと再びリブの出発点である「個」(あたし)に戻ったことだ、と付け加えることを著者は忘れない。

 ■団塊の世代による新たな「コレクティブ」の挑戦

 本書を読んで、いくつもの場面で、自分の体験が呼び覚まされた。平場(平等)であるべき「コレクティヴ」(広義の意味)の内部にも、権力関係が発生するというのは、多くの者が体験ずみだろう。「コレクティヴ」5年周期説も、実感である。無理は禁物なのである。大げさに言えばこの結論は、社会主義の壮大な失敗から得た教訓でもある。

 しかし、本書を読んで気付いたのは、私はもう15年以上も「無理は禁物」という教訓にのみ忠実に過ごしてきたのに対して、著者は「個」(あたし)から出発して再び「共同体」に向かう新たな物語を模索しているということだ。わたしより年長の著者のこのエネルギーには驚嘆する。

 リブは、団塊の世代が恋愛、結婚、子育てにさしかかる時、「男との関係」「産むこと」などををめぐる広大な女の憤激を背景に「コレクティブ」を発生させた。その世代がいま「定年」を迎え、広義の意味での「終の棲家」を求めはじめている。著者が終章で紹介している「住まいの形」をとる「コレクティブ」がそれだ。著者が紹介するような環境、ケア(福祉)、プライバシー保護を備えたそれは「完璧」であろう。「共同で生活することが好きな人」だけがあつまれば「無理」も生じぜす「仲間殺し」も発生しない。

 しかし正直に言って違和感はぬぐえない。一つは、それはミドル階級の排他的な新たな閉鎖社会にすぎないのではないかという疑念。同じことだが、著者が最期に強調している「諧謔精神」とバランスが取れるのかという疑問。

 「社会の閉塞状況をぶち破るものは、社会を支えるつっかいをはずし、それに寄りかかっていた自己をも笑い飛ばす諧謔精神である」。

 それに寄りかかっていた自己を相対化するとは、そこから社会的に排除されてきた人々(若者、女、障害者などなど)と出会い、それを鏡にしてはじめて可能なのではないか。複数の鏡がある「コレクティブ」こそ、「リブ」を引き継ぎ、「リブ」を超える「コレクティブ」(共同体)なのだと思う。


■『女(リブ)たちの共同体(コレクティブ)―70年代ウーマンリブを再読する』

■西村光子著/社会評論社/1700円

投稿者 mamoru : 2006年11月12日 11:39

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