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2007年05月22日

 ■ 教育三法改悪を許さない/イギリスの失敗に学ばぬ安倍「教育再生」

 『グローカル』6月1日号に掲載予定の文章です。



 ■文科相の「権限強化」は分権時代に逆行

 安倍晋三が最重要法案と位置付ける教育関連三法の改悪案が衆議院で強行可決された。「学校教育法」「地方教育行政法」「教員免許法および教育公務員特例法」の三つの改悪案だ。この改悪法案を参議院で廃案に追い込まなければならない。

 「学校教育法」の改悪案は、新たに義務教育の「目標」として「規範意識」「公共の精神」「わが国と郷土を愛する態度」などを設定した。昨年十二月の教育基本法「改悪」の具体化である。法案が成立すれば次ぎのステップとして習指導要領の改訂がなされ、愛国心教育は現実に教室に持ち込まれることになる。

 また、校長、教頭の他に副校長、主幹教諭、指導教諭などを設け、教職員の管理強化を図ろうとしている。教職員は学校運営にたずさわる者と教育する者に分けられる。改悪案は、文科省―教育委員会―校長―副校長―主幹―指導教諭―一般教員という縦系列のトップダウン方式での教育統制を目論でいる。

 「地方教育行政法」の改悪案は、文部科学大臣が地方教育委員会に対して「是正の要求」や「是正の指示」ができるようにする規定をあらたに明記している。「法令違反や怠りによって」「生徒等の教育を受ける権利が明白に侵害されている場合」などと一見もっともらしく書いてあるが、狙いは別にある。

 文科省が国会に提出した資料では「教育委員会が…、国旗・国歌を指導しないなど著しく不適切な対応をとっている場合には、文部科学大臣が具体的な措置の内容を示し、『是正の要求』ができる」とある。伊吹文科相も、衆院教育再生特別委員会でこの点を認めた(五月七日)。

 また、四月に行われた「全国いっせい学力テスト」に愛知県犬山市の教育委員会は「競争で学力向上を図ろうとしているテストは、犬山市の教育理念に合わない」と参加しなかったが、文科省とは異なる教育理念の下で独自の「教育改革」を進める地方教育委員会に対して「是正」「指示」が出されるおそれは大である。

 文部省の地方委への「強い権限」(措置要求)は、地方分権一括推進法の制定(〇〇年)で廃止されたものだ。その復活案は、中教審でも強い反対論が出された。今回の権限の復権・強化は明らかに分権の時代に逆行している。

 「教員免許法および教育公務員特例法」の改悪案は、教員免許を一〇年毎の更新制とすることによって「不適格教員を教壇から確実に排除」し、同時に、教員の「資質と能力をリニューアル」するため、とされる。
 しかし、ここには重大な問題のすり替えがある。本来「不適格教員」の処遇や「研修」などは人事、管理の問題である。それをこの法案は「教員免許」という資格の問題にすり替えている。前者には既にいくつもの処分制度(懲戒制度、分限制度、配置転換制度など)や研修制度がある。処分に際して、その恣意性、正当性をめぐって数百人の教員が係争中でもある。

 仮に「不適格教員の排除」と「資質のリニューアル」が必要だとしても、一〇年毎の「更新」では間に合わないことは明かだ。更新制の導入は教員の身分を不安定に追いやり、教員に「イエスマン」であることを求める。これでは公教育から志ある教員が流出し学校現場は疲弊するばかりだ。安倍の人気取りだけの「教員免許更新制度」は天下の大愚策である。

 ■イギリスの失敗に学ばぬ安倍「教育改革」

 安倍政権が拙速に成立を狙う教育三法の改悪案は、文科省による地教委、学校、職員への支配・統制を強めるものあるが、安倍「教育再生」の全体象はこれにプラスして、「学校選択制」「学校評価」「教育バウチャー制度」などで学校相互を競争させ、それによって「学力向上」をはかる、というところにある。四月には「全国いっせい学力テスト」が実施された。
 その安倍が自らの「教育改革」のモデルとしているのが「壮大な教育改革」(『美しい国へ』)と絶賛してやまないイギリスのサッチャー「教育改革」である。

 サッチャーの「教育改革」の中心的柱は「全国共通カリキュラム」の制定、「全国一斉学力テスト」の実施と成績表(リーグ・テーブル)の公表であった。加えて、学校査察機関の設置と親への学校選権の付与である。(「教育法」一九八八年)。サッチャーの狙いは、全公立学校を「共通の土俵」で競わせることで「学力向上」をはかり、その力で「イギリス病」を克服して、経済力を立て直すという戦略であった。しかし、ブレア政権も継承したこの「改革」はほ失敗した。

 自らイギリスに滞在して、子供と共に「教育改革」を体験したジャーナリストの阿部菜穂子は「教育改革」の「副作用」を次ぎのよう報告している。
 ①学校が「勝ち組」と「負け組」に別れて「教育の階層化」が生まれた。②点数至上主義がはびこり、テスト教科以外の教科(音楽、美術など)が軽んじられるようになった。③テストの問題を生徒に事前に教える不正事件は〇五年には六〇〇件にものぼった。④学校査察(一週間)で「失敗校」の認定を受けた結果、二四六校が廃校に追い込まれた。⑤成績不良者の学校追放でニートが増えた。⑥一番肝心の「学力向上」に疑問の声が多い。(『イギリス教育改革の教訓』岩波ブクレット

 ■「市場原理と教育はなじまない」

 サッチャーとブレアが進めた「教育改革」の「副作用」を直視したイギリスの連合王国各地域では「全国一斉学力テスト」の見直しが進んでいる。また、イングランドでも、政府の指導を無視した教育を行い、「リーグ・テーブル」のトップを取った学校も現れている。その学校の校長は、現行の教育制度についてキッパリとこう批判する。

 「(今の教育制度)はナショナルテストで学校を不必要に競争させ、結果を公表して学校を序列化するシステムである」

 そして、理想の教育についてこう語った。

 「(今の教育制度は)確実に敗者をつくる不公正な教育体制」「教育は敗者を作っては行けない。すべての子供に学びと教育の機会を与えてやるのが教育です。市場原理の適用は教育になじまないし、間違っている」
(阿部・前出)

 イギリスの「教育改革」の「副作用」の現状は、日本の教育の現状に似ている。しかしそれは不思議なことではない。なぜなら、サッチャーの「教育改革」のモデルは「受験地獄」「受験戦争」といわれ戦後の日本の学校教育だったからだ。その日本のトップの安倍晋三が、今度は失敗したイギリスの「教育改革」を日本で真似るのだという。本気だとすれば学習能力はゼロだ。

 今、イギリスも日本も、教育問題といわず社会の様々な領域で共通の問題を抱えている。労働党ブレアの十年は、サッチャー改革の「副作用」である「格差」を教育に力を入れることで克服しようとしたものだった。教育によって「階級の一員」としてではなく「個人」として市場に適応できる「能力」を獲得することを奨励した。ブレアは、ワーキングクラス出身者や移民たちの「機会の平等」のために闘ったと言える。

 しかし「学校教育」の比重を上げ、能力獲得の「機会」を「平等」にすることで、人々は本当に幸せになるのだろうか。日本もイギリスも、今日の社会問題のほどんどは、能力主義文化の過剰によって社会が窒息状態にあるところから生まれている。いま必要な「改革」は、能力主義支配=メリトクラシーを相対化する方向のはずだ。教育に市場原理、競争原理を持ち込むことはこれに逆行するのだ。

 政治学者の山口二郎はブレアの一〇年を総括してこう語っている。
 「機会の平等がメリトクラシーや成果主義と結びつく時、普通の人々にとってはむしろ競争から脱落するリスクが拡大する」「メリトクラシーの文化を共有するものだけの機会均等から、より多様な生き方を許容する社会にできるかどうかが、今後の労働党政治の課題である」(『ブレア時代のイギリス』岩波新書)。
 イギリスの失敗に学び、安倍「教育再生」に対抗する私たちの課題でもある。

投稿者 mamoru : 2007年05月22日 22:07

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コメント

わたしもこのイギリス的改革には反対!
なんか失敗する気がします。

だって、日本とイギリスではなんといってもぜんっぜんお国柄が違いますものね。イギリス(UK)はいろんな人種がいて、階級の差があって、そういうごちゃまぜの国。だからこういった「平等の権利を!」みたいなことが打ち出されてきた(そして失敗している・・・だって市場主義は結局お金持ちが優位に立つんだもの)のだけど、日本はめっちゃ平等やん、ていう・・・。ほぼ単一国家やし、イギリスと比べれば格段に貧富の差は少ないし。

安部さんは、日本を不平等な国にしたいのかな。お金持ちの子供か、またはよくできる中産階級の子供をもっと育てて、それ以外の子は見捨てるのかな。ともかくそういう教育体制を作ろうとしている。それって、「みんなと一緒がすき」な日本の社会・文化に合ってるのかな。。。

何の根拠もないけど、私が個人的に思うことには、日本的な文化のもとでは、たとえばフランスやギリシャに見られるような、貧富の差のわけへだてなく、誰もが平等に、同じ質の教育を受けることができる、そういう中央集権的な、教育が一番合ってるんじゃないかな、って思うんですが。。。そこに、徐々に具合をみながら、イギリス的な市場主義とか、Decentralization(日本でいうところの地方分権?)なんかを導入し、反応をみながら軌道修正していく、そういうほうがいいんじゃないかなって。

というのは、教育を国の繁栄の道具として考えたとき、私が思うに、日本人は、悪く言えば、個が確立されてない、良く言えば、和を保つためならば命も惜しまない(言い過ぎ)ような民族だとなんとなく思うので、イギリスのように個を重視する教育ではなくて、フランスのように団結力を強めるような教育をした方が、国が経済的に繁栄するんじゃないかって。

そもそも、こういった政治的な(?)、人を国家繁栄の道具として合理的に処理するような考えは、教育者や親は断固として反対すべきだとおもうんですが、メディアやなんかでは特に大きな批判は起きてないのでしょうか?

教育は政治の重要な柱(国を「豊か」にするために利用すべきもの)であることは、国を豊かにしようとする政治の意義からみて、仕方ないとは思うけど、そこに国民からの反応ていうか、批判がないと、危険ですよね。「愛国心教育」とか。怖っ!!て思います。

投稿者 abe : 2007年06月06日 16:37

abe様

 コメントありがとうございます。

 イギリスと日本の「お国柄が違う」というご指摘、その通りだと思います。「階級」社会と「和」の社会。これもまい対比ですね。
 いずれにしても、両社会とも「改革」によって向かおうとしているところは徹頭徹尾、競争が奨励されるアメリカ型社会なのでしょう。でも、そこにはまったく希望はありませんね。
 フランスの教育・学校については不勉強でわかりません。勉強しまてみます。
 これからもよろしくお願いします。


投稿者 mamoru : 2007年06月06日 21:14