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2007年09月23日

 ■ 「靖国神社」と「東京都慰霊堂」を訪ねて

 のどかな日曜日の靖国神社

 9月16日~17日、東京に用があって出掛けたついでに、靖国神社と東京都慰霊堂を訪れました。用があった場所の近くに、たまたま靖国神社と東京都慰霊堂があったので、散歩がてら足を伸ばしたわけです。
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 靖国神社は、地下鉄半蔵門線の九段坂駅を降り、一番出口を上って2、3分歩いたところにありました。さっそくあの大鳥居が出迎えてくれました。写真では何回も観ていますが、ホンモノはさすがにデカイ。地上25メートルと言います。近づいて説明文を読むと「戦時中は取り壊された」とあり、とっさに「供出?」と思いましたが、まさかね~。
 日曜日とはいえ靖国神社にとっては「普通の日」。訪れる人はまばらでした。おどろいたことは青空市が開かれていたこと。のどかな風景でした。反対側には「英霊にこたえる会」のテントが二張り。ボランティア風の老人と老婦人が何やら署名を訴えていましたが、こちらも「のどか」でした。

  遊就館―ヒロシマもナガサキも東京大空襲も無視 

 靖国神社と言えば遊就館。入館料=800円也。だだし、これは二階の展示室に入るための料金(「拝観料」とリーフには書いてあった)で、一階部分は無料です。入ったすぐのロビーには「ゼロ戦」が展示してありました。幾人もの人が「ゼロ戦」をバックに記念撮影をしていました。奥には売店「ミュージアムショップ」と喫茶「結(ゆい)」。売店にはお土産品と書籍が並んでます。タイトルを見ると、どれも靖国神社がお墨付きを与えそうな本ばかりでした。
 二階の展示室には圧倒されました。とにかく広い。史・資料類も多い。私は、最初に映像ホールで「私たちは忘れない」という日本会議・英霊にこたえる会が企画・制作した映画を15分ほどみて(途中退席)、それから展示室を順路にそって廻りましたが、時間が無くて展示物の前を通るだけになってしまいました。詳しく観ていけばおそらく一日は優にかかるでしょう。
 ですから展示物や説明書に対する詳しい批評はできませんが、私が「おかしいな」と思ったことを2つだけ上げます。一つは、映画の中で日中戦争の原因を中国民衆の「反日運動」にあるかのように描いていたことです。肝心なことは、反日運動の対象になった日本軍が何故そこに居たのかということですが、その説明は映画ではまったく略されていました。(ここで私は席を立ったわけです)。
 もう一つは、1940年代から戦後にかけての史資料を展示している部屋で、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下の記述があまりにも少なかったことです。ヒロシマは6行、ナガサキは4行しかありませんでした。「東京大空襲」にいたっては皆無です。いくら皇国史観でもこれはひどすぎます。
 とは言え、遊就館に展示してある史・資料は膨大です。ここより多くの史・資料を収蔵している機関は日本にあるでしょうか。(私は京都に住みながら立命館大学の「平和ミュージアム」には行ったことはありません)。遊就館を見て、かつて「平和記念館」構想というものがありましたが、日本の戦争の歴史をありのままに伝える「戦争・平和ミュージアム」は必要だと思いました。

  喫茶店で会った遺族の想い

 正午を廻っていたので展示室を出て喫茶「結」で昼食をとりました。ここのメインメニューは「海軍カレー」。現代風のカレーもありましたが680円の海軍カレーを注文しました。味気は確かに無かったです。
 カレーを頂きながら、テーブルの向かいに座っていた80歳くらいの男性に「ここにはよく来られますか」と声を掛けてみました。男性は「はい、よくきます。フィリピンで戦死した兄が祀られています」とニコニコしながら答えくれました。私が「京都から来ました」と告げると、驚いたように「奇遇ですね。実は兄は京都の16師団にいました。三回招集され、満州、シナ、そして最後にフィリピンに送られ、戦死しました」と話されました。そして、ご自身は静岡に疎開して、そこで米軍の機銃掃射で民間人がたくさん殺される現場を見たこと、一般兵士と民間人に戦争犠牲者を多くだしながら、上層部は誰も責任をとっていないことなど、押さえた口調ながらしっかりとかつての戦争についての思いを私に話して下さいました。
 靖国神社に集まる人は、顕彰一色ではありませ。戦争への憤怒を抱えながら、それをカタチにして示す方法、場所が発見できず、代替として、靖国神社に足を運んでく人も多いのでしょう。こうした遺族の思いと靖国神社の教義の間には大きな溝があることを、忘れてはならないと思いました。

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 「晋ちゃんまんじゅう」で恩返し?

 最後に帰りしなに靖国神社のお土産場屋さんで面白いモノをみつけました。「晋ちゃんまんじゅう」です。安倍晋三をパロッたお土産。他にも「太郎せんべい」なども並んでいました。以前のブログで写真だけ載せましたが、ホンモノははじめて。ワイドショーでも取り上げられ、辞任表明後、一日1200個も売れる超人気商品だそうです。もちろん私も1箱買いました。
 結局、晋ちゃんは、首相になってから一度も靖国神社を参拝しなかった不義理者でしたが、最後はきっちりとまんじゅうで恩返しした恰好です。ヨシ、ヨシ。


 国技館近くにある東京都慰霊堂

 靖国神社をたずねた翌日、墨田区両国にある東京都慰霊堂を訪ねました。場所は国技館のすぐ北側にある横綱公園の一角です。こちらは靖国神社と違っていたって地味。
 公園内には三つの建物がありました。一つは東京都慰霊堂。1923年の関東大震災によるの犠牲者(5万8千人)の遺骨を納める場所として1930年に立てられ、1951年には東京大空襲の犠牲者(10万人5千人))の遺骨も納められ、両方の犠牲者の慰霊施設となっているところです。二つ目は慰霊堂と同じ年に建てられた東京復興記念館。そして三つ目が「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。こちらは東京都議会の決議をうけた遺族関係者の募金活動によって2001年に建設です。

 関東大震災の生き証人

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 私は最初に慰霊堂の中に入りました。中は一見お寺のようでありながら、椅子が並んでいるので教会のようでもありました。すぐ目についたのは堂の左壁に掲示されている東京大空襲の写真です。当時の警視庁の写真担当者が撮影したものです。この写真の前に私も含め4人の来場者がいました。70歳を超えた女性が2人とかなり高齢の紳士です。写真にじいっと見入っている女性に「遺族の方ですか」と声を掛けると、そうではなく、長野県にお住まいとのこと。「今日はたまたま東京に出て来たんです。慰霊堂は一度たずねてみたいと思っていました。長野でも空襲がひどかったんですよ。日本も悪いことをしましたが、米兵も悪いことしました。子供がねらい撃ちされましたから。」と話して下さいました。
 この会話に高齢の紳士も加わり、「この辺は震災と空襲の二回やられましたからね。私は震災の生き残りですよ。ただ、当時4歳だったので記憶はまったくありません。両親が犠牲になりました」と語りました。「9月1日の慰霊祭に参加できなかったので、今日ここにきました」。
 東京大空襲については、親父が被災者の一人だったので身近に感じていましたが、関東大震災の生き証人にここでお会いできるとは思っていませんでした。ビックリです。堂の右壁に展示されている大震災の絵は写真にはない迫力があります。

 「神聖不可侵」の絵がそのまま展示

 「東京復興記念館」は特別に貴重は歴史資料館だと思います。まず、ここには靖国神社のような歴史の偽造がありません。初期の展示物は昭和5年の建設時のままで、これに新しい展示物を加えて展示するという方法がとられているからです。初期の展示物の中には「自警団」と名付けられた自警団の活躍を称える絵もありました。自警団が果たした負の側面がその後明らかになっているはずですが、絵と説明文は当時のままです。
 また天皇(摂生?)が被災地を激励してまわる絵と説明は、戦後の憲法の「主権在民」とはまったく不釣り合いなのですが、そのまま残されています。ほかに、「東京市」の復興状況を描いた地図も面白いです。当時の250万人の東京市はいかにもスリムで、逆に、その後の膨張、開発がいかに破壊的なものだったかに気付かせてくれます。

 空襲の犠牲者は下町の下層に集中
 
 よくよく考えてみると、この地は震災と空襲という二重の災害をうけた地なのです。横綱公園自身は、もともとは陸軍の被服廠で、公園として造成中に関東大震災がおこり、ここに逃げ込んだ被災者数万人が、風が逆に吹いて焼死しました。それから約20年後、今度は戦争による大空襲です。大空襲も東京一円がやられますが、中心は本所区、荒川区、向島区等の下町でした。この地に軍需工場の下請け零細企業が密集していたことも関係があるでしょう。
 空襲などによる被害は国民が等しく受けるものではありません。ここには明らかに地域間、階層間の格差が存在しています。兵士・庶民と指導層では明らかに違います。この問題に光をあて、空襲犠牲者に国家賠償を求める裁判も今年からはじまっています。

 被災者を「尊い犠牲者」と呼ぶ東京都

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 最後に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」について。モダンな花壇が犠牲者への追悼の意を表しています。デザイン的には明るい感じがしてステキだと思いました。しかし、碑の主旨を説明した東京都発行の冊子の一文には異義ありです。そこにはこうあります。

「…東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築きあげられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました」

 なんと、東京都は、空襲犠牲者を「尊い犠牲者」に祭り上げ、その犠牲なくして今日の「平和」と「繁栄」はなかった、と言っているのです。要するに犠牲者に感謝せよと。このものの言いかたは、ナガサキへの原爆投下を「しょうがない」と発言した久間元防衛大臣の発言よりもヒドイものです。せっかくの追悼・平和祈念碑もこの一文で台無しです。ひょっとしたら石原都知事自身が、直接原稿に目を通して、この一文を挿入したのかも?と勘ぐりたくなるような文章です。
 あらためて東京大空襲は終わっていない、日本の戦争は終わっていない、と思う訪問になりました。

投稿者 mamoru : 2007年09月23日 16:45

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コメント

失礼します。貴重なレポートとても参考になりました.有難うございます。昭和の庶民史を語り、考える事は難しいことではありますが、続けなければと毎月、勉強会を続けています。学ぶだけでなくそこからささやかな平和へ向けての行動に続けられればと考えています。大変な社会であるだけに国民一人一人が良く考えなければ、取り返しがつかなくなることを心配しています。心配、批判、愚痴だけでなくご意見をお持ちの人はINで、[内閣府]、「政党本部」、[知事,市長]、[国際連合」などの投稿欄へメールで送りください。憲法改正、自衛隊の国民監視、シベリア抑留、中国残留孤児、イラク派遣などについてお送りください。賛同いただける人はよろしくお願いします。

投稿者 昭和の庶民史を語る会 : 2007年09月25日 13:47