« 「靖国神社」と「東京都慰霊堂」を訪ねて | メイン | 上坂喜美さんを偲ぶ会へのご案内 »

2007年09月24日

 ■ 福田新政権の発足を前に/「リベラル」な手法による「改革推進」に警戒心を

 ◇構造改革は継承

 自民党の新総裁に福田康夫氏が選出された。福田政権はなぜ生まれ、どこに向かうのか。三つの軸から考えたい。

 一つは「構造改革路線」をめぐる「政策転換」という軸である。7月の参院選の安倍の大敗の最大の要因は「構造改革」にあったことは確かである。都市と地方の格差や労働をめぐる格差である。それらを「構造改革」の「影」にすぎないと過小評価し放置した安倍政権に対して、有権者が「NO!」を突きつけたのである。
fukuda.jpg
 時期はずれの辞任になったとは言え、福田であれ麻生であれ、安倍に替わる新総理(首相)は誰であっても、「構造改革」からの「政策転換」の姿勢を示す必要があった。
 しかし総裁選では福田も麻生も「構造改革」の継承とその影の部分の是正を一般的に語るだけで、明確な「転換策」は示していない。そればかりか、福田は財政再建と公共事業の削減を訴えて、構造改革=新自由主義政策の継続の方に力点を置いている。
 確かに個々の政策において規定方針の凍結などを示している分野もある。また、些細な微調整を「大転換」であるごとく示すこともあるかも知れない。しかし福田新政権が新自由主義からの「政策転換」に舵を切るかどうかは、いまだ未知数というべきだろう。

 ◇リベラル掲げ、対話を推進

 二つめは、安倍流の「保守主義」を継続するのか、それとも「リベラル」な理念の政治への転換を進めるのか、という軸である。ここでの結論は明瞭である。福田は「リベラル派」として意識的に自分を売り込む方向を示している。それは改憲問題(3年後の改憲発議は棚上げ)、対北朝鮮政策(相手からの対話の機会を生かす)、靖国参拝問題(国立追悼施設)などに示されている。
 靖国問題で国立追悼施設の建設を支持する立場にたつ福田は、ナショナリズム、国家、公共性の3つのうち、3番目の公共性をより上位におく考え方に立つ。その公共性は堅固であるよりも伸縮自在の軟体として、国民という枠をも超えるものとして構想されている。
 こうした福田のスタンスに対して、保守派のオピニオンである『産経新聞』は、総裁選報道において、福田を「リベラル」と規定して敬遠する立場を取ってきた。私は、『産経』とは逆の立場から、外国人の地方参政権や、男女別姓などをに踏み込む可能性のある福田「リベラル」政権により警戒心を持たなければならないと思う。

 ◇「劇場型政治」の終焉のあとに

 三つめは「劇場型政治」の継続か「対話・安定型政治」への転換かという軸である。これは小泉改革を引き継いだはずの安倍が、何故「劇場型政治」で力を発揮できなかったのかという問いとも重なる。結果論であるが、この一年、安倍は二重の読み違いをしていたのではないか。一つは自分を「劇場型政治」を演じることができる名優だという思い込み。二つ目は観客は小泉以降も依然として「劇場型政治」を望んでいるはずだ、という読み違い。二つ目の読み違いは実は私もしていたのだが、はほとんどのマスコミや批評家も誤ったのではないか。
 安倍辞任の報につづく総裁選報道の第一弾は、ほとんどが「麻生を軸に」だった。しかし翌日には「福田に雪崩うつ」に急変する。この裏には確かに派閥政治が動いていた。しかし世論調査でも福田支持が一貫して麻生を上回り続けた背景には、「劇場型政治」への無意識の忌避感が作用していたのではないか。代わって「生活を第一」にした「対話・協調・安定型政治」への欲求が高まっていると読めないか。
 いや、福田支持が高いのもマスコミの誘導の結果に過ぎず、政治へのマスコミ支配は強まっている、というい反論はありうる。一面あたっているだろう。にも関わらず「9、11選挙」のような一人の政治家のパフォーマンスに国中が一喜一憂するという現象は、今後、当分の間は起こり得ないだろう。ポピュリズムという熱病から、有権者はゆっくりではあれ、回復しつつあるのだ。

 ◇「政治とカネ」ではサドンデス

 発足する福田新政権は、そう名乗るか否かに関わらず「リベラル」を政権の売りにする内閣となろう。「自立と共生」「希望と安心」のコピーがそれを物語っている。そして過度なパフォーマンス(=劇場型政治)を慎み、「ゆるキャラ」「脱力系」を演じて「安定感」「親しみ安さ」を演出するだろう。そして安倍、麻生に比して「弱点視」されている拉致問題では、六ヶ国協議に積極的にコミットして思わぬサプライズがあるかもしれない。
 しかし、新自由主義=構造改革路線を基本的に踏襲する政権であるかぎり、いかに脱力系を演じようと、福田新政権は「改革」というマッチョな役割から自由になれない。それは改革に伴う「痛み」から自由になれないということだ。リベラルな手法は「政局的」には逆転参議院で民主党に主導権を渡さないために不可欠な手法であろう。しかし「社会の痛み」に対して、「リベラル」はいったいどれだけの統合力を持つのか、これは未知数である。さらに「政治とカネ」の面では新政権は「サドンデス」である。一人でも不祥事が出たらその時点で自公政権は消滅する。

 安倍の祖父岸信介は1960年、安保改定をめぐる大激動期を独特のキャラで乗り切った。そして、「政治の季節」の後に登場した池田政権は「所得倍層」を掲げ、「経済・くらし」重視に転じ、長期政権を実現した。岸の孫の後に首相の座にすわる福田は、果たして池田のように「経済・くらし」重視路線で長期政権を築くことができるだろうか。それとも、来春とも言われる総選挙で華と散り、自公による最後の政権になるのだろうか。

投稿者 mamoru : 2007年09月24日 00:38

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mamoru.fool.jp/cgi/mt/mt-tb.cgi/64

コメント

初めまして。上越市に住んでいます。
05年の衆院選と07年の参院選の結果の違いは一体なんだったのでしょうか。「まずは一歩前進」なのか「よろめいただけの一歩」なのか。選挙の結果だけ見れば世の中は少し動いたようですが、劇場での芝居に目を奪われているうちに、現実の世の中はどんどん悪くなっている気がしてなりません。

投稿者 ume : 2007年09月26日 19:34