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2010年07月21日

 ■ 新しい希望としての「脱成長社会」 /セルジュ・ラトゥーシュさんの講演を聴いて


 七月の上旬、フランスの脱成長論者であるセルジュ・ラトゥーシュさんが来日し、東京や京都で講演を行いました。氏の日本での初著になる『経済成長なき社会発展は可能か?―〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』(作品社)の出版を記念してのイベントです。私は、たまたま仕事帰りに京都の龍谷大学でラトゥーシュさんの講演を聞く機会を得ました。その内容をかいつまんで紹介し、感想を述べたいと思います。
 その前にまず、講演会の会場に着いて、私が最初に何に注目したかを話します。それはラトゥーシュさんがどんな身なりをしているのか、ということです。「脱成長」とかなんとか言いながら、上等なスーツを着こなすような知識人であれば、私からすれば、話す内容以前に×です。はたして…・
 結果は◎でした。ラトゥーシュさんは、顔に優しそうなヒゲをたくわえ質素なジャケットを羽織っていました。私は密かに「信用できそう」とホッとしました。さらに、ラトゥーシュさんは講演の「つかみ」も巧みでした。朝、竜安寺で見たという知足の手水鉢を例に出して「脱成長の考え方は、禅の『唯我知足』の考えとまったく重なる」と話し始めました。宗派は違うとは言え、仏教系の大学での講演と心得ての導入でしょう。さすがです。

 ■「絶滅の道」でも「絶望の道」でもなく

 さて、講演の内容ですが、ラトゥーシュさんは、まず、現在の危機を「生態的・文化的・社会的な危機にとどまらず、文明の危機である」と押さえました。具体的にはウッディ・アレンの言葉を引いて「絶滅の道(成長による生態系の危機)」と「絶望の道(成長社会でありながら成長できない危機)」の「交差点」が現在でにあると。そして、その「二つの道」を回避する「抜け道」こそ「脱成長の道である」と言います。
 こうした大枠を提示した後、ラトゥーシュさんは「生態系」の危機の由来を歴史的に説明し、さらに、二〇〇八年の金融危機以降顕著になった「成長の危機」のメカニズムを詳細に論じ、最後にそこからの「抜け道」である「脱成長社会」とはどのような社会なのか、について語ったのでした。
 「絶滅の道(生態系の危機)」については「成長の限界」論から「地球温暖化」までを振り返って、現在を「地球誕生以来、第6の危機」(IPCC)と強調しました。また、二〇〇八年以降顕著になった「成長の危機」については、支配者はその対策として一方で「節約」を説教しつつ、もう一方で「新成長戦略」による無駄遣いを奨励している、とその矛盾を鋭く批判しました。そして「節約」と「新成長戦略」の両方を拒否して「脱成長社会」をめざすと。

 ■「脱成長社会」一〇の指標

 では、ラトゥーシュさんにとっての「脱成長社会」とはどのような社会なのでしょう。ラトゥーシュさんが即座に語ったことは「それはマイナス成長ではない」ということでした。もちろん、そいう経過は通るのでしょうが、大事なことは(「脱成長」・仏語の「デクロワサンス」の原義にふくまれる)「とらわれからの解放」にある、とラトゥーシュさんは語ります。「経済成長がなければ社会や暮らしが成り立たない」という「常識」や「神話」から自由になることです。
 聞いていて、ここは大事な論点だと思いました。「脱成長社会」とは「成長社会」を「ゼロ成長社会」あるいは「マイナス成長社会」へと転換させるだけではありません。経済や社会や文化や科学技術など、様々な分野のパラダイムチェンジを伴うものだというのです。
 「経済成長」が放棄されるだけではなく、経済それ自身が社会の中心的位地から退き、別のものが前面に出てくる社会。ラトゥーシュさんが影響を受けた経済学者として、カール・ポランニーの名前を上げていたので、合点がいきました。
 ラトゥーシュさんは最後に「脱成長社会」の一〇の指標を示しました。これは二〇〇七年の大統領選挙の時に作ったものだそうです。グローバリズムと闘う農民=ジョゼ・ボベ候補が掲げたのかどうかは聞き損ねましたが、「脱成長社会」を分かりやすくデッサンしています。
 (1)成長目標を放棄する(2)エコ・タックス(3)社会・経済のローカライズ(4)農業を支える(福岡正信の自然農法に学ぶ)(5)労働時間の短縮(6)財と知の公正なシェア(7)エネルギー消費を現行の二五%(四分の1)に削減(8)広告・宣伝の制限(9)科学技術の方向性を変える(10)お金を公共財として取り戻す

 ■新しい希望としての「脱成長社会」

 ラトゥーシュさんの講演を聞いて、これからは「脱成長」の考え方に、追い風が吹き始めるかも知れない、と思いました。なぜならラトゥーシュさんが言う「絶望の道」(成長社会でありながら成長できない社会)は、日々、成長の無理強が原因で大量の犠牲者を生み出しているからです。「成長」は「幸せ」を呼ぶどころか、不幸の最大の原因なのです。
 この点をラトゥーシュさんが押さえていることが、「環境の有限性」の強調から「成長の限界」を語るこれまでのロジックとの大きな違いだと感じました。最近、後者の立場の人々は、炭素規制によって新しい成長が可能である、という「低炭素経済論」を展開中です。原発の増設による「低炭素経済の実現」は論外だとしても、低炭素、少エネルギーによる「経済成長」が可能であるならば、それでよいのでしょうか。
 先に紹介したラトゥーシュさんの「脱成長社会」は少なくとも一〇の指標で表わされていました。決して「炭素排出」だけを取り出して「マイナス」した社会ではありません。とくに「財と知の公正なシェア」や「社会・経済のローカライズ」という指標は、一国内やグローバルなレベルでの格差や貧困へ批判を含むと同時に、脱成長社会を形成する主体を示唆して余りあります。
 成長の犠牲者と、そこからも疎外された者たちの合作としての「脱成長革命・社会の形成」。ラトゥーシュさんの講演に新しい「希望」を感じたのは私だけではないでしょう。

投稿者 mamoru : 2010年07月21日 18:56

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