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2004年11月03日

 ■ 中越地震の被災地、十日町市の同級生を訪ねて

 ■いてもたってもいられない気持で

 10月30日(土)~31日(日)、新潟の実家に帰ってきました。親父や弟家族の元気な顔をみるのと、地震で被災した十日町市の同級生の安否を確認するためです。

 私の実家がある松代町(まつだいまち)は、十日町市の西隣りに位置します(参照1)。今回の地震で震度5を観測しましたが、幸いなことに、一部に道路の亀裂や崖崩れがあったものの、大きな被害はまぬがれました。23日の地震の直後から半日間ほど、実家と電話連絡が困難になり、心配しましたが、24日(日)の午後には、家業を継いでいる弟の元気な声を聴くことができました。正直なところ、自分の実家が大丈夫だと知り、力が抜けました。

(参照1)地図

 しかし、地震の被害がだんだん詳しく報道されるようになり、長岡市、小千谷市とならんで十日町市にもかなりの被害が出ていることが報道されはじめると、心を穏やかにして過ごすことができなくなりました。十日町市は高校の学区が一緒だったこともあり、同級生がたくさん住んでいるところです。全市に避難勧告が出されているので、同窓会名簿の住所と市のHPが提供している避難所の住所を照らし合わせて、誰が何処にいるのか確認していると、胸が苦しくなりました。
 
 そしてもう一つ、「合併」問題の行方も気になりました。私の出身地の松代町は、十日町市と隣接する他の3町村とともに、来年の4月1日に「新十日町市」として新しいスタートを切ることになっています。私は「合併」には反対してきましたが、こうなっては、好むと好まざるとに関わらず、私の生まれた町も、同じ「十日町市」の一員として、今の危機に立ちむかって行って欲しいと思いました。

 地震から一日すぎ、二日すぎ、刻々と報道される被害の状況を眼にし耳にしていると、だんだん仕事が手に着かなくなりました。いてもたってもいられない気持とは、こういうことをいうのでしょうか。人間は危機の中で自分のアイデンティティー(○○民族だとか、▽▽人だとか)に目覚めるらしいのですが、私も、今回ほど自分を「新潟県人」だと強く感じたことはありません。イラクが空爆されている時、日本に留学していたイラク人学生が、どんな気持で祖国を見つめていたか、わかったような気がしました。

  ■直江津駅で会った若者たち 

 土曜日(10月31日)の朝、はやる気持を押さえながら特急「サンダーバード」に飛び乗りました。しかし、いつもなら、北陸線の直江津駅まで特急でいけるのですが、今は、地震の影響で富山駅までしか行けません。まったく不覚でした。事前によく調べておくべきでした。結局、富山駅から普通列車を乗り継いで、5時間かけて実家に、たどり着きました。

 直江津駅に着いた時に、面白い出会いがありました。乗り継ぎのホームに残ったのはたったの4人。2人の学生風の若者は、大きなザック、断熱マットなどのいでたちで、いかにもボランティアという感じでした。話しを聞いたら環境問題を扱うNGO・エコリーグの鳥取大学の学生で、和歌山県と三重県の出身。柏崎経由で先発隊が待つ小千谷市に入る予定だと言います。アドレスを交換し、来年2月に京都で開催される「アジア・太平洋のみどりの京都会議」の紹介をしました。

 もう一人の若者は理学療法士。小千谷の実家が被害を受けたので病院の救援組織のメンバーとして現地に入るのだといいます。オヤジさんは位牌と通帳だけ持って半壊した家を飛び出し、避難所にいるそうです。病院の名前を聞いたら京都の醍醐にあるT病院。なんと同じ伏見区だったわけです。

 ■松代から長岡の実家に「救援物資」を運搬 

 実家に着くと、親父をはじめ、弟夫婦と3人の甥が待っていてくれました。幾多の修羅場をくぐり抜けてきた80歳を超える親父にとっても、今回の地震はかなりの出来事だったようです。私が小学生の時(1964年)に体験した新潟地震よりも、はるかに大きかったと言っていました。

 その夜、役場に勤める同級生のI君の家をたずねました。I君の家は、私たちが高校生だった頃、たまり場になっていた所です。女手一人で息子を育てたお母さんは、とてもきっぷのいい人で、そこに集まってくる者にとって「みんなのお母さん」という感じでした。

 あいにくI君は「宿直」で留守でした。しかし、「みんなのお母さん」とI君のお連れあいは在宅でした。そこに、面白いお客さんが来ていました。I君の娘さんの友だちです。彼も被災者の一人です。長岡市にある実家は傾いたままであること、両親は今もそこに住んでいること、一週間、松代町から長岡市の実家に「救援物資」を自分の車で運び続けたこと…。彼は上気した顔で興奮気味に語ってくれました。

  ■「何か手伝うことはありませんか」―県外者の思いは同じ 

 I君宅からの帰りに、せっかくなので、役場の「宿直室」に寄りました。3人の職員が「勤務」中でした。I君は、今は、衛生関係の部署にいました。この前会った時は教育委員会の仕事、そのまた前は、第三セクターの「温泉施設」のフロントでした。

 そしてこの日は、十日町市に「ゴミの回収」の応援に行って来たところでした。「地震で壊れた災害ゴミを中心に回収することになっていたけど大変だった。地震とは関係のない、普段なら有料になる大型ゴミをどんどんもって来るんだから。でも断るわけにも行かないし、ホントに困った」とボヤいていました。
 その話しを聞いて、人間はどんな時でも清濁二面があると思うと同時に、そういう、したたかさに、ホットさせられもしました。

 I君のとところには、県外の同級生から「何か手伝うことはないか」と問い合わせがあると言います。皆、思いは同じなのだ、としみじみ思いました。午後9時を回ったころ、宿直室に電話がありました。別の職員が電話を取って、今日の出来事を色々と話しています。どうやら県からの電話のようです。県は、被害が少なかった自治体からも、こうして一つ一つ情報を集めているのでしょう。

 役場を後にして、実家に戻って床につきました。床についたら部屋の外で弟が言いました。「余震には気を付けて。揺れ初めたら数を数えること。20秒過ぎても揺れていたら、ウチの家も潰れるから、必ず、外に逃げること」。そう言われて、地震は過去のことではなく、現在進行形であることを、あらためて認識させられました。そして、明日行く予定にしている十日町市で、果たして同級生たちに会えるだろうか、元気にしているだろうか、などと考えていたら、長旅の疲れからか、自然と眠りについてしまいました。

  ■自主避難する池尻地区住民 

 翌日の日曜日(31日)は、朝6時半から行動を開始しました。実家の四輪駆動の軽トラを借りて、最初に、松代町の中でもっとも被害が大きかった池尻地区に行ってみました。

 ここは急斜面に8世帯ほどの家が立っている集落です。今回の地震で集落に通じる道の谷側が崩れ、片側通行になっているところが数カ所ありました。地盤の緩みで家屋が流される畏があることから、住民は夜だけ、近くにある町の施設に自主避難していました。そのせいか、集落には人気はありませんでした。斜面に立つ家々の周りには、ブルーシートが敷かれていました。(自主避難は11月2日で、解除されたそうです)。

 その後、十日町に向かいました。松代と十日町をむすぶ国道253号線は、地震の後、東京方面と長岡・新潟方面をむすぶ唯一のルートとなったため、関東方面からの大型車がひっきりなしに行き交っていました。

 十日町までは、ほとんどトンネルと言っていい道のりです。二キロほどのトンネルが二つあります。「今回は、この距離が松代にとっては幸いしたのかな」と長い長いトンネルを通りながら、思いました。

  ■避難所でのO君との再会 

 十日町市には15分ほどで着きました。同窓会名簿と避難所の住所をたよりに、初めに、O君が住むY地区の避難所(小学校)を訪ねてみました。ここは貯水池の堤に亀裂が入ったため、住民に避難指示が出されたところのトナリです。私が訪れた時はすでに水は抜かれていました。

 自衛隊車両がならぶ小学校のグランドの脇を通って、玄関横の「本部」らしい所に行きました。名前を名り、「すみません。こちらにOさんはいらっしゃいますか?」と聞いてみました。すると奥の方で、おもむろに立ち上がった人がいます。ギョロリとした目でこちらを見て、「マモちゃん?マモちゃんじゃないの?わざわざ来てくれたのか。ビックリした。何十年ぶりかな~」。ビックリしたのは私の方でした。こんなにすんなりと会えるとは。

 O君は23日の夕方、立ち寄り先で地震にあったそうです。「目の前で柱がバキッと折れるのを見た」「これでは家も危ないと思い真っ暗な街の中を車を置いて走って戻った」「気がついたら足は血豆だらけだった」。家族は全員無地に避難していました。

 夕食前の被災だったため、時間がたつとお腹がすいてきたそうです。家の中の炊飯器にご飯が残っているのを思いだしました。しかし、「おっかなくて、取りにいけない」。余震の合間に「命がけ」で家に入り、炊飯器を取ってきて、家族5人でにぎりめしにして食べたそうです。「情けなかった」

 「それにしても、救援物資は届かないものだと、つくづく思った」とO君は言います。「被災して3日間は、食糧がなくて辛かった。米どころだからどの家にも米はいくらでもある。でも、水もガスも電気もこないので、飯を炊けない。ライフラインの有り難みが今回身にしみてわかったよ」。

 この日、避難勧告が正午に解除されるので、O君は家に帰る支度をはじめていました。「家の中はグシャグシャだけど、家が残ったから良かった。解除されても帰れない人も多い」。
 O君は、震災8日目での新しい動きを歓迎しつつも、まだ不安でいっぱいの様子でした。「今度は同窓会で会おう」と約束して避難所を後にしました。

 O君と別れたあと、K君が住む隣りの地区に行きました。避難所にいなかったので自宅に電話をしたら「会社に行っています」とのこと。ちょっと意外な返事でした。でも、無事を確認できたので安心しました。

  ■信濃川沿いの崖崩れ 

 それから、川西町を廻り、新しくできた妻有橋を渡って117号線に出て、十日町市(の北部)から小千谷に向かいました。

 川西町は「車中泊」が原因でエコノミークラス症候群によって、女性が亡くなったところです。警察が注意をよびかけているとのことですが、「車中泊」は減らないようです。

 川西町で目に付いた光景は、街角のいたるところに人々の集まりが出来ていることでした。避難所に泊まった人や、「車中泊」だった人が、朝になって町内に戻り、自宅に泊まった人と街角で情報交換をしている様子でした。普段でもそうなのかどうか…。都会にはない光景です。この町も来年から「十日町市」になります。

 国道117号線を信濃川に沿って十日町から小千谷にむけて走ると、崖崩れが多くなります。とくに信濃川の東側にそれは集中しているように見えました。十日町でも117号線の沿線より山側(東側)にブルーシートの家が多く見受けられました。このラインの延長に川口町と山古志村があります。

 小千谷の岩沢地区に入り、魚沼橋までくると手前の交差点の信号が消えていました。今朝の震度3の余震で停電中だと広報車がアナウンスしていました。

 この交差点を右に曲がると川口町に抜ける道です。ハンドルを切ったらすぐ「通行止め」。前を見ると信濃川の東側を走る道路が、巨大な土砂と岩で塞がれ、アスファルトがダンスを踊っていました。

 「通行止め」の右手前に細い道路があり、今度は、そちらに迂回しました。こちらも道路が谷側に崩れおちていました。応急措置として山側を掘って砂利を敷いた「付け替え道路」が出来ていました。恐る恐る車を進めたところ、小さな集落がありました。

 おそらくこの「付け替え道路」が出来るまで、この集落も「孤立」状態だったのでしょう。余震が続く中で工事をした人のことを思うと「ジーン」と来てしまいました。

 しかし、これ以上進んで転落事故にでも合うと迷惑をかけるので、引き返すことにしました。再び117号線に出て、今度は十日町の中心部を通って南下し、もう一人の同級生を訪ねました。

  ■「本震の後の二回の大余震で、精神が参った」 

 十日町の中心部では(私の見た範囲では)倒壊、半壊などの家屋は見かけませんでした。そのかわり商店街では、シャッターが壊れたり、壁が崩れ落ちているところが、多くありました。JR十日町駅は、立ち入り禁止の部分もあり、東京方面(越後川口駅方面)からの列車もなく、ひっそりとしていました。

 市の中心部を離れ、国道117号線を南下して、信濃川に近いところで農機具屋を営むS君を訪ねました。S君はその昔、K君と一緒に、京都旅行に来た折りに、四畳半の私の安アパートに泊まったことのある人です。ほどんで忘れていましたが、今回の地震で、突然、そのことを思い出しました。

 S君のご家族は、避難所には入っていませんでした。「この辺りは、被害がすくなくて、良かったよ」。安堵の言葉を口にするS君ですが、直後は余震が恐くて家族で「車中泊」をしていたといいます。

 「外に飛び出したら、隣りの家が震れて、こっちに迫ってきた感じがした。恐かった。一回だけだったらまだしも、大きいのが立て続けに二回、三回ときた。それで、みんな、精神的に参ってしまった」。同じことを、今回会ったほとんどの人が、異口同音に語っていました。

 S君と話しをしていると、「ベルトを下さい」とお客さんがいらっしゃいました。「すみません。まだ、どこに何があるか、わからないからない状態なんです。もうしばらくお待ちください」と謝るS君。建物に被害はなかったけれども、店の中は足の踏み場所もない状態だそうです。S君が農機具店を再開するには、もうしばらく時間がかかりそうでした。

 十日町市に住む同級生は、ほかにも沢山います。S君が教えてくれた被害が大きかった地区に住む同級生にも会いたかったです。しかし、たった半日の訪問では、すべての人に会うのは叶いません。S君とも「同窓会」での再会を約束して、松代への帰路につきました。

 帰路、二人の知人宅を訪ねました。一人は松代町のT地区に住む同級生のK君。もう一人は、正確には「知人」とは言えない人ですが、私が毎日のように文章を読ませてもらっている「チューイチ」さんです。

  ■合併計画の見直しを迫る地震災害 

 K君とは、生年月日が私とまったく同じという奇妙な縁で結ばれた関係です。I君と同様、k君も役場で働いています。総務課に配属され、今年は、「町政施行50周年」の記念行事と、十日町市との「合併」という、一見、逆方向の仕事に携わっているようです。地震の恐い体験をひとしきり話したあと、話しは自然とその「合併」のことになりました。

 「一番の問題は、この地震によって合併の前提にしていた財政的な試算が崩れてしまったこと。各自治体が貯金のあるうちに合併してしまおう、という話しから、赤字を持ち寄っての合併という、まったく逆になってしまった。でも7月に調印を終えたからいまさら引き返せないし…」。K君は本当に困ったという顔をしていました。

 「寄らば大樹」の思いで、十日町市との合併を推進してきた人々にとっては、その大樹が今回の地震で打撃を受けたわけですから、困惑するのは当然でしょう。「救いの神」と考えた相手に、逆に「救いの手」をさしのべなければならないわけですから…。でもそこは考えようではないでしょうか。

 地震のあとに、NHKの「いきいきラジオ」が、松代町の「サトウさん」(名前の方は忘れました)のお便り(メール)を紹介してくれました。そこには「合併を控えた松代町民は半分十日町市民です。地震に負けないで、同じ市民としてガンバっていきたい」とありました。これは私の考えと重なります。

 今回の被害の中で、市民、町民の間にどのような連帯をつくれるか、それが合併後の「新十日町市」のあり方(議員の選出方法などの民意の反映方法も含めて)を規定していくのではないでしょうか。

 K君の話しで、興味を引いたものが、もうひとつありました。それは、松代町が合併の対象を選考する過程で、長野県の栄村を対象にしたことがある、という話しでした。「平成の大合併」が力づくで国から押しつけられるなかで、栄村は「小さくとも輝く自治体」として自立の道を歩んでいるところです。

 「上越市に付くか、十日町市に付くか」という二者択一の呪縛から脱して、県境を超えて栄村との合併を構想した人がいたという事実は、驚きであり嬉しいことでした。十日町の復興をおしみなく支援しつつ、本当は、こうしたところまで舞い戻って、合併の再検討をするのが、ベストなのだと思います。

  ■田中角栄的な「復興」とは違う選択を 

 「チューイチ」さんとは、今回はじめてお会いしました。お昼時に、突然、おじゃましたのですが、ご夫婦で歓迎してくださいました。

 「チューイチ」さんが管理する Web-Site「チューイチのぶちぶち日記」は、松代町を出た人にとっては、松代の今を知る貴重なページとなっています。今回の中越地震でも、家族のこと、地域のことを、十日町のこと、ボランティアのことなど、「ぶちぶち日記」ならでの視点から貴重な情報が提供されておりました。帰省した折りにはぜひお会いしたいと思っていましが、果たせて良かったです。歓迎してくださったチューイチさんご夫婦に、心から御礼申し上げます。

 「チューイチ」さんにお会いしたあと、本家にあいさつし、3年前に他界した母親の墓参りをし、実家に戻って義妹にお礼を言い、そして、急いで「松代駅」午後2時31分発「直江津行」の電車に乗って故郷を後にしました。

 新潟県中越地方が、地震の被害から立ち直るには、多くの時間とお金がかかることでしょう。「国」というものが、もし本当に人々の役に立に存在ならば、こういう時にこそ役だって欲しいものです。しかし、私たちの「国」は、同時進行で発生した「イラク人質事件」で、一人の若者を「見殺し」にしてしまいました。

 人を救うことのできるのは人だけです。「国」や「県」にしっかりと「最高の義務」を果たしてもらいながら、それに依存することなく、田中角栄的な「復興」とは別の、人々のつながりの豊かさに依拠した「復興」の道を進んでほしいと願っています。

 もちろん、その支援は「新潟県人」である私のしごとでもあります。

 がんばろって!にいがた!
 がんばろって!中越!
 がんばろって!十日町!
 がんばろって!まつだい!

投稿者 mamoru : 2004年11月03日 17:06

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