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2005年01月26日

 ■ 書評 『雅子の「反乱」―大衆天皇制の<政治学>』

複数の視点で天皇制の今を検証
「天皇・皇族に人権を!」が私のオルタナティブ



 本屋でこの本を目にするまでその存在を知らなかったが、私は昔から捜していた本にやっと出会ったような思いでこの本を購入して、一気に読んだ。編者の桜井大子さんや「女性と天皇制研究会」の人々の天皇制に対する考え方と、私のそれが、どこで、どう違っているのか、知りたかったからだ。
 というのは、それまでにこんな経過があった。
 本書が中心テーマとするのは、昨年の皇太子の「雅子のキャリアや人格を否定する動きがあった」発言だ。私はそれを聞いた時、大変感動した。そして「外国訪問の自由」という問題をきっかけに「天皇、皇族の人権問題」と「象徴天皇制」との矛盾が公然と議論される時が来たのだと思い、そんな発言を幾つかの場で行い、反天皇制運動の「専門家」の発言に注目した。
 ほどなくメーリングリストで一つの声明が廻ってきた。本書にも収録されている「声明 女天研はこう考える 『人格否定』しているのは皇太子、あなたです」がそれだ。
 「…皇太子発言は、女に子供を産ませることで維持される『世襲制』に支えられている自らの立場を棚に上げた、厚顔無恥な発言です」と皇太子発言をバッサリと斬って捨て、かえす刀で「(皇太子発言が)ポジティブな発言として容認されていくことに、私たち女天研は強く反対します」とマスコミや大衆意識が批判されていた。
 私は、ウーンと唸ってしまった。「ちょっと違うんじゃないか」と感じつつも、それを自分の言葉でうまく表現できなかった。その後、女天研は天皇の「(日の丸、君が代は)強制でないことのほうが望ましい」発言に対しても批判の声明を発表し、私は、それにも違和感をもったが、やっぱり、うまく言葉にできなかった。しばらくもやもやした気分が続いた。なんとかしたいと思っていた時、ぐうぜん本屋でこの本を目にした。即、購入して一気に読んだのは、前に書いた通りだ。

 本書への異論

 本書には、天皇制をめぐる状況を「複数の視点で検証する」ために十五人の執筆・討論者・イラストレーターが登場する。学究肌の論者も多く、独立した論文も力作ぞろいだ。それに、女天研メンバーによる座談会も面白い。立場の違いを遠慮なくぶつけ合う討論スタイルには好感が持てた。これで皇太子発言を批判する「声明」が出された経緯も知ることが出来た。私が勝手に想像していた「女天研イコール強者」のイメージは、少なくとも、この本の中にはなかった。
 しかし、現状や天皇制の見通しについての「認識の違い」は、より明瞭な形になって残った。編者の桜井大子さんは、ご自分の認識を示しつつ「はたして本当に事態は私に見えているように動いているのか」「…批判や意見をいただければ本当に嬉しい」と謙虚に書いておられる。この言葉に甘えて十六人目の視点として私も「検証」に加わりたい。
 まず、本書の天皇制をめぐる現状認識を見ておく。おおざっぱに言うとこうだ。
 皇太子の「公務の見直し」要求(その要求の背後に雅子の存在を見る編者らはそれを「マサコの『反乱』」と呼ぶ)は、天皇や宮内庁の後押しを受けて、改憲も射程に入れた皇室外交などの天皇・皇族の政治的権能の拡大や元首化につながっており、民衆からの皇太子、雅子への「声援」は、政府とマスコミと一体となった「大衆天皇制」への「改革」の共犯にしかならない。と言うものだ。
 まず、後出しジャンケン的で気が引けるのだが、「日本中で多くの人が皇太子一家に声援をおくっているかのごときなのだ」(まえがき)という状況は、今は、ない。逆に、秋篠宮の「自分のための公務はつくらない」発言や、天皇の「皇太子発言は理解できない」発言によって、皇太子夫婦の「孤立」ぶりが露わになり、「親子対立」や皇室内の「確執」や「軋み」が新たな週刊誌のネタになっている。支配者側が回避したかった「内部トラブル」が回避できなかったわけだ。この段階で「マサコの『反乱』」は挫折(鎮圧?)したとは言えないだろうか。
 次に、現状の天皇制「改革」の終着点を「大衆天皇制」と見ることについて。この概念については本書の別の箇所で詳しく解説されているように、松下圭一さんが明仁と美智子の結婚ブームに現れた社会状況を説明するため用いた概念である。大衆天皇制が成立できた要件は、高度成長による「新中間層」の登場、そして、皇室が彼らの「精神的な憧れの中心点」(中曽根元首相)である「幸福な家族」をマスコミを媒介として演じることができること、の二点にあると思う。
 しかしグローバリゼイションと価値観の多様化の波は、今、その二つの基盤を崩壊させつつある。希望格差社会が進行し、「家族がポジティブな夢だったのって、七〇年代まで」(桜井:座談会)という状況になっている。だとするならば、今、天皇制を維持したい側に「客観的」に求められているのはポスト「大衆天皇制」にむけた「進化」ではないのか。しかし、そのグローバル化時代の皇室戦略は、いまだ、不在だ。それが、皇室の混乱を抑えることができない根本的な原因ではないか。

 天皇の人権問題

 異論ついでにもひとつ。やはり私が一番言いたいのは「天皇・皇族の人権問題」だ。本書の中でもこの問題が何ヶ所かにわたって取り上げられていたのは、正直言って驚いた。そして、このテーマに好意的な立場の人もいたのにはホッとさせられた。しかし、全体的なトーンは、かなり矮小な論理で「天皇・皇族の人権」を求めることを否定しているように読めた。
 矮小な論理の典型は「特権と人権は両立できない」というものだ。一見説得力をもつかのようだが、本質的な問題を回避した言い方だと言わざるをえない。
 一般的に言えば、「君主制・世襲の原理」と個人を起点にした「人権の原理」が相容れないというのはその通りだ。しかし、同じ立憲君主政体であっても、様々なバリエーションがある。「開かれた皇室」のモデルとされる欧州の王室と日本の皇室のあり方では、王族の「自由度」において雲泥の差があるのは確かだ。欧州では「特権と人権」が日本よりは「両立」しているのだ。この違いについて、どう考えるか。
 このことを考えるヒントを私は宮台真司から得た。それはこういうことだ。欧州の立憲君主制は「聖俗二世界論」の伝統に立脚しており、王は「俗なる世界のトップ」(キング)たりえても、「聖なる世界のトップ」(心の支配)は別者(ローマ教皇)だという。俗世界のキングで、しかも、統治権力に属さない立憲君主は、政治的な発言をしたとしても、人々は契約によりそれを無視することができる。その分、王族は自由な振る舞いが保障される。
 これと対照的に、日本の天皇は「俗なる世界」のキングというだけではなく「聖なる世界」の支配者(祭祀者)でもあるので、立憲君主の象徴天皇制になって統治権力から引き離されても、「聖なる世界」の支配者としての影響力が大きいので、政治利用されないために「自由」や「人権」が制限されている(=「閉じられた皇室」)のだという。(『創』二〇〇四年九・一〇合併号)
 現実には象徴天皇制は、適度に「閉じられる」ことによって「神格化」が保たれ、それゆえに統治権力が独占的に政治利用してきたことを忘れなければ、宮台の説明の通りだろう。
 話を「天皇・皇族の人権問題」に戻す。「特権と人権は両立できない」。これは現実には可変であることは右に示した通りだ。それは、政治、すなわち主権者が自由に「決定」できる領域なのだ。そのことを確認した上で、天皇・皇族に人権を保障すべきか否か、私たちは真剣に議論し判断すべき時期に来ているのではなかろうか。
 天皇主義者の宮台は、一番肝心なそのことについて口をにごらせている。私の立場は「天皇・皇族に人権を!」だ。それが可能になれば、天皇を「神聖化」しようという「後ろ向き」の企みを阻むことができるだろう。そして、愛子=女帝問題も一挙に解決するはずだ。なぜなら、いま、この問題で一番意思表明したい人の意見が尊重されるはずだから。一人で決められなかったら夫婦で相談してもよい。必要ならおじさん、おばあさんの意見も聞いてもいい。弟妹も含めて家族会議を開いてもいい。そして、もし、その結論が「私たちの家系からはこれまで一二五人もの天皇を出してきたので、もうこの辺で終わりにしていただきたい」ということであれば、「国民」としてはその意思表明を最大限に尊重する。女帝問題も、皇室内部の軋み・確執も、これで一挙に解決というものだ。
 天皇制をして「人権化」「俗化」の道をひたすら歩ませること。これが、ポスト「大衆天皇制」のオルタナティブだと思う。

『グローカル』670号(05/01/24)に掲載

・『雅子の「反乱」―大衆天皇制の<政治学>』
・社会評論社
・2000円

投稿者 mamoru : 2005年01月26日 22:33

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