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2007年01月02日

 ■ 映評「スタンドアップ」(主演=シャーリーズ・セロン)

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2005年 アメリカ 124分 監督=ニキ・カーロ

職場のセクハラ
一人で立ち上がる偉大さを描く、
困難さの描写も説得的

 元旦の朝は毎年手持ちぶさたである。テレビが映し出す「ニューイヤー駅伝」の中継をチラチラ眺めながら、分厚い新聞にザッと目を通し後は、やることがない。こういうことを見越して、今年はDVDを何枚か借りておいた。その一枚が『スタンド・アップ』。
 事前に作品を知っていたわけではない。たまたまレンタルショップで手し、パッケージの説明に興味をもった。鉱山/初のセクシャルハラスメント裁判/実話に基づく/そんな言葉に引かれた。昨年見た「フラガール」「三池」が、同じヤマ(鉱山)を舞台としたものだったことも遠縁だ。アメリカ映画がヤマの「労働問題」をどのように描いているのか期待した。

 舞台はアメリカ北部の鉱山の町。暴力を振るう夫から逃れ、二人の子供を連れて実家に帰ったジョージー(シャーリーズ・セロン)に、両親、特に父親は冷たい。ジョージーが若くしてシングルマザーとなり、二人の子供の父親がそれぞれ違うからだ。ジョージーは、自分で働いて子供を養うことを決意し、鉱山会社で働くことを決めるが、それも、同じ鉱山で働く父には気に入らない。

 ジョージーが足を踏み入れた「男の職場」は、労働のきつさ以上に、性的嫌がらせが日常的に行われる耐え難い場であった。新入りのジョージーに、これでもかこれでもかと、嫌がらせが繰り返される。盗難、排泄物による落書き、強姦未遂などなど。背景には、女性に仕事を奪われることへの男の恐怖心がある、と映画では説明される。

 ジョージーは屋外の簡易トイレに閉じこめられ、横転させられ、クソまみれになる屈辱を契機に、会社を訴えることを決意する。しかし、同僚の女たちを誘うが逆に、反発されてしまう。労働組合にも相談するが、ここでも男性労働者から「嫌がらせはない」とつっぱねられてしまう。それでも知人の弁護士が、「集団訴訟」にできるなら勝利の可能性がある、と代理人を引き受けてくれる。しかし出発は「一人原告」だ。

 物語は、この裁判を舞台に、会社の代理人との駆け引き、ジョージーの側に立つべきか会社の側に立ち証言するか、で悩む女性労働者の葛藤、そして最後の段階での父親の翻身と…深い人間描写がつづく。
 アメリカで最初にセクシャルハラスメントを訴えた裁判で勝利した話しに基づいているだけに、派手さはないが、労働をめぐる人間関係の描き方はリアルでシリアスだ。

 映画をみて驚いたことは、鉱山という職場での、性的嫌がらせの圧倒的なエゲツナサだ。剥き出しの性暴力がまかり通っている。鉱山会社がはじめて女性を雇用しはじめたのが1975年だそうだから現代史の話しである。女工哀史の時代ではないのだ。しかも、裁判が終わったのが1988年だというから、つい昨日のこと。にもかかわらず、こんなエゲツナイことが、今でもアメリカ社会では行われているらしい、ということには本当に驚いてしまった。

 先にも書いたように、映画では、その原因を「女性に仕事を奪われることへの男の恐怖心」と指摘されていた。これは一面的すぎると思う。私はアメリカ社会のもつ、ある種の病理ではないかと思う。セックスと銃と宗教にかんするアメリカ社会がもつ基準はホントに異様だ。などと書くと日本社会を免罪してしまうようで嫌なのだが、要するに女を「商売女」と「そうでない女」に二分して平気な社会の中で、この極端を行っているのがアメリカで、日本をふくむ他の社会も、程度の差はあれ同じ文化を共有していると思う。

 鉱山で働く男性労働者の女性労働者を見る目は、まさに「商売女」を見る目である。決して自分のパートナーや娘を見る時の目ではない。この二つの違いは、映画の中で、ジョージーの父が仲間を説得する演説の中で指摘されており、ハッとさせられた。

 裁判の結果はジョージーと、最後は集団訴訟の原告に加わった複数の女性の主張がみとめられ、職場も改善されたもようだ。それはそれで前進だと思う。しかし、会社もそこで働く男たちも、鉱山ではたらく女性を「商売女」の枠組から外しただけで、依然として「商売女」と「それ以外の女」という二分法は、堅持したままのような気がしてならないのだが、どうだろう。

 もう一つ印象的なことは、この映画は作りとしてはハッピーエンドになっているにもかかわらず、見終わったあと、決してハッピーな気分にならないことだ。この映画は人が闘いに立ち上がることのすばらしさを描いている一方、逆に、闘いに立ち上がることの困難さも、これでもか、これでもかと描いている。これについて、監督のニキ・カーロは「真実をより真実を!」を撮る時のモットーとしたと語っている。

 題材がアメリカでの初セクシャルハラスメント裁判ということで、初ということは、圧倒的な苛酷な現実の中でも、沈黙を選択する人の方が多かったということである。それは、訴訟社会と言われるアメリカにおいても、そして、不安定雇用労働者が拡大し、ワーキングプアの存在が問題となっている現在の日本においても、自分の責任だからと沈黙する者の方が多数ということだろう。それが「真実」なのである。

 だからこそ、この映画は不当な扱いの中で、「飯のタネを失うことの恐怖」と「立ち上がって発言すること」との間で、揺れ動き、葛藤するすべての「小さき者」へのエールとなっているのである。

投稿者 mamoru : 2007年01月02日 19:05

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