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2008年07月14日

 ■ 書評 『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』(湯浅誠・岩波新書)

 この書評は、季刊『ピープルズ・プラン』誌の43号に掲載するために書いたものです。



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 読んでいて胸にズキンとくる部分があった。痴呆の母親を自分の手であやめ、自らも自殺をはかって一命を取り留めた京都府の男性(当時 五四)の事件を紹介した部分である。男性は母の介護のために仕事を辞め、失業給付も底を突き、生活保護申請も断られ、住んでいたアパートの家賃も払えなくなり、最後の選択として「愛する母をあやめ」自らも死のうとした。底冷えが一段と厳しい京都の冬の夜のことである。
 介護の困難を要因にした殺人事件は近年増えているが、私が、本書のこの部分を重苦しい思いで読んだのは、実はこの事件は、私が住む町内で起こったことだからだ。男性と母親が暮らしていたアパートの前の道はよく通っていた。事件の現場となった河川敷のサイクルロードもよく利用していた。しかし同じ町内に住みながら、私にはこの親子の貧困は「見えて」いなかった。私に出来たことは、ただ事件の後、現場で手を合わせることだけだった。
 本書の中で著者は、日本は貧困問題(解決)のスタートラインにすら立っていない、と繰り返している。著者のこの厳しい認識は、私の町内で起こった悲劇を、自治会(町内会)も福祉協議会も事前にフォローできていなかったことを考えると、現実と合致していると言わざるをえない。
 本書は、三層(雇用・社会保障・公的扶助)に張られたセフティネットの破れ目からまるで「すべり台」を滑り降りるように「落下していく人びと」と日々接している著者が、「その人たちの視点から物事を捉え直し」「そこからしか見えてこないもの」を貧困が「見えない」人々に提供しようという試みである。
 新書版でありながら事例、データ、書籍紹介など豊富で、さらに著者の温かな人間学にも随所で接することができる。これから共に貧困問題解決のスタートラインに立とうとする者にとっては絶好のインデックスとなっている。

 自前の論理で「貧困」を可視化

 前著の『貧困襲来』もそうだったが、著者のオリジナリティは、既成の言葉にたよって現実を批判する立場に甘んじることなく、現実との格闘の中から現実を暴くために必要な言葉と論理を自前で作りだしているところにある。その立場は本書でも貫かれている。
 例えば「五重の排除」。この聞き慣れない言葉は、貧困を自己責任で語る立場に対するアンチから作られた言葉で、貧困の背景には、(1)教育過程からの排除(2)企業福祉からの排除(3)家族福祉からの排除(4)公的福祉から排除、そして(5)自分自身からの排除がある、とする論理である。
 これまでも(1)~(4)は教育の機会不平等やセフティーネットの機能不全として指摘されてきた。しかし(5)の「自分自身からの排除」とは何か。これは著者のオリジナルの言葉である。それは、貧困は「あなたのせい」という世間の自己責任の論理を内面化して「自分のせい」と思い込んでしまう状態をさす。その場合「人は自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態にまで追い込まれ」、さらに「自分の不甲斐なさと社会への憤怒がみずからの内に沈殿し、やがては暴発する」。貧困者と日々接している者ならではの眼力である。残念ながらこの鋭い観察は当たってしまった。
 貧困の現実を可視化する自前の言葉と論理はそれだけではない。〝溜め〟もまた貧困者とその境遇を理解するためのキーワードである。いや、著者にとっては〝溜め〟の有る無しは「貧困」と「貧乏」を区別するキーワード中のキーワードですらある。
 では〝溜め〟とは何か。本書によれば〝溜め〟とは「溜池」の「溜め」のことである。大きな溜池があれば日照りでも慌てることはなく作物を育てられるが、小さいな溜池だと作物を枯らしてしまう。ようするに〝溜め〟は外からの衝撃を緩衝し、さらにそこからエネルギーを汲み出すことができるものである。
 人間という作物にとっても成長するためには〝溜め〟は必要だ。先ずはお金という〝溜め〟だ。しかし、それだけではない。人間関係の〝溜め〟も大切である。家族、親族、友人など。さらに精神的な〝溜め〟も必要だろう。「やればできるさ」という精神的な自信、ゆとりがそれである。貧困とはこれらが総体として剥奪されている状態で、単にお金が無い状態を示す「貧乏」と「貧困」の違いはここにある、というのが著者の立場だ。

  あいまいな「強い社会」

 まだ貧困問題も格差問題もポピュラーな問題ではなかった時代から、それが社会的に必要であるとの信念から、野宿者の自立支援活動を積み重ねてきた著者は、「すべり台社会」から脱出した将来社会像について、決して大風呂敷を広げない。「大きな話しを引き寄せるのは、個々の小さな活動である」との信念からだ。そこには著者の誠実さが見える。そして、自ら「たすけあいネット」を作り出しつつ、同時に「公(おおやけ)」に異議申し立てをする。その二つが交わる地点を包括して「つよい社会」と位置付ける。しかし、この言葉は、今一こなれていない印象をもつ。
 「つよい社会」とは、人々に〝溜め〟が保障された社会である。それにより前向きな努力の意欲が生まれ、潜在能力が発揮できるようになる。要するにそれは、新自由主義や「第三の道」が理想に掲げながら、実現することに失敗した「活力ある競争社会」を市民の主導で実現しようということなのか。それとも、〝溜め〟の有る無しに関わらず、あるいは〝溜め〟や前向きな努力に背をむける者であっても、無条件に生存が保障される社会のことなのか。
 こうした議論は著者の好むところではないかも知れない。「今はスタートラインに立つことが先決で、目的地を論ずる時ではない」と叱られそうである。しかし、目的地が明らかになることによって、逆にスタートラインが鮮明になることがあるかも知れない。ひょっとしたらもう勝手にスタートを切っている走者がいることも。


湯浅誠著 『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』
発行:岩波書店
2008年4月
定価 740円+税

投稿者 mamoru : 2008年07月14日 23:20

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