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2009年02月15日

 ■ なすびさんが書いた『恐慌・失業・貧困―「派遣村」が伝えたことと、伝えられなかったこと』を読んで

 山谷で野宿者の支援運動を行っている「なすび」さんが、『恐慌・失業・貧困―「派遣村」が伝えたことと、伝えられなかったこと』という文章を1月21日付の『反改憲通信』第16・17号に書いています。これまで『ピープルズ・プラン』誌でなすびさんの湯浅君たちの運動への見方は出されていたので、内容的には予想していたものでした。しかし、今の時期にあえて「派遣村」の「限界性」を指摘することはかなり勇気のいることだと思います。その意味で、すごいな、と思いました。彼も書いているように「天に向かって唾をしていることを自覚しながら」自分が提出した課題を引き受ける覚悟があってのことでしょう。

 この文章の論点は3つあります。

 1つは、マスコミによる「派遣切り」焦点化が「下層労働者」に「分断を持ち込む」ことになるのではないか、という懸念。これは、私も含め、多くの人が感じたことだと思います。
 私は講堂開放を報じた「朝日」が、「生命の危険に配慮」だったか何かの見出しで、その理由を説明したのをみて「アレ?」って思いました。もしそうなら、政府は、命の危険にされされている全野宿者が、公的施設に押し掛けたら開放するのだろうかと。そうではないことは明かです。とすると、なぜ、派遣村村民に対してだけ「開放」なのだろうか。その理由は?
 これについて政府は説明を省いていたと思います。「超法規的」な人道的であったとすると、それは結果として「分断」になる、とその時思いました。おそらく、山谷にしろ釜ケ崎にしろ、これまで野宿者の支援を行ってきた運動体は、同じようなことを感じたのではないかと思います。

 2つめは、派遣村の運動の「限界性」の指摘、その中でも「政策目標」「綱領レベル」における「限界性」の指摘です。これは『ピープルズ・プラン』誌ですでに語られて来たものを、派遣村に即して述べている、という印象を持ちました。指摘が妥当な面と、いささか紋切り型に終わっている点が同居していると思います。
 派遣村の運動が、結局は「セフテーネットの拡大」と「就職」に収斂されて終わってしまうのではないか、という指摘、さらに、派遣法を99年改悪「前」に戻しても不安定雇用問題は解決しない、貧困だけではなく「格差」を問題にして所得再配分を実現すべき、という指摘も、それなりに妥当でしょう。妥当ではあるけれど、派遣村の運動を担った人達には「外在的な批判」と受け取られる可能性はないか、心配します。
 その心配は、なすびさんが一番力を込めて書いている、失業と貧困は「資本主義システム」を転換しない限りなくならない、という言うあたりで、一層大きくなります。

 資本主義が資本主義である限り、恐慌からは免れない、あるいは、資本主義が資本主義であるかぎり戦争からは免れない…、この使い古された言い回しで、次に何か別の社会、別のシステムが見えて来たり、それが共有できるのであれば、この言い回しでもいいでしょう。でも、少なくとも、東欧革命以降(社会主義の敗北以降)、この言い回しで提示できる新しいものは何もありません。その点を、なすびさんは、どう考えているのでしょう。
 ひょっとしたら、昨夏の反G8の運動は、現実の資本主義と切り結ぶ新しい何かをつかみ取り、それに参加した山谷の運動体は、それを蓄積したのかも知れません。いや、すぐその後に、「派遣村だけではなく、山谷の運動も本質的なメッセージ(=資本主義システムの転換)はなかなか伝えられていない」と書いていますから、資本主義とはそもそも何なのか、それを転換した社会となどのような社会なのか、という根本のところから一緒に考えて行きましょう、というエールと受け止めるのが正解なのでしょう。

 私自身は、派遣村の限界性の指摘というほどのことではありませんが、例の坂本政務官の「ほんとうに働きたいと思っている人か?まるで学生運動の戦略のような…」発言に対して、運動側が正面から批判しなかったことが悔やまれます。運動の側ないし運動に肩をもつ側は、坂本の派遣村に対する「認識」が「間違っている」という点は指摘しましたが、「働きたくない人がいたとしても何が悪い!」「学生運動の戦略のどこが悪い!」という立場から、批判する声はありませんでした。坂本も「派遣村には働きたくない人はいないんですね。それはよかった。私の認識が間違っていました。発言は撤回します」と引き下がりました。
 ここで太い線引きが行われた意味は大きいと思います。その延長線上に今、浮上しているのが「雇用のミスマッチ論」。「本当に働きたいのなら、はたらくところはナンボでもあるだろう…。あれはやりたくない、これはやりたくないでは、甘えてる!」 働く意欲があるか無いかで、人を判断する、この能力主義的な価値序列への抵抗のメッセージは、派遣村からは伝わってこなかったと思います。

 3つめは、同じく派遣村の「限界性」―その中でも運動論レベルでの指摘です。これは、ついでに述べているような感じですが、こっちの方が私には面白いし、今後の議論として広く共有されていくのではないかと、思います。
 たとえば、ボランティア。なすびさんは、報道陣とともにボランティアの人波に「居心地の悪さを感じた」と述べています。また、言い方は逆ですが、日比谷の運動は山谷と違って「世話をする人」「される人」の二極分化している、と言っています。実際にどうであったのか、私にはコメントする材料がありませんが、2月1日に開催した「座標塾-京都出張講座」でもこの問題が話題になり、参加者の一人が、釜ケ崎支援者から聞いた日比谷で体験した違和感について紹介していました。
 それによると、日比谷のボランティアは村民を「仲間」だと見ていない感じだった、というのです。釜は支援者も、色々な困難に遭遇した体験者が多く、日雇いや野宿者を仲間と思って支援している。しかし、日比谷はそうではなかった。それが一番の違和感だった、と。

 日比谷の派遣村は、労働運動の場に初めてボランティアが登場したという意味では画期的だったと思います。1700名を超えるボランティアの中には、色々な動機があったと思います。しかし「世話をする人」「される人」の二極化は、ボランティアであれば当然のことでしょう。そもそもボランティアは「世話をしたい」と思ってはせ参じたわけですから。
 さらにユニオン運動の原基形態からして当然という気もします。なぜなら、多くのユニオンの組織化は、「電話相談」ホットラインから始まるからです。「相談する人」「聴く人」の関係です。今回の派遣村のきっかけを作ったのも、11月下旬の「派遣ホットライン」でした。
 派遣村に登場したボランティア。「世話をする人」「される人」の二極化。それが日比谷の派遣村と山谷、釜ケ崎の運動の違いであることは間違いないように思います。しかし、それは、どちらがすぐれた運動でどちらに限界があるか、性急に断じる問題ではないでしょう。いまは、なぜ、どうして違うのか、それぞれが体験したことを出し合いながら論じ合うことが大切ではないかと思います。

 とまれ、「なすび」さんの文章が、派遣村について多角的に論じ合う、前向きな契機になることを願います。

投稿者 mamoru : 2009年02月15日 21:56

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コメント

○【小泉「市場原理主義」】
http://homepage3.nifty.com/nskk/kenkyu020.htm

○【経済財政政策担当大臣の竹中平蔵氏の論文、発言】
「『所得再配分』という名の搾取がまかり通っている。」(『Voice』平成11年1月号、PHP研究所)
「日本人がこんなに情けなく、人にねだるようになったのは、せいぜいここ十年、十五年です。日本人はもっと誇り高くて、自分のことは自分できちんとやる民族だった。いまの社会システムは結局、困ったことがあったら人からもらえという社会なんです。『所得再配分』という制度を使って強奪を正当化するシステムなんです。」(『Voice』平成11年7月号、PHP研究所)

○【経済財政政策担当大臣の竹中平蔵氏の論文】
「フロンティアの時代には、能力がありかつ努力を重ねて高所得を得ている人々を讃える税制が必要だ。そうすることによって、結果的に社会全体の活力が高められる。市場において高い活動エネルギーを持っている人に対し、極端な累進税制でペナルティーを課すことはやめなければいけない。いわば、『規制緩和としての税制改革』であり、『頑張れば豊かになれる夢』を国民に与えることである。最高所得税率水準としては当面40%程度を目指すが、その際、法人税率と同水準にするという点に、もう一つのポイントがある。また将来的には、完全なフラット税、さらには人頭税(各個人に対し、収入に関係なく一律に課せられる税。中根注)への切り替えといった、究極の税制を視野に入れた議論を行うことも必要だろう。こうした改革は、政治、経済的にも重要な効果をもたらす。それは、累進構造の緩和が、必然的に小さな政府をつくる力学を持っているからだ。所得税率が極端な累進構造になっている場合、大きな政府が作られて痛みを感じるのは、一部の高額所得者だけである。」『日本の論点'99(文藝春秋、1998年11月10日発行)』

○【総合規制改革会議、議長の宮内義彦氏の論文】
「所得税をさらに引き下げつつできるだけフラット化するとともに、相続税も引き下げることが望ましい。」
(『週刊東洋経済』2001年3月17日号、東洋経済新報社)

○【経済財政諮問会議、議員の牛尾治朗氏の発言】
「高まる失業率を受けて、雇用の在り方も議論に上った。牛尾治朗ウシオ電機会長は『日本は従業員資本主義だから、人件費の比率が大きくなる。確実に過剰雇用だ』と指摘。」(1998年7月12日付中日新聞より。

○【経済財政諮問会議、議員の本間正明氏の発言】
「日本の税率構造は国税と地方税を合わせ、従来の十五段階から昨年ようやく最高50%、最低5%の七段階になった。日本経済の活性化のために中堅層と高所得層でもう一段、税率の平準化を進めるべきだ。七段階を四段階にして、最高税率は40%、最低は10%程度にするのが理想だ。勤労者の92%以上を占める勤労収入1千万円までの人々に対しては二段階程度の税率でいい。」「非常に少ない一部の人が高額所得を得ていることを、一種の目標や活力の源とするように価値観を変えることが重要だ。みんなが閉そく感を持っていては、勤労所得者から起業も出ない。これまで稼ぐ人、一生懸命頑張る人にエールを送ってこなかった。」
「レーガン税制が社会の価値観を根底から揺り動かし、大きな原動力になったのは確かだ。短期的には財政赤字を出し、非難されたが、90年代後半から米国はデジタル化の波に乗り、社会システムの改革に成功し、経済のパイの拡大に役立った。」(1999年11月1日付日本経済新聞より)

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●「格差が出ることは悪いとは思わない。成功者をねたんだり、能力のある者の足を引っ張ったりする風潮を慎まないと社会は発展しない」小泉純一郎 第89代内閣総理大臣 世襲3世

●「競争が進むとみんなが豊かになっていく」竹中平蔵 経済学者 元政治家 パソナ特別顧問

●「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない」奥田 碩 元日本経団連会長 元トヨタ自動車会長

●「パートタイマーと無職のどちらがいいか、ということ」宮内義彦 オリックス会長 元規制改革、民間開放推進会議議長

●「非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」三浦朱門 作家 元文化庁長官 元教育課程審議会会長

●「日本で払う給料は、間違いなく中国で払うより高い。労働者が、もの凄く安いコストで働いているというようには私は思っていません」折口雅博 グッドウィル グループ創業者 元経団連理事

●『派遣切り「社会が悪い」は本末転倒。「ロスジェネ」はただの言葉遊び。』奥谷禮子 ザ アール社長 経済同友会幹事

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

○【07年日本の1人当たり名目GDPはOECDで19位に後退、G7最下位】
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-35625620081225

『日本の1人当たりの国内総生産(名目GDP)は2007年(暦年)に3万4326ドルとなり、経済協力開発機構(OECD)加盟国中で19位に後退した。
これは1970年、71年に並ぶ過去最低の順位。 また、日本の順位は、主要7カ国(G7)中で最下位。
順位の後退は7年連続で、06年は18位。』

■【為替レートのGDP(単位は10億US$)】
◆日本
1980年:1,067.1 1985年:1,366.3 1990年:3,053.1 1995年:5,277.9
2000年:4,668.8 2005年:4,560.7 2006年:4,377.1

■【 一人当りの為替レートのGDP(単位はUS$)】
◆日本
1980年:9,138 1985年:11,311 1990年:24,734 1995年:42,076  
2000年:36,811 2005年:35,699 2006年:34,264

■GDP減少のデータに嘘はありません。
実際には日本のGDPは、構造改革中に下がり続け、景気が非常によかった07年でさえもOECDで世界19位、先進国G7で最下位なのである。日本は世界で一人負けをしています。
構造改革によって労働者庶民や地方経済への所得の再配分がへった為に、労働者層の所得や貯蓄の減少、国内向け産業の衰退による内需の縮小がおき、しかもそれが、政府政策で優遇した企業や投資金融や資産家の経済活動を上回って悪化し続けたせいと推理します。
投資、資産家減税のし過ぎ。低所得者層の失業貧困化対策を怠ったせいだと考えます。

投稿者 戦うアルジャーノン。 : 2009年05月19日 16:38