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2007年10月22日

 ■ ワークフェア vs ベーシック・インカム――貧困・格差を超える新しい福祉ガバナンス

 ◇福祉を切り捨てる「ワークフェア」

 『季刊 ピープルズ・プラン』三九号が「労働と生活の場から貧困を撃つ」という特集を組んでいる。その中に湯浅誠さん(自立生活サポートセンター「もやい」事務局長)のインタヴューが掲載されている。現代の「貧困」を告発する湯浅さんの現場からの報告は読み応えがあった。その中でワークフェアについて触れている部分が特に考えさせられた。
 ワークフェアとは、福祉を給付する際にその条件として就労か職能訓練プログラムを義務づける考え方のことである。日本ではこの用語はあまり普及していないが「自立支援」や「再チャレンジ」と同じであると考えてよい。
 湯浅さんがワークフェアを問題とするのは、生活保護受給者を自立=就労に追い立て、追いつめている現実があるからだ。福祉事務所の個々の職員の対応の善し悪しを超えて、日本の福祉政策のバックボーンにワークフェアの考えが据えられている。湯浅さんはエスピン・アンデルセンの福祉国家の比較(福祉レジーム論)から、アメリカ型ワークフェアとヨーロッパ型ワークフェアの違いを紹介し、日本は「懲罰的なワークフェア」を採るアメリカの後を追っていると警告する。
 私もワークフェアへの批判は重要だと思ってきた。しかしそれは「就労」が「福祉切り捨て」の口実や「懲罰」の意味で使われているとの理由からだけではない。労働市場にただ放り出すだけの「アメリカ型」のそれであれ、就労のための職業訓練を政府が手厚くサポートする「ヨーロッパ型のワークフェア」であれ、ワークフェア論が前提にしている「完全雇用」による「完全福祉」(社会的包摂)という構想自身が、脱生産主義=定常型社会への移行という時代の要請に応えられないと思うからだ。
 新しい福祉ガバナンスを構想するためには、「公的支援の強弱」という軸だけではなく「就労規範の強弱」つまり、経済成長を至上のものとするか否かという軸からも構想されなければならないと思う。それが近年ワークフェアへの対極的モデルとして注目されているベーシック・インカムである。
 
 ◇「福祉から就労へ」 アメリカと日本の場合

 昨年の五月、北九州市で一人の男性(五六)が餓死状態で発見された。男性は福祉事務所を二度訪れて「生活保護の申請をしたい」旨を告げたが、二度とも追い返されて申請できなかったという。この事件をきっかけに福祉事務所の「水際作戦」が大きな問題になった。各地で申請者への同伴などのサポート運動が展開され、あからさまな「水際作戦」は影をひそめつつある。
 その北九州市で今年の七月、またもや、生活保護の支給を打ち切られた男性(五二)が自宅で餓死し、一カ月後に発見されるという事件が起こった。今度は「水際作戦」ではない。男性に「就労」を強制し「支給辞退届」を出させて支給を打ち切ったことが原因だった。「硫黄島作戦」(湯浅)である。
 今、日本の福祉の現場では「自立支援」という名で福祉と就労を連結させる制度改革(悪)が進められている。〇二年には「児童扶養手当法が改悪され「児童手当の支給を受けた母は、自ら進んでその自立を図ら」なければならないと定められた。(日本の母子家庭の八割がすでに働いている)。同年には「ホームレス自立支援法」も制定された。また〇四年には生活保護法が改定、翌年から「自立支援プログラム」がスタートし、連動して給付水準の切り下げも策動されている。さらに〇五年には障害者にサービスの応益負担を強いる「障害者自立支援法」が制定された。
 母子家庭(一二二万世帯)について詳しく見ると、来年度から「就労支援」と引き替えに児童扶養手当(受給世帯九八万戸)が半減されようとしている。「就労支援」の中身は二コースにわかれる教育訓練と高等技能訓練であるが、育児支援や貯蓄がある人しか利用できず、また、利用できても安定した仕事につける率が極端に低いという問題がある。
 教育訓練を利用した者(四五一三人)の内、就職できた者が二一一四人、その内、常勤者はたったの六一七人である(〇五年、厚労省)。七〇万世帯の母子家庭の手当が半減されようというのに、それと引き替えの「就労支援」の実態がこれだ。
 それではワークフェアの本家であるアメリカでは、この理念はどのように推移して来たのだろうか。
 アメリカでは六〇年代に公民権運動と平行して困窮層を対象にした福祉政策が拡大し受給者が増大した。七〇年代に入り、負担増に反発する中間層に配慮した共和党ニクソンが「要保護児童家族扶助」(AFDP)に就労義務を導入することを考え、これを正当化するために大統領のスピーチライターが造語したのが「ワークフェアー」であると言われる。このタイプのワークフェアーは、福祉より就労を優先させるため「ワークファースト」と呼ばれる。
 一方、民主党に影響力をもつエルウッドは、ワークフェアの概念を拡大して福祉受給者に対して「就労義務」だけではなく各種の「就労支援」の必要性を訴えた。これを「サービスインティンシブ」という。同じワークフェアでも強調する点が違うのである。八〇年代、レーガン政権のもとで成立した「家族援助法」(FSD)はこの両者の妥協であった。各州に一九九五年までに「要保護児童家族扶助」を二割削減することを義務付けた一方、就労機会と基礎技能プログラム(職業訓練)を命じたからである。その後、九〇年代のクリントンの時代になって一九九六年の福祉改革法では、クリントンが支持する「サービスインティンシブ」モデルが、議会多数派の「ワークファースト」モデルに敗北し(クリントンは二回拒否権を発動)「貧困家庭への一時的扶助法」(TANA)が成立し、AFDPは廃止される。新法は受給期間を最長五年に制限し、受給者に週三〇時間の労働を義務づけた。まさに「懲罰的なワークフェアー」の成立である。

  ◇「成長と福祉の両立」に挑戦したスウェーデン

 発祥の地アメリカにおいてすでにそうであったように、ワークフェア概念は多義的である。日本とアメリカのそれは「自立支援」の名による福祉切り捨てを含意している。一方、ヨーロッパ、特にスウェーデンにおいてはこれとは別の展開を見せてきた。アメリカ型と区別して「アクティベーション(活性化策)」と呼ばれている「積極的労働市場政策」がそれである。それは、失業者対策を、失業手当やケインズ的な有効需要の創出によってではなく、失業者の労働能力の向上を支援することによって就労場所を確保しようという立場だ。イギリス・ブレアの「第三の道」の手本となった政策だ。
 スウェーデンを目指すべき福祉社会のモデルとすべき、という意見は日本では「左翼」に多いが、ここに来て、スエーデン型のワークフェアを日本にも導入すべきだという主張が、エスタブリッシュメントの側からも出されている。日本総研の山田久がこの夏に著した『ワーク・フェア―雇用劣化・階層社会からの脱却』(東洋経済)がそれだ。
 山田はスウェーデンの「積極的労働市場政策」を、低生産性部門の労働者を職業訓練で高生産性部門に移動させ、「産業構造の高度化」をはかり、「経済成長と福祉の両立」を実現した、と評価する。確かにスウェーデンの経済成長は輸出によって支えられ、その高い国際競争力を支えてきたのは、労働者への職能訓練による「社会的包摂」であった。その面では山田のスウェーデン理解は間違ってはいない。
 しかし山田が見落としている重要なことがある。一つは、スウェーデンでは「積極的労働市場政策」に潤沢に税金が使われていることだ。GDP比で、日本〇・二八%(九九年から〇〇年)に対してスウェーデン一・八二%(〇〇年)である。中でも、職業訓練と補助金付き雇用の比率が高い(〇・四八%、〇・四五%)。さらに公的雇用への支出も多い。雇用の半数は公的部門がしめている。公務員の削減を「改革」と誤解し続けているどこかの国の政府とは違うのだ。
 もう一つは、労働組合の役割である。スウェーデンにおいて「福祉と成長の両立」を実現してきた担い手は、政府・企業であると同時に労働組合でもあった。山田も指摘しているようにスウェーデンにおいても労働のフレキシビリテーの中で、労組と経営側の労働条件をめぐる交渉は、中央交渉から産別さらには各事業所、各個人別へと変わってきている。目標管理も導入されている。しかし、労働組合は何千人という組合員の個別の待遇を掌握しており、個別の交渉の前に組合員への適切なアドバイスを行っている。雇用の数・量だけではなく「雇用の質」をチェックしているのがこの労働組合なのである。
 山田は、自身の「日本型ワークフェア」構想において、それを支える人間像(=自立した職業人像)をこう描く。
 「新しい知識社会の時代には機械設備ではなく知識や経験といった個人の能力が付加価値の最大の源泉になる。このため、時代の変化が要請する新しい知識や技能を、不断に主体的に学び修得し続けていくことが求められる。そのためには個人が職業人として自立し、職業人として生き抜く覚悟と、そのための基本的なものの考え方を身につけておくことが出発点となる」(前出、P二六三)。
 「アメリカ型のワークフェア」の根底には「自己責任」論があった。対してヨーロッパ、特にスウェーデンのアクティベーションでは「個人」をサポートする「公」(労働組合も含む)の責任の強調があった。しかし山田はせっかくアメリカ型とは異なるスウェーデン型に注目しながら、それを日本に「導入」するにあたって「構造改革」を補完する「社会改革」と位置付けしまったがゆえに、再び「自己責任論」に舞い戻ってしまった。
 しかし、それは山田だけの責任ではない。個人の労働能力の向上を雇用の条件にする社会である限り、それに沿わぬ者は必然的に排除される。アクティベーションによる社会的包摂の戦略は、社会的排除へと容易に反転するのだ。スウェーデンでも労働市場のEU規模への拡大に伴い、労働率の低下と不安定雇用が増大している。「経済成長=完全雇用=高福祉」という二〇世紀型の福祉国家が転換の時期を迎えている。

 ◇「第4の道」としてのベーシック・インカム

 「アメリカ型ワークフェア」と「ヨーロッパ型アクティベーション」の違いは、福祉政策において公的な支援が強調されるか否かにあった。この対立は決して小さくはない。しかし、いま新しい福祉ガバナンスに求められているのは、この一つの対立軸だけでは解けない。むしろ、福祉や所得を就労と結びつけて発想することを超えることが求められている。(図―宮本太郎作成―参照)。
 そこから構想されるのがベーシック・インカムである。その内容は「すべての人が、生を営むために必要なお金を無条件で保障されること」。いたってシンプルな構想だが、その核心は「無条件性」にある。つまり、働いているか否か、結婚しているか否かに関わらず、すべての住民に基本的所得を保障する制度だ。
 こうした考えは人間の歴史の中では古くからあった。それがベーシック・インカムとして主張されるのは、一九八〇年代に入ってからである。二〇世紀型の福祉国家を支えてきた条件(労働、家族、市場、環境)が大きく揺らいできたからだ。パイの拡大によってパイの分け前を増やそうというシステムは、市場経済的には可能であったとしても環境的には許されなくなった。さらに経済の脱工業化・サービス化は、経済成長と雇用増大が結びつかず、逆に労働の二極化によって、労働が所得=生活を保障するものではなくなりつつある。また、男女共同参画によって一人の男性が賃労働によって一家を養うという近代のモデルも通用しなくなった。ここに労働(雇用)と所得保障を一旦切り離して構想する新たな社会保障制度=ベーシック・インカムが浮上してくる根拠がある。
 だが、ベーシック・インカムには、多くの誤解とともに議論すべき課題も多い。一つは「働かざる者食うべからず」という考えに、説得力ある反論ができるかどうかだ。説得の例をひとつだけあげると「富は遊んでいる人にも分かち与えるだけすでに存在している」(トニー・フェッツ・パトリック)というのがある。富は自然からの贈り物であり、蓄積された労働の結果であり、現在の労働が付け加えたものは少ない。働いている人もそうでない人も、自然からの贈り物を受けているだけなのだ、というのだ。富の源泉としての「自然」という考え方である。これと似た考えとして「社会的公共物としての雇用機会」(アンドレ・ゴルツ)という考え方もある。ここからは、時短・ワークシュアリングとベーシック・インカの結合が構想される。
 さらに「働く人がいなくなってしまうのではないか」という危惧もある。これに対して私はまったく心配していない。市場経済の中では、圧倒的多数の人が、面白くもない仕事に、生活の糧(基本的所得)のために長時間従事させられている。その生活の糧が保障されるならば人間はどうするか。本当にやりたいことをやり始めるだろう。そして、本当にやりたいことのためには、人間はこれまで発揮してこなかった潜在的な能力を発揮するものだ。そこから別の質の生産力が社会にみなぎるかもしれない。
 「財源はあるのか」との質問・恫喝も多い。これに対しては小沢修司が精緻な計算をして一ヶ月・八万円という数字を出しているので参照して欲しい。だが「財源はあるのか」との質問や恫喝は、たいてい福祉関係の予算に対してなされることが多い。決して米艦への給油や弾道ミサイル防衛システムに対して「財源はあるのか」の声はでない。この不思議さを考えることの方が大事かもしれない。
 ベーシック・インカムは決して荒唐無稽な空論ではない。ヨーロッパでは「緑の党」がベーシック・インカムの強力な推進者であり、部分的に実現されてもいる。スウェーデンでは「フリーイヤー」が法制化されている。日本的に言えば「有給一年休暇」である。企業は休んでいる労働者の代わりに失業者を雇用する義務もある。環境党の政策が連立政権の中で実現したのである。
 イギリスでは二〇〇二年以降、「市民年金」が議論になっている。一定期間イギリスに在住すれば国籍を問わず無条件に年金が支給される制度だ。
 日本でも連合総研が、先月(十一月)「市場万能社会を超えて―福祉ガバナンスの宣言」というシンポジウム行った。ベーシック・インカムを評価する論者らが討論を展開した。そのよびかけ文には「市場主義とも、かつての利益誘導型『土建国家』とも、さらには二〇世紀型福祉国家とも異なる、いわば『第4の道』ともいえる新しい福祉ガバナンスについて、パネルディスカッションと講演を通じて深めていきます」とある。
 「貧困」と「格差」を超える社会構想の中心にベーシック・インカムを据えよう。

参考文献(論文)
『ピープルズ・プラン』三九号、〇七年八月)
『ワーク・フェア―雇用劣化・階層社会からの脱却』(山田久、東洋経済、〇七年七月)
『自由と保障―ベーシックインカム論争』(トニー・フェッツパトリック、勁草書房、〇五年)
『福祉社会と社会保障改革―ベーシックインカム構想の新地平』(小沢修司、高菅出版、〇二年)
「ポスト福祉国家のガバナンス―新しい対抗」宮本太郎、『思想』〇六年三月号所収)
「完全従事社会と参加所得―緑の社会政策にむけて」(福士正博、同)
「『「もう一つの社会』は可能か」第五章~六章(宮部彰『グローカル』六六四号、六六五号、六六八号、〇四年)

この論文は『グローカル』07年12月1日号に掲載されたものです。

投稿者 mamoru : 2007年10月22日 20:21

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コメント

上記のBIの文章、共感いたしました。
以下の私の参加する掲示板(まだ、助走中ですが)
ご覧ください。そして、ご参加ください。

基礎所得保障(ベーシック・インカム)を考える掲示板
http://basicincome.progoo.com/bbs/
---

投稿者 白崎一裕 : 2008年04月08日 23:01

 白崎さん、コメントありがとうございました。
 ご紹介いただいたBI掲示板を拝見しました。とても充実していますね。比べると、私のBI論は、まだまだ観念的です。人々に受け入れてもらえるように、BI議論を、いっそう深めて行きたいと思います。

投稿者 管理人 : 2008年04月08日 23:38