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2010年01月11日

 ■  未読の『1968』を論じる

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 小熊英二の『1968』がボロクソに言われています。ホンマにそんなにひどい「誤読」「誤用」「捏造」「歴史偽造」満載本なのでしょうか。私自身はまだ読んでいません。本が出てすぐに図書館に予約を入れましたが、いまだに音沙汰なしです。それだけ人気があるということなのでしょう。いや、価格が高すぎて個人での購入をためらう人が多い、ということなのかも知れません。
 「ボロクソに言われている」と書いたのは、私がたまたま目にした3つの「書評」(分量的には遙かに「書評」の域を超えているが)がそうだった、というだけの話しで、世間的には高い評価を得ているのかも知れません。3つの書評とは『ピープルズ・プラン』48号の「東大解体はきらいですか」(安藤紀典)、『運動<経験>』30号の「<1968>論議」(天野恵一)、『金曜日』09.12.25号の「『1968』を嗤う―」(田中美津)。
 安藤は自身が直接関わった東大闘争の評価をめぐって、天野も自身が参加した中大闘争の経緯をめぐって、小熊の事実誤認を激しく指弾しています。田中は、田中自身が一章設けて取りあげられていることもあって(そうらしい)反応も激しい。小熊の田中とリブに対する「無知」「無法」ぶりをコテンパンにやっつけています。
 それぞれ「身に降る火の粉ははらわにゃならぬ」とばかりの「返し業」。するどく決まっているように見えます。小熊先生危うし。でも3つの「書評」を読んで率直に感じることは、史料しか目を通さない小熊より、その現場に居た当人が当時のことをよく知っているのは当然のことじゃないの、ということです。これでは「フェアな争い」とは思えません。(べつに「争って」いるわけじゃないけど)。
 その意味で、1968年の経験者には、自分の経験したことは勿論のこと、自分が経験していない「他者の経験」もふくめて「1968」とはいったい何だったのか、ということについて語って欲しいと思う。その結論が小熊の結論と違うならば、なぜ違うのか、小熊の見方のどこが間違っているのか、という議論を発展させて欲しいのです。
 小熊の「1968」運動の総括(?)は、「自分探し」の運動であり、結果として「消費社会」を準備した、というような内容だといいます(読んでないからよくわかりませんが…)。だとすれば、いかにも当世流行のニューレフト批判(=「新自由主義との親和性」などの批判)に乗かった「いかがわし」総括です。でも、小熊にはそう言わせておけばよいでしょう。問題は「1968」を体験した者、それを継承する立場に経つ者が「1968」をどう総括するのか、時代の中に位置付けるのか、ということではないでしょうか。『1968』の個々の運動の記述・評価をめぐる「争い」よりも、そっちの方が大事なことではないかと思わざるをえません。
 全共闘運動から40年を経て、なおもその評価が定まっていないというのは、決して現代史研究者の怠惰のせいではないでしょう。全共闘運動や「1968」がいまだ続いていることの明かしです。三つの書評の筆者たちが本当に言いたかったことは、そのことかもしれません。
 なお、紹介した3つの「書評」の中で一番読み応えのあったのは、田中美津さんのものでした。小熊の無知をバッサリと斬る大事な二ヶ所の場面で、本ブログでも紹介した西村光子さんの『女(リブ)たちの共同体』が紹介されています。田中さんが西村さんの本を高く評価していることがわかる文章です。
 さて、私のケータイに京都市図書館から予約本が揃ったという案内がくるのはいつのことだろうか。

投稿者 mamoru : 2010年01月11日 10:55

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